禁軍は冷飯を食するか否か?
ムリーヤ国が、偏にチカコ一世陛下への信用と信頼によって、国際社会から爪弾きまたは袋叩きにされずに済んでいることは既に述べた所であるが、ここでチカコ一世陛下がその信用と信頼を保ち続けた手法について記しておきたい。
チカコ一世陛下の治世が始まった頃の、陛下の政治力の源泉は、第三次世界大戦の結末を相互確証破壊の実践を阻止して終結へと導いたという功績と、ウクライナとロシアの財布(ロシアについては生殺与奪も)を握った日本国が、陛下の威徳に概ね服しているという点に依拠していた。
これらは時間の経過と共にその効力が減っていくものであり、しかも新国家の建設に際しては、平等性・公平性に鑑みて、戦勝者側へ過剰に阿ってはならないという問題を持っていた。従ってチカコ一世陛下は、誰かにお膳立てされたものではない何らかの新たな功績を打ち立て、その権威をより強固にする必要があった。
この問題について、チカコ一世陛下が採用した手段は至って単純かつ明快だった。
終戦によって発生する膨大な量の失業者対策、兼、皇帝がそれなりに裁量権を持って使い得る(実際に行使するとまでは言っていない)武力の調達である。
話をロシアがチカコ一世陛下に降伏した直後まで遡ると、降伏と国家合同への基本合意が為された直後から、ロシア軍は大量の兵士の動員解除という問題に直面した。
ロシア軍は第三次世界大戦に於いて、ウクライナに対し十九万名の正面戦力を動員し、その兵站の維持(維持できたとは言っていない)には、その五倍以上の兵員を要した。最盛期には百五十万名にまで膨れ上がったその兵員は、当然ながら純然たる契約軍人である志願兵のみならず、国内の四方八方から招集した徴兵によって賄われていた。
そしてそれ程の動員をかけたにも拘らず、その正面戦力は純軍事的に言って、
「全滅」
の一言で片付けられる程、無惨に敗れた。
勿論、彼らと正面切って戦ったウクライナ軍と日本国自衛隊も、ただでは済まない損害を蒙っていたし、特にウクライナ東部の戦災は悲惨を極めたのだが、彼らは何だかんだで「勝ち」を得た側であるのに対し、ロシア軍は「負け」組であった。
そして控え目に言っても、ロシア軍という組織は、一方的に仮初の平和を破壊して侵略した側というだけでなく、方々で各種の大規模な戦争犯罪を犯していたことから、組織的・人員的な点で存続させる余地がないことが明白だった(※念の為に付記しておくが、ウクライナと日本の側も戦争犯罪と無縁であった訳ではない)。
然るに、総人口の一パーセントにも達する兵員の殆どは、順次動員解除という形で退役を迫られることになるのだが、ここで深刻な問題が発生する。
仮に百五十万名の内、三分の二を復員させることにしたとして、彼ら彼女ら全てがすぐに新たな職を得られるだろうか?
もしそんな魔法があるならば、第二次世界大戦に至る遠因の一つにはならないだろう。
また現代に於いて、軍人とは、
「人を効率的に殺す術を専門的に教育された」
特殊な職能の持ち主であることにも、十分留意しなければならない。
彼らを何の手当もなく軍という組織から放り出せば、瞬く間にテロリストが全土に跳梁跋扈することは明らかである。しかも彼らの中には、ロシアの敗戦を受け入れられない者も存在し得る(そして現状を覆そうと、過激なテロリズムに走る恐れさえある)のに、だ。
ムリーヤ国はその発足当初から、国家そのものが容易に瓦解し得る危険分子を、其処彼処に抱えていた訳であるが、チカコ一世陛下は国造りに際し、政治的・感情的・経済的に風下に置かれることになるロシア人をそこはかとなく擁護するため、「禁軍」という準軍事組織を発足させ、そこに旧ロシア軍の兵員の内、希望する者を吸収させることにした。
無論、そこには峻烈を極めた鉄の規律と、戦争犯罪に直接的に関与していないかどうかの厳正な捜査・審査と、督戦隊であることを隠しもしなかったウクライナや日本国の将兵の監督があったことは、今更言うまでもないことだろう。
英語では「Imperial Guards」と表現される禁軍は、表向きには新国家の象徴たる皇帝の警護部隊であり、「国家の非常時」には一部隊として国軍の指揮下に入るものとして定められ、保有兵器の種類や数についても極めて強い制限がかけられ、更にはその発足当初は酷使しても構わない工兵部隊として、戦災を被った地域の復興支援に駆り出され(そして被災者から泥を投げつけられても黙々と鉄の規律で従事させられ)るなどした。
それは最早形を変えた奴隷制と言っても、過言では無かったが、しかし第三次世界大戦に於いて凄惨な組織的ジェノサイドを働いた彼ら彼女らに、生き残る(生き残らせる)術が他に無いのも確かだった。
禁軍という存在は、政府中枢を占める人々に対する暗黙の抑止力として機能し、ウクライナ軍と日本国自衛隊を統合して発足した国軍である自衛隊とは、
「笑顔で握手しながら足を踏み付け合う」
仲になった。
兎も角、この政策は無軌道で野放図なロシア兵の復員を大きく抑止することになり、またチカコ一世陛下の治世初期の脆弱な権力基盤を、大いに補強することになった。
外国との対峙若しくは戦闘に用いられることを主眼に定め、精密誘導能力や大火力を誇る高性能兵器で武装している自衛隊と異なり、軽装備で機動性に優れた禁軍は、皇帝または皇室の警護に託けた国内の治安維持活動に、積極的に投入された。
そしてその設立目的の通り、戦後各地で湧いた不平分子を討伐した功績により、数多の武勲とそれに比例した流血で彩られた、「ブラッディ・ナイツ」の異名を取ることになる。
ロシア人の負債をロシア人の血で贖うという禁軍の血塗られた歴史は、チカコ一世陛下が汚れることを厭わない、綺麗な言葉を並べるだけの為政者ではない、必要とあらば武力の行使も躊躇わないことを如実に示していたが、人々はその姿勢に高評価は与えなかったものの、概ね黙認することになった。
誰しも、ロシア軍崩れの愚連隊が世に蔓延るのは勘弁願いたかったし、それよりはマシかつ現実的な解だと、理解していたからである。
それに、チカコ一世陛下はロシアを降伏せしめた際、言っていた。
「私が世界全てに認めさせて見せます」
と。
世界がそれを認めなければ、彼女は第二のヒトラーやプッティンになりかねない、と世界は思っていたのである。
幸いなことにその危惧は、現実のものにはならなかったことは、読者諸氏もご存知の通りである。
チカコ一世陛下の治世は、第三次世界大戦に比べれば格段に平和だった。
ロシア人の屍山血河で舗装されてはいたが。




