JTF-ウクライナ
※このお話はガバガバ設定のフィクションです(令和四年六月二日修正)。
話はやや遡って四月頃の話になるが、ロシア極東地域の日本への侵攻力を剥奪し、更には原子力戦略弾道ミサイル潜水艦をも確保して、呆気なく本土の安全を確保した日本国であったが、彼らの言う所の本国は依然としてロシア軍の脅威に晒されており、早急な支援が必要だった。
しかし、移動が容易な航空自衛隊機や航空機で輸送可能な人員・装備なら兎も角、本国奪還に必要な重装備の類の移動には、最速でも一ヶ月が必要だと考えられた。
また、仮に最速で欧州への移動が完了したとしても、最短経路の最後に位置する「戦闘艦艇の通行を認めない」と宣言したトルコが、トルコ海峡の通行を認めてくれるかどうかは微妙なところだった。
ところが捨てる神あれば拾う神あり。
日本国がガバガバ理論ながら一応「治安出動」の継続と、ウクライナとの国家統合を目指して遣欧統合任務部隊を本気で編成し始めると、欧州諸国から日本国へのコンタクトがあった。
曰く、
「我が国が戦時体制に突入するにはまだ暫し時間が必要である。
またロシアを相手取るには、現在の装備では不足するので、新たな装備を調達する。
従って現有装備は不要になるので、スクラップとして引き取ってもらいたい」
とのことであったが、どう考えても真意は「人とモノは用意するから、日本が国家として矢面に立って我々の代わりに戦ってくれ」だった。
尤も、真意がどうあれ、ウクライナのことは我が国のことである(という建前を掲げた)日本も今更引き下がれるわけもなく、取り敢えず支援物資に紛れ、移動が容易な司令部要員や空挺部隊、そして航空機部隊を次々と本国から出立させた。
なお一部には、
「ここまでやるだけやったんだから、今更トルコ海峡を強引に突破するぐらいは良いのではないか」
という意見も無いでは無かったが、一応の自制心を持ち合わせていた日本国としては、横紙破りをする相手はロシア(と序でのベラルーシ)だけとこの時点では決めていたため、間に合うかどうかもトルコ海峡を通過できるかも分からないが、一応念のため、動かせるだけのありったけの一〇式戦車(七十五輌)で編成した遣欧独立戦車連隊を載せた輸送船団に、護衛の一個護衛隊群を付けて出発させた。
そんな経緯で本命中の本命である一〇式戦車部隊の到着を待たずして、日本国自衛隊遣欧統合任務部隊「JTFーウクライナ」はウクライナの地に湧いて出たわけだったが、約二ヶ月以上に渡る絶望的な持久戦を耐え抜き、ついに初の大規模かつ本格的な援軍を勝ち得たウクライナ人の士気は、頂天に達した。
ウォロディミール・チェレンコフスキー大統領など、大統領府に現れ到着を報告した遣欧統合任務部隊司令官に対し、
「よく来てくれました、感動した!」
などと日本人にとっては何処かで聞いた覚えのある激賞をして、ウクライナ政府閣僚を感極ませ、また統合任務部隊司令部を恐縮させていた。
それはさておき、ウクライナの大地に雪崩れ込んだ人種構成豊かな遣欧統合任務部隊であったが、それらは先述したように大きく三手に分かれていた。
重ねてになるが、
一つは南部オデーサの解放のため。
一つは東南部マリウポリの解放のため。
そしてもう一つは東部ハルキウ前面に展開するロシア軍野戦部隊本隊との決戦のためである。
この内、優先されたのは東南部マリウポリの解放だった。
同地は開戦以来、幾度となく非戦闘員を巻き込んだ、ロシア軍の卑劣かつ凄惨な市街地攻撃に晒されており、緊急度が高かった。遣欧任務部隊はウクライナ人の歓呼の声に応えながらも迅速に進軍し、マリウポリを包囲するロシア軍を射程に収めると、一旦沈黙した。
一方、南部オデーサと東部戦線との連絡線に位置するマリウポリの切断の危機に晒されたロシア軍は、一旦マリウポリ攻撃を中断し、憎き日本軍との決戦に及ぼうとし、その号砲としてロシア軍の家芸である重砲射撃を試みた。
その試みに対し、対峙し沈黙していた遣欧統合任務部隊・マリウポリ支隊の反応は、激烈を極めた。
彼らの戦略は単純である。
見敵必殺。
対砲兵レーダーをありったけ戦場に持ち込んでいた同支隊は、検知したロシア軍の砲撃一つに対し、実に十倍もの火力を叩き込んで殲滅する作戦を立て、そして実行した。
兵站線が比較的短く済んでいるロシア軍でさえ補給に難渋しているというのに、後先を考えない暴挙とも言えたが、制空権を確保した遣欧統合任務部隊は、空地一体となった攻撃の実践で、陸上部隊の砲弾薬消費を抑制しつつ、一発でも砲撃を検知すれば、迅速に十倍の爆弾をそこへ降らせ、更にそれら火力支援の下でレオパルドやチャレンジャー、ルクレールやアリエテなどの欧州戦車博覧会と化した機甲部隊を市街に突入させた。
当然ながらマリウポリ市内では市街地に立て籠ったロシア兵との、血を血で洗うような激しい市街戦が繰り広げられたが、「侵略国家からの解放」という錦の御旗に酔った遣欧統合任務部隊は、マリウポリ市街地に閉じ込められていた市民を後方へ移送する傍らで果敢に突撃を繰り返し、一ヶ月の攻防の末、マリウポリ全域からのロシア軍の排除に成功した。
この一連の戦闘で、遣欧統合任務部隊・マリウポリ支隊は損耗率四〇パーセントを記録し、純軍事的表現では「全滅」の判定を受け、一旦後方に下がり再編成せざるを得なくなったが、彼らは依然として意気軒高だった。




