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鬼となり子となり  作者: 早田ルウ
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2

ドアを開けると、外の熱気と一緒に甘い香水の匂いが室内に流れ込んできた。

千川ミユキ。僕がかつて通っていた大学の写真サークルに顔を出した時に知り合い、それ以降付きまとわれるようになって、ついに恋人のような関係を持ってしまった、そんな仲だ。栄田を僕に紹介してきたのも彼女だった。


「出かけるの?」


千川は僕の格好を見るなり言った。小さな肩の上に乗っかった小首がかしげられ、セミロングの髪がハラリと流れる。真夏日だというのに、鼠色のTシャツには汗のひとつも染みていない。黒光りする瞳が自信なさげに僕の方を向いていた。


「言ったじゃないか、来る時は連絡してくれって。今からバイトだよ」

「だって、安藤君ぜんぜん、電話に出てくれない」


スニーカーに足を突っ込みながら外に出て、扉の鍵を閉めた。そのまま階段を降りようとすると、後ろから千川が声を掛けてきた。


「安藤君痩せたね。なんだか、呪われてるみたい」


階段の中ほどで僕の足は止まった。彼女は僕の仕事を知っている。


「そんなんじゃないよ。夏バテさ」


僕は彼女を置いて車に乗り込み、バイト先へと向かった。



正直言うと、ここのところあまり食べていない。僕を悩ます腐った臭いというのは、肉や魚はもちろん、野菜や飲み物に至るまで大概の物から漂ってくる気がしていた。だから安心して口にできるものといえばスナック菓子や携帯栄養食など、そんなものばかりだ。千川の言う通り、もしかするとやつれてきているのかもしれない。


僕の今のアルバイト先は弁当の製造工場だった。18時から深夜0時までの6時間、コンベア上を流れる弁当の揚げ物にひたすらソースをかけ続けるのだ。弁当工場というのは炊飯部門や総菜部門などがあり、建物全体が食べ物の臭いで溢れている。

そうなると地獄の極みかと思いきや、仕事と割り切っているためか職場での臭いはあまり気にならない。臭いの原因が、呪いなどという不確かなものではないと僕が考えているのはそのためだった。

制服に着替えて工場内に立ち入ると、やがて作業開始前の点呼が始まる。僕の隣には芹川さんという中年の女性メンバーが並んだ。


「藤原さんって今日も休みですか?」


僕の部署には40代くらいの男性社員がいたが、ちょうど一週間くらい前から姿を見ていない。芹川さんに声をかけると、彼女はやけに周りを気にしながら耳打ちするような仕草をしてきた。小柄な彼女に合わせて僕は身を屈めた。


「安藤君、この前の事件知ってる?子供が殺されたっていうの」


もしやとは思っていたが、どうやらその通りだったようだ。僕がこくりと頷き、芹川さんはそのまま続ける。


「藤原さん、どうも関係者らしいの」

「でも、藤原さんってこの近くに住んでるんじゃなかったんですか?」


社員に睨まれそれ以上の話を聞けなかったが、休憩中に詳しいことを聞くことができた。

芹川さんによると、殺された真壁トオルの友人の藤原セイヤの父親、それが藤原さんということだった。ここ数カ月の間で奥さんと離婚したため婿入り先を追い出されていたらしい。子供の安全のために一時的に家に戻っているのだろう。会社を休んでいるのはそういうことだ。

そうなると、犯人が捕まらない限りは復職しないつもりかもしれない。



バイトを終えて家に帰り着いたのは午前1時前。間もなくアパートの階段を昇りきるというところで、僕は小さな悲鳴を上げた。


Tシャツも、丈の長いプリーツスカートも黒。セミロングの黒髪と相まって、その姿は逆さに立てた蝙蝠傘のような出で立ち。千川ミユキだった。


「もしかして、ずっと待ってたのか?」

「一回、帰った」


そう言われて千川の格好をしげしげと見てみると、確かに昼間とは装いが違う気がした。何より「待ってて」と無表情にリュックを下ろしたところで、昼間はもっと軽装だったことを思い出した。

千川がリュックの中を漁って、出てきたのはビニル袋に包まれたプラスチック容器のようなもの。「何?」と受け取るとひんやりしており、包みの中にはタッパーに入った何かの料理らしきものが見える。


「バンバンジー。さっぱりしてるから、食べやすいと思うけど……」


顔を上げると、千川の表情がわずかに変わった。形状を保てなくなったリュックを抱きかかえた彼女の顔は、『口角を上げると笑ったように見える』と誰かに教えられたかのようだった。黒い瞳は僕の足元に向けられ、怯えたように揺れている。


笑顔を返して部屋に入ろうとした時、ぼそりと何か言われた気がしたが、僕は慌てるように扉を閉めて「おやすみ」と声を掛けた。

少しだけタッパーを開けると、なんとも言えない不快な臭いが鼻を突いた。



正午過ぎ、スマホの振動で目が覚めた。上下が張り付いたまぶたをこじ開けて画面を睨む。栄田の名前が表示されている。


「安藤さん、起きました?」

「ん。今起きた」


生気に溢れた栄田の声を耳にすると、昼過ぎまで寝てしまっていたという罪悪感を感じてしまう。そのうしろめたさを振り払うようにブンブンと首を回した後で、大きな欠伸をした。


「で、何?」

「寝坊助さんですねえ。まあいいや。あの、かくれんぼメンバーの連絡先を教えてもらいたいんですけど」


もやのかかったような頭で考える。かくれんぼメンバーというのは、死んだ真壁トオルと一緒に遊んでいた友人ということだろう。


「知ってどうするんだ?」

「やだなあ。記事書かなきゃいけないじゃないですか。だから電話取材するんですよ。俺も調べようと思えばいくらでも調べられるんですけど、安藤さんならすぐ分かるかなと思って」

「電話取材なら、僕が警察に連絡した後ですぐにやったさ。だけど、どの家も親御さんだかなんだかが出てきて、子供たち本人とは話せなかったよ。言わなかったっけ?」

「分かってますよ。けど、もう一週間以上経つんですよ。そろそろ本人がうっかり電話に出たりしないかなって」


僕は少し間をおいて答えた。


「だったら、僕がもう一度かけてみるよ。どちらにせよ、取材で知った情報を他人に話すわけにはいかないから」

「ひどいなあ。ちゃんと分かってるじゃないですか」


僕は、ちぐはぐな栄田の言い方に少し笑ってしまった。


「じゃあ、安藤さんが電話してくれるんですね?」

「ああ。内容は伝えるから、ちゃんと記事にしてくれよ」


そういったやり取りの後で電話を切り、しばらく顔を揉んだり肩を回したりした後で、ようやくベッドから立ち上がった。すると、目の前を黒い小さな何かが横切った。ホコリかなにかと思ったが、じっとしているとやはり部屋の中をコバエのようなものが飛び回っている。虫を追いかけて台所に足が向いた時、またあの臭いが鼻腔に流れ込んできた。

一歩進んで臭いを探し、また一歩。だんだん強くなる腐臭の方へと身体を進めていくと、台所のシンクの下、戸棚の所に行き当たった。

薄暗さに目を凝らす。乳白色の扉の隙間から今まさにコバエのような虫が2匹這い出ようとしている。吐き気を我慢しながら取っ手に指をかけ、息を止めるように扉を開いた。


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