Мрія
※このお話はフィクションです(令和四年六月二日修正)。
松尾陸祐の乗った車の前に女性が飛び出したのは、西暦二〇二二年九月二日午前九時二十三分のことだったと、概ね正確に記録されている。
と言うのも、松尾が乗った車列がロシア大統領官邸に向かう様子は、全世界にテレビ中継されており、また情報統制が緩んだロシア国内からも、多少の遅延はあれども、各種SNSなどを通じてライブ配信されていたからである。
そして、日本語で、
「お待ちなさい!」
と呼び掛けて車列の前に飛び出した、傍目にも襤褸雑巾になったかと思うほど縒れた服を身に纏い、しかし少しも損なわれることのない気品のあるその女性の顔が映し出されると、特に日本国民は真っ青になった。
その女性のお顔は、日本国民なら九割九分、存じ上げていた。
つい先日成人の儀を終えたばかりの、日本国今上天帝の第一皇女だったからである。
ここでピンときた方は、皇室フリークの気がある。
なんとなれば、今上帝の后は、極めて語学に堪能な御方であることで有名で、幼少時にソビエト時代のモスクワで過ごしていたと言う縁があったのだ。
現代に至ってもどうやって戦時下の日本を出国し、またロシアに入国してどう移動したのか、その道程は明らかにされていないが、しかし玲和四年九月二日午前九時二十三分のロシア大統領官邸前に、「チカちゃん」の愛称で親しまれる今上帝の第一皇女殿下が出現したことは確かだった。
車の前に飛び出した第一皇女殿下は、当然のことながら車列の警護に排除ーーともすれば射殺されていても不思議では無かったーーされかけたが、泡を食った松尾が車を飛び出して制止し、それに遅れて、群衆の中から何人かの日本人を含む一行も転げるように進み出た。
松尾は、
「どうして殿下がここにいらっしゃるのですか」
と問いかけたが、恐らく共周りであろうと推察された一行を背にした皇女殿下は、その疑問には応えず、
「私達を最後通牒回答の場に連れて行ってください。訳は後で話します」
とだけ述べて、松尾を睨みつけた。
まさか自国の皇女殿下や、その一行を敵地深くに残したまま立ち去る訳にもいかず、進退窮まった松尾は致し方無く、一同を帯同する羽目になった。
その様子は先述したように生配信されており、二人の会話もほぼリアルタイムで各国言語に通訳され、剰え皇女殿下の随員が車内の様子をライブ中継していたため、世界中が事態の推移を知ることとなった。
ロシア大統領官邸に入った一同は、恐らくリアルタイムに事の成り行きを見ていたであろうプッティン氏自らに迎え入れられることとなった。
ロシア側からは皇女殿下とその一行のお召し替えの申し出があったが、皇女殿下は通訳を介さずに対話し、凛として謝絶した。
賓客応接室に通された一行に対し、プッティン氏はロシア軍参謀総長のみを後ろに控えさせて応対した。挨拶もそこそこに、松尾が皇女殿下に遠慮しつつも最後通牒の回答について切り出そうとしたところ、当の皇女殿下から、
「お待ちください」
と声がかかり、プッティン氏が面白そうに片眉を上げた。
「私は今、日本国天帝の代理としてここに居ます。
ここに、父帝からの信任状があります。
ロシア大統領ヴラディミール・プッティン閣下。先ずはこれをお受け取り下さい」
懐の隠しから慎重に震える手で取り出した、懐紙に包まれたそれをプッティン氏が受け取り、中身を改めて、
「確かに」
と頷いた瞬間、日本国特命全権大使の座は松尾から皇女殿下に移った、と歴史は記録している。
世界中がハラハラと見守る中で、皇女殿下はしかし凛として述べた。
「これから述べる言葉は、父帝の言葉としてお聞き下さい。
先ずは日本国天帝として、先の行き過ぎた最後通牒について真摯にお詫び申し上げます。
また、私は我が国政府に対して、即時停戦の詔を発し、また強く命じたことをここに言明いたします。
私はここに、改めて貴国に対し次の通り通牒いたします。
一、日本国はウクライナ国と共に、貴国との戦争状態の解決に向けて、現時刻を以て自発的な戦闘行為を停止いたします。
二、日本国はウクライナ国と共に、貴国と共同し全保有核兵器の武装解除を行い、国際原子力機関へ引き渡すことを提案いたします。
三、日本国はウクライナ国と共に、貴国との間に生じた戦争状態に於ける一連の不法行為について、相互に公開にて裁判を行うことを提案いたします。
四、日本国はウクライナ国と共に、貴国との間に生じた戦争状態について、今後、これ以上でもこれ以下でもない要求はいたしません。
以上です」
それは、勅命講和案だった。
そして、少なくとも先の日本国政府の最後通牒より、百万倍良いことは明らかだった。
完全に憲法違反の政治的行為もいいところの提案だったが、現存する世界で唯一の帝位にある者が発したに等しいその言葉は、今更それが憲法違反だから無効だとか日本国政府に言い出させないーーやりたい放題に不法行為を冒してきた連中が言うな! ーーだけの重みがあった。
プッティン氏は一言、
「それは今すぐの回答でなくては駄目かね?」
とだけ訊ねた。
皇女殿下もただ一言、
「はい」
とだけ応えた。
プッティン氏は嘆息すると、
「ロシア大統領としてお答えする。
その提案では我が国は纏まらないだろう。
方々で分離独立の嵐が巻き起こり、地は焼かれ、涙と悲鳴が新たな争いの狼煙となる。
それでは駄目だ。
我が国としては条件の再考を要求する。
今、すぐに」
そう言いながらも、プッティン氏はどこか楽しげだったと、後に松尾は回想している。
皇女殿下の頬を汗が伝い、滴り落ちたのをカメラが記録した瞬間、彼女は次のように述べた。
「ではーー、
これ以上でも、これ以下でも、とは指定されましたが。
これ以外でも、とは言われておりませんので、申し上げます。
日本国はウクライナ国と共に、貴国との係争の最終解決策として、この三国ないしは他に加入を希望する国と合同し、新国家を建設することを提案いたします。
またその際、内部で序列や格差が生じないよう厳重に配慮することを、ここに言明いたします」
一部の人間は、
「頓知かよっ!?」
とズッコケそうになった。
しかしプッティン氏は興味深そうに、
「それは、御父上の案か? それとも、他の誰かの?」
「ーーいいえ。
これは、誰のものでもない、私の言葉です。
そして、閣下が同意してくださるなら、私が必ず、世界全てに認めさせます」




