皇紀九九九九年の世界(3)
何をするともなしに、大学構内の街路樹の下に佇んでいた勝柄・美雪の足元に抱き着いたのは、三歳頃だろうと思われる、如何にも「あの人」と自分の遺伝子を掛け合わせたらこういう顔の子供が生まれるだろうな、という具合の幼子だったので、最初胡乱げに振り向いた彼女は、激しく動揺した。
「マーマ」
と、その幼子は彼女を見上げると呼び掛け、嬉しくて嬉しくて仕方がないという風な笑顔を浮かべた。
「……私は、あなたのマーマじゃないわ」
彼女はムリーヤ語――この時代のムリーヤ国内では、日本語、ウクライナ語、ロシア語、英語の四言語をミックスした人工言語である、ムリーヤ語という概念を第一言語とする人間が圧倒的である――でそう言ったが、幼子は意味が理解らないという風にもう一度、
「マーマ」
と彼女を呼んだので、彼女の方も困惑を深めた。
彼女を母と呼ぶからには、おそらくこの幼子から見て、自分は母親に似ているのだろうと思われる。
思われるが、さりとて今世の自分には出産経験どころか性経験も無いし、付き合いのある親類に、自分と似た見た目の者が居るということも無い。
だから、この幼子が自分を母と呼ぶ理由に思い当たらなくて、けれども幼子を無下に扱うことも出来なくて、彼女はしゃがんで幼子に視線を合わせた。
「私はミユキというの。あなたのマーマのお名前は?」
そう問いかけると、やはり幼子はキョトンとして意味が通じていない風だったので、彼女は同じ意味の問いかけを、日本語、ウクライナ語、ロシア語、英語で繰り返した。
「マーマ、マーマちがう?」
幼子の逆質問はムリーヤ語だったので、どうやらムリーヤ語で意思疎通が出来そうだと判断した彼女も、ムリーヤ語で会話を続けることにする。
「違うと思うわ。マーマのお名前、言えるかな?」
「マーマ、リコってパーパはいうの。おーしさまなの。えっとね、パーパのおひめさまなの」
所々意味が分からなかったが、取り敢えず幼子の母親の名前が、自分の前世の名前の一つと一致することだけは理解が及んだ。
このムリーヤ国民だけで一〇〇億を数え、人類の生活圏が太陽系全域に広がる時代に、偶々、自分の前世と同じ名前の人間の母を持つ子供と、前世の記憶を持つ人間が邂逅する確率を頭の片隅で考えて、彼女は肌が粟立つのを感じた。
つまり、何らかの作意の介入が無ければ、その確率は天文学的に低い、ということだ。
そして、彼女は第三代皇帝に瓜二つの容姿である。
ということは、彼女に対し何らかの存念があって、恐らくは足止めのためにこの幼子を自分へ突撃させた、という可能性を脳裏に描き、彼女は周囲への警戒を強めた。
「ごめんなさい。やっぱり私は、あなたのマーマではないと思うの。
私、もうお家に帰らなきゃいけないから、お手手離してくれるかな?」
とは言え、幼子を振り払って強引に駆け出すことも出来なくて、そっと幼子の手に触れて指を解きにかかろうとすると、幼子は首を振った。
「マーマはマーマなの。
パーパが、マーマはおーしさまになって、わたちのところにきてくれりゅってゆってたの。
でもわたち、ちゅぐにあいたかったの。
だからわたちも、おーしさまになってマーマにあいにきたの!」
幼子が一気にそう言って、
「どうだ!」
とばかりに満面のドヤ顔を決めたので、思わず彼女もポカン、と呆気に取られてしまった。
そしてその一瞬の隙を衝くかのように、突如として彼女の背後に人の気配が出現したので、彼女は咄嗟に幼子を抱き上げて飛び退った。




