暗雲
□熊本11:28 → さくら550号 → 博多12:06
熊本からは九州新幹線で博多へ向かいます。
「ところではるか、あんたは帰ったら追試が待ってるけど、ちっとは準備できてんの?」
「うぐっ、思い出したくもないことを……」
この追試に落第してしまうと、ほぼ夏休み返上の補習授業が強制執行されるのです。
「まあ大変、沖縄どころじゃなくなるわよ」
「全国選手権にも行けません」
ううう、針のムシロじゃないか……。
「違うの、悪いのは数学の先生なんだよ! 質問ついでに缶コーヒーを差し入れして、どの辺を予習しとけばいいか聞いたのに、全然違う問題が出たんだから!」
「なに買収しようとしてんねん……」
「完全に自業自得ね……」
「いざテストの問題を見た時には頭が真っ白になったよ。分かりやすく言うと、マゴチが掛かった! と思って釣り上げてみたらエソだった、みたいな感じだよ。これは辛いよ。ガックリくるよ」
「その比喩が全然分かりやすくないんやけど、それって辛いんか?」
「もっと分かりやすく言うと、ポテトサラダを食べてる時に、ポテトだと信じて噛んだらリンゴだった! それと同じくらいショッキングな話だよ。そうだ、あのリンゴこそ間違いなく無用の邪魔者だよ! 澄ました顔でしれっとポテトに偽装している分、尚更悪質だよ!」
「あんたはおかずにフルーツが入ってるのを許されへんタイプなんは分かったけどさ……」
「テストのお話はどこへ行ったのでしょう?」
はて、いつの間にか怒りの矛先がリンゴに向いてしまいましたが、リンゴの名誉のために申し上げておくと、私はリンゴ単体で食べる分には大好きなのです。デザートとしてなら主役を張れる有能な役者なのに、わざわざ共演NGのポテトサラダの中に混ぜ合わせて両方の持ち味を殺す圧倒的愚行、言い訳無用の壊滅的配役ミスを最初に犯した奴が諸悪の根源なのです。なぜその時に周囲の人間が「お前は間違っている」と指摘しなかったのか。そいつをその場でタコ殴りにしておけば、呪いのレシピが世界中に流布されてしまうこともなかったはずです。これはお口の平和に対する罪、食材に対する罪、人道に対する罪です。リンゴ入りポテトサラダの考案者は食材に贖罪しながら地獄の業火に焼かれるべきであり、ましてやそれを「美味い」などと宣う馬鹿舌は一人残らずジェノサイドされるべきです。同様にミカンの入ったポテトサラダもこの世から抹殺しないといけません。
私は追試のことなど綺麗サッパリ忘れ、フルーツ入りサラダ殲滅計画を思案しているうちに、さくら550号は博多駅に到着しました。
これで九州新幹線も乗りつぶし達成です!
☆乗りつぶしボーナス獲得!
九州新幹線
走破ポイント×2
大会スタート地点の博多駅に、二日振りに戻ってきました。在来線ホームに移動して、またすぐ出発です。
□博多12:20 → ゆふ3号 → 大分15:30
ゆふ3号は本日の終着駅、そして大会のゴールである博多駅を発車しました。これから九州北部をぐるっと回って再びここへ帰ってくるのです。
☆列車カード獲得!
キハ185系『ゆふ』
レア度★★
30ポイント
「さっきの九州横断特急と似たような車両やね」
「どちらもキハ185系だからね。JR九州のキハ185系は全部、元々は四国で走っていた車両なんだよ。新型車両への置き換えで余剰になったJR四国のキハ185系を、JR九州が買い取ってこっちに持ってきたのさ」
「列車も転勤をするのですねっ」
新たな働き場所を求めて九州に渡ってきたキハ185系。こちらではまだまだ現役で頑張る予定です。
さて、ゆふ3号が二日市駅を発車してから間もなく、あずさの持っていたタブレットのバイブレーターが作動しました。
「うおっ、ビックリするやんか!」
「カードバトルのお時間ですねっ」
ちぇっ、何で私が持ってない時に……。
「あずさ、相手は?」
「ちょっと待ってや……、あっ!」
「どうかしましたか?」
画面に表示された対戦相手、それは……。
「来たで……、火の山女子学園!」
「ほんと!? 遂に直接対決だね!」
「ボス戦ですっ」
「絶対に負けられない戦いね」
唐突に訪れた首位攻防戦。勝てば相対的に200ポイント分の差を詰めることができます。逆転優勝のためには勝つしかありません……!
やがて火の山女子学園チームが乗っている787系かもめ18号と擦れ違い、天下分け目の筑紫野決戦、いざ尋常に勝負です!
まずは大事な大事な最初の手札、配られた四枚は『ひゅうが』『ソニック』『さくら』、そして……『JokeR九州』!
「うっしゃあ! ジョーカー来よったで!」
「熱烈歓迎ですっ」
天は我らに味方せり! カードバトル二度目のジョーカー降臨です!
「これで『さくら』のスリーカードは確定やな!」
「流れが来ているわ。かなり優位に立ったのは間違いないわね」
ここは定石通り、『さくら』『JokeR九州』の二枚残しでドローです。
「ここで『さくら』がもう一枚、いや、もう二枚来たらアッツイでえ~!」
「気合いが入りますねっ」
「よし、行くよ!」
さあ『さくら』よ、我が手札で咲き誇れ!
そう念じながら運命のファイナルドロー!
「んがっ、バラバラやな……」
残念、新たに加わった二枚は『有明』と『かもめ』でした。
「結局スリーカードでの勝負だねえ……」
私は手持ちのカードから『さくら』を選択、そして『決定』をタップしようとした刹那、のぞみちゃんがその手を制しました。
「天王寺さん、ちょっと待って。もしかして、ここに『はやとの風』を加えれば『花鳥風月』じゃない?」
「……ほげっ!?」
「ホンマや! これ高得点の奴やろ!」
「わお、驚天動地の剛運ですっ」
なな、何と! 『さくら』のスリーカードに気を取られて見落としていたのですが、さくら(花)かもめ(鳥)はやとの風(風)有明(月)、そしてオールマイティのジョーカーで、特殊役Aの『花鳥風月』が成立するではありませんか!
「わあ! やったやった、プレミアム役だよ! 特殊役Aは250ポイントの特大プレミアムボーナスだから、ここで火の山女子学園に追い付く、いや、一気に逆転できるかも!」
ただ有明の月ぞ残れる、私たちにツキは残っていました!
私は手札に『はやとの風』を加えて『決定』!
「これは会心の一撃やで!」
「勝利の舞を準備しますっ」
あやめちゃんはカバンから扇子を取り出し、通路に立って上段に構えました。
ええ、誰もが大勝利を確信していたのです……が。
カードオープン!
「ウソやろ……」
「火の山女子学園さんも……」
「こんなことが起こり得るものなのね……」
信じられないことに、火の山女子学園の手札も、『ゆふいんの森』『SL人吉』『にちりんシーガイア』『きりしま』『指宿のたまて箱』を揃えた特殊役A、『九州温泉巡り』が炸裂していたのです。
「星の数はどうなんや!?」
「どちらも合計十二個だ……。どうやら引き分けだね……」
タブレットの画面に『DRAW』の文字が浮かび上がりました。完全に勝ったと思っていた、しかもプレミアム役での勝利を確信していただけに大ショック、挑戦者の私たちにとっては負けに等しい引き分けかもしれません。
「あああ、ガッカリだよ……。250ポイント奪い取れると思ってたのに……」
「でも、負けなくて良かったとも言えるわ。もし火の山女子学園に250ポイントを取られていたとしたら、それこそかなり厳しい状況に陥っていたはずよ」
「そっか、そう考えると花鳥風月のおかげで助かったのかもね」
「そやな、あっちはあっちで絶対勝った、これで優勝はもろたと思ってたやろうし、おあいこやで!」
「前向きで行きましょうっ」
強烈なクロスカウンターの打ち合いとなった首位攻防戦ですが、ここでは決着付かずとなりました。三原さん、勝負はまだまだこれからですよ!
さて、ゆふ3号は久留米駅から久大本線に入り、間もなく筑後吉井駅に到着します。この駅では四分間の停車です。
「対向列車の待ち合わせやな」
「そう、もうすぐこの駅に『ゆふいんの森』がやってくるから、撮影しないとね!」
タブレットを携え、最後尾のドアからホームに降りました。ゆふいんの森2号はこの駅を通過するので、撮影のチャンスは一瞬です。列車カード獲得のため、失敗する訳にはいきません。
「おっ、来たで!」
遥か遠くの山々へと直線的に伸びる線路、その両側に立ち並ぶ木々の間から、保護色の如く風景に溶け込んだ緑色の列車がこちらに向かってやってきました。
そして一旦ゆふ3号の陰に隠れて見えなくなった後、キハ185系『ゆふ』の向こう側からキハ72系『ゆふいんの森』が再び現れた瞬間、カメラのシャッターを切ります!
果たして上手く撮れたでしょうか?
「まあ、二つの列車が綺麗に並んでいるわね」
「素敵な写真ですっ」
うん、手ブレもなく完璧な構図で撮れています! もしかして私、カメラマンの才能があるかも……?
「最近のカメラ性能は凄いなあ~。こんなド素人でもそれなりに上手く撮れるんやから!」
まあ確かにそうだけどさあ……、もう少し言い方ってものを考慮する気はないのかねキミは?
☆列車カード獲得!
キハ72系『ゆふいんの森』
レア度★★★
50ポイント
【遥香の車両解説・キハ72系】
三代目『ゆふいんの森』として一九九九年に登場したキハ72系は、JR九州のD&S列車群においては異色の存在ともいえる完全新造車です。既存の車両を改造して製作された、初代のキハ71系や二代目のキハ183系1000番台(現在は『あそぼーい!』の運用に充当)と比較して、大幅にパワーアップしたエンジンと更に快適性を向上させた車内設備を搭載しています。
運用開始当初は四両編成での運転でしたが、二〇十五年には新たに一両増備され、現在では五両編成で博多~由布院間を一日二往復しています。なお、この増備された車両にはエンジンが搭載されておらず、珍しい『キサハ』の車両記号が付けられています。
リゾート特急の先駆けとして全国的に名を馳せ、数あるD&S列車の中でも抜群の人気を誇る『ゆふいんの森』。是非一度は乗ってみたい列車ですね。
さて、ゆふ3号は日田駅に到着しました。日田はメダル駅ですが、残念ながらクイズモンスターを捜索する時間はありません。
「ここにはどんな魑魅魍魎さんがいらっしゃったのでしょうか?」
後ろ髪を引かれる思いで日田駅を出発します。
☆駅メダル獲得!
日田
50ポイント
列車は筑後川の上流、玖珠川に沿って山深く入って行きます。それにつれて、これまでずっと快晴続きだった空模様が徐々に怪しくなってきました。
「あれ、雨降ってきたで」
「ほんとだ。今日の天気予報ってどんなだっけ……?」
雨脚は次第に強くなり、列車の窓ガラスを激しく叩きつけてきます。
「ひゃっ、雷ですっ」
「本格的に降ってきたわね」
「バケツをひっくり返したような大雨やな……」
列車は水分峠の上り勾配に差し掛かりました。外は土砂降りの雨、車窓に見える小さな川もかなり増水しているようです。風も出てきたのでしょうか、森の木々が大きく揺れています。
東西の分水嶺を貫く水分トンネル(1860メートル)を抜け、峠を越えました。しかし、いつもなら旅人を出迎えてくれる美しい由布岳の姿は全く見えません。
凄まじい豪雨の中、列車は由布院駅に到着しました。
時刻表によると、由布院駅の停車時間は三分間のはずですが……?
「あれ、まだ発車せえへんのやろか?」
「もう五分くらい停まっているわね」
「どうしたのでしょうか」
その時、耳を疑うような車内アナウンスが流れました。
『お客様に申し上げます。只今大雨のため、由布院駅と庄内駅の間で列車の運転を見合わせております。現在のところ運転再開の見込みは立っておりません。ご乗車のお客様には大変ご迷惑をお掛けしますが、何卒ご了承ください』
「うわっ、マジか!?」
「大変なことになりましたっ……」
まさかの事態です。この後の予定では、大分駅でソニック号に乗り換えて小倉駅へ。そして門司港駅へ行ってシークレットミッションのゼロキロポストを撮影した後、鹿児島本線を乗りつぶしながらゴールの博多駅へ向かうはずだったのです。もし大分駅でソニックへの乗り継ぎに失敗するようなことがあれば、私の計画は崩壊してしまいます。完全にパニックです。いや、それどころか、このまま列車が動かなければ、ゴールの博多駅に辿り着くことすら危ういのです。
私は憔悴しながら、時刻表で大分駅での乗り換え時間を確認しました。
「ゆふ3号の本来の大分駅到着時刻は15:30。乗り換え予定のソニック44号の発車時刻は15:45。乗り換え時間は十五分あるけど、既にこのゆふ3号には遅れが……」
「はるか、どんな感じや?」
「今すぐ運転再開してくれれば、まだ間に合う可能性はあるけど……」
「でも、雨の止む気配がありません……」
私たちにできるのは、この無慈悲な嵐が一刻も早く過ぎ去るように祈ることだけです。
あやめちゃんがポケットティッシュでテルテル坊主を作り、窓際のフックに吊り下げました。
しかし、風雨の勢いは一向に弱まる様子もないまま、時間だけが刻々と無情に過ぎていきます。
そして定刻の発車時刻から十五分が経過しました。もう大分駅でのソニック44号への乗り継ぎは不可能です。この瞬間、私の戦略は破綻したのです。私の頭の中は真っ白になってしまいました。
「ダメだ……、もう終わりだ……」
「全然アカンの? どうしょうもないの?」
「とりあえず、逆転優勝への柱になるはずだった鹿児島本線の乗りつぶしは完全に消えてしまったよ……。更に門司港駅にも行けず、シークレットミッションのポイントもフイにしてしまうとなれば、少なく見積もっても400ポイント以上の大損失だ。これじゃ、火の山女子学園を逆転することなんて無理。絶対無理だよ」
「ほんならカードバトルは? プレミアム役で一発逆転とか……!」
「時間を考えると、今後他のチームとすれちがう可能性はゼロに等しいよ。もうポイントを上積みできる要素が何もないんだよ……」
私は俯いて首を振りながら答えました。どう考えても絶望的な状況なのです。
「わたくしたち、優勝できないんですか?」
「優勝どころか、このままじゃ失格だよ。午後七時までに博多駅に帰れるかどうかも分からないんだから……」
今思えば、私の考えた計画は大きなリスクを伴っていたのです。最終日の午後七時までに必ずゴールしなければならないというルールがある以上、遅くとも今日の夕方には博多駅の近くにいるべきだったのです。
私は初日の大会開始直後の状況を思い出しました。ほとんどのチームが新幹線の改札口に向かって行きました。あれは、まず鹿児島や宮崎など博多駅から遠く離れた地域から攻め、最終日には福岡近郊に多数散らばっているメダル駅を拾っていく、そんな戦略を他のチームは立てていたのではないかと。旅に付き物のアクシデントに備え、何かあってもすぐに体勢を立て直せるように。福岡近郊は路線も多く、列車の運転本数も段違いです。もし何かトラブルに見舞われたとしても、計画の変更が容易にできるのです。それは過去の大会から得た経験則なのかもしれません。
そう、大会未経験の私が選択した、最終日の午後にこんなローカル線のこんな山奥を通るルートは、あまりにも危険過ぎたのです。
今頃気が付いても後の祭りですね……。
私は諦めました。全てを諦めたのです。もう運転再開なんてどうでもいい。優勝の可能性が消えてしまった以上、もう失格でもいいや、と。
私は時刻表を閉じ、カバンの中へ乱暴に放り込みました。
「本当に諦めるの?」
のぞみちゃんが低い声で言いました。
「うん……。もう優勝はなくなったからね……」
「本気で言ってるの?」
「だって、これ以上頑張ったところで、無理なものは無理なんだよ……!」
しばらく無言の後、突然のぞみちゃんは立ち上がり、怒りに震えた声で言いました。
「呆れたわ。勝負を途中で投げ出すなんて!」
「のぞみちゃん……」
私を見下ろす彼女の青く冷たい瞳に、私はそれ以上の言葉を失いました。
「あなたを信じて、この大会に参加した私が馬鹿だったわ」
「のぞみさん、どこへ行くんですか……?」
「私、帰るわ。もう諦めたんでしょう? だったらゴールする必要もないよね。リタイアでも構わないよね。私はタクシーで竹田に帰るから。じゃあ」
のぞみちゃんは大雨の中、ホームに降りていきました。
「はるか! のぞみちゃんが……」
「はるかさんっ……」
窓の外のホームをのぞみちゃんが俯きながら歩いて行きます。瞬く間にずぶ濡れになった彼女の後ろ姿を見て、私の中で何かが弾けました。
「待って!」
私は無我夢中でホームに飛び出し、彼女の背中に向かって叫びました。
「ごめん! 私、どうかしてた! 絶対優勝するんだって、最後まで諦めずに戦い抜くんだって約束してたもんね! 私、もう一度頑張るから! もっともっとみんなと一緒に旅がしたいから! だから待って!」
のぞみちゃんは立ち止まり、こちらを振り返って言いました。
「……早くその言葉を言ってほしかったな。私だって、ずっとみんなと同じ旅路を歩んで行きたいって、そう願ってたんだから。生まれて初めて、やっと本当の友達が見つかったって、そう思ってたんだから! こんなことで失いたくないわ……」
「のぞみちゃん!」
私は彼女に駆け寄り、このまま帰してなるものかと彼女の両腕を掴みました。
のぞみちゃんは優しく微笑み、私を抱きしめました。今まで彼女の周りを覆っていた薄い膜のようなものが消え失せ、彼女の体温が直に伝わってきました。
「眼鏡が濡れて前が見えなくなっちゃった……」
のぞみちゃんは眼鏡を外し、セーラー服の裾でレンズを拭きました。
「えへへ、私も目の前が霞んでるよ」
見つめ合う私とのぞみちゃんの頬を濡らしているのは、雨だけではないようです。
不意に、私たちの上に黄色い傘が翳されました。
「まだ旅は終わらないのですっ」
「あたしらはいつも一緒! これからもずっと!」
「うんっ……」
ひとつ傘の下に四人寄り添い、私たちは旅を諦めないことを誓い合いました。
これは後日談ですが、なぜ土砂降りの中、のぞみちゃんは帰ろうとしたのか? その理由は二つあったそうです。ひとつは私の不甲斐なさに本気で腹が立ったから。そしてもうひとつは「だって、ああでもしないと天王寺さんは本当に旅を投げ出してしまいそうだったもの」とのこと。何という策士……!
さて、四人の相合傘で車内に戻った私たちですが、時既に遅し、私はパンツの中までぐちょ濡れなのでした……。
「うう、寒い……」
「そらそうやろ。滝に打たれたようなもんやで」
「ごめんなさい、私のせいで……」
「のぞみさんもずぶ濡れですよ。あっ、あの足湯で温まりませんか?」
九州屈指の温泉処、由布院駅のホームには足湯が設置されているのです。みんなで冷えた身体を温めましょう。
「ふう、気持ちいいねえ……」
「足湯とはいえ、身体の芯まで温まるわね」
「さすが由布院やな~。駅にも温泉があるんやから」
「生き返るようですっ」
足湯から車内に戻り、私とのぞみちゃんはジャージに着替えました。
「でも、列車が動いてくれないことには、打開策を講じ難いのも事実ね」
「そうなんだよね……」
由布院駅に着いてから、既に四十五分が経過していました。未だ雨脚は全く衰えを見せず、列車の屋根に轟音を響かせています。通り掛かった客室乗務員のお姉さんに訊ねてみましたが、運転再開の目途は立っていないそうです。
「何か方法はないのかしら。例えば逆方向に戻る、とか」
のぞみちゃんは自分のカバンから時刻表を取り出しました。
「あれっ、のぞみちゃんも時刻表を持ってたんや?」
「うん。天王寺さんに誘われてこの大会に参加することを決めた時に、私も何かの役に立ちたいと思ってね。それで時刻表を買ってきて、色々と自分なりに調べたりしていたの」
のぞみちゃんの時刻表はかなり傷んでいて、相当読み込まれた形跡がありました。
「今までの鉄道クイズもね、実を言うと半分くらいは私にも分かったかな。天王寺さんの知識が凄かったから私の出番はほとんどなかったけどね」
「さすがのぞみちゃんやな~、鉄道についても勉強してたんや」
「わたくしもその姿勢を見習いたいですっ」
何ちゅうお人や……。
超美形でスタイル抜群な上、頭脳明晰で努力家で……。
天は二物も三物も与えまくってるやおまへんか。
わたしゃほんまかないまへんわ……。
「大会前に天王寺さんから旅の行程を教えてもらった時、私は素晴らしいルート選定だと思ったわ。これならメダルも走破ポイントも最大限に獲得できそうだって。ただ……」
「ただ……?」
「最終日に大胆に動き過ぎかな、とは思ったのね。もし何かあったら身動きが取れなくなる危険性があるなって」
のぞみちゃん、それに気が付いてたんだ……。
「とはいえ、優勝を狙うにはそれなりのリスクを背負う必要もあるだろうし、乗り継ぎに支障をきたす程のアクシデントなんてそう滅多に起こるものでもないだろう、とも思ったんだけどね」
「前のめりで攻めまくった結果、トラップに嵌まってもうたってことか。でも、あたしらは挑戦者なんやからアグレッシブに行くのが当然やし、ビビって安全策のルートなんか通ってたら火の山女子学園には絶対勝たれへんわな」
「そうね、勝つために敢えて挑んだ茨の道、決死の覚悟で渡るべきタイトロープだものね。まだ完全に転落した訳ではないし、とにかく今はこの状況を打破することを考えましょう」
「天がわたくしたちに与えた試練ですっ。この艱難辛苦を乗り越えるのですっ」
「せやな! はるか、ここが踏ん張りどころやで!」
チームがこんな苦しい状況に陥ってしまったのは私の無謀な戦略のせいなのに、みんなは私を責めることもせず、この困難に打ち克ってやろうと心を燃やしています。何て優しく、何て強い人たちなのでしょう。たった一度の挫折で心が折れてしまった私は、自分の弱さを深く恥じました。そして、こんな素晴らしい友に巡り会えた幸運に感謝しました。
「はるかさん……?」
時刻表に落ちた水滴で文字が滲みました。
あずさが笑いながら私の頭を撫でてくれています。昨夜、私の喉元に膝を突き刺した畜生と同一人物だとは思えない優しさです。
あやめちゃんの黄色いハンカチは、ほんのりいい香りがしました。
のぞみちゃんの両手はとても柔らかくて、私の手を伝って身体の中に何か温かいものが流れ込んできました。
「みんな、ありがとう……。みんなに出会えて、私は本当に幸せ者だよ」
一生大事に取っておくこの時刻表、久大本線のページがシワシワになってしまいました。このページを開く度に思い出して顔が赤くなるかもしれませんね。
「……よし、何とかこの雨に勝たないとね!」
「おう! 絶対何かええ方法があるやろ!」
私たちは決意も新たに二冊の時刻表とにらめっこして、どうにかこの窮地を脱出する手段を探し出そうとしました。しかし……。
「逆方向も無理ね……。午後七時に間に合わないわ……」
「やっぱりこの列車が走り出すことを祈るしかないんか……」
時刻は午後四時前。いよいよタイムリミットが迫ってきました。
たとえこの雨が永遠に降り続こうと、もう私はゴールを諦めたりはしない。みんなで最後まで走り抜こうって約束したんだから。この旅を中途半端な青春の蹉跌なんかで終わらせたくない。ずっとずっとみんなの胸に残る、手を取り合い、心を繋いだ四人の素敵な思い出にしたいから……。
そんなことを考えていた時です。
「あっ、雨が小降りになってきましたっ」
「ホンマや、よっしゃ!」
「少し希望が出てきたわね」
窓の外を見ると確かに雨の勢いは弱まり、西の空が明るくなってきました。どうやら雨の峠は越えたようです。
後は一刻も早い運転再開を……!
『大変長らくお待たせしました。間もなく発車します』
「やったあ!」
まさに福音のような天の声です!
ゆふ3号はディーゼルエンジンの咆哮も高らかに、由布院駅を出発しました!




