第四話 権謀術数の中枢
4 権謀術数の中枢
ドイツから帰国して東京本社開発本部ライセンス部勤務(海外事業部から改称)となった慎介。
三年ぶりの日本だがちょくちょく帰国していたので違和感はなかった。
また東京本社は新橋にあったので大井町が勤務先の香子と朝一緒に出勤することになった。
「いままであなたが根岸工場だったので時間が合わなかったけど、これからは一緒に出られるわね。」
「そうだね、工場は始業時間が8時で早かったからね。本社は9時で楽だよ。」
「そういえば今度の部署あの米山さんが部長なんでしょ。越後谷さんもあなたをどう使おうとしているのかしら。」
「まあ、帰ってきたばかりだし様子を見るしかないよ。本社勤務も初めてだしね。」
1977年に入社以来、17年間根岸工場そして3年間のドイツでちょうど20年たって慎介は45歳になっていた。
ドイツでの経験は慎介の人生に大きな影響を与えることになるのだが、この時点ではこんなことを考えていた。
自分の人生の目標、つまり目指すものは家族との特に香子との幸せであると。
この3年間はおかげで学生時代の下宿で過ごしていたように時間だけは十分あり、いろいろな事を考えた。そしていままで漠然としていた思いがはっきりした一つの形になり、そう言えるようになった。
一方仕事の位置づけについては、もちろんプロであるので全力を尽くすが、人生のすべてを懸けるようなものではなく香子との幸せを上回るものではない。
「今日何もないんで定時に帰るから一緒に帰ろうか?」
「じゃあ蒲田の改札に6時ね、わかったわ。」
勤め帰りに駅で待ち合わせ、買い物をし一緒に台所に立ち夕食を作ることがささやかな楽しみになっていた。
ドイツにいる間一人で食事を作る生活をしていたおかげできわめて手際が良くなり、香子が身支度を整えている間に夕飯のおかず一品くらいは簡単に出来るようになっていた。
日本にいなかった三年間を埋めるように家族との時間を過ごす慎介であった。
ドイツでの経験がもたらした人生への大きな変化は、車を持つ生活である。
帰国後すぐに車を購入した。
車種は何でもよかったのだが、香子の希望も取り入れ慎介自身漠然とあこがれていた日産のスカイラインに決めた。
ヨーロッパでの経験、大きな都市で運転中道がわからなくなり地図を見る香子とよくケンカをしていた、をふまえてこのころ普及し始めたナビを付けることにした。
純正のもので使用しないときは前面パネルに収納でき、操作が画面にタッチすることでできる機種で、30万ほどしたがあの経験を考えるとお金には代えられないという思いは夫婦共通であった。
色は香子の好みを優先しシルバーグレーにした。
納車後早速始めたのが週末の温泉巡りである。
この頃すでに立ち寄りという概念が定着しており、よほどの格式の高い旅館以外は宿泊客のいない時間帯、つまりチェックアウトからチェックインまでの間、立ち寄り客を一人千円以内の料金で受け入れ温泉を開放していた。
また首都圏に近い箱根などでは宿泊を目的としない日帰り客向けの温泉施設ができ始めており、露天風呂を
一時間3千円程度で貸し切り出来るサービスはなかなか良かった。
土曜日の早朝、いつものように多摩川の河川敷を歩きながら、
「朝ごはん食べたら箱根の温泉行こうか?」
「いいけど私はマウントビューがいいわ。」
何回か温泉巡りをし、一緒に入るなら貸し切りのある宮ノ下の楽遊樹林、泉質優先ならにごり湯の仙石原にあるホテルマウントビューの露天風呂に好みが絞られてきていた。
「そうだね、一緒に入れないけどハイランドホテルでランチも食べられるしね。」
温泉とランチを楽しんだ後、ナビがガイドするように仙石原から乙女峠経由で御殿場から東名にのり帰途につく。この時間なら土曜日でもまだそう混んでいない。
「いままで知らなかったけど、車のある生活もなかなかいいわね。」
「まあこれもドイツにいったおかげだよ。」
「いろいろ苦労することはあったけど、新しい経験も沢山あったわね。」
「まだこれから人生は長いしその経験が役に立つときも来るんじゃないの。」
「もうすでにあなたの運転と、料理の腕は役に立っているわ、ところでドイツでの経験は会社ではどうなの? 役に立っているの?」
「うーん、なかなかいい質問だね。そもそもドイツに行く選択をしたのは海外の経験をしたかったからで、あまり後のことは考えていなかったね。触媒営業からの引きもあったけど結局今のところに落ち着いちゃったし、仮に米山さんの後部長になってもあんまり魅力のある部署じゃないような気もするし・・・。」
「だけど裁判の時以来お世話になっている越後谷さんに迷惑をかけないようにしないといけないわよね。」
「君の言うとおりだよ。よくわかっているね。」
ドライブ中にも川の散歩と同様いろいろお互いの心の内を話す二人であった。
密閉された二人だけの空間ということでそういうことがより可能になったのだろう。
ライセンス部の新しい仕事は自社の持っている技術を他社に出すこと、またはその反対で相手の会社は大体海外の会社、また会社の性格から他社から技術を入れることはなく出す専門であった。
つまり慎介達ライセンス部員たちの仕事は明治化学の持っている技術を他社に使ってもらいお金をもらうことを仲介することなのだ。
実際には自分たちで売り込みに回ることはなく、相手からの引き合いに対応していくといういわゆる殿様商売であった。
そんな中で慎介はどのように仕事に取り組んだものか悩んでいた。
慎介に職場で指示を出す立場の部長米山はドイツの前任者で、慎介が帰国したため部長の立場が取って代わられるのではと関係が微妙なのだ。
特に米山からは仕事に関して指示はなかった。
職場の性格上監督者は部長だがその他の部員はそれぞれ個人プレイヤーとして仕事をしていた。
ドイツにいた時の経験から会社にとって新しい事業を創り出すことが重要な事、そしてそのためには今自分のところで生まれつつある新しい技術をもとにした仕事を海外の会社と共同で事業化することが具体的な方法と考えていたのだ。
そのベースは生まれつつあるのか、社内の研究、開発部門に顔を出し様子を見ることから始めていった。
もともと工場とはいえ触媒の開発部門にいたし、また短期間ではあったがドイツにおりヨーロッパに出張してくる研究、開発部門の人の相手をして顔なじみになっていたことが役に立ち、おおむねどこへ行っても歓迎されまあ一杯ということでざっくばらんな話ができていった。
そうこうしてようやく新しい部署になじみ始めたころ、慎介に一本の電話がかかってきた。
「はい、ライセンス永井です。」
「おう、永井か? 元気にやっているようやな。」
大体偉い人は電話で名のらないことが多いがここでどちら様ですか?などと聞いていてはサラリーマン失格の烙印を押されてしまう。
話し方、声などで瞬時に誰であるか頭をフル回転し推理しなければならないのだ。
もちろんその基準が正しいかどうかは問題ではない。
サラリーマンは理不尽な世界に生きているのだ。
後から考えてみるとこの一本の電話が慎介をさらなる理不尽な世界に導くきっかけだった。
「あ、常務ご無沙汰しております。その節はいろいろご指導を賜りありがとうございました。先般本社に出張したときお席まであいさつに伺いましたが残念ながらご不在でした。」
ドイツの時、脱硝触媒のビジネスでイタリアに一緒に出張した柳岡だった。
いったん成約したが、結局当て馬にされただけというめったにない経験をしていた。
今は本社の常務経営企画室長として権勢を誇っている。
「明日役員会で東京行くけど、ちょっとあんたに話があるんや。午後時間あるよな、あと夜もあけとけや、ええやろ。」
だいたい偉い人は下の者の都合なんか気にしない。
「わかりました、お部屋には3時ころお伺いします。」
「おう、じゃな。」
やれやれ、本社の中枢にいるえらいさんが何の用だろう?
そういえば経営企画には同期の山下がおり、奴が営業の時にはヨーロッパに何回か出張してきて付き合ったっけ。ちょっと聞いてみようかと考えたとき再び電話が鳴った。
相手はなんとその山下だった。
「おお久しぶりだね、ヨーロッパで出張したときは面白かったね、元気?」
「その節はお世話になったね、ところで永井さんいま常務から電話があったよね?そのことなんだけど。」
「実はあんたに電話して何の事だか聞こうと思っていたとこなんだよ。」
「明日常務のお供で自分も東京で永井さんと夜一緒なんだけど、事前に知らせておいたほうがいいと思って。
まだ知らないと思うけど、今度ヨーロッパで保水性樹脂の工場を建てる計画があるんだ。」
「じゃあラインケミカルとのJVはどうするの?」
「解消すると思うよ。お互いに別々にビジネスをすることになるだろうね。」
「それで俺となんの関係があるの?」
「それがおおありで、まず永井さんにはこの計画に応援として参加してもらおうとしているみたいなんだ。
なにしろドイツから帰ったばかりで現地の事情通だし、常務はじめ本社のえらいさんの間でも永井さんは評判が良いようだよ。」
「そんな話こっちでは全然聞いてないよ。」
「ここにきてわかったけど人事はごく少数の人の間で、しかも夜の酒の席で決まっていくようだよ。」
なんとなく柳岡の用件が見えてきたが、次の日直接話を聞くと慎介の身にかかわる重要なことが含まれていた。
「というわけで来年の4月までは経営企画に応援という形だが、そのあとは部長としてやってもらうからそのつもりでな。」
新橋の居酒屋でビールで乾杯したすぐ後のことである。
「しかし上からは何も聞いていませんが。」
「あの人たちは悪いけどそういうことには疎いんや。あんたのことはすでに社長まで話は通してあるぜ。そもそもあんたをドイツから引き取り部長にもせんで置いておくんで目をつけられたということや。あんたにしても引き分けのための裁判のため努力するよりよっぽど会社のためになる仕事だと思うぜ。」
「それにしてもなんで自分が部長なんですか? 経営企画には池上さんがいるじゃありませんか。あの人が部長になると思っていましたが。」
池上とは慎介より一年先に東大卒で入社し米国の大学に留学しMBAを取得、一貫して経営企画畑を歩んでいる会社のレベルには珍しいエリートだ。そしてなにより柳岡の片腕なのだ。
「池上には来年新しい部、関連事業部の部長になってもらう。実はあんたを部長にしようというのはわしだけでなく社長の意向でもあるんや。この前のドイツ出張の時のあんたの活躍が目に留まったようや。それに社長が根岸の所長の時あんたはその下で触媒をやっていて顔なじみらしいな。」
なるほど自分の知らないところでこういうことは決まっていくもののようだ。
経営企画といえば会社の中枢中の中枢でその部長にはなりたい人は沢山いるはずだ。
帰国してようやく新しい仕事に取り組もうとしていたところだったが、慎介にとって極めて魅力的な話が舞い込んできたのだ。
若いころから「会社はこうあるべきだ」などと数限りなく論じてきたので、経営企画は一度はやってみたい仕事であった。
「今月末、工場のサイトセレクションでヨーロッパ出張するんで準備しとけやな。」
「わかりました。」
まあ、個人の頼みではなく会社の人事なので否応の話ではなく従うのみである。
ところで、サラリーマンは会社の命令には従うか嫌なら会社を辞めるこの二つしか選択がないと考えていた。
今回の場合は幸い嫌な命令ではないので望むところで従うだけだが。
しかし世の中何でも物事には裏があるもので、この話も当然そうだったのであるが目前の魅力に目がくらんだ慎介には見抜けるものではなかった。
そして後々の会社人生に大きく関わってくるのである。
その週末、いつものように早朝香子と川を歩きながら話す慎介、
「そういうわけで来年の四月から経営企画部長という話が舞い込んできたよ。」
「また突然な話なのね。あなたの今までやってきたことが認められたということじゃないの、よかったわね。あなた自身は今のところにいるよりいいと思っているんでしょう?」
「少なくとも部長だし、今までの経験も生かせそうだしやってみたいと思っているよ。」
「だけど今の部署はどうなのかしら? 越後谷さんからは話があったの?」
「それがまだで毎日違う部署から頻繁に電話がかかってきてまわりも変に思っているようなんだ。」
「ドイツに行くときも引き抜きみたいで、同じようだったわね。
あなたの場合、発つ鳥なんとやらで泥をかけまくっているとそのうち居るところが無くなってしまうわよ。」
まさに香子の指摘は正鵠をついたものであった。
入社以来根岸工場で一緒に仕事をしてきたが、ある日突然ドイツに行ってしまった慎介のことを感情的に受け入れれられない人はある程度いたようだ。
そして今回も再び・・・。
週が明けて出勤すると越後谷から声がかかった。
「永井君、ちょっといいかな? 米山君も一緒に。」
別室へのお誘いだ。
「先週本社で専務に聞いたよ。経営企画に引き抜かれるそうだね。」
さすがに人格者の越後谷だが機嫌が悪そうである。
しかし慎介が悪いわけではないのである。
この時、越後谷は開発本部長で部長の米山の上司、専務とは研究開発本部を統括する越後谷の上司で経営企画の柳岡と同格になる。
「さすがに急で強引なやり方なので専務も気分を害しておられたよ。我々は君には期待していたんでとられてしまうと痛いんだよ。」
さすがに米山の前なので君を次のライセンス部長になどとは言わなかった。
それを一番恐れていた米山は見るからに安心したように、
「しかし保水性樹脂のヨーロッパ計画とは彼にぴったりですな。」
「まあ、それだけ人材が払底しているということだな。会社にとっては非常に重要な事なのでがんばってきてくれ。裁判より楽だと思うよ。」
「わかりました、ありがとうございます。」
確かに越後谷は慎介をとられ残念そうであったがどこかほっとしたようなものも感じられた。
裁判の時は必死だったので、能力も人間性もさらけ出し仕事をしてきた。そしていつも一緒にいた越後谷はそれをすべて見ていたのだ。
慎介のような部下は扱いにくいのであろう。
越後谷とは長い付き合いなので自分がどう評価されているかはなんとなくわかっていた。
さて肝心の保水性樹脂のヨーロッパにおける工場建設であるが、会社としては客先のUSAGURO社の要請で世界展開の第一歩としてアメリカに数年前製販子会社を設立していた。
この時は経営企画の池上と米国人の妻を持つ現在その米国子会社の社長を務める野田が中心になりプロジェクトを達成している。しかし海外経験の乏しいことからまず現地資本、日本の商社を加え会社の設立という手段をとったのだ。
今回はできれば単独の進出としたいところだが実力的には前回同様の手順を考えつつ、現状を調査しながら決めていこうという作戦のようだ。
慎介の立場は応援という助っ人であるが、4月からの人事が内々に決まっているので最初からプロジェクトの中心として活動することが求められていた。
現地での会社設立、工場建設の許認可手続き等単独では難しいので商社や現地の会社を頼りがちになるのだが、慎介はドイツにいたときに話に聞いていた各国の投資誘致機関をまず利用することを考えた。
この時ヨーロッパでは日本に比べ失業率が高く、国の優先政策が雇用の安定でありそのために外国企業を国内に誘致し自国民を雇用してもらうことが政策の優先項目であった。
特に日本企業をヨーロッパに勧誘するためにいろいろな優遇策、例えば日本語が話せる要員、諸手続きのサポート、現地人の採用、会社設立後の優遇税制などありとあらゆるサービスを用意し誘致活動を展開していたのだ。
つまり日本の商社が今まで行っていたことがただで享受できたのである。
第一回目のサイトセレクションツアーは訪問先を原料手配、日本人の住みやすさ、製品の搬送等の観点からドイツ、フランス、ベルギー、オランダの4か国の化学コンビナート、あるいは工業団地にし現地調査をすることとした。
メンバーは経営企画室長の柳岡、高砂工場から新社長候補の上田、経営企画から同期の山下、そして永井の4名である。
ちなみに山下はもともとこの計画の中心に指名されるはずだったようであるが、海外経験の乏しさから危惧され永井が候補に浮かんできたといういきさつがあったようだ。
もちろんこのように社内でも目立つプロジェクトなので自分で取り仕切りたいのはやまやまだが、海外経験、英会話の能力等を考えると妥当なところに落ち着いたというところか。
経営企画には生え抜きの池上、同期の山下、そして慎介と年の近い三人が集まることになるがこの時点では
特に山下とは対抗するものではなくむしろお互いの弱点をカバーしあうような関係であった。
まず海外マターを慎介が、そしてその慎介は経営企画自体素人だったので山下の協力が必要だったのである。
柳岡との仕事は初めてではなかったが、部下の立場では最初の経験であった。
まずトラブルは行程の初めから起こった。
最初の目的地はパリであったが、慎介は成田から、残りの三人は住んでいる場所が関西なので関空からとしシャルルドゴールで合流ということにしていた。
12月の初めだったがなんと関東地方が雪となり成田からのJAL便が2時間ほど遅れるというハプニングがあった。
慎介だけが成田手配の海外でも使える携帯電話を持っていたが飛行機の中ではもちろん有効ではない。
この日はパリに一泊だったので慎介が遅れても三人でホテルに先行してもらえばいいと軽く考えていたが、
パリについて飛行機を降りたとたん待っていた柳岡に一喝された。
「おい永井、手配がなっていないやないか。そもそも一緒に関空からこんとあかんぜ。お前はわしをこんなところで二時間も待たせたんやで。池上と比べて全然あかんやないか。山下も電話もようせんで役に立たん、お前ら二人でも池上一人に及ばんな。」
メンバーの中ではただ一人海外で動ける慎介がいないという状態で不安になり、二時間荒れ狂っていたようだ。うんざりした顔で山下が目で合図してくる。
途中から今回の計画に参加した慎介はまだ立場上全貌を把握しているわけではなく、特にこの行程は山下と柳岡が決めたものなのだ。
いきなりの理不尽な叱責だが来年からの上司なので、
「遅れて申し訳ありません、今朝成田は雪がひどくて出発が遅れたんです。こんなことならご指摘のように関空からご一緒するべきでした。」
「そうらしいな、こちらでは情報が入らずいらいらさせられたぜ。山下に聞きにいかせたんだが要領をえんでまいったよ。」
どうやら一回爆発したので怒りも鎮まり気味のようだ。
「すぐホテルに参りましょうか、おい山下、金は両替しているよね、タクシー代くれんか?」
なにしろ待たされるのは一番嫌いのようなので両替する暇も惜しむ。
総勢4人なのでタクシーは2台になる。
あまり知られていないが、パリのタクシーの助手席には客は乗れず後席に3人までなのだ。
慎介は随行員の立場上柳岡と同乗しホテルを目指す。
「今晩の飯はどうしましょうか? それと打ち合わせは飯を食いながらでいいですかね?」
「そうやな、近くのカフェで軽くやろか、わざわざ日本飯屋にいくと高いやろ。打ち合わせも明日はたいしたことないんで、飲みながらでいいぜ。」
「わかりました、コンシェルジュに近くのカフェを聞いておきます。もう時間も時間ですから着いたらすぐでいいですね。」
「すぐにしよう、それにしてもあいつら役に立たなそうやで。」
「まあ、そんなことはないと思いますが、明日からの会議での活躍を期待しましょう。」
翌日はパリに本社のあるローヌケム社を訪問の予定であった。
フランス北部、ロレーヌ地方のサンタボルドに保水性樹脂の原料になるPOを生産する工場を持っており今回の候補地の一つなのだ。
翌朝集合時間より早めにチェックアウトし、タクシーを2台確保しておく。
朝は意外とタクシーの取り合いになることがあり、なにしろ偉い人は待たされるのが嫌なのだ。
凱旋門のラッシュを抜けてようやくローヌケム本社に着く。
レセプションで来訪を伝えるとわざわざ副社長のアンリ・パサダ氏が自ら迎えに来てくれた。
慎介がドイツにいたときに顔なじみになっていたので帰国してからのことなど、会議室までの間話がはずんだ。
その間柳岡はひとしきり脇に置かれた格好になっていたのだ。
これが柳岡の気に障ったのか、会議室に入り皆が着席してすぐ慎介に言葉がかかった。
「おい永井、今回は自分の役割をわきまえなあかんぜ、あんたはまずわしの通訳に徹せればいいんでそれ以上でも以下でもないんや。ええな。」
そうか、しまった、うっかりしてた。
相手に猿山のボスは誰か示す前に目立ったらダメなんだよな。
「わかりました、申し訳ありません。」
パサダ氏が目でこの日本語のやりとりを聞いてくる。
「今の常務のコメント通訳していいですよね?」
「ええで」
また一つ日本人ビジネスマンの習性をパサダ氏は学んだことであろう。
通訳した後パサダ氏が慎介に小さくウインクしてくれたのがなんとなく嬉しかった。
柳岡は性格に問題はあったが頭がよく、また海外慣れしていたので話す言葉もはっきりしており通訳はしやすかった。
その日会議後ビジネスランチを会社の豪華な食堂でふるまわれた後のホテルへ帰っての反省会。
上等なワインの酔いもありいつにも増して饒舌な柳岡、
「おい永井、あんたの通訳はなかなか良かったぜ、これならほぼ池上にもひけをとらんよ。」
なかなか人をほめることがない人なのでほっとする。
「それにしてもお前ら二人、雁首揃えているが永井に比べ全然仕事をしてないやないの、一体なにしに来たんや? ちゃんと会議で発言せんとあかんぜ。」
お叱りを受け下を向く二人。
「まあまあ常務、今日は総論の話だったのであまり彼らの出番は無かったですよね。これから各論になればそれぞれ活躍してくれますよ。」
助け舟を出す慎介。
「まあそうやな、あんたらしっかりせんとあかんぜ。」
やれやれそれにしても大変な部署に異動することになったもんだ。
その後順調に行程は進んだが終盤にさしかかりめったにない重大な事件が起きる。
その日は旧東独のライプチヒの候補地を訪問した後ベルギー、ブリュッセルのホテルに到着した時のことである。訪問後の移動なのでもう夜の9時前後になっていた。
グランプラス近くのノボテルだがチェックインしようとするとなんと予約は無効というではないか。
予約を担当したのが山下なので彼を交え事情を聞くと、こちらのミスであることがわかった。
レイトアライバルのギャランティーをしていなかったのだ。
旅慣れていないとわからないが予約だけだと、当日午後6時を過ぎると予約を落とされ他の人に部屋をまわすルールなのだ。
それを避けるにはクレジットカードなどでギャランティーが必要なのだ。
フロントで交渉し今晩泊まれる部屋は一つしかないことがわかる。
さあ、大変だ、本社の常務さんを宿なしにするわけにはいかない。
幸いこのあたりはドイツ時代によく来ていて他のホテルの場所など知っていたのだ。
有名な高級ホテルが三つある、どこかに泊まれる部屋があるだろう。
「ちょっとここでお待ちください、近くにホテルがあるんであたってきます。電話番号を探すより行ったほうが早いでしょう。」
走って2,3分のロイヤルウインザーホテルに駆け込む。
幸い二部屋あるというが一泊2万円と高い、早速ノボテルのフロント経由で柳岡を呼び出す。
「こんな条件で二部屋ありますがいいですよね?」
「わしとあんたで泊まろう、こいつらはここに二人で一部屋や、すぐに確保してくれ。」
「わかりました、すぐにお迎えにあがります。」
やれやれドイツ時代の経験が大いに役に立った。
明治化学は本社が大阪と東京にあるがもともと大阪の会社なので社長以下ほとんどの役員は大阪に常駐で、営業などが東京本社に主力部隊がいる。
ライセンス部は東京本社でその机を並べる隣の島に東京の経営企画がおり、現部長の中田がいた。
慎介の身の振り方が明らかになって以来、なにかとアドバイスをくれたりしていた。
普通社内で前任、後任というとあまり仲が良くないが中田の場合年が8つほど離れているせいかきわめて親切に慎介の面倒を見てくれていた。
根岸工場にいた時もよく出張の打ち合わせに東京本社に来たとき、夜新橋で一緒に飲んだりしていたし、
またドイツにいたときも中田が出張してきて慎介がアテンドし気心は知れていた。
そしてこの中田が仕事もさることながら慎介、香子の人生に大きな影響を及ぼすことになる。
ある晩、いつものように新橋の赤ちょうちんで飲んでいる時なにげなく中田が慎介に言った。
「おい、永井君あんたはゴルフせんかったよな。だけどこれからのことを考えたら始めたほうがええで、どうや?」
「そうですね、まったく興味が無いわけではないですし、いままで野球もやっていたのでまるで運動のセンスが無いということもないでしょうからまあなんとかできるんじゃないですかね。」
今まで正直まったくゴルフなんて馬鹿にしていたのだ。
あんなものは老人の暇つぶしで、やろうと思えばすぐそこそこのレベルまではいくだろう。
「そうか、それはよかった。ところでわしは個人では箱根の芦ノ湖カントリーのメンバーなんだ。会社にも何人もメンバーの人がいてなにかと始めるには便利やで。どうやそこのメンバーにならんか?」
ゴルフもやったこともないのにいきなりゴルフ場のメンバーになるという発想が理解できなかったが、ほかならぬ中田からの提案なので、
「そうですね、車も手に入れたところですし箱根ならうちから1時間半あれば余裕で行けますしね。検討してみます。」
「おう、そうしてくれや。」
酒の上の話とたかをくくってほっておいた。
なにしろゴルフをするどころかクラブさえ握ったことがないのだ。
一週間後、また中田と酒を飲む機会があった。
「そういえば永井君、芦ノ湖のメンバー申し込んだか? わしが推薦状書くぜ。」
「はあ? まだ申し込んでいませんが。」
「どんどん進めんとあかんやないか。今申し込めばちょうどシーズンが始まるころからプレーできるし、みんなに紹介するぜ。」
「はあ、わかりました。しかし道具を含め始めるにあたって要領を得ないのですが。」
「そういわれてみればそうやな、大阪の経営企画に竹中がおるやろ? あいつにいろいろ聞いてみ、親切に教えてくれるはずや。 わしからも言っておくし。」
「明日次の出張の打ち合わせで大阪ですから早速聞いてみます。」
「おお、それとクラブは心配せんでええで、大阪の同じ単身寮にいる大さんが今まで使っていたものを捨てようとしていたものをバッグごともらい、あんたのために確保してあるんや。早めに機会をつくり取りにこいや。
そうや、あしたは金曜日やしそのまま大阪におれや。土曜日よみうりのショートコースいってみようか?
竹中に都合聞いてみるわ。ちょっと待っとれや。」
携帯をもって店の外に出て行った。
どうも自分の意志があまり反映されないで物事がすすんでいくような気がするが、気のせいでは無いと思う。
「竹中はOKで明日朝一でよみうり予約するよう言っておいたで。あんたには申し訳ないが初めてなんで本コースはちょっとな。ショートコースあたりが始めるのは無難だと思うぜ。」
「すみません、ショートコースってなんですか?」
「普通ゴルフ場はパー3、パー4、パー5の組み合わせのホールが18あり全部でパー72なんや。ショートコースはぜんぶパー3のホールで18あるんよ。
よみうりのショートコースはほんちゃんのコースの隣にありなかなかしっかりしたところやで。
そうや、やっぱりさすがにちょっと打っとたほうがええな。
明日の晩、週末やから柳岡さんに誘われるしそのあと練習場いこか、夜11時までやってるし寮の隣や。
あんたも明日は寮に泊まるよう手配しておきや、そうすれば朝わしと一緒に拾ってもらって都合ええで。」
なんか急に世の中が回りだして酒を飲んでいるどころではなくなった気分だ。
「すみません、服装なんかはどうしたらいいんですか?」
「おおそうやな、下は長いズボン、上はふつうセーターとかやけど派手じゃないジャンパーでもええで。」
「野球のウインドブレーカーでもいいですかね?」
「問題ないよ。だけど襟のあるシャツはいるぜ。」
「帽子は野球のでいいですかね? それと靴はどうするんですか?」
「帽子はそれでいいけど、靴はさすがに新しく買う必要があるな。最初だからあまり高くないやつを買っておけや。」
その晩家に帰り急きょ週末大阪に滞在しゴルフをすることを香子に伝える。
「とうとうあなたもゴルフを始めることになったのね、あんなにばかにしていたのに。」
「まあ、流れだね、一人前にそこそこ回れるようになったら君も始めようね。」
「気がすすまないけど。」
「まあ、新しい世界に挑戦することは楽しいと思うよ、ゴルフが嫌なら車の免許取りに行ってもらうからね。」
「そっちも嫌よ。勝手なこと言わないで。」
「まあ、どっちか考えておいてね。」
翌日、昼一会議を終え経営企画の島に行くと竹中が待っていた。
「永井さん、今日はもう仕事おわりでしょ、時間内だけどゴルフショップ行きましょうか?」
「俺はいいけどあんたの仕事はいいの?」
「私は特に仕事はないんですよ、行きましょう。」
この竹中は慎介の7,8歳年下の事務屋で社内では頭はいいが変わったやつ、上司が使いにくい部下という評価であった。
慎介が根岸工場にいるとき事務部に配属されてやってきたが、工場の水に合わず1年で異動になっていた。
その間麻雀などをして慎介とは仲良くしていたのだ。
いろいろな部署を渡り歩きいまはここにいるというわけか。
「中田さんに聞いたと思うけど、まったくの初心者なのでよろしくな。」
「まかせてください、私が永井さん、ゴルフデビューの面倒をみます。明日もご一緒します、中田さんからはもう一人見つけておけと言われましたが、私の判断で3人で回るようにしています。
初めての人がいるときは4人では無理なんですよ。」
「なんで?」
「永井さんが進むのに時間がかかるからですよ。明日始めてみたら意味がわかります。それと今晩飲んだ後練習行くそうですが、買い物が終わったらすぐ打ちに行きませんか? 私が基本的な打ち方を伝授します。
いくらなんでもゴルフをなめたらだめですよ。素面のうちに練習しましょう。」
難波の本社近くのゴルフショップを併設した打ちっぱなし練習場へいく。
手袋、ティー、ボールなどの小物をそろえ終わりいよいよ打つ時がきた。
明日はショートコースでウッドは必要ないため6番アイアンだけを借りる。
「永井さんは野球をやっていたんですよね、だけど一度野球のスィングは忘れましょう。
クラブの握り方と構えはこうです。そしてこうやって打ちます。どうです、ちょっと10球ほど打ってみてください。」
構えまで教えてもらい見様見真似で打ってみる。
こんなものは簡単だろうと舐めていたがなかなかどうしてうまく打てないのだ。
10球中2球は空振りする始末だ。
なんでこんなものがうまく打てないという感じなのだ。
「思っていたより難しいな、うまく打てないよ。」
「まあ、あたりまえですよ、やはり野球打ちになっていますね。打つ時に体重移動が大きすぎます。
そうではなくてゴルフは体の回転で打つんですよ。
これからスィングのキーポイントを言いますから頭に入れて実行してみてください。
まず始動するとき、
左足の膝をキープし右に移動しない。
左肩を下に落とさず水平に回す。
腕の振りかぶりを大きくせず頭より上げない。
スィング開始は腰の回転始動で手から始動しない。
スィングは横降りを意識しフィニッシュは頭より手を挙げていく。
です。
すぐには何のことかわからないと思いますが、これを頭に入れて意識しながら打ってみてください。」
「すまん、もう一度言ってみてくれ、メモするから。」
「大丈夫ですよ、ここに書いて持ってきています。」
もちろんこのアドバイスを受けたってすぐにうまく打てるわけではなかったが、この竹中の指摘が初心者から100を切るくらいの人にまで当てはまる極めてゴルフの真理であることがわかるのはかなり後になってのことである。
その晩、いつものように終業後本社近くの居酒屋で柳岡中心の飲み会が開催された。
参加メンバーはこれもいつものように、経営企画中心で中田、山下、そして慎介。
すでに慎介はこのメンバーに組み込まれておりこれから毎晩のように柳岡の相手をしていくことになる。
会社の中枢にいる柳岡が酒の席とはいえ会社についてのいろいろな話題を提供し、なかなか興味深いものがあった。
「そういえば永井よ、明日コースデビューするらしいやないの? なんであんたらわしを誘わんのや、わしも一緒に行きたかったな。」
中田が
「いやいや、初心者が一緒だと常務に迷惑をかけますよ。どんなプレーぶりか全くわかりませんからね。このあと寮の隣の練習場でちょっと打つ予定です。」
「そうやな、今年の経営企画ゴルフコンペには絶対参加せえや。 ただしあんまり練習してわしよりうまくなったらあかんぜ。」
実はこの柳岡は会社の中枢におり、一見豪放磊落に見えるが性格的にはその反対でそれが災いしゴルフが極めて苦手だとわかるのはしばらくしてからであった。
翌日のショートコースでだいたいゴルフというものがどんなものか経験する慎介。
野球をやっていたからと言ってそう簡単に出来るものではなかった。
しかし面白かった。
車の運転を習いに行った時のように新しい世界の扉を開けたような新鮮さがあった。
年をとってもできるスポーツなので香子と二人でも楽しみたいと思った。そのためには自分自身がそこそこで回れるようになることが先決である。
ここからゴルフという世界に入っていくことになった。
年が変わり4月の異動時期がやってきて慎介が正式に部長として経営企画に移ることになった。
1998年、慎介46歳のことである。
今まで籍のあったライセンス部では慎介の異動に当たり盛大な送別会をやってくれた。
籍はあったがほとんど応援に出ており、また期間も一年と腰掛みたいだったので一抹の後ろめたさはあった。
異動直後の慎介を待っていたのは新しい部署の洗礼であった。
なんと異動3日後関係者会議があるというではないか。
それも2件、一つは慎介も関わっているヨーロッパ保水性樹脂計画についてであるがもう一件は採算性の悪いプラスチック事業をどうしていくかということだ。
そもそも関係者会議というのは経営判断を下すとき、正式には役員会、そしてその前に経営会議でと定まっているが、さらにその前に関係する担当者が集まり詳細にわたって議論する会議が必要でその会議のことである。社長主催で常務以上と関係役員以下その件に関係する平の担当者まで声がかかり、当然この会議の決定が最終決定となることが多い。
経営企画はこの会議の事務局として機能し、結論を提案する立場にある。
そして実際それをするのは今回部長の慎介なのだ。
いきなりの大役であったが意外にも同期の山下が親身になりサポートしてくれた。
しかしこの会議は慎介の本社デビューの場でもあり、また能力を試される場として設定されたものでもあったようだ。
山下は経営企画室長の柳岡から慎介が失敗しないようある程度助けるよう指示されていた。
表向きは柳岡が素人の慎介を見込んで部長に据えたことになっており、それが見込み違いでは困ったことになるし、柳岡の思惑では慎介はある程度活躍してもらわねば困るのだ。
柳岡の頭には次期社長のポストがちらついていたのだ。
次期社長を指名するのは現社長の會川、慎介が根岸工場にいたころの製造所長で部下を寄せ付けない気難しい性格だが、工場時代の触媒での貢献やドイツ出張時の働きぶりなどから慎介はなぜかこの會川に気に入られていたようだ。
柳岡はこの慎介を自分の手元に置き、會川にアピールしようと考えたのだろう。
皮肉なことに柳岡の社長レースのライバルは、工場を出るときいろいろアドバイスしてくれたあの大場でありこのレースが佳境になるころ大場からは裏切り者呼ばわりされることになる。
また上昇志向の強い山下としても苦手な英語を操らねばならぬヨーロッパ計画を回避するため、自分が部長のポストにつくことを一時見送り慎介のピンチヒッターが必要であり今は慎介にこけられては都合が悪い。
慎介のテストを兼ねる意味からアドバイスはキーポイントのみでその他は慎介に任されていた。
主な役割は経営企画からの提案を要領よく簡潔に説明し質問に答えること。そして議論が終結したころ結論を要約し会議の結論として社長の承認を得ることである。
しかし会議の前にやらねばならぬことが山ほどあった。
まず提案自体よく理解すること、そうでなければ要領よく説明などできずましてや質問などに答えられない。ヨーロッパ計画はいいが二件目のプラスチック事業は初耳に近い。
そにために担当役員やその部署の部長に話を聞き現状を把握し提案についての賛同も得ることをした。
そしてその後出席予定の常務以上の役員への個別説明を行った。
提案の背景、問題点、そして選択肢の長短など突っ込みどころも含め説明する。
役員といえどもすべてに精通しているわけではないので質問のしどころなどを紹介しておくと喜ばれた。
そんなことで3日はあっという間に過ぎ去り、会議当日はやってきた。
会議冒頭、
事務局の立場から社長に
「皆さんお揃いになられました。」
と報告した。
これが大正解で第一関門、大きな落とし穴があったのは後で知ることになる。
事務局を意識するあまり会議を取り仕切らねばとの意識から
「本日はお忙しいところお集まりいただき・・・」
とやりがちだがこれは僭越のいたりで、よく研究が事務局の時の会議であるようだが主催者はあくまで社長なのだ。
慎介の報告を受け社長が
「それではヨーロッパ計画の関係者会議を始めます、事務局から提案の説明をしてください。」
となるのだ。
事前の準備が功を奏し2件とも無難にこなすことができた慎介、やれやれである。
しかし自分の仕事ぶりがどう評価されたかは不安なものがあった。
その晩、慎介の歓迎会が催された。
その席上柳岡が
「おい永井、今日はまあまあやったで、この調子で頑張ってや。」
めったに人をほめない柳岡からの一言、慎介の仕事ぶりには柳岡も心配していたのかもしれない。
一安心した慎介はしたたかに酒を飲みぼろぼろになっていくのであった。
経営企画に異動した慎介の生活は従来のものから大きく変わることになった。
勤務地は一応新橋の東京本社であるが、そこにはあのドイツで一緒だった林田しかおらず山下以下の部下と上司の柳岡は大阪常駐なのだ。
したがって毎週一度、平均2泊3日程度は大阪本社に出張し会議、部内打ち合わせなどをこなす必要があった。そのなかには柳岡に対する夜のお供も含まれていたが。
当然大阪に宿泊する場所が不可欠で、前任の中田が使っていた尼崎の単身赴任者用の寮の一部屋が用意されていた。
ドイツにいたとき出張でさんざん飛行機に乗ったので、大阪への往復はもっぱら新幹線に乗った。
よく利用したのが東京駅6時の始発電車だ。これだと新大阪に8時半に着き、大阪本社には始業の9時前に入れる。しかし毎週一回これをするということはなかなかきつかった。
その反面ゴルフなどがなければおおむね週末は家にいることができたし、東京本社へ出勤の時などは目立って仕事がなかったので息抜きではあった。
ある週末の朝、いつものように香子と多摩川の散歩。
「あなた、新しい仕事はどうなの?」
「そうだね、おおむねうまくこなせていると思うよ。今までと違い個人プレーじゃないんで戸惑ったり、もどかしいところもあるんだけど同期の山下がサポートしてくれているよ。」
「なんか不自然ね、そもそも山下さんは自分が部長になりたかったんじゃないの?」
「それはそうなんだろうけど僕とは院卒、学卒の違いがあり2年はずれているからその間待つつもりかもね。そうすればやつの苦手な海外での仕事、ヨーロッパ計画も終わっているだろうからね。」
「あなたをうまく利用するなんて考えたわね、おじさんもあなたを部長に呼んだのは自分のためとかいっていたわよね。」
香子との間では柳岡のことはおじさんと呼んでいたのだ。
「そう思うよ、次期社長に指名されたいため會川さんに僕をうまく使っていることをアピールしようとしているんだよ。」
「本社の人はみんないろいろ考えていてすごいわね、あなたはそういうこと考えないでいいの?」
「出世するという観点からはドイツに行くとき大場さんに指摘されたように、根岸に残るべきだったんだよ。だけど実際はあそこでそういうことからは離れる決断をしちゃってるしね。君も海外に興味があってドイツ行きを望んでいたんじゃないの。あのまま工場にいたらできないことを沢山経験できたんじゃない。」
「それはそうね、楽しいことばかりじゃなかったけれど。とにかく毎週大阪で体には気を付けてね。」
「余裕ができたら大阪に遊びに来たらいいじゃない。」
「ううん、なんとなく大阪は嫌よ、京都ならいいけど。」
ヨーロッパ計画は何度かの現地調査を重ね、ベルギー、アントワープの旧BOC社、現ENSPEC社の工場敷地内に絞られつつあった。
この工場は慎介の触媒を世界で初めて使ってくれたPO製造プラントがあり、あのビビルさんが勤めていたそして慎介が日本から、そしてドイツに行ってからも何度も通ったあの因縁の場所なのだ。
数年前BOC社がENSPEC社に工場を従業員ごと売却し、その時あのビビルさんはBOCに残りしばらくロンドン本社にいたが最近退職しアントワープ郊外の自宅で悠々自適の年金生活を送っているという連絡があった。
ENSPEC社は空いている工場敷地を利用しいわゆるサードパーティビジネス、つまり化学品を生産したい会社を募りユーティリティはじめいろいろなサービスを提供するビジネスを展開し始めていたのだ。
明治化学のように現地でのつても海外経験もない会社にとってまさにうってつけの場所ではあったのだ。
しかも前述したようにこのころ高失業率に苦しむヨーロッパ各国は政府主導で自国民を雇ってくれる海外からの投資を誘致しており、このあたりをしきるフランダース政府は日本語が話せるスタッフを用意ししかも各種優遇策まで提供しサポートしようとしていた。
最初の現地訪問の後、なんと慎介が東京本社に戻るとすぐに駐日ベルギー大使が慎介を訪ねてきて、あらゆるサポートをするので是非ともベルギーに来てほしい旨の申し出があったのにはびっくりした。
いかに外資の誘致に力を入れていたかわかる事実だ。
候補地が絞られてくるに従いどういう形で会社を設立するかもより具体的になっていった。
投資額、従業員数などだがなかでも明治化学単独出資か現地資本、日系の商社を加えるかが議論になった。
これまで会社は、アメリカに保水性樹脂の製販会社、インドネシアにその原料となるPOとその誘導品製造、販売会社を設立した経験があるが、どちらも投資主体は明治化学であったが5%ずつ現地資本と日系商社を加えていた。
理由は現地資本がいると会社設立時の手続きがスムーズにいき、また現地従業員の採用等に便利である。
そして商社はなにかと現地での活動が便利になるからである。
ある日の午後、柳岡を含めた大阪本社での部内打ち合わせで、
「おい永井よ、ベルギーでの会社どうするつもりや?」
「単独で行きたいと思います。そのほうが設立後の運営が自由にできるし商社がはいるとビジネス自体に制約がでるのは確実ですからね。それはアメリカ、インドネシアの例を見れば明らかですよね。」
「それはそうだが従業員の採用まで単独でやるのはなかなか大変だぜ。会社設立の許認可手続きもあるし、お前それができるんか?」
「可能だと思います、フランダース政府の投資誘致局がうちの会社専門のチームを作り工場が完成し会社の運営が始まるまで支援することを約束してくれてますし、次回の出張で彼ら紹介の民間会社と従業員採用の事前打ち合わせをすることになっています。現地社員のうち工場長はじめ幹部クラスはその会社が採用活動をします、我々ももちろん面接などに立ち会います。
許認可手続きは投資誘致局の手の内ですから全面的にまかせられます。法的な観点も必要なので起用する弁護士事務所にもアポをとってあり次回話をします。」
「わかった、まあ今回はそれで進めてみようか。ただし進行状況は逐一わしに報告せえよ。」
「わかりました。」
「まあ打ち合わせはこれくらいでええやろ、ところで今晩はどうする?」
「いつもの裏の居酒屋はいかがですか? 昨日おやじがあたらしいイモ焼酎がはいったとか言っていましたが。」
「なんや、お前らだけでいったんかい、わしにも声をかけんといかんやないの。ところでメンバーは?」
「今日は中田さんが空いているとおっしゃっていましたので、中田、山下でどうでしょうか?」
「いつもの代わり映えしないメンバーやな、まあええやろ。そういえば今日高砂の岡田が来ていたけどやつを誘ってみ。」
「わかりました、時間はいつもの通り終業後すぐということでよろしいですね。」
「ああ、それでOKや。」
岡田は高砂の製造所長で本社には会議で来ていた。会議の終了時間を見測り岡田のところへ行く。
「所長、お久しぶりです。」
「おお、永井君もう本社は慣れたか?」
「長いこと工場にいた者にとっては厳しいものがありますね、ところで今晩少しお時間いただけますでしょうか?」
「柳岡さんのお誘いやな、あんたも大変やな。新幹線の時間があるんで7時半までならええで。」
「ありがとうございます。これも仕事の内のようです。近くの居酒屋で柳岡常務、中田本部長、山下と私がメンバーです。5時にお迎えに参ります。」
「わかった。」
この日の岡田以外はいつもの固定メンバーでそれに飽きると誰か適当な人をゲストとして呼ぶのだ。
そしていつものように内々のプチ宴会が始まるのであった。
時間で岡田が退席した後柳岡が思いもかけぬ提案をした。
「おい、今週末ゴルフいかんか?もうすぐ経営企画室長杯があるしな。それに永井がどれだけ上達したか確かめなあかんしな。」
実は柳岡はゴルフにコンプレックスがあり誘われても前日にドタキャンするなどなかなか一緒にゴルフをすることはないのだということを慎介は聞いていた。
中田が受けて、
「私らは結構ですが豊田さんにも声をかけますよね?」
「やつにはわしから聞いてある。今週末はOKや。中田よ、お前がメンバーの飛鳥でスタートは8時半くらいでええやろ。」
豊田は柳岡の同期で会社きってのゴルフ上手で柳岡がどうしてもゴルフをしなければならないときのお守り役で必要な人のようだ。
これでこの提案が一時の気まぐれでなく周到に準備されたものであることがわかる。
「明日早速予約します。メンバーは豊田さん永井でいいですね。」
「ああそれと終了後の反省会、難波あたりの串カツ屋でやろか? 山下よ、あんたは悪いけどゴルフには誘えんけど反省会は来るやろ?」
「はい、永井さん、当日時間は電話で打ち合わせしようね。」
「OK」
これでたちまちその週末のゴルフが決まった。
あのショートコース以来、出張等でバタバタしておりまだ本コースは5回ほどしか回っていない。
スコアは甘めにつけているがおよそ120から130といったところか。
柳岡が帰ったあと中田、山下と飲みながら、
「柳岡さんから誘うなんて珍しいですね。」
「コンペの練習がしたいんじゃないか。」
「しかし、今の自分の状態でご一緒していいんですかね?」
「まあ、柳岡さんにはあんたがどんな状態かは飲みながら説明しているから分かっていると思うよ。それにあんたのプレーぶりはたたくけど早いからな、あれはええで、好感が持てる。今のままのプレーぶりでいいよ。」
「そうなんよ、永井さん、サラリーマンのゴルフで一番嫌われるのはプレーが遅いことなんですよ。」
「竹中から教わった中に、打ったら次に必要そうなクラブを何本か持ってすばやく自分の球の場所に行き素振りをしておくというのがありそれを実践しているんだよ。」
「あと永井さん、ティーショットの時柳岡さんをあまり見ないほうがいいですよ。」
「えっ、それどういうこと?」
「当日すぐわかるで。それとオリンピックは必須だからそのつもりでな。」
「オリンピックって何ですか?」
「ああそうか、まだ教えてなかったけ、いずれにせよ時間の問題だしな。」
「いいですか永井さん、オリンピックとはグリーン上でのゲームなんですよ。
普通ゴルフは4人でプレーしますよね、そして各ホールグリーン上でパットが行われます。
この時グリーン上に乗ったあとワンパットでカップインしたとき得点が得られるゲームなんです。
4人グリーンオンしたとき一番遠い人から金、銀、銅、鉄とし各4,3,2,1点とします。
ちなみに外から直接カップインはダイヤといい5点になります。
そして終了後の総得点を競うゲームなんです。」
「レートはどんな感じなの?」
「普通一点100円ですね。ゲーム自体の損益分岐点は10点程度になりますかね。」
「その場合、自分がタコで他人に10点ずつ取られた場合30点のマイナスで3000円か、まあ耐えられる範囲内ではあるね。ただしゴルフのプレーフィーを考えるとあまり負けられないな。」
「そのホールで何打たたこうとグリーン上に上がれば平等というゲームですからね。」
そうして週末の土曜日がやってきた。五月晴れであった。
慎介は昇進し、ましな単身者用の社宅に移った中田と待ち合わせ電車で飛鳥カントリーへ向かった。
ゴルフ場に着くとせっかちな柳岡は豊田と一緒に社用車で先に来て食堂でコーヒーを飲んでいた。
「おい、早く着替えて食堂へ行こう、わしはトイレへ行くからあんたは先に行って挨拶していてくれ。」
「わかりました。」
急いで着替え食堂に向かう。
「おはようございます、今日はよろしくお願いします。自分は初心者なのでご迷惑をおかけしますがご容赦いただければと存じます。」
「そんな気にせんでええで、中田君から聞いているがあんたは結構早くプレーするそうやないか。サラリーマンゴルファーにとって大切なことや。今日は楽しんでやろう。」
「おい、永井よ今日はオリンピックをするで、あいつらからルールは聞いているやろ? わしはそれだけが楽しみなんや。」
「柳岡さん、初心者にオリンピックはきついんちゃいますか?」
「ありがとうございます、しかし初心者の迷惑料と認識し参加させていただきます。」
「なかなかいい心がけやないか。さすがに経営企画部長や。」
「そろそろ時間なんで体をほぐしがてら行きましょうか?」
「中田はなんで来ないんや、相変わらずグズやな。」
「トイレに行って見てきます。」
そして4人揃い飛鳥の1番ホール。
320ヤードほどのミドルだがスキー場のように打ち下ろし若干右にドッグレッグしており右サイドがすぐOBになって2番ホールに隣接している。
スタートの打順は普通くじを引くが柳岡がいるときは決まっているようで、今日は豊田、柳岡、中田、永井の順となる。
まず豊田、流石名人らしくきれいな弾道でフェアウエーセンター。
次の柳岡、構えるがなかなか始動しない、いやできない。ものすごく力が入ったあとテイクバックもそこそこに打ってほとんどチョロ、当然下り斜面の上のほうに止まり次がものすごく打ちにくそうだ。
要するに柳岡はゴルフが苦手で他人に自分のプレーぶりを見られたくない、さらに自分が失敗するところを見られたくないと思うがあまり人前でプレーすることができなくなるのだ。
それを知っている中田などは柳岡がティーグラウンドに立った時から後ろを向いている。
まともに見ていた慎介はものすごく体に力が入ってしまった。
「柳岡さん、打ちなおしますか?」と豊田。
「ええ、あのまま打つで。」
豊田は柳岡のお守り役として不可欠なのだ。
続く中島は無難にフェアウエー。
さあ、慎介。
冷静に打ったつもりだったが球は右サイドに飛んでいきOBラインの際どいところ。
「もう一球打っておきますか?」とキャディー。
「いってみてだめなら前4で打ちます。促進優先で。」
いちいち打ち直していては時間がかかる。
やはり行って見るとちょっとラインの外、前4から打つとうまく花道へ。
豊田と中田は順調に2オン、特に豊田は3メーターのバーディーチャンスだ。
柳岡は難しい斜面からチョロを繰り返しグリーン上も乗らずに行ったり来たりしているようだ。
慎介のアプローチ、顔が上がりトップし思わず声が出た。
「あっ、」
「強い」と豊田。
ミスショットだが球はピンに真っすぐ転がっていき、なんとガチャンと旗竿に当たり入ってしまったのだ。
皆唖然とする。
「なんやそれ。」と柳岡、自分は30センチぐらいのところにつけている。
「永井君はダイヤだから柳岡さんそれ銅に昇格でOKですよ。」と中田。
自分はこれから5メーターのバーディトライであるがさすがに外れパー。
慎介が
「ナイスパー」
と声をかけるが憮然とする中島、すでに慎介に5点、柳岡に2点取られており心中穏やかではない。
さらに豊田が3メーターを沈めバーディー銀で3プラス2(バーディー賞)で5点となり波乱の展開。
「これは乱打戦になってきましたね。」と豊田。
「わしはスコアは9点で銅の2点な、永井のダイヤが余計やな。」
「しかしあれがないと柳岡さん鉄の1点でっせ。永井に感謝せんとあかんのちゃいますか?」
そんな感じで進んでいき午前のハーフが終わり食事の時間になった。
スコアは豊田、38、中島、48、柳岡、65、永井、66であった。
「やれやれやっと半分終わりか、だけど永井よ、お前下手だけどプレーが早くてなかなかいいぜ。」
「そうやな、もう少し力を抜いてやればいいんじゃないか、まあラウンドが終わったら細かいところを言ったげるからな。」
「ありがとうございます、よろしくお願いします。しかしなかなかゴルフは甘くありませんね。」
「当たり前や、そう簡単に上達したらわしの立場がないやないの、次のコンペではわしの下になってもらわんと困るんや。」
「しかし柳岡さん、今の永井の調子だとすぐ抜かされそうですよ。」
「それはあかんで、そうやオリンピックも集計しておこうか。」
「柳岡さんは最初の銅の後鉄が4個で6点、豊田さんは銀バーディー、銅が2個鉄3個で12点、そして自分は銀2、銅1、鉄1の9点、永井君は最初のダイヤのみで5点やね。」
「おい、わしは鉄カン完成で4点プラスやで、ちゃんと計算してや。」
「ああ、役もつけるんですね、わかりました、柳岡さんはトータル10点です。」
「わしも金がくれば一通完成やな、中島君もあと銀1個で銀ポンか、激戦やな。」
「あのー、そのカンとかポンってなんですか?」
「なんや知らんのかいな? オリンピックには役があり、4,3,2,1そろって一通で10点プラス。
金、銀は3個そろってポン、それぞれ12点、9点プラス。銅、鉄は4個そろってカン、8点、4点のプラスとなるんよ。
また1番であったみたいにバーディー賞は2点、バンカーから一発で出しパットを決めると砂一でこれも2点プラス、ショートのニアピン賞も2点や。」
くそ、山下の奴、わざとこの役については説明を省いたのか。
ざっくり計算すると現時点で慎介は一人負けでマイナス16、1600円だが皆が役目前とのことで終了時はさらに負けが拡大しさらに40点ほど上乗せされるだろう。
なんとかしないと大変なことになる。
「そうですか、自分は厳しい状況になってますね。」
「そんなことないで、あんたが最初にとったダイヤは役を作るときにオールマイティに使えるんや、つまりあんたがあと3,2,1、ととればダイヤを4として扱い一通完成、また3,3あるいは2,2,2や1,1,1で銀ポン、銅カン、鉄カン完成となるんよ。」
「後半がんばります。」
「あまり無理してがんばらんでええよ。」
そして後半がスタートし同様に時間が流れていった。
結局スコア、豊田、76、中島、98、柳岡、128、永井、129。
オリンピック、豊田、30、中島、25、柳岡、18、永井、19でそれぞれ+28、+8、-20、-16となった。
とりあえず大負けしないですんだ慎介、
「ふぅー、永井なかなかしぶといな。わしが最下位になるとはな。お前もう少しわきまえなあかんぜ。」
「すみません、最後に銅がとれて銅カンができたようです。」
「そんな、あやまることないよ、よう頑張ったで。それと一点言わせてもらうけど、あんた打つ時右足に体重が移りすぎや。両足の上で回転するイメージで打ってみいや。」
「ありがとうございます。」
「そんな余計な事教えたら、さらにわしよりうまくなるやないの。」
そして難波駅近くの居酒屋での反省会、
豊田はさすがに付き合わず帰っている。
「へぇー、永井さん129の-16ですか、健闘しましたね。」と休日なのにわざわざ出てきた山下。
「そうなんや、いきなりダイヤはとるし最後の最後に銅カンを作りおってな。」
柳岡に言われ最終18番のグリーン上が蘇った。
比較的小さめの受けグリーンで、カップ右下1メートルに着いた慎介、結局銅ポジションになった。
これが入れば3個目の銅となり始めのダイヤと合わせ銅カン完成となることは分かっていた。
慎介の番が来て打とうとすると、
「おい、これがはいれば銅カンやで。」柳岡から声がかかる。
わざと意識させ緊張を高めようという意図だ。
「はい、分かっていました。がんばります。」
位置的にカップ右下なので上りのフック、問題はどれだけ曲がるかだ。
ラインをみて口につぶやいた。
「上りのフック、カップ一個右。」
その時、ついていたキャディさんが言ってくれた。
「永井さん、読みすぎやね、カップ半分よ。」
そこで思い当たった。
今日一日あまりパットが入らなかったが、結局曲がりを見すぎていたのだ。
またキャディさんはほとんど柳岡の専属のように付きっ切りで、朝の挨拶以来言葉を交わしておらずパットのラインを聞くこともなかったのだ。
「OK,それで打ってみます。」
上りを意識したのでちょっと強めにヒットしたが少しの曲がりでカップに吸い込まれた。
「キャディさんのおかげで入りました。」
「よかったね。」
柳岡の舌打ちが聞こえるような気がした。
柳岡もその場面を思い出したのか、
「ほんまに入れんでええのにあのキャディも余計な事言いおって。」
「そういえば豊田さんも回りながら言っていたけど永井君のパットの打ち方はほめていたぜ。打った後のフォローが効いていて球が伸びていくそうや。」と中田。
「えっ、それどんな打ち方なんや?」
「要するにパチンと打つのではなく、押し出す感じのようです。」
「単に強く打つ馬鹿パットだけちゃうの? 今日は負けたけど次は負けへんで。中田よ、コンペは永井と同組にしてや、またオリンピックせなあかんしな。」
やれやれ、つぎは適当にやって負けようと思う慎介であった。
ドイツから帰ってきてからもヨーロッパ計画で頻繁に欧州に出張している慎介、計画も佳境に入ってきている。
「あなた、頻繁にヨーロッパに行けていいわね、私も行きたいわ。」
「いいよ、そういえばマイレージもかなり溜まってきているようだからみてみようか。」
JALのホームページで確認してみるとなんと二人でファーストクラスで往復ができるほどあったのだ。
「どうする? ファーストにする?」
「そうね、何事も経験だから一回乗ってみようかしら。行先はもちろんフランスで今回はプロバンスをまわり、できたらラベンダーが見てみたいわ。」
「JALはパリまでだからそのあとニースまで国内線、そしてレンタカーを借りて回ることにしようか?」
「帰りがけのパリでレストランに行きたいわ。」
「どうせなら三ツ星に行って見ようか? 以前トゥールダルジャンに行ったけどその時は二つ星に落ちていたしね。」
なんかファーストに乗るということで滑稽なまでに気が大きくなる二人である。
慎介にしてみれば相変わらず働きながら母親と妻を続けている香子の気分転換になればという事なのだ。
旅行が好きで、海外ではフランス、そして普通の観光、買い物、グルメを設定すれば満足してくれる。
ここで一番苦労するのが旅行日程の調整である。
二人とも働いているので勝手に休みはとれない。
夏休みの時期の前倒しという事で7月上旬の一週間、土、あるいは日出発で当日パリからニースまで移動、ニース泊で翌日からプロバンス周遊で4泊、その後パリに移動して2泊後土曜日の飛行機で日本には日曜日着。
これがいっぱいいっぱいのスケジュールだ。
まずそれぞれの職場で休みを了承してもらう。
これはお互いにあまり休みを取っていなかったせいもあり、OKとなった。
もちろん慎介は上司の柳岡にさんざん嫌味を言われたのはいうまでもないが、そんなことを気にしていたら永遠に休みなんか取れないのだ。
次は飛行機、何度かJALに電話し結局行きは羽田から関空経由パリ、帰りがパリから成田がうまく取れた。
タダでファーストには乗せにくいのか何度かビジネスならすぐ取れますよと言われたが、粘ってファーストにこだわった。
レストランの予約は苦労した。
この時期バカンスのシーズンでパリのましなレストランは2か月くらい休みとなってしまうのだ。
結局数少なく空いているレストランの中から電話をかけまくった挙句、高級ホテル、ジョルジュサンク内のレストラン、ルサンクのテーブルが予約できた。日本からの予約だと告げるとパリに着いたら予約を確認するよう言われる。
「初めて三ツ星レストランの予約がとれたよ、よかったね。 そういえば君がフランス語で予約すればよかったんじゃない?」
「いいかげんにしてよ、またあのパリのおじさんを思い出すわ、そういうのはあなたの役割なのよ。」
二人で初めてパリに行った時、道を尋ねた紳士にフランス語で聞いたのに「ドゥー ユー スピーク イングリッシュ」と返されたことがトラウマになっているようだ。
「ごめん、ごめん、ところでパリのホテルはどうしょうか?」
「そうね、暁子がロンドンに行ったときあなたと一緒にリッツに泊まったのよね、私もパリのリッツに泊まってみたいわ。」
「いいよ、じゃあ聞いてみるね。」
その晩電話してみるとうまいこと一泊10万円程度の部屋が二泊とれた。朝ごはんもついているという事だった。
飛行機代がほとんどかからないので強気なのだ。
このころはちょうどインターネットで予約できるちょっと前だったので従来のように電話で予約することがメインだった。
それができない人は旅行代理店に頼むことになるのだが、大手のJTBなどはすでに個人客は相手にしなくなりはじめていたのだ。
いちおう手配はすべて済みあとは出発を待つだけだ。
働いていると当然だが急な予定変更はありうることで、実際出発するまで安心できない。
この時は二人とも順調に何事もなく出発できた。
羽田から関空に向かい、ドゴール空港行きのJALに乗り込む。
ファーストクラスはどこかの金持ちらしいおじさんと慎介、香子の3人だけであった。
極めて快適であったが、客が少なすぎサービスが過剰なのにはまいった。
アテンダントが頻繁に来て、
「永井様、お飲み物の御替わりはいかがですか?」
などと聞いてくるのだ。
「すみません、もう自分でやりますから結構です。」
ファーストのキャビンにはあらゆる酒が置いてあり、自分で勝手にやれるのだ。
もちろんおつまみも置いてある。
「あなた、今回はあまり飲んだらだめよ、ニースに着いた後レンタカー借りるんでしょ。」
「そうだったね、ついいつものつもりで忘れていたよ。だけどさすがにファーストは快適だね。」
「私は初めてだけど、あなたは経験あるのよね?」
「初めての出張でニューヨークへ行くとき、それとロンドンから成田に帰るとき今まで二度かな。」
食事は前菜からワゴンに乗せ席の脇で取り分けてくれ、まさに古き良き時代のサービスである。
プロバンスは順調に回ったが、肝心のラベンダーは少し時期が遅く有名なセナンク修道院の畑などでは刈り取られた後で、それより高地のソーという地区へ足を延ばさねば見ることができなかった。
「やっぱり車で回ると便利ね、ここまで来なかったらラベンダー見られなかったわ。」
「まあ、君のためだったらこれくらいお安い御用だよ。」
実際まだ咲き残っているラベンダーを探し求め、かつその場所を訪ねるのはそう簡単ではなかったのだ。
そしてパリに移動し三ツ星レストラン。
当然この日のために二人ともドレスアップする準備はしてきた。
特に香子は頭の先から足先まで揃えるので今回はスーツケースが2個必要だったのだ。
近いけど恰好が恰好だけに地下鉄は避けタクシーで行く。
三ツ星は初めてだが、高級レストランは二つ星のトゥールダルジャンに慎介は2度、香子は1度経験があるのでそう戸惑うことはなかった。
高級ホテルジョルジュサンク内のレストラン、ルサンク、窓際の庭に面した席に案内され食前酒を聞かれたが二人ともロゼのシャンパンにした。
ロゼは定番のローランペリエだ。
それで乾杯するころにはお金持ちそうな紳士淑女で席は埋まっていく。
まあここはそういう人たちの社交場なのであろう。
東洋人は慎介達のみのようだ。
メニューを見ながら
「今日はやっぱり前菜、メインとデザートでいくよね、メインは魚かな。それぞれ別々に頼んで味見しようね。」
「頼み方はいいけど味見はいやよ、そんなことする人はいないでしょ。」
そういえば三ツ星には英語やましてや日本語のメニューはない。
どうしても必要ならテーブルについたサーブの係が説明してくれるが経験上それが役に立ったためしはない。余計混乱するだけである。
いままでの経験と、香子のフランス語学力をたよりにメニューを解読してゆくのだがこれがまたなかなか楽しいのだ。魚の種類などの素材はかろうじてわかるが、どんな料理法、添え物は何などそこまでわかることはかなりの経験が必要になってくる。
「そうかもしれないけどせっかくの機会だからさ、あとワインは白一本でいくよね、それとも赤がいい?」
「メインは魚にするけどワインはできたら赤が飲みたいわ。」
「わかった、料理に合う赤があるかソムリエに聞いてみよう。」
それぞれ、前菜はキャビアと手長エビ、メインはオマールとスズキにした。
料理のオーダーがすむとワインリストが渡された。電話帳の厚さだ。
それぞれ産地ごと、ビンテージごとにリストされており値段もピンキリで高いものばかりというものでもない。
しかしロマネコンティは約100万円ほどか。
しばらくするとソムリエならぬソムリェールがやってきた。
ここのメインソムリエは女性なのだ。
「ワインはいかがしますか?」
「今日は赤を一本でいきたいのですがなにかお勧めはありますか?」
正直三ツ星のソムリエが数あるワインから何をすすめるかは興味があった。
「お客様は前菜、メインと魚系ですので赤を好まれるのでしたらこのあたりはいかがですか?」
さすがに我々が何をオーダーしたか確認したうえでやってきていた。
すすめられたのはブルゴーニュ、ジュベリーシャンベルタンの1997年、値段が1万円程度でメインディッシュ1品に相当するものだ。
興味あることにこの後数々の三ツ星を訪れるが、そのソムリエのすすめるワインの値段は大体どこも同じであった。
「シャンベルタンがおすすめだそうだけど、いいよね?」
「ええ、ブルゴーニュは好きよ。それでいいわ。」
「じゃこれでお願いします。」
「かしこまりました、お水はいかがいたしますか?」
「ガス入りにするよね?」
「だけどあんまりジリジリは嫌よ。」
香子はドイツ以来、すっかりヨーロッパのガス入りミネラルウオーターがお気に入りなのだ。
「バドアーお願いします。」
ペリエより微炭酸の水を頼む。
前菜の前のおつまみのような小さな一皿で食前酒を楽しんでいると、ワインが運ばれてきた。
「ジュベリーシャンベルタン、1997年でございます。」
目の前で抜栓し自分用にもってきた小さなグラスに少し注ぎ味を確かめる。
「お試しになられますか?」
「僕がやります。」
このへんは一つの儀式である。
慎介は特にワイン通というわけではないが、ヨーロッパの会社とのビジネスランチ、ディナーの経験からいろいろなワインを味わったり彼らから知識を仕入れていた。
隠れた一つのノウハウであるがそのような席上仕事の話をすることはまずなく、日本人は話題に困ることが多いがワインはヨーロッパのどこの国でも優れた話題の一つである。
「大変結構です。」
「ありがとうございます、デカンタージュされたほうがよろしいかと思いますがいかがされますか?」
「そうしてください。」
あっさりして、ちょっと渋めのブルゴーニュの赤はなかなか前菜、メインの味にマッチしていた。
「どお、三ツ星の料理は?」
「うーん、確かにおいしいけど驚くほどというわけではないわね。」
「さっきメニュー見てて気が付いた?日本語でわさびとかしいたけとかがそのままメニューの中に書いてあったよ。」
「ああ、それなんかで見たけど伝統的なフランス料理スタイルからだんだん日本料理を取り入れ始めているらしいわね。」
「とくに見た目のきれいさを懐石料理から、また味では出汁なんかどんどん取り入れられているようだね。フランス人のシェフも日本に修行に来たりしているらしいよ。まあ、料理は素材が重要だし最高のものを揃えればあまりゴテゴテ手を加えなくともというところかね。なんか矛盾している気もするけど。」
「だけど三ツ星を評価される理由はあるわけでしょ?」
「それ、なかなかいい指摘だね、僕の経験ではひとつは料理もさることながらフロアで働いている従業員の客あしらい、つまり接客サービスの違いだと思うよ。
まあ一回の経験で三ツ星がわかるはずもないんでこれから機会をつくって違うレストランも行って見ようよ。」
デザートの後コーヒーとプチスイートを楽しんでいるとフロアマネージャーがやってきた。
「ナガイ様、本日は私どもの料理お楽しみいただけたでしょうか?」
「大変堪能しました。」
「日本からおいでとお伺いしておりますがお泊りは私共のホテルではありませんでしたね、お泊りのホテルまでお車を準備させていただきますがいかがですか?」
「リッツホテルまでお願いします。」
「おお、わざわざリッツからおいでいただきありがとうございます。」
「お車を待たれる間キッチンとセラーにご案内したいと思いますがいかがですか?」
「それは是非お願いします、その前にお勘定していただけますか?」
「かしこまりました。」
支払いはおよそ4000フラン、約10万円であった。
この額が高いかどうかはいろいろな意見があると思うが、慎介と香子の場合未知の世界の経験料としてまあそんなもんかと受け止めているのだ。
ところでこのルサンクはこの後すぐ星が三つから二つに落ちふたたび三つに戻るのは2016年になるのだが、このとき香子が感じた料理の平凡さは案外当たっていたのかもしれない。
ヨーロッパ計画はベルギーのアントワープに候補地を決めた後は比較的順調に進み、工場建設の前段つまり現地会社の設立と各種許認可の申請作業になっていた。そしてそののちは現地従業員の採用ということになっていく。
それぞれの工程ではアントワープのあるベルギーの北半分を統括するフランダース州政府の投資誘致局が積極的に支援してくれておりこれが順調に進む大きな要因ではあった。
また現地法人設立にあたり明治化学初めて単独100%でできる理由でもあった。いままでは不慣れな外国では日系商社や現地資本を入れざるを得なかったのである。
慎介の役割は現地人の工場長を採用し会社設立後起工式を行うところまで責任者として全うすることである。実際の工場建設は日本の高砂工場から責任者が来て行うことになっている。
工場長の採用に当たって問題が発生した。
実は工場長には工場立地のオーナーであるENSPEC社から適任者を出してもらうことでほぼ話がまとまっていたのだ。一応人材会社を起用し採用活動を行い応募者を絞り込み面接を行ないその適任者を選定する手はずになっていた。
その日の朝、慎介はENSPEC社の責任者ナウラーツに呼び止められた。
「シンスケ、ちょっと話があるのだがいいか?」
「やあ、ポールどうしたの?」
「実は工場長候補だがENSPEC社内で昇格することが決まりそちらに出せなくなった。迷惑をかけて申し訳ない。」
「ええっ、それは困ったな、だけどそういう事情ならどうしようもないね。代わりの人もいないんだよね。」
「うちにもなかなか適任がいないのはよく知っているだろう。」
「うーん、じゃあ今日の面接は本気でやらねばならなくなったな。」
一応その候補者を選ぶことが決まっていた形だけの面接が本気で適任者を選定するはめになってしまったのだ。
すぐ本社の柳岡に連絡し状況を報告し、とりあえず面接をやってみて適任者がいれば採用の方向、いなければ二次の面接を行うこととすることを打ち合わせた。
面接には慎介のほか新社長候補の上田、本社生産担当常務の大場が参加した。
面接の結果大手化学会社に勤務していたベルギーの東大といわれるルーバン大学出のゴレマンズ氏49歳を選び採用条件等の詳細面接にはいることとした。
詳細面接は慎介一人が担当した。
「なんで前の会社をやめて明治化学に来る気になったの?」
「工場勤務で今課長職だけどこのままではせいぜい部長になれればいいほうだと思う。自分は今までの経験を活かし経営にかかわる仕事がしてみたい。それに明治化学の保水性樹脂は発展性がありその仕事にもかかわっていきたいのです。」
なかなかそつのない答えで頭の良さを感じる。
「待遇面については人材会社のほうから聞いていると思うけどなにかありませんか?」
「年棒面などには問題ありません、しかしこちらの会社では一般的に認められている小口の支出は見てもらえるんですよね?」
「すみません、まだこちらのルールや習慣に慣れていないので弁護士等のアドバイザーに相談し返事します。しかし一般的にベルギーで認められているものなら問題ありませんよ。」
「そうですか、よろしくお願いします。あと車はどうなりますか?」
「もちろん会社から支給します。工場長クラスならそれなりの車を用意する予定です。ほかに質問はありますか?」
「今回工場長として採用されると思うんですが、会社でそれ以上昇進する可能性はあるんですか?」
この質問はあらかじめ日本で議論したとき想定されたものではあったのだ。
つまり当初は現地法人の社長は本社から送り込む日本人であるがそのうちに現地人を考えるかどうかであった。そしてまだ結論はでていなかった。
「正直言っていまは答えられません。初めは日本人の社長を考えていますがその後状況によってはベルギー人の社長を考えるかわかりません。少なくとも他の日本の会社のように副社長としては可能性があると思います。」
「わかりました、採用されたら明治化学のため最大限の努力をすることを約束します。」
人材会社の人物評価と面接の印象で慎介はこのゴレマンズ氏が気に入った。
むしろENSPEC社推薦の候補より良いくらいだとおもった。
もう少し人間性を知りたいところだ。
「最終決定は本社と相談して2日後お知らせします、ところで今晩時間ありますか? 軽く日本料理などおさそいしたいと思っているんですが。」
「特に問題ありませんがちょっと家内に相談していいですか? 電話させてください。」
「もちろん結構ですよ、どうぞ。」
日本人と違い欧米人は定時以降は家庭を優先する人が多いのだ。これは特に都会ではない田舎に住む人には顕著な傾向である。
本来なら無理筋の誘いだがいわゆる日本の会社員の振る舞いも理解していってもらわねばならない。
「今晩家内と約束していましたが明日に伸ばしました、どうすればいいですか?」
「日本料理店の三辰知ってますか? 大学のそばですが。そこで7時に予約しておきます。」
もったいぶって決定は2日後と言っておいたが、ほかに候補はいないし面接した大場が気に入っていたのでもう決定と言って良かった。
約束の5分前にちゃんと現れた。なかなか好感が持てる。
席につきまずビールから始める。聞けば日本料理は初めてのようだ。
「なぜいままで日本料理を食べる機会が無かったのですか?」
「興味はあったけど値段が高いし、どう注文していいか要領を得なかったので敬遠していました。」
「うちの会社に来てくれるようになったら頻繁にその機会はあるでしょうね。今日は遠慮なく楽しんでください。」
「永井さん、あなたはベルギーの会社がスタートしたらどんな役割なのですか?」
「私は本社の経営企画にいますので子会社の人事、経営などをサポートする役割になります。会社の社長は今日面接に出ていた上田がなる予定です。」
「上田さんは今日ほとんどしゃべっていませんが言葉のほうは大丈夫なのですか?」
「大丈夫だと思いますよ、安心してください。当面私がサポートしていきますから。ところで生魚は大丈夫ですよね、寿司を食べませんか?」
「寿司、いいですね、初めてですが試したいと思います。」
ゴレマンズ氏はワインになかなか詳しく、フランスワインについて話しているうちに寿司が運ばれてきた。
そのうちのひとつタコをみてぎょっとして叫んだ。
「ディス イズ スティル ムービング !」
「いやいや、ゴレマンズさん、動いていませんよ。日本では時々そういうのはありますがさすがにここには無いですよ。」
その後日本酒を中心にかなり飲みボロボロになる二人であった。
彼は優秀でまじめな人間であることがよくわかった。
そして晴れて工場長として採用されるのである。
この計画遂行中もうひとつ苦労したのが工場の起工式であった。
ここまでこぎ着けたのは結構な事なのではあるがこのセレモニーは失敗するわけにはいかない。
いろいろな意味で裏方としては苦労があるのだ。
セレモニー自体は現地の専門会社を起用し料理はじめ司会まで外部委託だが、慎介の重要な役割として立食パーティ中の社長の傍らについての通訳、そしてそのあとの記者会見があった。
パーティ中の通訳については会話は大した内容ではないので問題はないが重要なのは相手がどこの誰か認識することである。フランダース州政府首相、駐ベルギー日本大使、重要顧客の欧州統括社長等々招待客は約100名、そしてそのほとんどが初対面となる。
もちろん名札は作ったが、イベント会社の手違いで名前はかろうじて認識できるが所属とタイトルが極めて小さく見難いものになってしまっていた。
当然まず社長にはどこそこのなになにさんですと紹介せねばならない。
そこで慎介は招待客の名前と所属、タイトルを徹底的に暗記することにした。
もちろん最悪の場合のため名簿は持っているがそんなもの見ている暇はないであろう。
また招待客が会場に入場する頃合いを見計らい社長に入口に立ってもらい入場する人々と順々に挨拶してもらうこととした。
そうすればまず確実に相手が名乗ってくれるし一応あいさつも済むというものだ。
この日本式の客の迎え方はなかなか好評でうまくいった。
また実質半分くらいの客はこれで挨拶が済んでしまいその後あらためてあいさつに来ることはなかった。
社長のスピーチは内容をいろいろ検討したがちょうどこのころ発表されたベルギー王室と天皇家の両皇太子妃の懐妊に祝意を述べこの地で生産される保水性樹脂を使った紙おむつが産まれてくるロイヤルベビーに貢献できればと結んだ。
もちろん内容はフランダース州政府の担当者にチェックしてもらっていた。
これも聴衆からの受けはなかなか良かった。
そしてそのあとの記者会見、
本来なら社長、担当重役の柳岡が対応すべきなのだが慎介が任された。やはり言葉の壁があり嫌なのだ。
通訳をつければいい話なのだが慎介がその役に指名されるのもさらにうっとおしいのでむしろ任されたほうが気楽である。
慎介と新社長の上田が対応した。
相手は地元紙の記者約20人、日本の業界紙記者3人である。
業界紙記者は提灯記事を書いてもらうため実質明治化学が招待していた。
慎介が簡単に計画概要をプレゼンしたあと質疑応答に移った。
プレゼンではどうせ質疑応答があるので質問してほしいところはわざとぼやかしておいた。
「質問があればお受けします。」
「アントワープディリーです、明治化学はヨーロッパ進出は初めてとのことですがなぜアントワープを立地として選んだのですか?」
きたきた、これは一番に質問してほしいところだったんだ。
「アントワープは海、陸路の物流の中心で原料、製品の運搬がスムーズにできること、化学産業が発達していて熟練の従業員を集めやすいことなどがありますが何よりフランダース州政府の投資優遇策が魅力的であったからです。
またもう一つの大きな理由はお隣に日本の化学会社サンレさんが進出されていたことでしょうか。
サンレさんとは日本でもいろいろお世話になっており、今回の計画でも先輩として適切なアドバイスをいただいております。」
「投資額が10億ベルギーフラン(日本円で約40億円)ということですが原料のPOの製造設備までふくめたものではないんですか?」
これはあまりしてほしくない質問だった、明治化学のプラントは他社に比べひどく高いのだ。
「いいえ、保水性樹脂のみの製造プラントです。今回の製造ラインは1系列ですが数年後もう1ライン増設します、建屋はじめすべてが2系列の設計になっていますのでこの投資額になりました。」
「採用する現地従業員の数はどうなりますか?」
これもあまりうれしい質問ではない。投資額に比べ装置産業の化学品製造は人が少なくて済むのだ。その点現地の期待に十分応えられない。
「当初はおよそ50名、増設完成時点では100名ほどを考えています。」
やはり質問者は若干落胆の様子だ。
日本人記者が質問に立った。
「化学日報です。将来的に川上原料のPOをここで生産する計画はあるのですか? 日本では明治化学さんは自社技術でPOを生産されていますが。」
これは事業の将来性を問ういい質問である。しかし会社としては何も決めていなかった。
「今回の建設予定の敷地内にENSPEC社さんがPOプラントを操業中です。かつて弊社の触媒を導入していただいた経緯もございます。キャパ的な問題もありますがまずその増産時に何らかの形で協力させてもらうことが最初の選択肢かと考えています。」
そんなやり取りがいくつか続き記者会見は無事終了した。
別室で社長と一緒にやり取りを聞いていた柳岡が、
「まあ、うまくこなしたやないの、お前はなかなか海外では役に立つな。」
日本からの招待客の一部とこれからゴルフの會川社長を残し日本に帰国する柳岡をブリュッセル駅まで送っていく。
パリから関空行のJALに乗るのだが、このころからもうこの短い距離は飛行機の運航はなく新しく導入された高速列車タリスを利用してパリまで行くのだ。
「お疲れ様でした、お気をつけてお帰りください。」
「おう、社長のお供頼むで、よろしく。」
慎介には起工式を無難にこなしたあとさらに大役が押し付けられていた。
社長の會川がせっかくのヨーロッパなので2,3日オランダ、ベルギーをのんびり汽車で回ってみたいと言い出したのだ。
問題は誰がお供に付くかで普通秘書あるいは海外通の役員などだろうが、今回は極めて不幸なことにすぐに慎介の名前が上がり會川もそれでOKしたそうである。
いくら工場の時面識があったとしても年も20歳ほど離れているので二人で旅行するのは正直言って苦痛以外なにものでもない。食事の時などどんな話題で話せばいいのか見当もつかない。
柳岡をブリュッセル南駅でおくったあとゴルフ場に會川を迎えに行く。
この後3日間をどうすごしたかあまり記憶にないが一人になれる夜が来ると朝を迎える日本にいる香子に電話してひとしきりの安らぎを得る慎介であった。
さてヨーロッパ計画だが経営企画の守備範囲である会社設立と建設許認可の取得まで単独でなしとげた慎介、工場主体の建設チームに無事バトンを渡すことができた。
個人的には満足感に浸っていたが、これにより恩恵を得た人間が二人いた。柳岡と山下である。
次期社長は現社長の會川の手によるが、柳岡が指名されたようだ。會川が個人的に気に入っていた慎介を経営企画部長としてうまく使いこなすことで得点を獲得したことは間違いないであろう。
慎介にとって不幸なことに柳岡の対抗馬はあの大場であった。
大場も工場の時慎介と面識以上の関係があり、それとなく今回の社長レースでも味方に付くよう誘われたがとくには加担しなかったのだ。
おかげで大場には裏切り者呼ばわりされる始末であった。
大場は根岸の後の高砂の製造所長のころ、将来自分の退職後一緒にゴルフをやりそうなメンバーを優先的に出世させるようなことをしており、派閥をつくりたがる傾向にはあったのだ。
山下は苦手にしていた海外案件を慎介を呼び寄せることでうまく乗り切り、海外に出ていた慎介を国内でサポートする立場で計画に関与することができた。
うまいこと利用された慎介だが、自分自身は粛々と自分に与えられた仕事を自分のできる範囲でこなしていくだけと考えていたのだ。
サラリーマン的には彼らの姿勢は至極当然で責められるものではないと思うが、この時の御人好しさが将来の大きなマイナスになろうとは想像もできなかったのである。
一介の技術屋あがりの慎介がなにも足場のないヨーロッパにすんなり会社を作ってしまったのだ。
しかも現地資本も日系商社の協力もなしにである。
これは特に柳岡と池上にとって脅威として受け取られた。
柳岡にとっては社長という目的を達成する上でその方向にはかなったが、要するにそのような才能のある慎介は嫌いなのだ。特に海外で自由に振る舞える慎介は憎らしかった。
池上にとっても慎介は忌々しきライバルとして認識するに十分な仕事ぶりだったのだ。
出る杭は打たれる。
過ぎたるは及ばざるがごとし。
ここから慎介にとって経営企画はいばらの道になっていくのであった。
そもそも日本の化学会社で10番までにも入れない明治化学は学卒の新入社員で一応理系の学生は一番で志望してくるものがいる。自社技術を標榜しており外から見ると魅力的に見えるからだ。
しかし文系の学生では明治化学を一番に志望する学生はいない。一次、二次志望に外れた者がようやく来る程度なのだ。
そのため明治化学の学卒は1.5流の技術屋と3流の事務屋と言われていた。
その中で部長、役員、社長と出世レースが始まっていくのである。
入社後の事務屋はその意識があるため技術屋の存在をすごく気にすることになる。
むしろ本能的に機会があれば技術屋を貶めようと画策する者もあらわれるありさまであった。
事務屋どうしは仲がいいわけではないのだが、こと対技術屋ではすぐまとまるのは本質的にそのような危機感を共通して持っているためのようだ。
一方技術屋はそんな危機感はなく、ましな者は群れることもなく一匹狼として振る舞うため各個撃破されやすいのであった。
過半数を占める役に立たない技術屋は仲間同士群れたがり事務屋に簡単に料理されることになる。
驚くことに、明治化学のような新しい技術を開発しそれをお金に変えていくいわゆる技術立社の会社であまり技術屋さんが大事にされていないのである。
大事な技術を生み出す人がまっとうな処遇をされない、これは大変な問題である。
もっともこれは明治化学に限ったことではなく日本全体の問題でもあるようにも思える。
日本の大手物作りの会社が世界の中で地盤沈下していく様子を見ていると嘆かわしい限りでもある。
資源のない日本の生きる道は独創的な技術を開発しそれを利用して物を作る。こんな簡単なことがわからない会社の経営者、政治家に支配される国民は不幸としか言いようがない。
慎介のゴルフであるが、芦ノ湖カントリーのメンバーになったあとゴルフ友達にも恵まれ順調に回数をこなしていき、始めて一年で100を切るまでになった。
これは慎介の運動の素質もさることながら香子と二人で働いており経済的な余裕さもかなり貢献したのではないかと思われる。
ある日いつものように川を歩きながら、
「そろそろ君もゴルフ始めない?」
「ええっ、まだ早いわよ。それになんとなくやりたくないんだけど。」
「そんなこと言わないで、僕の例でいうと始めてすぐ体のいろいろな健康的数値が劇的に改善され人間ドックのお医者さんにびっくりされたんだよ。」
「確かに今運動していないからその面ではいいかもしれないわね。」
「本当は最初ゴルフスクールなどで教えてもらったほうがいいらしいけどどうする?」
「それは嫌、あなたが教えてくれればいいわ。」
「じゃあ早速うちの近くの練習場と河川敷のショートコースでしばらく練習しようか?」
ということで香子もゴルフを始めることになった。
まずゴルフクラブだがこれは最初はどんなものでもよく適当な初心者セットを購入した。
どうせすぐましなものに買い替えることになるのだ。
靴、手袋等はちゃんとしたものを揃えた。
そして打つ練習、慎介自身そう熟練したゴルファーではないので最初教え方に戸惑いがあったがここで竹中に指摘されたポイントが生きることとなる。
初心者に「ビシッとふれ。」などの抽象的な教え方は全く無意味だ。
肝心なのはなぜ今の打ち方がダメだったかを指摘せねばならない。
香子がうまく打てない時を観察していると竹中の指摘のどれかに必ず当てはまっていることがわかった。
当然これらは慎介がうまく打てないときにもあてはまるのだが。
しかし夫婦なのでつい言いすぎたりしてしばしば喧嘩になった。
「なんで言ったとおりに打てないの?」
「そんなこと言われたってうまく打てないんだからしょうがないでしょ。自分だっていつもうまくは打てないくせに。」
そうこうしながら近くのショートコースに行く日がやってきた。
その日はお互い勤めを半日休みお昼に帰ってきた。
昼ごはんもそこそこにバッグを車に積み込みゴルフ場に向かう。東急が経営する河川敷の9ホールのショートコースだ。多摩川の丸子橋と第三京浜の橋の間にある。
わざわざ平日にしたのはさすがに土日は混んでいて初心者には厳しそうだからだった。
さすがに空いており二人で回れるというが土日はほかの人と組まされて4人で回るそうだ。
駐車場、クラブハウスは東京側だがコース自身はゴルフ場の渡し船で川を渡り川崎側にある。
パー3が9ホール、距離は80~170ヤードまであるようだ。女性のみウッド使用可とのこと。
いよいよ慎介達の番がやってきた。
「なんか緊張してきたわ、うまく打てるかしら?」
「大丈夫だよ、短く持って水平ショットで当てていこう。いままでスタートしていく人を見ているとほとんど君と変わらないレベルの人ばかりだから気楽にいこうね。」
実際来ている人のレベルは初心者と年寄りである。
1番は100ヤード、
「ハーフショットでしっかり振ろう。」
空振りはしなかったが振り遅れ右のネットのほうに飛んでいき、残り50ヤード。
「やっぱりうまく打てないわ。」
「いいよ、前に飛べばOKだよ。ナイスショット。」
ゴルフを始めるにあたっての難しさが正にここにあるのだ。
どうしてもある程度上達するまで人前で下手さを曝け出さねばならない。
特にまだ若ければその抵抗が少ないであろうがある程度年がいっていくとなかなかそうはいかないのである。
ここは香子がめげないよう気分を盛り立てていかねばならない。
ネット際のボールを打ちやすいところに出し、
「この辺からおよそ40ヤード位だから9番くらいで転がしがいいんじゃないの。球をよく見て当てていこうね。」
次の組が後ろから見ていることを意識しスィングが早くなりトップしグリーンオーバー、奥の草むらに入っていく。
もちろんそれを拾い出し少し砲台気味のグリーンのカラーまで持ってきて、
「ここからパターでいこうか?」
「そんなに持ってきていいの? ちゃんとやらないとダメじゃない?」
「別にプロになろうとしてるわけじゃないから人の迷惑にならなければなんでもいいんだよ、とにかく楽しんでやることが肝心だよ。」
「ここからだとちょっと下りのスライス。」
香子の構えを見て調整する。
「もうちょっと右、あっいきすぎ、少し戻して。」
「OKそれで打ってみようか。」
ボールは惜しくもピンをかすめて30センチオーバー。
「惜しかったね、入ったと思ったよ、ナイスパット。」
「ほんと、もう少しだったわ。」
香子もなんとなく満足そうである、やれやれ。
その後うまく打てたりチョロしたりであるが、グリーン上では何回かワンパットがありあっという間に9ホールが終わった。
「もう終わりなの、早いわね。」
「まあなかなか良かったんじゃないの、ショットはもう少し練習する必要があるけどグリーン上は完璧だったね。」
「パットはあなたが言うままに打ってただけだけど、入るとうれしいわ、なかなか面白かったわ。」
「まあ何回かここを回ったあと芦ノ湖に行ってみようか。」
「まだ早いんじゃないの、土日は混んでいるから嫌よ。」
「そうだね、やっぱり平日にいかないとゆっくりできないよね。」
慎介が箱根の芦ノ湖カントリーの平日メンバーになった時、中田が推薦状を書いてくれた。
普通ゴルフ場への入会希望者には面接がある。そのゴルフ場の会員にふさわしいか見るのであり、厳しいところでは一緒にプレーした後入浴も共にするところがあると聞く。人間性だけでなく最後には刺青の有無まで見るのである。
「あのほかならぬ中田様のご推薦なら面接は省かせていただきます。」
と絶大な威力を発揮し面接は免除されたのだ。
このころ、1998年当時会員権、書き換え料、手数料などでおよそ80万円ほどであったが
先にメンバーになっていた尾山が会社にいたので相談に行った。かれは大磯に住んでいて営業の部長だった。
「今度芦ノ湖のメンバー考えていて総額で80万らしいんですがどうですかね?」
それを聞いた尾山は急に不機嫌になり、
「永井さん、私がいくら払ったか知っていますか?300万円ですよ。それを考えたら躊躇する理由はないんじゃないんですか。」
ちょうどバブルの時代に買ったようだ。
それを聞きすぐ手続きを始めた慎介であった。
そして晴れてメンバーになり初めてプレーすることになった時、柳岡が
「おい、永井よメンバーになり初めてプレーする時手ぶらで行ったらあかんで、ちゃんと菓子折りを持っていくのがあたりまえなんよ。」
本当かなと思いつつ、初めての日、京都満月堂の阿闍梨餅の大きな菓子折りを二つ持っていき、フロントとキャディマスター室に挨拶に行ったのだ。
「新しくメンバーに加えていただいた永井と申します、今後ともよろしくお願いいたします。」
これも効果抜群で次回からすぐフロントのお姉さんやキャディのおばさんから「永井さん、永井さん。」と名前と顔を覚えられたのであった。
たまには柳岡の助言も役に立つ時があるのだ。
香子のコースデビューはもう少し日を待たねばならなかった。
比較的平穏な日々を送っていたある明け方、一本の電話で静寂は破られた。
香子の母親からのようだ。
「お父さんの様子が変だからすぐ来てって。」
と香子。
母親は去年脳こうそくで倒れ体が不自由になっており頭も若干影響を受けた状態だ。
どうも要領を得なく香子も涙声だ。
「香子ちゃん、大丈夫だよ、落ち着こ。とにかくすぐ行って見よう。お姉さんたちへ連絡は?」
「今してみるわ。」
香子は三人姉妹の真ん中で姉と妹がおり、姉は八王子、妹は実家のそばに住んでいるのだ。
続報は車で実家に向かう途中その妹から入った。
「お父さん亡くなったって・・・」
「君には子供たちや僕が一緒だよ、元気出して。」
涙の止まらない香子を元気づけるが実家に着き横たえられた義父の姿を見たとき、今までの記憶が蘇り悲しみが一気に湧き上がってきて思わず落涙する慎介。
思えば香子と結婚してから陰になり日向になりなにかと支援してくれたお義父さん。
若いころから香子と慎介が二人でいろいろ遊びに行くとき、そして病気で学校を休む時など文句も言わず主に娘たちの面倒を見てくれたのはお義父さんだったのだ。
和美が産まれるとき香子が勤めを続けるため2年ほど実家に転がり込み暁子と産まれた和美の面倒を見てもらったことがあった。
平日慎介は帰りが遅くほとんど義父、義母とは顔を合わせなかったが、週末お義父さんの晩酌に付き合った。もともと口数が多いほうではない義父だったが、まだこのころ酒が飲めないですぐ横になって寝てしまう慎介をやさしく受け入れてくれていた。
この時の酒の経験がのちの慎介の会社人生でおおいに役立ったのだ。
またこうして一緒に酒を飲んでいるうち、言葉に出して言われたわけではなかったがお義父さんが娘の香子、孫の暁子を気にかけていることはひしひしと感じられた。
ここ数年、実家を訪れるたび帰りに見送ってくれる姿がだんだん衰えていることが気にはなっていた。
悔いが残る。
お義父さんが生きているうちに自分の気持ちを伝えるべきだったのだ。
言葉では伝えられなかったが、分かってもらえていただろうか?
その最後のチャンスが意外にも訪れる。
お清めの席で献杯の挨拶がまわってきた。
「次女香子の夫、永井慎介です。
本日はお忙しいところ故渋谷八郎の葬儀にご参列賜りましてありがとうございます。
個人も皆様と会うことができてさぞ喜んでいることと存じます。
私共夫婦は以前次女和美が産まれるとき2年ほど実家に住まわせていただきお義父さんお義母さんにはたいへんお世話になりました。その時お義父さんに鍛えられた酒はいま会社人生で非常に役に立っております。
ありがとうございます、お義父さん、そしていままで言えなかった言葉を最後にお伝えします。
香子と暁子、和美の幸せは私が守ります、安心してください。
それでは皆様ご唱和ください。献杯。」
香子がハンカチで目頭を押さえるしぐさが目に入り、自分もまた涙ぐむ慎介であった。
さてその後の慎介の仕事であるが、ちょうど会社の経営計画を策定する時期にあたりこの作業に関わることになる。
しかしこの作業では特に個人の能力や独自性が発揮されることはなく、社長になった柳岡の指揮のもと従来のやり方で作業をこなしていくことが求められたのであった。
こういう仕事では同期の山下が担当する部分が多く、慎介は策定された計画を各事業所で従業員に発表する柳岡に部長としてお供について回ることぐらいが目立った役割であった。
そしてこの頃ひとつやっかいな問題が起きる。
それは世界的な流行になってきた会社の業務統合システムを導入するか否かの問題である。ERPシステムなどと呼ばれ大企業から順次導入が始まっていたのだ。
システムを導入するメリットは、会社の動きがモノの流れからお金の流れまでリアルタイムで掴めるというものであり経営層には魅力的なものであった。
一方そのためにはどこの会社にどの製品をどれくらいいくらで売ったか、そしてその原料はいついくらで買ったのか、そしてどの工場でどんな原価で作ったのかからはては細かい伝票の類、個人の旅費、交通費までシステムに打ち込むという作業が必要でこれを維持するための一般社員の負担は莫大になる。また導入時あるいは年次のシステム維持費も数十億円の桁で必要ということも言われていた。
このシステムの導入の可否が社内で議論されたが慎介は反対派で理由は明治化学位の規模ではシステム維持の莫大な労力、導入の費用と得られるメリットがバランスしないこと、一方賛成派は世界的企業が順次導入しておりこのシステムが世界標準化しつつあることから乗り遅れないようにしたいというものである。
しかし反対派は圧倒的少数派であった。
社長の柳岡も当初は賛成ではなかったがだんだん気が変わってきたようだ。
極めて明治化学らしい進め方だが、会社としては意思決定を先送りし導入検討チームが立ち上がり作業に入った。やることは導入プロジェクトチームの人選と導入のメリット、デメリットの絞り込みである。
この検討チームには生産担当役員の岡田と経営企画から池上が入り慎介、山下は外されることとなる。
しかしこの流れは表向き決定は先送りされているが導入に向け進みだすことに等しいと社内では思われた。
慎介はこの時あまり意識してはいなかったがすでに経営企画内で誰が残っていくのかそして役員の椅子を争う権力闘争が始まっていたのである。
まずヨーロッパ計画では一歩退いたが経営計画で盛り返してきた山下、そして経営企画部長を慎介に譲った池上がいつまでもおとなしくしている訳は無いのである。機会をとらえて目障りな慎介を追い落とそうとするのはある意味自然な流れであった。
なんとなく居心地の悪い思いを感じていた慎介であったが果たして二週間ぐらいした後、池上が慎介の席にやってきて、
「おめでとう、永井さん、導入プロジェクトチームのリーダーに指名されましたよ。」
状況からこの貧乏くじは山下か慎介に回ってくるだろうと思っていたがなんとか逃れられればという儚い希望は打ち砕かれたのだ。
その後他社のERP導入状況を見聞きしていると導入時に並大抵でない苦労をしていることがわかってきたのだ。従来のものから新しいシステムに移行するときうまく機能せず会社の業務が滞るという不都合をきたしているところが多数出てきていた。
それにしても上司でもない池上から身の振り方について指示されるのは納得がいかなかった。
この時かつての上司柳岡が首尾よく社長になっていたため後任としてアメリカにいた野田が役員に昇進し経営企画室長になっていたがほとんど機能せず、引き続き柳岡が経営企画を仕切っていたのだ。
釈然としない慎介はすぐ社長室の柳岡のところに行った。
「導入チームのリーダーに指名されたと聞きましたが会社の正式決定と考えてよろしいんでしょうか?その場合経営企画を外れてプロジェクト専任ということですね。」
いままでこの件では煮え切らない態度をとっていた柳岡だったが腹を括ったのか、
「そうや専任や、あんたが適任でリーダーにしたいという事なんでOKしたで、受けるかどうか考えてから返事してくれてもええで。」
「わかりました、一日二日考えさせてください。」
本来会社の人事は本人に打診されることはめったになく会社にいる限り受けるしか選択肢はない。
いやなら会社を辞めるしかないのだが柳岡との話の流れでボールは慎介が持つことになってしまった。
その晩は大阪泊まりだったが中田から声が掛かった。
中田はなかなか面倒見がよく根岸工場、ドイツでの付き合いを通して慎介のことを気に入ってくれていた。
居酒屋で飲みながら、
「プロジェクトのリーダーに指名されたそうやな、だけど嫌なら自分は向いていないと断ることも可能だぜ。」
「しかし中田さん、本来会社の人事なんで断ることなんて可能なんでしょうか? よく言われるように受けるか辞めるかの選択しかないんじゃないですか?」
「本来ならそうだけど今回は柳岡さんもかなり迷ってるみたいなんだ。そもそもERPの導入自体も最近まで決断がつかなかったみたいだしな。」
中田のアドバイスはありがたかった。
しかし経営企画に移ってから漠然と感じていた居心地の悪さが形となって現れてきたのだ。
好むと好まざるにかかわらず権力闘争に巻き込まれ、いま自分でその道を決めなければならないところに立たされた訳である。
選択肢は二つ、プロジェクトリーダーを受けるか否か。
受けた場合、導入まで数年かかる計画の責任者になり苦労することになる。自分が反対する仕事でしかも自分はその件で専門性を発揮できるわけでもない。
受けない場合、その仕事から逃れられるだろうがそれ相応のペナルティを予想せねばならないし、最悪会社を辞める覚悟も必要だろう。
昨日までの漠然とした状況から確個たるものでピンチが顕わになってきた。
中田と別れた後自分の考えを整理しきれないまま香子に電話した。
香子には自分の置かれた立場を週末の川歩きの時だいたい話してあったのだ。
「もしもし、今日やっぱりリーダーに指名されたよ。」
「まあ、やっぱりね、池上さんよほどあなたが邪魔なのね。」
「それでおじさんからはどうするか自分で考えて返事するように言われているんだ。」
「あなた、悩むことはないわ、嫌なら会社なんて辞めてもいいわよ。贅沢さえしなければ私が働いているから大丈夫よ。」
もちろん会社を辞めるという事は普通の会社員にとって大変な事である。
それを十分理解しながらここまで言ってくれる香子がありがたく涙が出そうになった。
そして分かったのだ。自分が今悩み、苦しんでいるのは会社で優等生であろうとしているから、より具体的に言えば人より出世しようとしているから、会社に自分の能力を認めてもらおうとしているから。
しかしこの理不尽な状況を見るといわゆる会社での出世というものにそんな悩む価値があるのか?
経営企画に来たおかげでいわゆる会社の内側を、つまり人事をはじめいろいろなことがどうやって決まっていくか垣間見られた。
よく会社員は「会社が、」とあたかも会社を擬人化して物事を議論するがそれは全く間違えている。会社自体は何も意思を持っているものではなく、それを操っている人間の意志や意図が反映されているにすぎないのだ。
そして一番の問題は会社では常に正義が勝つとは限らないことである。
いつか自分のことを会社が分かってくれる時は来ると信じ、当面の理不尽に耐えていても永遠にそのいつかは訪れない。
香子と話して腹は決まった。
断ろう。
最悪会社を辞めねばならないかもしれないが、自分からは辞めない。
どんな部署に回されても首にならない限りその部署で給料をもらおう。
現実的にすぐ辞めさせられることはないだろうという読みもあった。
「明後日金曜日だけどその日半休取れない?」
「まあ、突然ね、可能だと思うけどなに?」
「もし取れたら京都に行かない? 前から話していた料亭にご飯食べに行くのはどお、気分転換も兼ねてさ、その午前中おじさんに返事する予定なんだ。君と話していて決めたよ。断る。いいよね? 」
「もちろんあなたがそう決めたのならいいに決まっているじゃない。明後日何もないので朝から休めると思うわ。お昼過ぎには京都に着けるけど。」
「新幹線ホームまで迎えに行くよ。時間は東京を出たら電話して。ホテルは御池のオークラにしようと思うけどいいよね? 料理屋は南禅寺の瓢亭かな。いくつかあたってみるよ。」
「そっちはまかせるわ、うまくいくといいわね。」
「勇気をもらえたよ、ありがとう、愛してるよ。」
「私もよ、おやすみ。」
「おやすみ。」
なんかしばらく胸につかえていたものがとれその晩はぐっすり眠れた。
そして金曜日の朝、頃合いを見計らって社長室の柳岡に会いに行った。
「おはようございます、先般の件でお伺いしました。」
「おう、でどうするんや?」
「プロジェクトリーダーの件ですが、お断りしたいと存じます。理由は二つです。まず自分はERPの導入自体に反対です。会社の規模とかかる金、得られるメリットがバランスしません。第二はリーダーの決め方自体が不透明で納得できないからです。以上です。」
「そうか、わかった、下がってええで。ああ、すぐ池上に来るように言ってくれんか?」
「わかりました、失礼します。」
柳岡にとって意外な答えだったのだろう、少しあわてた様子であった。
さあ、ここでいわゆる会社の方針にあからさまに逆らってしまった。まあどうなることやら。
賽は投げられたのだ。
香子からは12時5分に京都駅に着くと連絡を受けていた。
まだ朝の10時過ぎだったがもう今日は会社に用はないのでぶらぶら京都駅に向かうことにする。
柳岡に返事したこととあわせこんな時間に仕事から離れることですごく自由な気分になった。
9月の末だがまだ昼間は夏の暑さが残っていた。
時間を合わせてきたつもりだがまだ30分ほど早く京都駅に着き下の待合室で時間をつぶす。
そういえば昔別の人をこんな感じで待ったこともあったけ、しかし慎介にとっていまは香子が最愛の人なのだ。
10分前になりホームに上がり新幹線の到着を待つ。
やがて時間通りに列車は到着し香子が降りてきた。
「で、おじさんには言ってきたの? どうだった?」
香子から旅行バッグを受け取りながら、
「うん、ちゃんと伝えたよ。特に何も言われなかったよ。」
「よかった、すぐ辞めることにはならなかったのね。」
「とりあえずまだ首はつながっているよ。まあ今晩は料理を楽しもう、あの瓢亭のおまかせだよ。チェックインにはまだ早いからお茶でも飲んでいこうか、ご飯を食べちゃうとせっかくの夜が食べられなくなっちゃうしね。」
「いいわ、どこかお勧めのカフェはある?」
「大学のそばの駸々堂いこうか? 前に君と一回行ったよね。」
「いいわよ、行きましょう。」
「その前に明日の帰りの切符買っておこうか、東京に着くのは夜7時くらいでいいかな?」
「中途半端な時間ね、帰りの電車の中でお弁当を食べたいわ、8時くらいなら帰ってすぐ寝られるわよ。」
「いいよ、それでいこうか。」
みどりの窓口で切符を購入後、タクシーで大学近くの喫茶店駸々堂に行った。
幸いあまり混んでおらず端のほうに席が確保できた。
コーヒーでミックスサンドをつまみながら、
「それであなたどうなるの?」
「まあ、いわゆる会社方針に逆らっちゃったしね。すぐ辞めろと言われないだけ良かったんじゃないの。」
「だってその会社方針とやらも誰かの意志なんでしょ。会社って嫌なとこね。」
「そのうちに今日の反動が出てくると思うけどしかたないよ、受け入れるしかないね。」
「そうね、定年まであと10年位だしね。」
「それより明日夕方一緒に東京に帰るけどそれまでせっかく京都にいるんでどうする、どこかいきたいところないの?」
「あなたのいた下宿見てみたいわ、それと金閣寺かな。鞍馬なんかも行って見たいかな。」
「そうなの、まだ暑いんでバスなんかで回るのはしんどいよね、ホテルで半日タクシーを頼めるか聞いてみようね。」
「ところでなかなか落ち着いた雰囲気の喫茶店ね。」
「昔学生の時よく来たんだよ。特に専門になってから教室があそこの百万遍の角にあったからすごく近かったんだ。」
周りを見ると読書をしたりレポートらしきものを書いている学生が多い、慎介たちのような熟年のカップルは異色なのだ。
「こんな気分の時じゃなく普通の時に来たかったね、落ち着いたらまた来ようね。」
「そうね、そろそろホテル、チェックインできるんじゃない?」
「OK,じゃあホテルでゆっくりしよう、今晩は6時に予約してあるんだ。」
その晩の瓢亭、
「永井と申します。」
「ようこそ、おいでやす、こちらへどうぞ。」
庭の中にある離れの茶室に案内される。
広さは8畳くらいで慎介達専用だ。
香子を庭に向かった床の間を背にする席に座らせる。永井家ではレディファーストなのだ。
茶室だけに天井が低く頭に気をつけねばならなかった。
「そういえば直前なのによく予約できたわね。」
「そうだね、仲居さんに聞いてみようか?」
考えてみればここは京都の一流料亭である。本来ならいわゆる一見さんの永井たちが簡単にたちいれるところではないはずだ。
「そういえば電話で予約したときやっぱりフランスの三ツ星レストランと同じような事聞かれたよ。京都のどこのホテルに泊まるかと料理をどうするかという質問だよ。」
「で、あなたどう答えたの?」
「ホテルはまだ予約してなかったけどオークラ、料理は内容がわからなかったからおまかせにしたよ。」
飲み物は冷酒を頼み、先付から始まる懐石料理を楽しむ。
京都の料理屋さんはいくつか経験があるがそれらと比べると個々の料理は見た目が地味に感じられる。
もちろん手は十分かかっており味も申し分ない。
しばらくすると女将さんが挨拶にやってきた。
今年のお正月のテレビで日本を代表する料亭の番組で料理人の旦那と一緒に紹介されていた有名人である。
「今晩はようお越しくださいました。」
「お世話になります、直前のお願いなのにお受けいただき感謝しております。」
「暇にしてますのでいつでもお声をかけてください、お客さんはわざわざ東京からおいでと伺いましたが、」
「私が大阪に単身赴任なんですよ、家内も働いているんでひさびさの息抜きといったところです。昔学生の時京都に下宿していましたので明日そのあたりを回ってから東京に帰ります。」
「まあ、下宿はどのあたりどした?」
「北大路の洛北高校のあたりですよ。」
「それは落ち着いて勉強ができはったところどすな。それで奥様も京都で?」
「いえ、私はずっと東京です、京都は修学旅行とか何回もきていません。」
「旦那さんがお詳しいでしょうから、これからいらしてくださいね。」
「今回は秋だけどいろいろな季節のお料理が楽しみね。」
しばらく相手をしてくれて女将は去っていった。
実はこの後香子と慎介はフランスの三ツ星レストランをすべて回る経験をするのだが、半分くらいの店で店主がテーブルを回り客と言葉を交わすことをしていた。
客の満足度を上げようとすると洋の東西にかかわらず同じ発想になってくるのは自然な流れかとは思う。
リヨンの名店ポールボキューズでは、高齢になったシェフ本人に代わり奥さんがテーブルを回ってきたのには感激したことがある。もちろん奥さんもかなり高齢でヨボヨボしていたのだが。
このあと料理は懐石の順序で出てきたがすべて手の込んだもので味わい深いものであった。
「どお、ルサンクと比べて?」
「うーん、難しいわね、単純に和食とフレンチを比べられないけどお料理自身はやはり和食のほうが奥が深い感じね、出汁と素材の味の組み合わせが絶妙よ。」
「僕も同じ感想だね。あと料理の見た目も懐石のほうがきれいだよ。」
「こういう経験ができるのは幸せね。」
「これからも出来るだけ経験させてあげるよ、楽しみにしていな。」
結局冷酒を2本だったが支払いは11万円ほどであった。これもパリの三ツ星レストランとほぼ似たような額で興味深い。
タクシーを頼み帰るとき、女将と世話をしてくれた仲居さんが店の前で車が広い道に出て曲がるまでずっと見送ってくれていたのは印象的であった。
慎介がプロジェクトリーダーを断ったことはもちろん会社としては裏側のことなので表立った動きには現れなかったが、ERP導入自体は前向きに進んでいきしばらくして会社として意思決定することとなった。プロジェクトのリーダーは池上が兼務して担当することとなった。
一方慎介は柳岡から中国での保水性樹脂生産販売会社の立ち上げを命じられた。
これは背景に保水性樹脂の大口顧客USAGRO社がすでに中国に進出しており原料供給者の明治化学にも中国に出てくるよう強い要請があったからである。
しかしヨーロッパ以上に中国には明治化学には足がかりがないし白紙状態での進出検討という事になる。
これはこれでなかなかハードルの高い仕事だがいくらなんでも今回は断るわけにはいかない。
慎介一人ではしんどいのは柳岡にもわかっているので再び商社を起用することを示唆されるがどうするかは慎介に任された。
慎介はあちこちへいろいろ話を聞きに行って、結局東洋貿易促進協会という半官半民の団体があり企業が特に中国で活動しようとするときサポートしてくれることを知ることになる。
早速アポを取り都内の先方事務所に話を聞きに行った。
「初めまして、明治化学の永井と申します。今回弊社中国に化学品の製造販売会社設立を検討しておりまして御協会にご助力いただければと考えておるところでご相談にあがりました。」
「私企業担当の林と申します。具体的には当協会にどんなことを期待されるのですか?」
「弊社中国での企業活動はほとんど初めてで支店等もありません。企業活動のため進出を考えるとそれぞれの地方政府との折衝が第一段階と聞きますがその辺のサポートを御協会にお願いできないかと考えております。」
「それはちょうど我々がご提供できるサービスと一致するかと思います。具体的には各省政府の外資投資誘致局との橋渡しが我々の主な業務となってきます、もちろん帯同しての通訳などもできます。」
「サービスに対する費用はどんな感じですか?」
「我々は営利団体ではありませんのであくまで実費をご負担いただければ結構です。」
「是非ともお願いしたいと思います、次回お伺いするときは計画自体をより具体的にご紹介します。基本的に林様が弊社をご担当くださると考えてよろしいんですね。」
「はい、私林が御社を担当させていただきます。」
ヨーロッパの時と同様商社はできるだけ起用したくなかったので同じ機能が利用できるところが見つかってホッとする慎介であった。
その晩、
「あなた、最近東京が多いけど仕事どうなったの?」
「この前おじさんに直々に命令され今度は中国に工場を建てることになったよ。」
「まあ、だけど中国なんてあなた行ったこともないわよね。言葉もわからないしどうするの?」
「きびしいけどまた逃げるわけにはいかないよね。お客さんからの強い要望もあるけどおじさんにしたらうまくいけばめっけものみたいな感じだと思うよ。」
「それって失敗してもいいってこと?」
「そうじゃないけど何しろ中国だからみんな様子がわからないし難しいってことじゃない。現実的に今は日本からの輸出で対応できているから無理に中国なんかで生産したくないんじゃないかな。やってみてうまくいかなければお客に対して言い訳にもなるしね。」
「あなたどうするの? 社内に頼る人なんていないんでしょ? やっぱり商社を頼ったほうがいいんじゃないの?」
「それが正解かもしれないけどできるだけ単独で出来るよう頑張ってみるよ。」
仕事自体はベルギーでやったことと同じであるが環境が全く違い、今までの経験がすべて役に立たないだろう。
そしてこの後慎介の中国もうでが始まるのであった。
まず会社設立までの工程表は基本的にベルギーと同じだからサイトセレクションから始めた。つまり候補地の選定である。これも中国全土が対象ではなく、客先が広州、また保水性樹脂の原料が南京から供給されることになっていたので揚子江沿岸から上海の南、杭州までの範囲に絞り込まれた。
この頃中国では外資の投資誘致に国をあげて力を入れており各省が経営する工業団地がいくつもありいろいろな優遇策を設けながら投資を勧誘していた。
極めて中国進出には追い風でタイミングが良かったのだ。
初めは候補地巡りだ、これを都合3回おこなった。
何しろ中国は経験がないので手探り状態だったが、貿易促進協会の林氏のアドバイスが極めて貴重であった。もちろん3回とも同行してもらい、先方とのアポ取りから車、宿の手配、通訳まですべて甘えた。
派遣団の団長は一回ごとに経営企画室長の中田、このころはあの中田が慎介の直属の上司になっていた。二回目は生産担当副社長の大場などに頼み、実質仕切り役の慎介、建設後の工場長候補に工場から高田そして協会の林氏がメンバーである。
第一回目は上海到着後マイクロバスを運転手ごとチャーターし南は杭州の先の寧波、西は長江に沿って南京まで行って一週間で帰ってくるという強行軍で行われた。
午前中先方の工業団地を訪問し昼食に招待され午後から夜にかけ次の目的地に移動し、夜ご飯は現地で自分たちでレストランを探して食べるという繰り返しである。
仕事自体はそれぞれの工業団地がどのように運営され、どんな企業が来ているのか、そして自分たちの保水性樹脂生産に適しているのか等を主にチェックしたがいわゆる近代化の差があり旧態依然とした共産党支配のところから、なかにはシンガポールの企業体が運営主体のところまでありなかなかである。
心配していたいわゆる袖の下であるが近年はもうそれが合法化されていて入会金や相談金というものに変わっておりシステム化されているようであった。
訪問先ではどこでも歓迎され、まいったのは長江沿いということで地元の名産と称して名前の分からない淡水魚が沢山供されたことである。
だいたい大きな切り身の淡白な煮つけなのだが、おおむねものすごく生臭いのだ。
一応もてなされるので申し訳ないと思い「うまいですね。」などと我慢してやっと食べ終わると必ず御替わりはいかがですかともう一皿勧められるのにはまいった。
また中国流の酒による歓迎の洗礼を経験することになった。
本来全く酒の飲めない慎介であったが和美が生まれたとき香子の実家に同居し義理の父親に付き合っているうちに強くなったのだ。もっともさらに先にはあの人生の先輩別府と西島がいて学生時代に手ほどきをしてくれていたのだが。
この時ばかりは酒が人より少し飲めてよかったとつくづく思った。
中国の人は酒の飲み方でその人の人柄を評価するところがあるようだ。
もてなされたら思いっきり飲んでぼろぼろになる、そうするとなんか信用されて次会ったとき突っ込んだ話が可能になるというようなことがあった。
よく宴会では昼間会議では見かけなかった若い屈強な人が出てくることがあり、
「永井先生、乾杯しましょう。」
と乾杯するのだ、後で聞くと乾杯係でやはりこちらをぼろぼろにする要員のようだ。
もちろんうわさの白酒も経験し、これの気を付ける点は宴会の開始時にある。
まず席に着くとグラスが並んでいるが一番右に極めて小さいおもちゃのグラスのようなものがある。
これの存在が極めて重要なのだ。
大体まずビールで乾杯の流れになるが、このとき世話係のお姉さんがその小さなグラスをかたずけてしまうのだ。
これは絶対阻止しないといけない。
「あっ、それは置いておいてね。」と言うのだ。
しばらくするとホストがそろそろ白酒で乾杯しましょうかと提案があるが、この時初めてこの小さなグラスが活躍するのだ。
そう、これは実は白酒用のグラスだったのだ。
お姉さんに持っていかれてしまった場合に後であの小さなグラス持ってきてと頼んでも受け入れられることはない、ホストが許してくれないのだ。そうなのだ、考えただけで気持ちが悪くなってくるがビールのグラスで白酒を乾杯せねばならないのだ。
この場合容易に想像されるがあっという間に撃沈である。
中国恐るべし。
こんな中にあり夕食だけは自分たちで食べるスケジュールだったので楽しかった。
地元の海鮮レストランにばかり行ったが、チャーターした運転手さんも交え前菜系のつまみでビールを飲んでいると店のお姉さんが
「お金を払う人は誰ですか?」
と聞きに来る。夕食は自腹なので林氏と運転手さんを除き割り勘なのだが中田が、
「ああ、お財布はこの人が持ってるよ。」
と永井を指し示す。
「じゃあ一緒に来てくれますか?」
林さんに聞くとこれが中国での通常のやり方で、料理の注文をするらしい。
お姉さんに付いていくと地下に案内され、そこには沢山の水槽が置かれ中にいろいろな魚やエビ、カニ他訳の分からない生き物がいるのだ。
要するに食材を選び、蒸す、焼く、煮るなどの料理法を指示していくことを求められていることが分かった。
しばらくすると頼んだ料理が運ばれてきて大宴会の始まりとなる。
一般のレストランでは紹興酒とワインが高級品扱いなのだ。紹興酒はほとんで輸出用に回るようであまり地元には出回らない。ワインは中国産の長城ワインが結構な値段で供されるがなかなかおいしかった。
大きい伊勢エビなどを避けておけば値段は驚くほど安く、割り勘で一人当たり1000円から2000円程度だったと思う。
しかし嬉しそうに毎晩中華料理を食べていたツケが一週間して現れる。
みんなおなかがゆるくなってきたのだ。きっと油にやられたのだろう。移動中の車が休憩所に入ると争ってトイレに直行する始末であった。
しかしこのトイレも曲者であったのだ。
ドライブインのトイレはあの悪名高いニーハオトイレなのだ。
大でも個室ではなく腰が隠れるくらいの仕切りしかない、利用中の人の上半身は丸見えなのだ。
しかし状況が状況なので文句は言ってられない、郷に入っては郷に従えで何度か利用しているうちにすっかり慣れてしまった。
慎介にとって中国の出張は今までと違い気楽であった。
仕事自体が会社の運命を握るような注目を浴びるようなものでないこと、それと現場でまったく英語の必要ないことが気分を楽にするのであろうが、このプロジェクトの実質リーダーであることには違いなかった。
本社の会議では毎回柳岡に、
「中国は永井が大将だからな。」
と念を押されていたが、その言葉は慎介には、
「失敗したら永井の責任やで。」
と聞こえていた。
しかし前のプロジェクトの経験から慎介は考えが変わっており、ぜんぜんプレッシャーは感じてはいなかった。
「やるだけやって、出来なければしょうがない。」
と思っていたのだ。
調査団の派遣とその報告会の繰り返しを3回することで一気に場所の絞り込みが行われ、結局江蘇省の長江沿い張家港市に決まる。
市の経営する工業団地が条件に適合していた。
これから本格的に会社設立と工場建設の許認可申請となっていくわけであるが、市の投資誘致局のメンバーとの二人三脚が重要になってくる。局長の謝さん、局員の女性通訳宋さんが我々の相手をしてくれる中心メンバーだ。
この頃になると最初お世話になった東洋貿易促進協会の林さんの助力は必要なくなり投資誘致局と直接やり取りが可能になっていた。
大宴会とともにお礼を伝えた。林さんも自分の役割を認識しておりサバサバとしたものであった。
さあ、ぼちぼち始めようかという時に大きく状況を変えるニュースが飛び込んできた。
明治化学のライバル会社がなんと張家港の対岸南通市で同じ製品の生産工場を建設するという発表をしたのだ。すぐに柳岡に呼ばれる。
「おい、永井よわかってるな、負けるわけにはいかんぜ、相手より一歩でも早く工場を立ち上げなあかん。
絶対負けるなよ。」
「いかに早く進めるかは投資誘致局の中国政府への働きかけにかかっていますね、予定の来春起工式を年内に前倒ししましょう、すぐ謝局長と打ち合わせしてきます。」
「おう、どんどん進めてくれや、頼んだぜ。」
すぐに張家港で謝局長と会議を持った。
このとき経営企画では大阪本社の澤山が慎介の下について中国計画の実務を担当しており一緒に出張していた。
「そういう訳で計画を急がねばならなくなりました、年内の起工式は是非とも達成したいのですがいかがですかね?」
「なかなか厳しいですね、国から許可をもらうこと以外、つまり省政府レベルまでならなんとかなりますが国レベル、北京の商務部への働きかけが必要です。
永井部長、私と一緒に今年の11月初め北京へ行けますか? 商務部の担当者に働きかけを一緒にしてもらいます。」
「もちろん可能です。」
「その時会社設立の免許交付のための現金が要りますがそれも準備できますね?」
「いくらくらいでしたっけ?」
「10万元です。」
「部長、およそ160万円ですよ。二人いれば持ち出し額には問題ないはずです。」
と澤山。
「問題ありません。」
「それなら何とかなるでしょう。」
「是非お願いします。」
各種許認可の手続きは順調に進んでいたが、謝局長と約束した北京行には大きな問題が立ちはだかった。
この頃中国を中心に感染が始まっていたSARSである。
観光はもちろん仕事でさえ訪中は自粛することが始まった。
明治化学も会社の方針としては訪中はしばらく禁止のお達しが出たのだがこのプロジェクトだけは別でありいわゆる会社の若干ダークサイドを見ることになる。
柳岡に呼ばれ、
「おい、永井よ、来週の北京行きどうするんや?」
「予定通り考えています。謝局長からは北京でもSARSの感染が始まっているので、延期したらどうかと言ってきましたが今のところ予定通りと答えています。
今回のタイミングを逸すると最低半年は遅れるようです。現金を運ぶのに二人必要で澤山には悪いけど行ってもらいますが、リスクを低減するため最低滞在日数にします。具体的には私が先行しタイミングを見て彼を呼びます。そして済み次第すぐ帰国します。」
「そうか、帰ってきてもしばらく出勤できんぜ。そのへんよう中田と相談してや。」
SARSの潜伏期間が1週間と言われているのでそれが過ぎるまで出勤停止なのだ。
感染すれば死亡の可能性すらあるリスクを犯そうというのだが、このときはまだ事の重大性を認識していなかった。
会社としては建前は訪中自粛だが社員の判断で訪中することまでは止められないというスタンスをとりたいのであろう。柳岡自身は半年も待っていられないのだ。もちろんこれまで準備してきた慎介も澤山も同じ思いではあったが。
北京空港で慎介を迎えたのは見知らぬ女性であった。空港に迎えが行くといわれ明治化学永井様というサインボードを目印に待ち合わせたのだ。
「永井ですが。」
「張家港市政府に雇われた通訳の郭です。大学で日本語を学んでいます。それではホテルまでご案内します。」
「謝局長は?」
「昨日、北京に来られ、今日は商務部の担当者に面会しています。夕方ホテルに戻ると言っていました。」
夕方謝局長と、
「謝局長、商務部のほうはどうですか?」
「手続きは順調です。この調子だとお金の払い込みは一週間後来週の水曜日になります。前日にお金受け取りたいのですが。」
「わかりました。ところで今回宋さんは来なかったのですね。」
「われわれもSARSは怖いのですよ。今回は私一人です。今日も商務部の職員が二人感染したと騒いでいました。部長もあまり外出しないほうがいいですけど、今週金曜日、商務部の担当者に会っていただきます。」
「わかりました。」
そういう状況なので郭さんは毎日慎介のそばにおり専ら謝局長とのコミュニケーションを助けた。
もっとも金曜日以外はだいたい朝から二人のアルコール消毒と称しての酒盛りに付き合わされていたのだが。
話のなかで分かったのは、謝さんは北京から張家港に帰っても直接自宅には帰らず張家港のホテルで5日過ごすそうである。理由はもちろんSARSに感染していないことを確かめ家族にうつさないためだ。
やがて澤山がお金を持ってやってきた。
ちなみに慎介もお金を持ってきたが持ち出し限度額があり二人いないとお金が足りないのだ。
「おう、澤山君待っていたよ、ごくろうさま。こんな時に来てもらって悪いな。」
「いえいえ、部長こそ長期間お疲れ様です。張家港からは謝さん一人なんですね?」
「我々以上にSARSに真剣に対応してるよ、特に家族に対してな、帰ってからの出勤停止はいいけど自宅待機はないよな。社員は心配するけど家族はどうなのということじゃん。」
「来るときに嫁にも言われました。家族にうつすなんて最低ですよ、なんかいい方法はありますかね?」
「謝さんたちのまねをしようぜ、本当はどこかの貸別荘なんかにこもればいいんだけど準備がないしな、関空に帰る予定だからそこのホテルにしばらく泊まって様子を見よう。」
「期間はどうします?」
「3,4日で充分じゃね。」
「そうですね、わかりました。」
こうして毎日の酒盛りのメンバーに澤山が加わった。
すっかり予定をこなし会社設立の免許を取得できた。これでスケジュールは守れるはずだ。
「じゃあ謝さん、我々はしばらく訪中できないと思いますが、連絡を取りますので諸手続きは進めてください。」
「わかりました、しかし永井部長と澤山さん、この状況でよく中国に来てくれました。あなた方の勇気は忘れません。あなた方は本当の友人です。どうかご無事でいてください。」
「謝さんもお元気で、今後ともよろしくお願いします。」
帰りの機内は印象的であった。ガラガラの上みんなマスクをし離れ離れに座り互いを警戒しあうようにきょろきょろしていた。
ちょっと咳なんかしょうもんなら鋭い視線が飛んでくる。
アテンダントの人がマスクもせずサービスしていたのは気の毒であった。
そしてわずか数時間ほどで関空に到着すると世界は一変する。
いままでSARSの感染を恐れていたのが嘘のような普通の世界なのだ。
澤山と3日間ホテルにこもったがそれが限界だった。慎介は北京のホテル以来10日近くの隠遁生活を続けているのだ。
香子に電話した。
「もう大丈夫と思うんだけど帰っていいかな。」
「もちろんよ、あなたに何かあったらと思うと心配でたまらなかったわ。何日か前あなたの会社から私に電話があったみたいだけど出なかったわ、わたし何を言い出すかわからないから。あなただけをこんな目に合わせて自分たちだけ安全なところにいる人たちが許せないわ。だけど私はいいけど子供たちが心配よ。」
「そうだね、心配かけて悪いね。新聞で見たら二人で回れるゴルフ場が軽井沢にあるみたいなんで温泉も兼ねて行って見ようか? 明日か明後日から2日休める?」
「明日はちょっと職場に人が少ないから駄目ね。明後日からなら大丈夫よ。職場でも永井さんの旦那さん中国に行っているみたいだけど大丈夫なのなんて言われているわよ。」
「そうか、この前ホテルから君の職場に電話したとき交換が間にはいったのでどこにいるか知られちゃったんだよね。じゃあ明後日の朝家に帰るんですぐ出かけられるようにしておいてね。」
その夜澤山と部屋でいつものように酒を飲みながら、
「澤山君、もうおれ限界だから明後日家に帰るぜ。そのまま家内と温泉に行くよ。」
「それいいですね、わたしも子供を親に預けてどこかの温泉行きますわ。さっき嫁から電話があり早く帰ってきたらとか言っていましたわ。その前の日会社から電話があったけどかえって感情が逆なでされ気分悪かったと言っていました。」
「うちの家内は電話に出なかったみたいだよ。はじめから頭に来ていたみたいだしね。澤山君のところも奥さんと仲が良くて良かったね。」
「部長のところには負けますよ、例のタイタニックの件社長が社内で言いふらしてますからね。」
タイタニックの件とは大ヒットしたあの映画を香子と二人、テレビで見ていた時、沈む船からせっかく救命ボートに乗り移ったヒロイン、ローズがすぐに船に残る主人公ジャックのもとに戻ってしまう場面で慎介が
「君ならどうする?」と聞いたとき、
「私も同じ、あなたと残るわ。」
と香子が即答したことをいつもの夜の酒の場で柳岡に話したことがあるのだ。
澤山と翌々日別れるとき、
「まあ澤山君、今回はごくろうさんだったね、奥さんにはよろしくね。それとこれ家に帰るとき奥さんの好きな花でも買って行ってくれよ、俺からのささやかな気持ちだよ。」
と5000円を渡した。
「ありがとうございます、自分は部長とご一緒出来て幸せです。」
中国に出発以来ほぼ3週間ぶりに家に帰る。
子供たちの顔も見たかったが状況だけに会わないほうが無難であろう。
この頃暁子はすでに短大を出て働いており、和美もやはり短大に進学してそれぞれ自分で生活できるようになっており親がこのように勝手に家を空けても特に支障はなかった、いや小さいころからむしろそのように育てられていた。
必要なものを車に積み込みすぐ出発した。ゴルフの準備もそうだが一応香子は上着にスカート、慎介はジャケットも用意した。
「二泊と聞いていたけどどんなスケジュールになっているの?」
「今日は草津温泉でゆっくりして明日は軽井沢72でゴルフの後プリンスホテルに泊まるよ。そこでディナーの予定なんだ。」
「だからましな恰好を用意したのね、草津はどこに泊まるの?」
「湯畑に面した奈良屋だよ、けっこう老舗らしいよ。」
「それは楽しみね、草津は温泉がいいんでしょ?」
平日なので都心を抜けるまでは時間がかかったが関越にのってからは順調で軽井沢をドライブして草津に抜けるルートを取る。
途中旧軽井沢の万平ホテルでお茶をする。
「明日はゴルフだからあんまり時間の余裕ないしね、今日はゆっくりできるよ。」
「今年は出張しててバタバタしてたけど結婚記念日なんだけど覚えてる?」
「あなたが軽井沢に行こうといったとき気が付いたわ、先月の25日なのよね、毎年過ぎてから思い出すわね。」
「もうあれから22年経つんだよね、そういえば高原教会、近くだから行って見ようか? ちょうど草津に行く途中だと思うよ。」
ほどなく22年前二人だけで結婚式をした軽井沢高原教会に着く。
だいぶ記憶があいまいになってはいるが当時とあまり変わってはいなかった。
結婚式といっても簡単なもので貸衣装を借り教会で式をし写真を撮り、飾りを付けた馬車で敷地内を一周する、そして付属するコテージに一泊という簡単なものだ。
「そういえばアクセサリーに気に入ったものがなくて残念だったわ、写真も撮ったしね。」
「ぼくはあの馬車が恥ずかしかったな、観光客に見られたりしたからね。」
「もう少ししたら私の人生あなたと一緒のほうが長くなるのね、ケンカをしながらもよく一緒にいるわね。」
「はたから見るとそうでもないみたいよ、あのタイタニックの話おじさんが社内でいいふらし、いつのまにか社内きっての愛妻家というかオシドリ夫婦になっているみたいよ。まあ君が僕のことを好きでたまらないのは事実だけどね。」
「そんなことはないのよ、全然違うと思うけど。勘違いも甚だしいわ。」
「まあそういうことで温泉にいこうか?」
その晩は草津の名湯につかり久しぶりに香子と一緒だったせいもあり安心して食後すぐ寝てしまった。
やはり今回の出張はすごく疲れていたらしい。
翌日軽井沢まで戻り初冬の青天の下浅間山を見ながらゴルフを楽しんだ。
平日でしかもシーズンオフも近いため空いており快適だった。プレーをしながら景色のいいところで写真を撮る余裕もあった。
芦ノ湖でコースデビューした香子はゆったりしたラウンドにご機嫌でこのコースが気に入ったようであり、今後ちょくちょく来ることになるのである。
夜のプリンスホテルのディナー、ワインで気分もほぐれてきて、
「しかしあなたの会社も何を考えているのかしらね、こんな状況の中で中国に出張させるなんて。」
「それについては僕自身も反省しているよ、避けようと思えばそうできたんだ、半年時間が伸びるだけだったしね。自分の命と比べたら全然バランスしないよね。」
「今回は本当にあなたのことを心配したのよ、あなたがいなくなったらと思うとたまらなかったわ。」
「本当にごめん、おじさんに中国計画なんて押し付けられて意地になって我を忘れていたよ。
そういえば今回謝さん、澤山君と長いこと一緒にいる時間があり普段話さないような話題までいろいろ話したんだけど、興味深いのは自分の人生で何が一番大切かという事でみんな同じだったんだよ、なんだと思う?」
「あなたと何年一緒にいると思ってるの、あなた以外のお二人のことはよくわからないけどあなたのことはよくわかるわよ。それはズバリ奥さんでしょ。」
「その通り、大当たりだよ。仕事とはいえあんな状況に自分を追い込んでしまい三人で無事に帰ったら自分の奥さんを大事にすることを誓ったんだ。」
「まああなたはそこで誓わないでもそれがいつも通りなのよ。」
慎介と澤山の決死的な会社への貢献で中国計画のスケジュールは守られ着々と進んでいきいよいよ誰が赴任するか検討するときが来た。
この時また同じような問題が生じるのである。会社にとっては些細な事だが本人にとっては大きな問題である。
中国新会社の経理担当に若手社員の山田に白羽の矢がたった。
本人は積極的で中国赴任も受けるつもりのようだが問題は家族である。結婚して子供が産まれたばかりであった。そして奥さんとは社内結婚で彼女が柳岡と同窓という事で結婚前から彼が可愛がっていたので注目されていたのだ。
彼の赴任が内定するや毎日のように柳岡が山田の席に来ては家族での中国での暮らし方などをアドバイスしているそうだ。
もちろん今回の計画の責任者である慎介は現地派遣社員の暮らしも考慮し現地調査にも余念がなく住宅やマーケット、病院などを調べたが、結論として張家港には家族が住むのは不可能と結論付けていた。
理由は中国語ができなければ現地で全く暮らすことができないからだ。
家族を帯同するなら上海に住み平日自分だけ張家港に住み働き、週末上海の家族のもとに帰る。
これは先行する日系各社がとっていた暮らし方である。しかしこれだと大阪に家族を残すことと大きな差はないのだ。なにしろ上海、大阪間は飛行機で一時間半である。
そして海外赴任者が家族と一緒に苦労しながら海外に住み得られるメリットが中国にあるかどうかである。
その国の文化、言語等であるがこの辺は個人の判断になってくるが少なくとも彼、山田君自身は家族を日本に残し単身で行くことを希望していたようだ。
ある時山田が慎介のもとへきて、
「部長、ご相談したいことがあるんですが今晩お時間いただけますか?」
「もちろんOKだよ。近くの居酒屋でいいよな。」
その晩、
「部長、私が今度の張家港計画の経理担当に内定していることはご存知ですよね?」
「ああ、聞いているよ、今までの海外と違い中国だからなかなか大変だと思うけどよろしく頼むぜ。」
「それで家内とも相談し単身で行きたいと思っているんですが、社長と中田さんが家族で行くものと決めてかかっているようで困っているんです。というよりむしろ家族で行くことを強く進めているようで単身のことを言い出せなくなってしまいました。恐れ入りますが部長からお二人になんとか我々の意志を伝えていただけませんか?」
「うーん、困ったもんだね、あの人たちは海外に家族で住む苦労が分かってないから勝手に言っているんだろうけど、まあそんなことで心配するなよ。わかった、なんとかするよ。」
前回ドイツの時同じことで香子と二人悩んだ慎介には彼らの悩みがよくわかった。
小さなことだが会社が一人前の国際企業になりきれない原因の一端がこんなところにもあるように感じる慎介であった。
その後しばらくして工場建設の起工式も無事終了し慎介の役割が済んだころ、秘書が慎介のところにやってきて、
「部長、社長が1月20日の14時30分に社長室に来てくれとのことです。」
普段おじさんとは一週間に2,3日は夜一緒に飲んでいるのに、まああらたまってということは人事のお告げだなとすぐわかった。いよいよだ。
あの時香子と相談し決めたことだから、どんな命令でも粛々と受けるつもりである。
そして当日、
「経営企画ではご苦労さん、あんたには4月から環境事業部にいってもらうで、最初は副事業部長だけど事業部長含みや。役員になるかどうかはわからんけどな。」
「謹んでお受けします。」
2004年、慎介52歳であった。
またおじさんの最後の一言で自分のサラリーマン人生で出世はここまで、役員はほとんで可能性の無いことも感じ取れた。まあ節目では自分の好きにしてきたのでそれはしょうがない。クビになっていないだけましと思う。
環境事業部は小さな営業部で売り物は各種触媒、それを用いた脱硝などの浄化装置、いつぞやのイタリアに売り込もうとしたやつだ、それと最近開発中の燃料電池用の部材などだ。売り上げは全部で300億円ほど、全社の10%だ。
難波の大阪本社と新橋の東京本社に居場所があり行ったり来たりであった。そのうちに事業部長になり役員待遇となり尼崎の寮から江坂の役員用単身寮に移った。
この部署にきて慎介が力を入れたのは特に触媒の顧客の囲い込みである。
若いころPO触媒の販売に関わっていたころ、ビビルはじめ他の顧客からも聞いていた、
「なんで明治化学はユーザーズミーティングをしないの? お前のライバル会社は毎年しているよ。」
という声に応えるためであった。
そんなことで過ごしているうちに問題は起きた、ちょうど慎介が香子と夏休みを一週間とってヨーロッパに
出発の前日である。
あの経営企画で一緒だった竹中が配下のシステム販売部長になっており、
「永井さん、排水浄化システムの販売先で問題があったようです。」
「なにそれ、どういうこと?」
「福井県の販売先でスタートの立ち合いに行っている担当者からさきほど連絡があったのですがどうも中の触媒が燃えたみたいと言っています。」
「すぐ現場の続報を入れるよう言ってくれ、それと高砂の研究に見解を聞いてまとめてくれ。そのシステムの販売状況はどうだっけ? すぐ社長に報告しないと、明日大阪に行くよ。」
「だけど、永井さん明日から休みでしたよね。」
「おそらくそれどころじゃないと思うよ、こういう大ごとはすぐ報告しないとあとで何を言われるかわからんしな。」
一週間のヨーロッパ旅行はドタキャンになった。実質的な被害はホテルが数泊分実費負担になったことのみで飛行機はあいかわらずマイレージだったため特になかった。
しかしこの問題は調べてみると非常に大きな問題をかかえていた。
これは異動してきたばかりの竹中はもちろん慎介も前任者から引き継いだ案件で背景を知らなかったのだが技術立社にしては極めてお粗末な内容であった。
それは新しく開発された技術だったが自社で充分な確認を行わないうちに、功を焦るあまり顧客に販売するという大きなミスを犯していた。客先で未知の問題が発生してしまったのだ。
この装置の販売先は二社で問題が起きた福井県の繊維会社、すでに試運転の段階で装置が破損している。二社目は神奈川県川崎のプラスチックリサイクル会社、現在装置の納入中で近日試運転予定となっている。
慎介にとってはまさに青天の霹靂、降ってわいた不幸で会社では異動先の前任者の尻拭いはよく聞く話ではあるが今回のものは極めて深刻で大きな問題だった。
社内の技術、製造部門、あるいは社外の弁護士との検討の結果、以下のように対応策をまとめた。
今回販売した排水処理装置の技術は未完成、問題があった部分を完成しなければならない。
繊維会社には破損した装置の修理、あるいは代替品の納入、リサイクル会社には改良技術による完成品への取り換えを行う。
繊維会社は幸い排水処理が必須ではなくそのまま河川放流が可能なため修理を待つだけだが、リサイクル会社は製品変更までの排水を出している本体装置の操業を確保するため明治化学に排水処理の責任が生じ、排水処理の業者にお金を払って排水を処理してもらう必要がある。そうしないと排水を発生している本体装置の操業を止めることになるからだ。
その業者に払う排水処理の費用だけでも1億円を上回る試算となった。
これを持ち慎介は問題の解決策として経営会議で経営の判断をあおいだ。
予想通り、
「なんでそんな未完成の代物を売ったりしたんだ。」
「たった1,2千万の売り上げで1億円の損か。」
などさんざん非難された。
慎介はただ引き継いだだけなのだが理不尽なものである。
ただこの製品に思い入れも何もない分問題に対して客観的に対応でき、法的責任まで考慮されていたので慎介のまとめた対応策が認められた。
この件では残念ながら慎介は誰からもかばわれることはなかった。背景を知る柳岡でさえ正面切って慎介を責めたが、彼にとっては都合がよかったのかもしれない。
ちょうど慎介の年代が役員に選抜される直前だったため周りはこれで慎介がアウトになったと思ったかもしれないが、本当はあのERPの時それは決まっていたのだ。
1年ほどしてこの件がようやく終息したころ慎介は事業部長として懲戒申請書を書くことを求められたが、慎介の前任事業部長、竹中の前任部長、当時の研究責任者を名前に加えることだけがささやかな気晴らしであった。もちろんその名簿のトップは慎介の名前ではあったが。
根岸工場を出てから比較的会社の中枢近くにいたため一般の会社員ではなかなか経験できないことがいくつかあった。それは社長がどうやって決まるかの一端を真近で見られたことである。
柳岡と大場の社長争いは真面に巻き込まれた形になり慎介のサラリーマン人生に若干の影響を及ぼすまでに至ったのだが、その柳岡の後の近田が社長になったいきさつも興味深い。
近田は京洛大の博士課程を出て入社したが一貫して開発畑、特にこれといった業績もなく年齢が来て子会社の社長に転籍していた。この時柳岡の後継社長には営業本部長の西岡がほぼ決まっていたようだ。ただしこれを決めたのは柳岡の前任會川だった。
柳岡は自分の腹心池上を後継社長にしたかったが年が合わない、つまり自分が辞めるとき池上では若すぎてすぐに社長を渡せないのだ。一方引き継いだ西岡にすると年齢的に5、6年も社長を続けられると池上の目はなくなる可能性がありこれは避けたい。
そこでいささか強引な手を使った。
西岡の評判を意図的に落とすこと、そしてどこかから都合のいい西岡の代わりを連れてくることである。
評判を落とすことは社長なら不可能ではなく、その代表的なものは平日ゴルフだった。
柳岡は自分がうまくなじめないことからゴルフ自体が嫌いで社員が平日にゴルフをすることを絶対悪としていた。ある日東京本社に出張した柳岡は羽田から新橋に移動中会社の車で千葉方面にゴルフに出かける西岡を偶然見かけ、これを社内で大いに言いふらすのである。
「西岡な、あいつはあかんで、平日ゴルフをよくしとるんや。この前も見かけたしな。」
こんなことで社長になれるかどうかが決まることはないはずなのだが実際西岡は社長になれなかった。
社長になったのは子会社の社長になっていた近田だった。
年齢的に池上にパスするのに都合がいいことと御しやすいと思ったからであろう。
ある晩柳岡が近田を誘った酒の場に慎介は同席していた。
「おい、近田よ、あんたを本体の社長にするから池上に4年で渡してくれや、ええな。」
やれやれ、これが会社人事の裏側か。
この後も慎介は仕事をする意義やその満足度について悩み考えることになるのだが、少なくともその目的の一つである他人からの評価や昇進というものが決められていく背景が見えてくると全然意味のないものと思える。
そして今まで自分のサラリーマン人生でとってきた選択に誤りはなかったとこの時は信じるのであるが、残念ながらのちにこの考えは改めさせられることになる。
2007年1月、柳岡から変わった社長の近田に呼び出される慎介、また人事のお告げだ。
事業部長を2年務めて55歳になっていた。
前任から渡された大きな負債、排水処理装置の不備を解決しようやく一段落といった時であったが、いままでのいきさつから役員になるなど上に上がることはなく、おそらく子会社にとは想像していた。
早速香子と話す、
「今度社長に呼ばれたよ、また人事の話でどこかへ異動だと思うんだ。」
「上に上がる話はないの?」
「例のERPのいきさつから始まってそれはないと思うよ、むしろあの時辞めさせられないで良かったというところじゃないかな。実際返事したときその覚悟はしていたしね。おじさんからの言われようではそうなっていたかもしれないしね。しかも事業部では前任者の尻拭いで大変だったしそのうえ懲戒までされたしね。」
「だってそれあなたのせいじゃないでしょ。本当にいやね。」
「おそらく子会社に出てそこの社長になると思うけどいいよね? 断る選択肢もあるけどまだ会社辞めるのは早いでしょ?」
「嫌だけどしょうがないわね。あなたならどこでもまた活躍できるわよ。むしろ気分が変わっていいんじゃないの。」
「そうだね、じゃあ受けることにするよ。」
果たして社長との面談、
「永井君、あなたにはこの4月から子会社の京葉化学に行ってもらいます。6月の総会で社長に指名される予定です。」
「謹んでお受けします。」