『綴れ刺せ、夜の帳が降りる前に』3
お願いだ。見間違いであってくれ。家までもう少しなのに。どうか、夕焼けがもたらした目の錯覚であってくれ。
鳴くこともなく飛び去ったカラスの影に気が付くこともなく、その思いは華から自然と出た。
「……今の見た?」
「見間違い、ではないよね」
「あれ一年生のリボンだよね、同級生だよ」
最初は小さな一歩だった。それは次第に大きくなり、住宅街に響く二人分の足音となって風と混ざった。
リボンの色で学年が分かるのかと、そんなどうでもいい事を考えながら日辻はひとつ鼻を鳴らし、先を走る彼女の背を追うのだった。
「ねぇ……、どっちに行ったかな……!」
「……右」
「本当!?信じるからね」
ほのかに火照った体から吐かれた息は言葉に押し出されるように素早く小刻みに途切れる。
住宅街の路地は迷路となって二人の行く手を阻むが、そのたびに日辻の声によって角を曲がり、走り抜けて……──
「──見つけた!あそこ!!」
「狩谷さんはあの子を!」
「え、ちょ、日辻くん足速っ……!」
二人が追っていた少女が逃げ込んだ公園は小さなものだった。数人に追いつめられたら逃げ場を失ってしまうほどに。
少女を追っていた男たちは肩で息をしながら少しずつ距離を詰めていたが、そこへ華を追い抜いて男たちへと走って行った日辻の飛び膝蹴りが決まった。
カッと体内にアドレナリンが満ち、万能感が広がっていくのを日辻は感じていた。
そんな彼に飛び膝蹴りをくらわされた男は鈍い音を立てて地を転がり、濁音の混ざった嗚咽を漏らして悶絶していた。
「な!?」
「……っ!」
日辻は息をつかせぬままに着地をした低い姿勢のまま、隣に立っていた別の男の脚へと向かって回し蹴りを放った。あっけなく体勢を崩した男を同じ視線の高さで一瞥したところで、少女に肩を貸した華が彼の隣にやってきた。
「日辻くん!!」強く叫んだ華に呼応するように立ち上がった日辻も少女に肩を貸し、彼らは公園の外へと向かうのだった。
少女を追っていた男たちは四人組であったが、彼らが日辻たちを追ってくることは無かった。
熱狂から覚めたように現実を認識できるようになったのか、ただ単に日辻を恐れての事だったのかは不確かである。
そんな彼らのうちの一人は携帯を取り出し、とある人物へと連絡をとった。
一方、無事に少女を助けることが出来たと背後を何度も振り返って確認した華は、問題の少女に話を聞いていた。
「ねぇ、どうして追いかけられてたの?」
「……それがまったく。私、急に声をかけられて、どこかに連れていかれそうだったから逃げたんですけど……」
「理由は分からないんだ。新手のナンパ……、って事は無いよね」
「随分好かれてるじゃないか」
「あはは……」
少女の表情を見て乾いた笑いを出した華は次第に言葉尻を衰えさせ、「ごめん」と、小さな声で付け足した。目を伏せる少女の姿を見れば、半端な冗談も言えないだろう。
脱力から一時的に歩けない彼女は日辻の背の上で「いえ」と、元気なくそれに答え、彼の背に静かに体を委ねた。
「名前は?」
足を止めた日辻が一度歩みを止めて問いかけた。
華は彼が少女を背負いなおすのを見て、三人分の真新しい鞄を軽く振って少女の顔色をうかがうっていた。
「鳩山です。鳩山 アリサ」
「追われたのは今日が初めて?」
「はい。あの、助けてもらってありがとうございました。それにこんな……」
「別にいいんだよ」
鳩山は日辻に背負われている現状が恥ずかしいようだったが、むしろ役得だと、頭の片隅に浮かんでいた日辻自身は曖昧な笑みを浮かべるしか出来ないでいた。
どこか疎外感を感じていた華は二人に話しかけ、まずは距離的に近い彼女の家に向かうことになった。その道中、華は父である熊五郎に連絡を取り簡単な事情を説明し終え、熊五郎が鳩山を車で送ることが決まったのだ。
「さ、入って。うちは家具とかそんなに置いてないんだけど」
「お邪魔します」
「お、お邪魔します」
一時的な避難場所としてやってきた狩谷家は随分あっさりと家具等がまとめられており、それが逆に清潔感を生み出していた。
仕事で家を空けることが多い熊五郎と、父親が居ないときは基本的に自室に居る華だからこそ、この生活感のあまり感じられない家内なのだろう。これに日辻は共感を覚え、鳩山は緊張をしているようであった。
ソファに腰を下ろした日辻と鳩山へと飲み物を用意しつつ、華は口を開く。
「日辻くんもお父さんに送ってもらう?今日は物騒な日みたいだし」
「熊五郎さん、何か言ってた?」
「宗教団体の人たちが大勢で県庁近くの公園に集まってたみたい。どこから信者をかき集めてるのか分からないけど、凄い人が居たって」
「そうなんだ。それじゃあ、結構しっかりした組織なのかもね」
「時期が悪いよ、連続殺人犯に合わせて宗教団体だなんて。隣の市から応援が来るらしいけど……」
会話をしている二人の邪魔をしないよう、チビチビ麦茶の入ったコップに口を付ける鳩山だけが時間が過ぎていくのを遅く感じながらある程度落ち着いた頃。「そろそろ帰るよ」と言って、日辻が席を立った。
「帰っちゃうの?」
「まぁ、遅くなりすぎてもあれだしね」
「日辻くん、意外と動けるみたいだけど危なくなったら逃げてよ?」
「それは分かってるよ。二人も気を付けてね、施錠とかさ」
「うん。鍵かけておく」
「あ、あの!助けてもらってありがとうございました」
玄関まで見送りに来てくれた華と、深く頭を下げる鳩山に手を振った日辻は微笑み、鞄を肩にかけなおして外へと出るのだった。彼がスマホで確認した時刻は午後五時三十分。未だ早い夜の訪れを肌で感じつつ、ゆっくりと規則正しく歩幅を刻んでいく。
瞳を閉じるたびに暗転する感覚を密かに楽しみながら歩く日辻の口角は、普段よりも幾ばくか上がっているように感じられた。
ガチャ──
日辻が閉めた玄関口を華が施錠した音が静かな廊下に響くのを、鳩山はどこか寂しく感じていた。
鳩山アリサはどこにでも居るような少女である。
謎の宗教団体に追われるような覚えもなければ、公園での出来事が夢や幻だったのではないかと思うほどに、普通の少女をしていたのだ。
特に目立つような容姿をしているわけでもなく、身長だって平均程度でしかない。
それでも、彼女は自身の危機に対して人一倍敏感であった。
本当にそれが夢や幻であったとしても、備えておいて損はしない。
だからこそと言うべきか、彼女が華に連絡先を聞くのは至極当たり前なのだろう。
たどたどしい口調ではあったが、華に断るような理由がないのを分かっているような空気を孕んでいるようにも思えた。
「あの、狩谷さん連絡先、教えてもらってもいいかな?」
「うん、私のでよかったら全然いいよ」
「それと……日辻くんのも教えてもらえたらなって。聞きそびれちゃったから……」
「色々あったもんね。今日はお疲れ様だよ」
「はは、本当にね」
スマホを隣り合わせてはにかむ二人はクラスこそ違えど、クラスメイトのように同じクラスの人の印象を話し、これから先の学校生活に向けて花を咲かせるのだった。
険悪さなど微塵もない。この時ばかりは、華も質問を自重したようである。
午後七時。
その後、熊五郎が帰宅し、鳩山を送っていた車内での事だ。
ハザードランプを点滅させて路肩に止まった何てことのない車の中で、熊五郎は必死に声を抑えて驚愕の感情を呑み込もうとしていた。
「四人……、大の男が二人も無抵抗の状態で殺されていたのか……?!」
夜はまだ始まったばかり。