番外2 狼少女の淀んだ日常
「その21」の直前、デルゲオ島に住んでいた頃のテルルのお話です。
空が、僅かに白んできている。
夜空は曇天で、星も月も見えない。
ここは石造りの簡素な家屋が並ぶ、大きいが貧しい漁村。
村の外れの暗い井戸の側に…一人の少女の姿。
その少女の姿は…人間では無い。
灰色の髪と毛並みに、灰色の耳尻尾。
犬というよりは狼の様な身体。
彼女は“魔族”と呼ばれる種族の仔だった。
「…」
狼少女は言葉も無く、井戸から水を汲んでいる。彼女は毛皮以外に何も着ておらず、井戸の脇にぼろきれのような服がちょこんとまとめてあった。
「…」
井戸で汲んだ水を桶に移し、その水を黙って見つめる。
桶を手に取る。
そしてその水を、頭からひっくり返した。
(冷たいな)
水は冷たかったが、空気は生温い。
少女はもう一度水を汲むと、今度は身体を丹念に洗う。
なるべく大きな音を立てないよう注意する。
そして一通り洗い終えると、身体を振るって水分を飛ばし、井戸の傍に置いていたボロボロの服を身にまとう。
…そして終始、彼女は無表情のままだった。
狼少女は、桶を片手に村の暗がりを歩く。
彼女は今、無表情のまま自分の住む家を目指していた。
そんな彼女の眼は…腐り落ちた果実の様な、淀んだ深紅色。
(あたまが重い、眠い…。昨日の夜は人数が多かったから、からだ中が痛い。でもちゃんとしてないと怒られちゃう…)
しかし…狼少女に恐怖や不安は、ほぼ無い。
彼女はもう暫く前から、感情が希薄になっていた。
彼女の足取りは、無感情で無気力だった。
そして遥か海の彼方…水平線が明るくなってくる。
(…もうすぐ朝か。嫌だなあ)
狼少女にとっては辛い日常が、また始まってしまう。
ここはデルゲオ島。
この世界で唯一、魔族が生息するという島。
約200年前の戦いでシュレンディア王国に敗れた魔王が、魔族を率いて逃れてきた孤島…それがこのデルゲオ島だった。この島は有用な土地が少なく、森林もほぼ無いという環境だったため、魔王は大陸への帰還を切望しているという。
また厳しいこの島には…魔王が決めた“規則”が存在していた。
“優れた異能を持つ魔族が優遇される”。
実に単純明快なものだ。
それは魔族が、シュレンディアに逆襲する為のものだった。
皆がこぞって有用な異能を発現するように仕向けるために。
だからこの島では、異能を持たない魔族の地位が非常に低かった。
貧しい漁村に朝が来る。
魔族の男達が、漁に出る準備をしている。
そんな大人達に混じって、身体の小さな狼少女の姿もそこにあった。
「おいテルル!この荷物を片付けておけよ!」
「はい」
「テルル、後で網の修繕をしとけ。今日中だぞ!」
「はい」
「…ちっ、トロいガキだな」
「…」
テルルという名のその狼少女は、漁村の大人達に従って仕事をしている。これが彼女の生業で、時には船に乗り込んで漁の手伝いをする。このデルゲオ島に獣はいないので、魔族達は食糧を海産物と農作物に頼っていた。
(…おもい)
テルルは1人、黙って荷物を運ぶ。
少女のテルルには文字通り荷の重い仕事だったが、彼女は文句も言わずに素直に従っている。同世代の子供達はそこらで遊んでいるというのに1人働く彼女の姿は、一見健気のようにも見える。
しかしそんなテルルを、他の魔族達は冷たい目で見ていた。
仕事をするテルルの元に、漁村の子供が数人やって来る。
彼等はテルルよりいくらか年上の、獣人や鳥人の少年達。彼等は昨晩テルルの家を訪れていた者達で、一様にニヤニヤとしたいやらしい笑みを浮かべている。
「よおテルル、いやー昨日は良かったぜぇ?」
「そう…」
「もうじき俺の弟も15歳になるんだ、そん時は宜しく頼むわ」
「…」
「ああ、そういや隣の家のオヤジが今日お前ん家に行くとか言ってたからな、ちゃんと用意しておけよ?」
「はい…」
「じゃあな、あはははは!」
去りゆく少年を、テルルは何も無い表情で見送る。
(あーあ、大人相手は嫌だなあ。痛いし長いし)
そしてそのまま、彼女は何も無かったかのように仕事に戻る。
漁村での朝の仕事を終えたテルルは、船を見送った後村外れの畑へと来ていた。
ここは村の共同の畑で、収穫は村の貯蔵庫に入り一部が進上されている。進上されるのは定量なので、豊作の年は村の取り分が多くなるという仕組みだ。なので村人達は収穫量を増やすよう努力と工夫をしていた。
畑の仕事は主に村の女性達がしており、芋のような野菜を収穫している所だ。テルルはそんな様子を伺いながら、畑の隅で貝殻を砕く作業をやっていた。臼のような石器に入れた貝殻を、尖った石で叩いてガシャガシャと割る。
「…」
テルルは無心だ。
この仕事の意味を、テルルは良く理解していなかった。ただ砕いた貝殻は後に畑に撒くというが、何故そんな事をするのか…テルルは興味も湧かない。
(…前にラージェ様が何か言ってたな。“畑の土を良くするには色々しなきゃいけない”…でもテルルにはよくわかんない。あの人は本をよく読んでたから物知りだったけど…)
畑仕事をする女性達の白い視線を受けながら、テルルは無心に作業を続ける。
そんなテルルの元に、年配の女性がやって来る。
「ホレ、昼飯だよ」
「…ありがとうございます」
村の備蓄は共同。
なので食事も、その役の村人がまとめて作って配られるのだ。しかし他の者達が農作業用の小屋で食べているのを尻目に、いつも通りテルルは離れた物陰で1人で食べる。
「…アンタは不満だろうけど」
その年配の女性がテルルを一瞥し、厳しい口調で詰る。
「アンタやアタシらみたいな能無しは、こうやって下民として必死に生きていくしか無いのさ。アンタは親が特別な異能持ちだったから今まで良い暮らしをしてたんだろうけど…能無しの癖に良い思いをしてきた分だと思って、皆に認められるよう頑張りな」
「…はい」
島の最下層であるこの村でも、テルルは良い扱いを受けていない。
そもそも…この村でテルルに良い感情を持っている者は皆無だった。誰もがテルルをぞんざいに扱い、テルルもそれに何も言わない。テルルは村人の言う通りに仕事をして、村人の言う通りに身体を差し出し、そしてその暮らしを自身でも受け入れていた。
朝は、漁港の手伝い。
昼は、畑の雑用。
ただし漁に出る日はそちらを優先。
夜は…ほぼ毎日、村の男達の相手をする。
そしてその後は死んだように眠る。
これが、この村でのテルルの一日だった。
その時ふと、テルルは空を見上げる。
今日の空は曇天…夏にしては涼しいが、嵐が来そうな不穏さが見え隠れする。
(…母さま、会いたいよ)
テルルは心の中で、亡き母を想う。
しかし今更涙は流れない。
とっくの昔に枯れていた。
テルルも、昔からこんな生活をしていた訳では無かった。
数年前。
まだテルルが10歳に満たない頃。
彼女は母と一緒に、デルゲオ島の中枢と言って良い場所に住んでいた。
異能を発現していなかったにも関わらず、である。
“優れた異能を持つ魔族が優遇される”。
これは実は、正確な表現では無い。
優れた異能を持つ魔族は、その家族と一緒に良い暮らしができるのだ。
テルルの母フェイルは『リジェネレーション』という異能を持っていた。これは“他者の怪我や病を治療することが出来る異能”であり、効力の大きいそれは主に老齢の魔族幹部達にとって非常に有用なものだった。
特に…魔王の右腕である老将ユゥランジェは島で最高齢であったため、フェイルは足繁く彼の元を訪れていた。そしてフェイルは娘のテルルもよく連れていたので…テルルはユゥランジェに可愛がられ、母のような異能を期待されていた。
またユゥランジェにはテルルと歳の近い末娘ラージェがおり、2人は姉妹のように仲良しだった。本を読むのが好きなラージェは文字の読めないテルルにそれを語って聞かせ、テルルもそれを喜んで聞く…その頃のテルルは本当に幸せだった。
しかしそんな日常にも終わりが来る。
ある時…デルゲオ島全域で流行病が蔓延したのだ。その時フェイルは死に物狂いで異能を使って島中を駆け回り、多くの魔族の命を救った。
しかしその代償に…フェイルは命をすり減らしてしまったのだ。
フェイルは他者を救えたが、誰も彼女を救えなかった。
流行病が治まった頃に…衰弱したフェイルは静かに息を引き取った。
この出来事で、幼い頃に父を亡くしていたテルルは1人になってしまった。
しかしテルルは、異能の使い過ぎで命を落とした母を見ていた。
この時テルルは既に、異能を“恐ろしい物”と認識していたのだ。
その後孤児になったテルルは、島で中級の集落に移った。
フェイルが親しくしていたユゥランジェとも疎遠になり、だいぶ後になって“亡くなった”という話だけがテルルの耳に入ることになる。
…しかし結局テルルは12歳の誕生日までに、異能を発現する事が無かった。
だからテルルは慣例に倣ってこの漁村に送られた。
異能を持たない、もしくは有用な異能を持たない魔族が下民になるのがこの島の規則だった。しかし…能無しの癖にもともと島中枢という一等地に住んでいたテルルが、虐げられている漁民達に快く受け入れられるはずが無かったのだ。
テルルは夢を見ている。
それはかつての、テルルの記憶。
そしてそれは…テルルが何度も見た悪夢だった。
(…いやな夢。かなしい夢。でもこれは…だいじな夢)
夜中だった。
夢の中でテルルは、高熱を出している。
母を亡くした悲しみの中で、体調を崩してしまったのだ。
視界がぼやける高熱の中、屋外の光景を見る
満天の星空から、流星が降り注いでいた。
体が重くて動けないテルルは、寝たままその流星を見ていた。
涙が溢れ、母の死を受け入れられずに鼻を啜る。
そしてふと、視線を動かした先。
母フェイルが、流星群の下を歩いていたのだ。
高熱が見せた幻覚だったのかもしれない。
流星が見せた錯覚だったのかもしれない。
そもそも…涙で視界がぼやけていたのに。
だけどテルルは、熱など無視して飛び起きる。
そして星降る夜空の下、母の名を叫びながらその影を追う。
(あーあ…また、あのいやな夢を見た…)
テルルはその夜も、明け方に近い深夜に目を覚ます。
何度も見た悪夢に辟易しながら、むくりと起き上がる。
そして重い身体を引き摺って、いつものように井戸の所へ行く。
井戸まで来たテルルは、いつものように服を脱ぐ。
「いったぁ…」
テルルは痛みの不快感で思わず呻く。
彼女の背中には、筋状の細い傷痕がたくさんあった。そして細い手足のあちこちに、縄で強く締め付けられたような痕が残っている。
(あのおじさん、縛るし叩くし飲ませてくるし…いやだなあ。まあテルル、この村に好きな人なんていないけど)
この漁村の村人は、元々島中枢で良い暮らしをしていたテルルの事を嫌っている。だから中には、テルルを嬲って愉しむような手合いも多く居るのだ。ほぼ毎日テルルの家には男が訪れ、昨晩もテルルが気を失うまで好き放題に責められていた。
しかしこうやって身体を差し出さなければ、テルルはこの村にすら居られない。これはテルル自身にとって必要な事だからするのだ。ここに来た当時は嫌で嫌で仕方が無かったが、今はもうそういうものだと割り切っていた。
そもそも嫌だとしても、彼女に手を差し伸べてくれる者はここに居なかった。
テルルは井戸で身体を洗い終えた後、ふと空を見上げた。
(今日は晴れ…星が見える)
昨日の曇天とは打って変わり、今日の夜空は満天の星空だ。
しかし今は夏なので天気の移ろいが激しい。
明朝もこんないい天気とは限らない。
…しかし、テルルにとってそんな事はどうでも良い。
(ああ、もうすぐまた星がふる)
デルゲオ島では、夏と冬に数多の星が降る。
それは、テルルにとっては特別な夜だ。
テルルはあの“悪夢”が現実になることを望んでいた。
(あの星のふる夜…母さまが歩いてた。あれは本当じゃなくて、テルルの見まちがいかもしれないけど…。でももしかしたら、本当かもしれない)
流星群の夜に見た、母の幻影。
母が生き返るかもしれないという、淡い希望。
そんなありもしない望みでも、今のテルルにとっては大事な支えだった。
翌朝テルルが漁港に行くと、そこで大人達がなにやら集まっていた。
(なんだろう)
仕事を貰わないといけない立場のテルルは、自分の親分…漁港で一番偉い男を探す。しかしその親分はよりにもよって、集まった大人達のど真ん中に居たのだ。
仕事を貰えないテルルは、仕方なく大人達の話に耳をそばだてる。
「だから、やめた方が良いって言ってんだよ!」
「いいや行くべきだろう、今年は漁獲量が乏しいんだ。冬の備蓄まで考えると、今無理してでも獲っておかないと…」
「しかし今日の波と風…これは荒れるぞ…?」
「こんな快晴なのにか?ジジイの迷信は放っておけって!」
「だがもし船を失ったりなどしたら、それこそ大事だ。この島で木造の船がどれだけ貴重だと思っておる?」
「じゃあ女子供にひもじい思いをさせるってのか?俺はそんなの許せねぇ!」
「そ、そういう訳では無いけどよぉ…」
(ああ、そういうことか)
テルルは察する。
大人達が揉めてる内容。
それは“今日漁に出るべきか否か”という事だった。
森が殆ど無いデルゲオ島において、船は貴重なものだった。しかし食料の乏しいデルゲオ島で、危険を冒して漁に出たいというのも無理は無かった。漁獲量如何に寄らず進上の量は一定…不漁はそのまま村の備蓄を圧迫するのだ。
(むー…どうでもいいから仕事ちょうだい)
しかし手空きなテルルは、興味無さげにボーっと彼等の様子を見ていた。
テルルが見ている間、大人達の口論はどんどん過熱していった。
そして半ば喧嘩別れのように、漁に出る派の大人達…テルルの親分を含む一派が、漁船の周りに集まって行った。なのでテルルも彼等に付いて行く。
そして親分がテルルに気付く。
「ちっ…お前か、まあこの際お前でも良い。人手が足りねぇんだ、今日はお前も漁に付いてこい!」
「はい」
「今年の夏は畑が不作だ、食いもんが足りねぇ。ジジイ共は“今日は嵐が来る”とか何とか抜かしてやがるが、今年は不漁なんだから無理してでも漁に出るぞ。迷信なんぞ信じてられるかってんだ!」
「はい」
そして急遽、テルルは漁船に乗ることになる。
青い海の上を、漁船が心地良い速度で進んでいく。
空は曇りがちになっては来たが、風も波もそこまででは無い。
船は真直ぐに漁場を目指して前進し続けている。
そんな船の隅。
テルルは膝を抱えて丸くなる。
漁場に着くまで、大人達の邪魔にならないように。
「…」
しかしそんなテルルの元に、大人が1人やって来る。
「よおチビ、相変わらずシケた面してんな」
「…」
そいつは、テルルの親分。今回の漁を強行したのが彼だった。
漁場まで暇らしい彼は、珍しくテルルに話しかける。
「くっくっく、お前も災難だな。いくら親御サンが良い異能を持ってても、お前が俺達みたいに“能無し”だったからこんなザマって訳だ」
「…」
「なあチビよ、お前もこう考えてんじゃねぇか?“使える異能さえあればこんなキツイ仕事しなくて済む”ってよぉ」
「…」
確かに彼の言う通り。
彼ほどの年齢になってしまえば絶望的だが…テルルの歳ならまだ異能は発現する可能性があった。だからもしテルルが優秀な異能を発現すれば、また元のような暮らしができる可能性はある。
「…」
しかしテルルは答えない。
そんな彼女を見て、親分が鼻で嗤う。
「…いや、お前にゃ無理だな。なんでも異能はそいつ自身の気概で良し悪しが決まるらしいからな。お前みたいな気弱な奴じゃあ無理な話だぜ」
その時、テルルは顔を上げる。
「異能は怖いよ、死んじゃう」
思わぬテルルの反論に、親分が目を丸くする。
「死ぬってお前、そりゃどういう意味だよ?」
「…」
「何とか言えよチビ」
「…」
「…相変わらず気味の悪いガキだな」
そう吐き捨てると、親分はテルルの暗い紅眼から背を向ける。
テルルは異能が恐ろしかった。
母を死に追いやった異能が。
テルルは、異能を発現させたくないとさえ思っていた。
だからテルルは、既に発現していた“自身の異能”の事を誰にも言っていなかった。
少女は全てを諦めている。
救いも、希望も、未来も。
理解していたのだ。
魔王が統べるこの島で、異能を望まない自分に居場所は無いと。
だから彼女は。
かつて見た流星群の幻影だけに縋って生きていく。




