鏡花水月
よく晴れた夜空には満月が浮かび、星の川を流れるように花弁が風に吹かれている。
湖の上、舟に乗る男は杯を掲げる。
「一人酒とはなあ」
男はそうぼやき、酒を飲み干す。そして、酒の入った壺を取り、杯に注ぐ。
空を仰ぎ見た男は目を細める。そよそよと冷たい夜風が花弁を誘う。
その内の一枚が男の眼前を通り過ぎる。ひらひらと頼りないその花弁を目で追うと、澄み渡った水鏡に音もなく着水する。
広がる波紋の中央には二枚の花弁。
水面を境に別の世界が広がっている。
そう考えれば一人ではないのかもしれない。男が杯を傾ければ、水面の向こうの男も杯を傾けるのだから。
「月も花も酒を飲んでくれないか?」
物言わぬ花は頼りなく崩れるが、静かな月は揺るぎなく宙に浮かぶ。
鏡の花は舟に似て進むが、水の月は道しるべと同じく留まる。
旅人を導く標は見えるが、舵のない舟は何処へ行くのか。
漕ぎ手のあるこの舟は先んずるか。月の下で独り酌をする舟は。
男はそんなことを考えながら、酒をまた注いで飲む。春の夜は冷えるのに、自分の身体は熱を帯びている。
風が吹くと冷たいが、男の身体は冷えない。花の舟と同じように頼りなく進む舟に男は身を任せる。舟は水鏡の月の方へと吸い込まれるように誘われる。
男は酒の友が欲しく、手を宙に伸ばす。
《花開花落二十日、一城之人皆若狂》
詩がよぎるも男は精一杯手を伸ばす。
《莫對月明思往事、損君顔色減君年》
別の詩もよぎるが、手は虚しくも花も月も掴まない。花はひらりと身をかわし、月はじっと構えたままだ。
はっきりと目に見えるのに。手を伸ばせば届きそうなのに。
風が吹き、水鏡が揺れる。
男の目に水鏡に宿る花月が映る。
「……何だ、近くにあるではないか」
向こう側の自分も気がついたのか、舟の下の月に手を伸ばす。柔らかな水鏡が男の手を受け入れる。水鏡に宿る花月が歓迎するかのように揺らめいている。
男は招かれる。吸い込まれるように舟から身を乗り出す。向こう側の自分も同じようにしている。
「何が空の月を見るな、花が狂わせるだ。月も花も美しい姿ではないか。移り変わる醜い己の心をこそ忌むべきだ」
男はそう吐き捨てると、身体を水鏡に投げ捨てる。
波紋が広がる。まるで、大輪の花が開くように、真円の月が膨らむように。
男を招いた水鏡はゆらゆらと揺れるのみ。
鏡面に映る花、水面に映る月。
そこにあるように見えるそれらは幻だ。手を伸ばしても触れることのできる代物ではない。
○引用した漢詩について
《花開花落二十日、一城之人皆若狂》
現代語訳:花が開いてから花が落ちるまでの二十日間、城中の人は皆気も狂わんばかりのようだ。
出典:白居易「牡丹芳」(牡丹の花の美しさよりも農業を憂う天子を褒めた詩)
《莫對月明思往事、損君顔色減君年》
現代語訳:月明りに対して過ぎ去った昔のことを思ってはならない。あなたの顔色を損なって、あなたの寿命を縮めてしまうから。
出典:白居易「贈内」(妻へ贈った詩)