一番美しい人の作り話
劇伴はGranados作曲、el mirar de la maja。
歌い手はVictoria de los Angelesで。
私が今まで会った人の中で、一番美しい人の話を聞きたいとあなたは言った。
退屈しのぎの会話なのに、奇妙に重いテーマを持ち出してあなたは微笑んだ。
秒針の遅い進み。
日めくりの遅い繰り返し。
退屈しのぎに、私たちはカードで遊び、楽器を弾き、やがてそれすらも億劫になった頃だった。
もうその列車に乗って一週間になろうとしていた。
移動と旅の非日常感はすっかり薄れ、無意味なことに意味を見出そうとし、おなじみの日々の生活の様相の中で間違い探しをするようになってしまっていた。
昨日は今日と同じではなく、明日は今日より良くなるのだと。
でも実際には、昨日とまったく同じに見える今日がやってくると、私たちはまた同じ列車の中で目覚め、同じ顔触れに挨拶を交わしていた。
私たちを乗せて走る、その車両の隅々をしらみつぶしに見ても、何も目新しいものは探せはしなかった。
一秒ずつ終わっていく旅路の、終わりそうもない長さに飽き飽きしてしまっていた。
乗客のだれもが列車の揺れのように果てしなく続く退屈にかどわかされてしまっていた。
この列車に乗った時は見知らぬ者同士だったあなたと私は、意味のない会話に救いを見出そうとしていた。
「私の祖母は、自分の死ぬその時のために、病室のベッドの傍らにいつも口紅を置いていた。」
なんでそんなことを話す気になったのか、今振り返って考えても私にはわからない。
「でも、本当に危ないってなった時、祖母はまだ意識はあって話すことはできたけど、自分の力で腕を動かして、サイドテーブルの口紅を手に取ることはできなかった。」
「話せたのに?」
「そう、話せたの。
もう事切れるまで、ほんの数十分しかなかったのに。」
列車はトンネルに入り、空気と車両の擦れる音が密度と鈍さを増した。
大きな滝の中を真上に遡っていく時の音みたいだと、あなたは独り言を漏らした。
私は私で、祖母に口紅を塗った時の様子を、あなたに聞かせるでもなく話した。
かつて私が物心づいたばかりの頃のように、はっきりとした力強い口調の祖母が、私に口紅を塗るように言う顔を思い出しながら。
口紅を私に塗られるまでの祖母の顔は痛みと苦しさに歪んでいた。
それでも、生きることに時間と情熱を注ぎ、ほとんど全てを犠牲にして、何も手にしないまま目の前に横たわるに至った彼女の佇まいに、私は緊張を強いられた。
口紅を塗ると、瞬きをするにも満たないほんの少しの間だけ形を取る美しい何かが差した。
化粧品の赤みではなく、現れたかと思うとすぐに消えてしまう、火花のような何か。
秒針の遅い進み。
日めくりの遅い繰り返し。
ただの凡人が持たされるには気が狂いそうに長い持ち時間をかけて作られた、薄皮のような、冬の澄んだ空気に浮かぶ羽のような、触れているのか触れていないのか判別のつかないほど薄く柔らかい何か。
しのぐほどの退屈などなく、カードで遊ぶのは小さい孫をあやす時くらいで、楽器を弾くのも他の誰かのため。
その必要がなくなった頃には、口紅も自分で引けなくなるほどに疲れ果て、ただ横たわることしかできなくなった彼女のところに、その何かは瞬く光のように現れて、またすぐに消えた。
「綺麗だろう、って、祖母は勝ち誇ったように言って、笑った。
それが彼女の最期の言葉だった。」
「嘘だろう。
本当に起こったことにしては、あまりにも話ができすぎている。」
退屈しのぎの会話なのに、話の真贋を問いただすあなたは滑稽だった。
本当かどうかなんてさして重要なことでもなかった。
私が今まで会った中で一番美しい人は、人生の持ち時間をなくそうとしているその時に口紅を引いた祖母だった。
私たちを乗せて走る、その車両の隅々をしらみつぶしに見ても、彼女ほど美しい人を探せはしなかっただろう。
一秒ずつ終わっていく自分の持ち時間の長さに絶望することも、その短さに冷や汗を流すことも、いよいよそれが終わろうとする時に涙など流すこともなかった祖母。
綺麗だろうと私に言った彼女が、自分の顔に一瞬刺した、言葉で表現しがたい美しさに気づいていたのかどうか、今となってはわからない。
列車はトンネルを抜けて、車両を取り巻く気圧が下がり、耳鳴りが遠ざかった。
見知らぬ者同士だったあなたと私を乗せた列車は、それから1日も経たないうちに終着駅に辿り着き、意味も救いもなかった会話は、この頃にはもうすっかり忘れられてしまっていた。
企画主様が素敵なアンサーストーリーを書いてくださいました。
いつかあの空のもと
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