三人の女帝
チカコ一世陛下が譲位の御意向を明らかにした当時、ムリーヤ国には三人の女帝が居た。
皇帝であるチカコ一世陛下は勿論その中に含まれるが、では残る二人は誰だったかと言うと、第五代大統領ヴラディミロヴナ・プラティナと、第七代首相布瀬・小浜である。
ここでチカコ一世陛下とほぼ同年代の二人について、略歴を紹介しておきたい。
先ず、第五代大統領ヴラディミロヴナ・プルティナは、名前からも推測し易いように生粋の「ロシア生まれロシア育ち」のロシア系ムリーヤ人である。
ムリーヤ国内に於いて、ロシア系ムリーヤ人はその建国当初から人口と役割の両面で非常に大きな割合を占めていたが、実質的には「敗戦国の民」として、長い間風下に立たされてきた。一方的にウクライナに戦争を仕掛け、その戦災被害の殆どをロシア国外の地域で出しているという経緯からすると、感情的に無理からぬことではあったが、であるからこそロシア系ムリーヤ人の国政に於ける復権は、
「悲願」
の一言ではとても表現しきれない目標であり続けた。
皮肉にも、「ロシア」という国籍に括られていた諸民族の一体的なアイデンティティは、「ロシア」という制度が消滅したことによって培われたのである。
ヴラディミロヴナ・プルティナは、そうしたロシア系ムリーヤ人が満を持して、民意の表現の最たるものである政府首班選挙へと送り出した、期待の星だった。
彼女はモスクワ大学を主席で卒業した才媛だったのだが、ロシア外務省に就職し勤務を始めた矢先に当のロシアが敗戦。戦後の国家合同に際して主導権を握っていた、日系・ウクライナ系のムリーヤ人の下で働くことを良しとせず職を辞して、ムリーヤ国首都となった野星市議会議員へ転身。
その鋭い舌鋒と妖精じみた風貌から「帝都」の名物代議士として名を馳せ、第七回政府首班選挙に於いて立候補するや、幼馴染である布瀬・小浜を政府副首班候補として戦い、七十二パーセントもの票を得て当選し、チカコ一世陛下の譲位表明時は、安定した支持率の下に二期目も視野に入れているほどだった。
一方の布瀬・小浜は、「モスクワ生まれ日本育ち」の日本系ムリーヤ人であり、また国政の中心に居る人間としては珍しく、日本地方の一般中企業に二年勤めた後、結婚し専業主婦となって子育てに専念し、その子育てがひと段落した頃合いに幼馴染であるヴラディミロヴナから熱心に口説かれ、そこで初めて政府副首班候補として国政の場に立つことになったという、極めて異色の経歴を持つ。
おっとり系の、如何にも国政の中心人物としては「柔らかい」布瀬は、しかし計数については滅法強いという特技があり、見た目に反して理路整然として「骨太」な経済政策案を提示し、何かとアツくなりがちで、ともすると「脳筋」「体育会系」と言われることもあるヴラディミロヴナを良く補完した。
白と黒という、何かと対比されがちなイメージカラーから、往年の女児向けアニメーションの主人公たちにも喩えられることもあった幼馴染の二人は、第七回政府首班選挙の争点に上がった数々の克服すべき課題を、
「Да мы можем(私たちはできる)!」
の合言葉で戦い抜き、見事にムリーヤ国民の心を掴んだ。
話を三人の女帝の話に戻すと、三者は其々、「象徴」の女帝・チカコ一世陛下、「政治」の女帝・ヴラディミロヴナ、「経済」の女帝・小浜と人々に呼ばれた。それ程に三人の名は世に知られ、また互いに敬意を払って相対していたのだが、チカコ一世が政権に根回しすることなく譲位を表明したことで、俄にその拮抗は揺らぐことになったのである。




