1話 ソヨン
2030年4月7日 0:10
春とはいえ、まだ寒々とした月が照らす真夜中、ソヨンは〖來の国〗にある生まれ故郷に向かって山中の道なき道を進んでいた――その表情は蒼褪め、焦燥感に溢れていた。
なぜなら、彼女は家族の安否を案じているのだ。
ゴゴゴオオオオオオオオオオオオオオオ
不穏な音に空を見上げると月の光に照らされた数多の飛行機達が〖來の国〗の方角へと上空を通過していった。
やっぱり来た。〖波の国〗、もしくは連合軍の航空部隊だ。
それは彼女の焦燥感の原因でもある。彼等の目的は報復なのだ。
今から〖波の国〗への侵攻に対する報復爆撃が行われるのだ。
もしかしたらもうすでに首都区域への爆撃が始まっているのかもしれない。
ソヨンの家族はその首都区域に住んでいるのだ。
そもそもソヨンは〖來の国〗の兵士で今回の侵攻にも当然参加していた。だから、本来であれば軍から家族の安否を問い合わせすれば良いのだが――それが出来ない事情があった。
なぜなら彼女は軍に見つかれば間違いなく脱走兵として捕縛されてしまうのだ。
そうなれば制裁はまぬがれない。あの上層部の性格からしてまず家族にまで責任が及ぶに違いない。
処刑方法も派手で残虐なものが好まれ、最も多いのが大口径ライフルによる銃殺刑だ。
ソヨンも幼い頃から幾度も見させられてきた。ゴウゴウと轟く銃声、バラバラに飛び散る肉片、血と火薬の生々しい臭い、思い出すだけで吐き気と震え、冷や汗が湧き上がる。
もちろんソヨンは死にたくなどない。だが家族を見捨てることなどできない――結局、どちらも選べなかったのだ。
だから危険を冒してでも自分で家族の安否を確認し、出来れば事が露見する前に家族だけでも〖華の国〗に逃がしたいと考えている。上手く混乱に乗じれば勝算はあるはずだ。
故郷に近づくにつれ、向かう側の空が薄く茜色に染まっている様に見える。
『父さん、母さん、ミヨン、無事でいて、です。』
そう願うとソヨンは一層その速度をあげた。
さて、そもそもどういう経緯で彼女が脱走兵となってしまったか、事の起こりは4日前、4月3日のことである。
ソヨンは〖來の国〗の選民部隊遊撃小隊に所属しており、僅か1日で侵略した〖波の国〗の首都近郊の残存勢力の掃討のため、単独での捜索任務命令が下された。どうやら山中に隠された敵の拠点があり、その場所を突き止める必要があった。
選民部隊とは、とある方法で【知性ある種族】の本来の姿と権能に覚醒することに成功した者達――【覚醒者】によって構成された部隊である。権能を除いてもその能力は凄まじく、運動性能、肉体強度においてまさに超人であった。
(選民部隊・・プッ、なんて恥ずかしい響きです。)
安直なその名で呼ばれる度にソヨンは失笑してしまいそうになるが必死で我慢する。
何しろ命名したのは将軍様なのだ。
ちなみにソヨンは獣人の【覚醒者】で――中でも俊敏性と五感に優れた狼の獣人だ。
だが、ソヨンにケモ耳やシッポは生えておらず普通の人間の姿だ。最初に覚醒した時は各々本来の種族の姿に変化したが、一定時間が経過すると例外なく全員人間の姿に戻ってしまった。
例の博士が言うにはまだ存在概念が不安定だとか何とかよくわからない事を言っていたが、人間の姿でも権能の使用にあまり支障はないし、本来の種族の姿【真化形態】になる方法もすでに確立されている。
今回の命令が下された時、ソヨンはとても名誉な事の様に歓喜の表情を浮かべて受領したが、内心では死刑宣告を受けた気分だった。なぜなら彼女は軍とはいえ事務方の所属で、3か月前に今の部隊に配属が変わったばかりで、訓練は受けているが経験が浅いため兵士としては未熟なのだ。それがいきなり偵察任務と言われてもどうしたらいいのかわからない。
通常なら偵察部隊が任務にあたるのだが急速に制圧範囲を広げ過ぎたため、首都攻略を万全にするにはあまりにも探索する場所が多過ぎて猫の手も借りたいぐらいだった。
そのため、ありえない事にソヨンの単独任務なのだ。
おそらくソヨンが【覚醒者】ということで上層部が無茶振りしたのだろう。
(落ちこぼれの自分は貧乏くじを引かされたの、です)ソヨンはそう思った。
どう考えても成功する見込みはとても低い任務だ。しかも失敗すれば責任を取らされるのは命令した上官ではなくソヨン自身なのだ。とても理不尽だが、上層部は兵士や国民を使い捨ての駒ぐらいにしか考えていないのだ。
だが軍に所属する以上命令は絶対であり、ソヨンに拒否は出来ない。
(ああ、ホント運が悪いです。上層部のクソッタレども覚えていやがれ、です。)
ソヨンは内心悪態をつく。口に出して誰かに聞かれれば命にかかわるが、そんなバカな真似はしない。言動は支配されても精神は自由なのだ――だからこのくらいかまわないのだ。
自分もそうだが誰も口には出さないだけで今の上層部に対してかなり不満を持っているはずだとソヨンは考えている。誰も口に出さないのは密告されて粛清されてはたまらないからだ。特にあの将軍様は歴代の中で粛清が大好きだから要注意だ。
不満を持つ最大の要因は物資不足だろう。以前も良くはなかったが3年前からはさらに酷くなった。国内生産と華の国からの援助を受けてギリギリ何とかなっていたのだが、外貨獲得のためにその援助の分までも横流しするようになったのだ。そのため軍でさえ餓死するものまで出始めた。
市井も同様でとりわけ農村では冬に餓死や凍死するものが年々増加しており、これまでと比較にならない程酷い状況になっていると噂された。ソヨンの大好きだった祖母も薬が足りなくて昨年流行り病で亡くなってしまった。
そんな事をしてまで稼いだ外貨を何に使ったかというと察しの通り、例の封じられた権能を取り戻すという馬鹿々々しい研究だ。
あの博士もよくもまあこんな荒唐無稽な話をあの将軍様や上層部に信じ込ませたものだ。
だが結果的に研究は成功し、しかもソヨン自身がアホで金の無駄遣いだと思っていた研究の成功体になってしまったのでとても複雑な気分だ。
『運が悪いです』
とは彼女の口癖だがそもそもソヨンの不運など今に始まったことではない。
唐突であるがソヨンは二十歳のうら若き乙女だ。
だが彼女の身体には女性特有のやわらかさというものが全くない、と言われれば軍人らしくガチムチを想像するだろうがそうではない。
彼女の身体には筋肉もなければ脂肪もない――端的に言えば骨と皮だけの身体だ。
何らかの重篤な病気を患わっている訳ではないが、健康と言うわけでもない。なぜなら脂肪や筋肉が少ないので体温が上がりにくく、その為免疫力が低い。だから良く熱が出て病気にかかりやすい。彼女は見た目通りに虚弱なのだ。
枯れ枝の様な手足、アバラの浮いたミイラの様な体、わかっているはずなのにソヨンは自分の裸体を鏡で見るたび溜息をついてしまう。
顔立ちは本来ならば美人と言われる母や妹のそれと同様に瞳が大きく整っているのだろうが、あまりに痩せているせいで眼窩がくぼみ、まるで老婆のようだ。
さらに顔を隠すために長く伸ばした黒髪が色白の肌と合わさるとより不気味な印象を与えてしまう。それが原因で学校ではひどいイジメにあってきた。
そんなソヨンがくじけずに生きてこられたのは祖母を筆頭に家族が支えてくれたからに他ならない。
それでも子供の頃は大人になればと淡い希望を持っていたが、結局大人になっても彼女の体形や体質はなんら変わることはなかった。
貧しくて食べられなかったという訳ではない。地位こそ高くはないが家族は〖來の国〗の首都区域に住むことが許されていた為、贅沢はできないが飢えるという事はなかった。
むしろ彼女の家族は彼女の身体を丈夫にしようと人一倍食べさせたし、彼女もそれに応えるようと人一倍食べた。
というのになぜか彼女はいくら食べても脂肪や筋肉というものが全く付かなかったし、虚弱なままだった。医者に診てもらっても体質的なものとしか診断されなかった。
そのためこれ以上家族に心配をかけたくなかったソヨンは人一倍勉学に励んだ。おかげで優秀者に選ばれ、上層部に認められて飛び級で学校を卒業し、十八歳で軍の事務方に配属された。そこでもソヨンは頑張った—―身体の不調を押して人一倍頑張ることで期待以上の仕事をこなして周囲から頼られるようになった。
色々なモノを諦めていた彼女は初めて居場所ができたことを喜んだ。仕事だけの関係だが容姿など関係なく能力さえあれば必要として貰える。そして、もう家族に心配をかけずに生きていけるのだと安堵した。
彼女が居場所を得て1年半程経ったある日、つまりは3か月程前のこと、上層部から例の研究に協力する志願兵を各部署から1名選出するようにと通達があった。
志願兵とは例の研究の献体ということだ。
しかし、その実験は幾人もの犠牲者を出している等、良くない噂が絶えない事を誰もが知っており、自ら志願する者など誰もいるはずもなかった。
イヤな予感がした。
そして、その予感は的中し志願者がいなかったために行われた部署の公平な投票の結果、満場一致でソヨンが選ばれた。
つまり、ソヨンは信頼していた同僚達から生け贄として切り捨てられたのだ。
同僚達から栄誉な事だと笑顔と拍手で送り出されたが、彼等の眼には安堵と嘲笑が含まれていた。
ソヨンは此処でも自分は異物だったのだと思い知らされ、仲間だと思っていた者達に失望した。そして、これまでの無理が祟ったのだろう、体調が急激に悪化し糸が切れたように倒れてしまった。
だが、そんな事で予定が覆されるわけもなく、翌日ソヨンが兵舎で高熱でうなされ寝込んでいるにも関わらず無理矢理研究施設に強制連行されると志願と言う名の人体実験が実行された。
実験のせいか、それとも高熱のせいかわからないが朦朧とする意識の中、(もうこれで終わりになるならそれでもいい・・です)と気が弱っていたソヨンは簡単に意識を手放した。
そして
実験が終わり、運悪く、生還したソヨンは今の部隊に配属される。
気がつけばあの日から1か月近くも経過しており、自分と同じく新しい部隊に配属になった人の数を見て愕然とする、それは実験に参加したはずの当初の人数より遥かに少なかった。
生き残ったのは良いものの、元々畑違いの事務方で身体も虚弱な体質だった彼女が脳筋達の集う実動部隊に課せられる厳しい訓練についていけるはずもなく、部隊一の落ちこぼれと蔑まれ、部隊で孤立するのにそう時間はかからなかった。




