激震
米中両国の攻撃が、明らかな暴力的テロリズムの発露そのものであったことは、既に戦闘の詳細を述べる過程で記した通りである。
しかしながら、米中両国が開戦の口実とした「正統な皇朝の帝」であるはずのムリーヤ国ヤスト猊下が、他ならぬ米中両国の攻撃により薨去されたことが明らかになると、全世界が米中両国を批難した。
米中両国という(一応の)共和制国家が、他国に皇朝を樹立するという大義名分(?)を掲げるという奇妙さはさて置き、米中両国は、
「これは罠だ!」
と声を大きく否定したが、現実は非情だった。
前述したように、九月二日という日はムリーヤ国にとって、特別な意味を持つ祭日である。
特に今年は、初代皇帝ムリーヤ・ノ・チカコ一世陛下が譲位し、二代皇帝ムリーヤ・ノ・アレクサンドラ・エリコ一世陛下が即位するという二重三重に重要な祭日だった。
故に、朝から夜まで重要な国家的儀式・儀典が目白押しであり、その催しに適した宮殿がある旧帝城もその例に漏れなかった。
漏れなかったということは、概ね儀式が始まる直前から、宮殿の様子がテレビやインターネットで生中継されていたということであり、各メディアが技術の粋を極めたカメラを持ち込んでいたということである。
そしてその複数のカメラにより着弾は捉えられており、当然ながら爆発は映像処理によりスローモーションで解析され、東京時間の午前中の内には、馬鹿正直にミサイルの弾体に、
「U.S.NAVY」
の字が書かれているところが高解像度で、しかもムリーヤ国では絶対に保有していない長距離巡航ミサイルの形をしていることが、報道されるところまで至っていた。
つまり、米中両国が開戦の口実とした「正統な皇朝の帝」は、米中両国が自らの手で葬り去ってしまったということになる。
この前代未聞の軍事的スキャンダルに対し、米中両国は頑としてムリーヤ国の陰謀を唱え続けたが、遅きに失した。
ムリーヤ国は国際連合に対し、
「平和のための結集」
を要請し、開かれた国際連合緊急特別総会に於いて、主に(立憲)君主制の国々からの同情と、反米・反中国家からの圧倒的な支持を取り付けた。
それに対して、国連本部の所在国であるアメリカ合衆国は、ムリーヤ国支持を表明した国々の外交官(国連大使を含む)に対し、ペルソナ・ノン・グラータを発動し、国際連合緊急特別総会そのものを破壊した。
これには事態の推移を見守っていた(戦争に勝った側につこうとしていた)ヨーロッパ諸国もアメリカを批難し、一斉に国際連合の離脱と、それに代わる新たな国際機関である国際平和維持連盟をスイスのジュネーヴに設立した旨を宣言した。
そして第一回国際連盟(二代)緊急特別総会が開催され、満場一致で国際平和維持連盟安全保障理事会の常任理事国の一つにムリーヤ国が選出され、さらに安全保障理事会の指揮下に、国際連盟加盟国が供出する戦力を以て、国際連盟常設平和維持軍が結成された。
無論、それが何を目的としたものかは、今更語るまでもないことだろう。
戦力の養成に時間がかかる常備戦力の中でも、大規模な渡洋侵攻が行える外征部隊の大半を喪失した米中両国に出来ることは、最早後生大事に本土の何処かに配備された、大陸間弾道ミサイルの使用をチラつかせることぐらいだったが、国土の大半を独自開発した弾道ミサイル防衛システムで覆い尽くしているムリーヤ国に、その脅しは通用しなかった。
そもそもムリーヤ国の三分の一(人口で言えば四割近く)は、高出力核弾頭搭載弾道ミサイルの攻撃を受けても怖じ気ることなく第三次世界大戦を戦い抜いた、生粋の戦闘民族国家から成っていたので、尚更核弾頭による威嚇に屈する可能性は低かったと言える。
ムリーヤ国を始めとした国際連盟加盟国による戦力の積み上げに対し、最初に折れたのは、中華人民共和国の方だった。
折れたと言っても、何らかの交渉を持って妥協した、という訳ではない。
国家の屋台骨が折れ、爆発四散してしまった。
中華人民共和国は一党独裁制の下、強固な情報統制が行われている国であることが世界的に知られているが、だからと言って、一躍出航していった人民解放軍海軍の空母機動部隊が、空母は帰ってきていないのに、ズタボロにされた護衛艦だけが、傷ついた大量の同乗者を連れて戻ってきたとあれば、誰しも何が起きたか悟ろうというものである。
国民への説明を求めた学生の声に賛同して天安門広場に集結したデモ隊に対し、中華人民共和国武装警察は一切の情け容赦なく発砲し、非武装のデモ隊多数を殺傷した。
これに対し中華人民共和国人民解放軍が、
「国家の非常事態」
として、臨時救国軍事委員会を組織してクーデターを行い、中国全土が騒乱状態に陥った。
そして地域毎に軍閥として分裂を始め、そこに誰かが何処かから核兵器を持ち出し、汚いパイ投げ合戦が始まった。
不幸中の幸いは、「核の冬」が訪れるような、高出力核弾頭の濫用は無かった(低出力核弾頭の濫用が無かったとは言っていない)ことぐらいだった。
周辺諸国は難民の流入を阻止するため、国境線を固く閉ざし、時には実力行使に出ることさえあった。
それが、間も無く建国一〇〇年を迎えようとしていた中華人民共和国の、最期の姿だった。




