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「玲和」四年、日本国はウクライナにジョブチェンジしました!  作者: 大鏡路地
「玲和」四年、日本国はウクライナにジョブチェンジしました!
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第七次ハルキウの戦い(1)

※このお話はフィクションです(令和四年六月二日、「蛇足」の内容を元に修正)。

 第七次ハルキウの戦いは、西暦二〇二二年(玲和四年)八月に生起した。

 ちなみに第一次〜第四次までは第二次世界大戦、第五次は西暦二〇二二年二月から三月にかけての戦い、第六次は同五月から六月にかけての遣欧統合任務部隊・ハルキウ支隊がハルキウの解放を試みた戦いを言う。


 第六次ハルキウの戦いに触れておくと、この戦いの結論はロシア軍の戦略的勝利、遣欧統合任務部隊・ハルキウ支隊の戦術的勝利となる。

 遣欧統合任務部隊・ハルキウ支隊はドニプロー川をドニプロから遣欧統合任務部隊・マリウポリ支隊と共に渡河し、北上してハルキウを包囲するロシア軍に迫ったわけであるが、そもそも、紛争の焦点であったドネツク・ルハンシク州の分離独立を担保するため、主にウクライナ陸軍東部作戦コマンドを撃滅することが主目的だった(と思われる)ロシア軍は、ここに機甲戦力の主力を配置し、ハルキウを包囲していた。

 そして遣欧統合任務部隊・ハルキウ支隊は、残念ながら限定的にハルキウの包囲を突破することに成功したものの、その突破口を維持・拡張することに失敗した。

 正確な数は未だ情報公開されていないものの、後々の報道機関の調査で、遣欧統合任務部隊・ハルキウ支隊は第六次ハルキウの戦いで、少なくとも一個戦車連隊に相当する戦車部隊を撃破しているものの、ロシア軍の本腰を入れた反撃に遭い一時撤退を余儀なくされた。

 しかし、取り残された民間人の内、負傷者や女性や子供の多くがこの戦いにより救出され、またハルキウに残存する守備隊や民間人への支援物資の搬入に成功している。


 ここでやっと本題の第七次ハルキウの戦いに戻ってくるわけであるが、遣欧統合任務部隊司令部は、ウクライナ軍東部作戦コマンドの包囲撃滅を狙うロシア野戦軍に対し、ハルキウ近郊に於いて決戦を挑む方針を固め、臨時第一機甲軍を編成しハルキウ目前まで進出させた。

 それが七月下旬のことであり、これに対し、ロシア野戦軍も臨時第一機甲軍集団を編成し、ハルキウ近郊に布陣した野戦砲の、射程限界まで戦車部隊を進出させた。

 ここで双方が対地攻撃を企図して攻撃機(爆撃機)とその護衛を発進させ、その邀撃に迎撃機を緊急発進させ、その迎撃機を制するために増援を寄越し、という具合に、ハルキウ上空の制空権獲得競争がエスカレートした。


「制空権を得た者が概ね地上戦をも制する」


 という多数を占める戦訓に両者は従っており、両者は制空権の優勢を獲得するという原理原則を譲らなかった。


 その衝突が最高潮に達したのが、八月六日(現地時間)払暁のことだった。


 遣欧統合任務部隊司令部は、ハルキウを中心として以南に描かれた半径三〇〇キロの巨大な半円を、「(ピカ)一号B7R戦域」なる呼称に定め、この範囲の航空優勢獲得を至上命題に掲げ、夜明けから総力を挙げて航空撃滅戦を仕掛けた。

 どう考えても日本製ゲームに肖って名付けられたそれに、日本人・ウクライナ人・話の通じるヨーロッパ人のパイロットの士気は頂天に達したという。

 これに対し、図らずも同類の目標を持っていたロシア軍側も、呼応する形で多数の戦闘機を発進させ、ここに湾岸戦争以来の、現代的空軍同士による大規模航空戦が生起することになった。

 この双方合わせて延べ五〇〇機余り(※ここでは制空戦闘に臨んだ機材のみを数える)に及んだ航空戦は、後に「八月六日従軍記念航空徽章」という徽章まで作られ従軍者を称えることになるほど、激しかった。

 ステルス機と無人機に席巻される直前の、有人戦闘機同士の戦いの粋の極致に達していたそれは、機材・機数・練度の複合的な要因により、双方に甚大な被害を出して終了した。

 どれぐらい甚大な被害だったかと言うと、翌日以降、陸上戦力に対し、双方共に碌な航空支援の傘をかけられない程に消耗し尽くし、どちらが勝ったとも言えない状態だった、という表現になる。

 或いは、遣欧統合任務部隊司令部に詰めていた某日本人参謀の、


「これで来年度の予算はゼロだな。来年度があれば、だが」


 という、後々の戦争展開を思えば、最早予言としか思えないような発言に象徴されているだろう。


 話を光一号B7R戦域での戦闘に戻すと、この戦闘では双方に、エースパイロット(五機以上撃墜)が複数誕生した。

「リボン」「ブライ(無頼)」「仔牛」「碧の十四番」などの二つ名を贈られた彼らエースパイロットの中でも、際立って異彩を放つのは、「キーウの幽霊」「ハルキウの鬼神」の二者である。

 この二者については、現在に至るまでその本名・軍歴等の一切が国家機密のヴェールに包まれ、一部には実在を疑問視する声さえあるものの、この八月六日の航空戦に従軍したパイロットの多くが証言している、曰く付きの存在である。


「キーウの幽霊」はウクライナ空軍のトップガンで、第三次世界大戦初頭のキーウ上空での戦いで初戦を飾った。開戦劈頭、キーウに攻撃を仕掛けたロシア空軍機で撃墜されたものの多くが、「キーウの幽霊」によるものだと言われている。

 光一号B7R戦域での戦いの頃には、ウクライナ空軍機は消耗し尽くしており、殆どが飛行隊の体を成しておらず、多分に漏れず「キーウの幽霊」も光一号B7R戦域には単機で挑んだというのが、戦史家の通説である。


 対する「ハルキウの鬼神」は、ロシア空軍の最多撃墜記録保持者(最多被撃墜記録保持者を兼任)である。

 彼(或いは彼女)もまた、開戦当初からの熾烈な戦いを生き残ってきた猛者であり、開戦以来良い所無く、また戦後これでもかと親の仇として叩かれ解体されたロシア軍の、最後にして唯一の栄光だったとも言える。

 光一号B7R戦域での戦いで、両者は夕暮れ頃に会敵し、両者は早々にミサイルを撃ち尽くすと、機銃一本で互いを狙い合い、また有人有視界戦闘の究極形に到達していたその機動は、周囲に乱舞していた余人の介入を許さなかったと、現代に伝わっている。

 一種神格化されたとさえ言えるその戦いの決着は、両者相討って終わったとも、何れかに軍配が上がったとも言われているが、真相は依然として闇の中にある。


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