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仮金は楽しいな  作者: 佐藤 真
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第一話 青春の京都、  第二話 不信神な触媒

1 はじめに


仮金という言葉は多分どこで調べても正しく理解することは不可能であろう。

なぜならごく一部の人の間で使われている言葉だからである。

ごく一部の人とは、おじさんゴルファーである。彼らが好むグリーン上の遊び、オリンピックのひとつのルールが仮金である。

そもそもグリーン上のオリンピックから説明しよう。

ご存知のようにゴルフは普通4人で一緒にプレーする。ワンラウンド18ホールのプレーとなるが、各ホールのグリーン上でオリンピックは行われる。4人のボールがグリーン上に乗った後、パットに移るがその時カップから遠い順に金、銀、銅、鉄のポジションとなる。そしてそれぞれワンパットでカップインできれば順に4,3,2,1点を獲得できる。まれに外からカップインしたケースはダイヤモンドと称して5点獲得となる。

トータル得点を競うことになるが、通常さらに役と称し金、銀、銅、鉄が揃えばストレートまたは一気通貫で10点、金、銀がそれぞれ3つ揃えばポンと称し各12、9点、また銅、鉄の場合は4つ揃えばカンで各8,4点追加で与えられる。このとき先のダイヤモンドがあるとオールマイティとして役つくりに使えるというルールも一般的だ。

さて仮金であるが、上記のオリンピックをプレーするとき一番遠い金の人が仮金となり始まる。

仮金の人がパットをして、見事カップインすれば金を獲得で次の人は銀の立場で続行し通常のオリンピックとかわらない。カップインしない場合に仮金ルールに移行し、仮金の人のファーストパット後の状態で再度ポジション決めを行う。一番カップに近くなった場合はそれが新しい鉄となり、最初の銀、銅、鉄は繰り上がり金、銀、銅となる。仮金の人がセカンドパットでその鉄を沈めれば鉄を獲得となるが、外すとマイナス鉄のペナルティとなる。仮金以外の人にペナルティはない。

つまり仮金の人にはチャンスとピンチが同時にくるわけで、ファーストパット次第で仮金からどのポジションになる可能性もある。たまにあるが仮金からグリーン外に行くケースもあり、その場合はダイヤモンドのポシションとなる。ちなみにマイナスのダイヤをとると逆オールマイティとして役ができないように働く。

つまり金、銀、銅、鉄を獲得してもマイナスダイヤがあるとそのうちの金を消す働きをし役が完成しない。

逆に役の都合で銅がほしい場合、仮金から本来の鉄の外側につけ銅を狙うということもできるわけだ。

通常のオリンピックと比べ、仮金ルールはかなりスリリングな展開になることご理解いただけただろうか。

この仮金については、筆者とその悪魔のルールにはまった悪い友人たちでなんとあのセントアンドリュースオールドコースのグリーン上で仮金をプレーすることになるのであるが、どこかで機会があればその模様も紹介してみたい。


いきなり詳細な話題になってしまったが、そもそもゴルフというスポーツ?ゲーム?は非常に面白い種目である。

なぜか?

それはゴルフをプレーすることにより、その人の性格、人間性、生き様などが隠しようもなく出てしまうからである。どこかの会社の社長さんが、部下の二人のうちどちらを昇進させようかと悩んだ時、二人をゴルフに誘いプレーぶりを観察して決めたという話もあるくらいだ。

同様なゲームに麻雀がありこれもなかなか奥深いものがあるが、自然も相手で技術的な要素も加わり大きなツキのファクターも少ないということで、たかがゴルフ、されどゴルフと言われるゆえんか。

これに紹介の仮金を加えるとワンラウンドのプレーがより劇的になり、あたかも人生を過ごすことに通ずる

ように感じるのは筆者だけではないと思うがいかがであろうか?


本編は決してゴルフ小説ではないが、人生の岐路における選択、また立ちはだかる困難にどう立ち向かっていくか、そしてその結果をどう受け入れていくのか等が主題になっていくため、ふとゴルフと重ね合わせてのタイトルとなってしまったのである。


さあ主人公の永井慎介と一緒に人生のフェアウエーに飛び出し、彼のプレーぶりをみてみよう。


2 青春の京都


昭和45年3月のある日、永井慎介は東京、世田谷の自宅で朝から一通の電報を待っていた。大学受験の合否通知である。


慎介は東京都立青川高校の三年生で、国立一期校の名門京洛大学工学部を受験していた。

小、中学校では比較的優等生だったが、高校に入ってからはそれも怪しくなってきた。年に一回実力テストと称して全校の試験があるが一、二年では学年で30位までに入ることは無かった。ちなみに30位までは掲示板に氏名が順位とともにはりだされる。3年になりかろうじて12位となったが、結果がはりだされることはなかった。その年、昭和44年に全国の高校にまで吹き荒れた学園紛争の影響であった。それどころか高校が反戦高協とやらのグループに封鎖されてしまい、9月から結局受験まで授業は全く行われなかった。

その間受験勉強に専念できたかというとなかなかそうもいかなかった。

校舎は封鎖されていたが生徒の出入りは自由で、クラス単位のいわゆる話し合いが行われていたからである。比較的まじめに話し合いに参加していた慎介にあるとき担任の女性教師から電話があり、

「永井君、話し合いの中で生徒が中心になって封鎖をやめさせる勢力を立ち上げてもらえない?あなたたちもこのまま勉強ができないと困るでしょう?」、

「先生、申し訳ありませんがお断りします。先生のそういう姿勢が問題なんです。自己批判するべきではありませんか」

それ以前の大学紛争にも興味があり、朝日ジャーナルなど片手に若干左翼にかぶれていた慎介にとって当然の返事であり、またいままで優等生で親や教師の言うことをよく聞いていた慎介にとって初めてのいわゆる体制に従わない意思表示であった。

その後封鎖は年が明けたころ警察が導入されて解除されるが、中途半端な精神状態で三年の後半を過ごすこととなった。

慎介の家族は、自宅で自営の建築士の父昇、主婦で和文タイプの内職により家計を助ける母三井、一歳下で高校二年生の加世子でる。

父が親に仕送りをしていたせいもあり家は貧乏であった。小田急線千歳船橋駅から20分ほど歩いたところにある母方の親類が所有する畑の中の農機具置き場を改造したような家であった。

小学生のころから誕生日に親しい友人を家によび合う習慣があり、高学年になってからはそのたびに恥ずかしい思いをしたものである。

慎介の受験に関し、父親は大卒でないため学歴コンプレックスがあり、また母親も自分の姉の息子3人が次々挑戦しながらなしえなかった東京の難関東都大学をともに希望していた。

そんな状況の中受験のタイミングを迎え京洛大学の工学部に決めたのは次の理由からだ。

家の経済状態から国立は必須。

父母の強い希望とのおりあい。

修学旅行で訪れた京都の町にひかれた。

試験の形式。東大は一次二次方式。京大は一発勝負でさらに工学部は学科別受験となり比較的合格点の低い学科もある。

結局、願書は京洛大と二期校の神奈川工業大しか出さなかった。


その日一日家族で長いこと待っていて、日も暮れかかったころようやくバイクの音がして電報が届いた。

父があたふたと受け取りにいき内容を読む前にうめくように言った。

「ダメだ・・・」

電報の体裁がお祝いの形ではなかったからである。

慎介自身、受験後ある程度の手ごたえを感じており家族にも

「まあ大丈夫ではないか。」

と楽観的な見通しを伝えていたことが、自身も含めショックを増幅した。

しかし現実問題として嘆いたり悲しんでいる暇はなく、身の振り方を早急に決めねばならなかった。

「もう一回京洛大に挑戦したい・・・・」

「そうだな、どうせなら東大にしてほしいがそれもいいだろう。」

「思い通りにやったら。私もタイプで応援するから。」

「お兄ちゃん、私と一緒に受験だけど来年こそはがんばってよ。」

家族会議の結果、まだ出願していた国立二期校を受験する選択があったが、一年浪人しもう一度京洛大学を目指すことになった。そしてそのために東京の予備校ではなく京洛大学の受験に特化している京都の近畿予備校に通うこととした。兵庫県西宮市に住んでいる母の姉家族が慎介の受け入れを表明してくれていた。もう一つの深刻な事情は、住んでいた家が環状八号線の区画整理にかかり数か月後の立ち退きを親類の地主から迫られていて、とても落ち着いて勉強できる環境ではなかったことである。


慎介にとって挫折の一年が始まった。

三月末いよいよ関西へ旅立つ日、母親と駅に向かう道で小学校の同級生だった女生徒と出会ったが、顔をそむけ話ができなかった。それまでは優等生として町を歩いていたがいきなり受験に失敗した負け組になった劣等感からであった。

予備校に入るにも試験があり、さすがに一回で通ったが(3回試験のチャンスがあった)集まった同級生が、初めて関西人に出会ったせいもあるがあまりにアホに見えて、やっぱり東京の予備校だったかと迷いも出たが

「あんたはそういうアホに見える奴らに負けて試験におちたんやで。」と西宮のおじに言われ、我に返り当初の計画を貫徹する決意を固めたのであった。

西宮の家では伯母夫婦、いとこたちも良くしてくれたが、いかんせん片道一時間半の通学時間はこたえた。結局京都市内洛北高校近くに下宿することにした。京間の三畳の部屋で食事なし、一か月四千五百円であった。ちなみに予備校は烏丸今出川にあり立志社大学の隣であった。


今まで親元におり、何の苦労もなく高校生活をおくっていたが急に一人暮らしの浪人生活になった。洗濯は下宿の洗濯機を使い、また食事は立志社大の生協食堂、下宿近くの定食屋等を利用し特に問題はなかった。

ただしどこにも所属していないという不安定な身分からくる精神的なプレッシャーは常に感じており、その不安はただ懸命に勉強し来年の合格でしか解消できないことはよくわかっていた。

ちょうどその年大阪で万博が開催されていたし、あこがれの京都ではあったが気分転換にちょっと出かけるなんて考えは一切持たなかった。予備校で幾人か言葉を交わす知り合いはできたが一緒に遊ぶようなことはなかった。

ただひたすら勉強し、試験の時を待った。なぜならその試験がこの苦しい状態を解放してくれる唯一の解決策だからである。

予備校の授業でいくつか役に立つことがあったが、決定的な目からウロコなことがあった。

それは数学の試験の解き方である。

京大の場合試験科目は慎介のような理科系は英、数、国各200点満点、理科は物理、化学指定で各100点満点、社会は選択で1科目100点で合計900点満点で勝負となる。普通は理科、社会は満点近く、また英語、国語もそこそこ得点できるので、やはり大きな差は数学ででる。2時間の試験時間で6問の出題である。

予備校教師の教えはこうであった。数学は部分点をとれ、最後まで完全に解答する必要はない。つまり具体的にはすべての問題に手を付けできるところまで解答せよ、手が止まったら躊躇せず次の問題に移れというものである。

よくあることであるが、難しい問題に直面するとその問題にこだわり頭に血が上り時間を無駄に消費してしまう。後で見てみたら手を付けていなかった残りの問題に解けるものがあったというものだ。

慎介は数学に苦手意識があったわけではないが、充分自信があるわけでもない。この教えが慎介を力強く後押ししたのは確かだ。これだけでも京都にわざわざきたかいがあったというものだ。

ところで京都に来る前に高校に結果報告に登校した時のことである。

京大は高校に受験生のテスト結果を知らせる習慣があったのだ。

「永井君、おしかったわね。あと3点だったわよ。君は受かると思っていたんだけど。」と担任。

「ああそうですか。もう一度挑戦するつもりです・・・・」

慎介が受験したのは工学部の燃料化学科でその年の合格点は900点満点で495点であった。

これを聞いても何の慰めにもならなかった。結果が全てと、また来年まで一年待たねばならないという現実

をひしひしと感じるだけであった。


いかに勉強のみで、世間と隔絶した生活を送っていた一例がある。

ある日いつものように朝予備校に行くために市電で出かけた。いやに今日は空いているなとは思ったが、予備校に着いてみたらその日は祝日であった。

ラジオもテレビも新聞もなく、まさに月月火水木金金の生活であったのだ。もちろん予備校の自習室で勉強してから帰宅したのは言うまでもない。


そうこうしているうちに年末になった。

年末年始は、食堂、店等が休むので生活ができなくなり勉強に支障をきたすので帰省することにした。この時家は住み慣れた千歳船橋のあばら家から三鷹下連雀の2DKのアパートに引っ越していた。

久しぶりに顔を合わせた母親から

「もう京都には戻らず、家で勉強したらどう? あとは試験の時、体をこわさないで臨むほうが大切じゃないの?」という提案があった。母親としては可愛い息子が一人で浪人生活を送っているのが不憫と感じていたし、現実的に寒い京都で風邪でもひき入試に支障をきたすことも恐れたのであった。

「いいよ。だけど静かに勉強できる状態にはしてね。」

慎介は神経質で特に勉強するとき集中するために周りの騒音は嫌ったのであった。

下宿でも同宿の予備校生が聞くラジオや家主の親類の子供の騒ぎ声などに真剣に文句をつけていた。

結果アパートの二間ある6畳の部屋を半分仕切り勉強部屋として独占し、残り家族3人はもう一部屋の3畳を居間として押し込められテレビはうるさいのでイヤホンで聞かされることになった。

はたして母親の予感は的中する。

入試まで一週間を切った二月末の夜中、慎介に異変がおきる。急に寒気がし、震えが止まらくなったのである。

いち早く気付いた母親がタクシーを呼び、近くの大学病院へ駆けつけた。

診断は風邪であったが、受験生との事情を医師に話し薬を多めにもらったりして帰ってきた。

一日寝ていただけで回復し事なきを得、いよいよ本番に臨む日が来た。


試験は三日にわたり、初日国、数、二日目英、理(慎介の場合物理、化学)三日目社会(日本史)とおこなわれた。

もちろん食事等の問題があるので下宿ではなく旅館に泊まった。現役の時は高級ホテルだったが、今回は受験生専門の宿屋で一部屋4、5人の相部屋の雑魚寝。

同宿の受験生たちといろいろ言葉を交わしたが、一度受験の経験があることまた地元の予備校に通いいわゆる傾向と対策がばっちりだったこともあり精神的には落ち着きがあった。

はたして数学も含めうまくこなし今回は本当に手ごたえを感じた慎介は意気揚々と帰郷した。

昭和46年3月20日合格発表の朝、父昇が急に京都に発表を見に行こうと言い出した。

昨年電報をさんざん待ったあげく不首尾だった苦い記憶がよみがえったのだろう。

新幹線に飛び乗り慎介と昇は京都に向かった。

途中車中ではほとんど言葉は交わさなかった。

大学につき掲示板に向かったが、発表の時間から少し経っていたせいか閑散としてほとんど人の姿はなかった。

成績順の発表と知っていたので慎重な慎介は列の後ろから、父昇は前から受験番号と氏名を確認していった。なお慎介の受験した燃料化学科の合格定員は55名なのでちょっと列は長かった。

「あった!」と父の声。なんと前から4番目に慎介の名があったのだ。

「ふう・・・・」慎介に言葉はなかった。ただただ安堵のため息が出ただけであった。

すぐ近くに特設してあった赤電話から東京で待っている母に慎介が電話した。

「もしもし・・・」連絡を予期していた母の不安そうな声。

「だいじょうぶ、受かったよ。」

「ううう、良かったね、おめでとう。」母が電話口で泣き崩れたのがわかった。

この時、この一年間自分だけでなく両親もみじめで不安な中一生懸命自分を信じ支えてくれていたことをひしひしと感じ、どっと涙が出てきた。

東京駅で母、妹と待ち合わせささやかなお祝い会をした。

なお妹は私立の日本工業大学の建築科に推薦入学が決まっていた。


いよいよ京大生としての生活が始まった。

いままでの下宿は本来予備校生向けだったようだが、特に生活に不便はないので(多少うるさくてももう受験勉強はしないので)このままいられないか家主にお願いしたところあっさりOKされた。これも京大生のネームバリューのおかげか。

最初に大学生活の説明があり、卒業するためには決められた科目を習得し必要な単位をとらねばならないようだ。

1,2回生(関西ではこう呼ぶようだ)は全学部共通の教養課程の単位を、また3回生で専門課程の単位、また4回生ではいわゆる卒業研究論文作成となる。つまり面白いことに同級生とは専門課程になるまであまり顔を合わせることがない。

同級生の中では大阪、堺出身の磯井守、茨城、水戸出身の今田正文とすぐ親しくなった。


大学へ通うようになってまもなく慎介は漠然とした失望感に襲われることになる。

具体的に何かを期待していた訳ではないが、しいて言えば色々なことがあまりに普通であったのだ。

なかなか自分自身を否定するようで表現しにくいが一言でいえば、

「京大ってたいしたことないね、こんなもんだったの?」が一番あたっているか。

もちろん入学早々で大学のことが全てわかるなどとは思っていなかったが、将来この感覚がわりと大切だったということに気づくことになる。

慎介がそのことを友人に話すと、

「そうやね、同感や。まわりをみてもアホばっかに見えるし。」と磯井。彼は家の事情で高校卒業後一度就職し、お金をためてから大学へ入った努力家で仲間の中ではぴか一の頭脳を持っていた。

「まあこんなもんじゃない。友人の東大へ入ったやつも同じようなことを言ってたよ。」と現役合格の優等生今田。

真面目に授業にでていても自由な時間は充分あった。

読書、思索、友人との意見交換、また浪人の時できなかった、京都、奈良の古寺めぐりなどを通し慎介の人生観が形成されていった。

教養課程にいる間いくつか面白い経験をする。

一つは外国語の科目選択だ。

外国語の英語、ドイツ語(第二外国語として工学部では指定)は必修科目で、先輩からの情報によると教師によって単位のとり易さに大きな差があるようだ。

たとえば出席さえすれば単位が取れる授業を受けられる、つまりその科目を登録することが重要になってくる。登録は早い者勝ちということで早くから並ぶことが必須とのこと。

慎介は下宿が近かった今田とともに登録前夜、時計台の反対側にある教養部の門前にむかった。

そこで見たものは、すでに50人近くの学生が並び始めており,なかには座卓を持ち込み麻雀に興じているものも居るありさまであった。自分もその中の一人であることも忘れ、

「やれやれ、そうまでして楽をしたいか。」

とうんざりする慎介であった。

列は深夜から早朝にかけてさらに伸びていき、混乱の坩堝と化していくのであった。

もうひとつは偽りの学生運動である。

慎介が入学した時は授業料がひと月千円であったが、文部省からこれを三倍に値上げするというような話が出てきた。

在学生には適用されず関係のないことなのだが反戦系のセクトが騒ぎだし代議員大会が開催されることになった。学生運動に少し興味のあった慎介はクラスの代議員に立候補し、代議員大会に臨んだ。慎介も含めクラスの友人たちが期待していたのは、授業料値上げ反対などではなく、学期試験期間中の教養部ストと封鎖であった。テストではなくレポートになるからである。

時計台下の大講堂で明け方まで演説を聞き、ストを主張する派閥に投票した。

試験期間がくるとなにかと理由をつけてストをしていたようだが気のせいか。

レポートでは慎介のレポートをほぼ丸写しした某クラスメートが優で慎介は良ということがあった。担当教授に文句を言いに行ったが、

「君のは字がきたなく読みにくかった。だから良。」とはっきり言われた。

たまたま行われたある学科の試験では、見知らぬ年長そうな学生が隣によってきて

「頼む、答案を見せてくれ、もう留年はしたくないんだ。」

おおらかな学生生活であった。


自由な時間ができた慎介にとって、古寺めぐりより興味あることがあった。

彼女をつくることである。

小、中、高と慎介はもてるほうで女の子から手紙をもらったりして余裕であったが、大学に入ってからは工学部で周りは男ばかり。はやりの女子大との合ハイでという手もあったが自分から努力しなければならないのは皮肉であった。

結局高校1.2年の時の同級生池島恵子に手紙を書く。

高校は銀座線の外苑前、恵子の家は小田急線経堂で通学の方向が同じで何回かいっしょに帰っていた。

「一浪の後京大に入りました。いかがお過ごしですか。あなたのことが気になっていたので手紙を書きました。」

返事はしばらくしてきた。

ドキドキしながら開けてみると、

「私も浪人しました。現在東京の私学稲門大の教育学部です。京都で学生生活を送れるなんてうらやましいです。」

好意的な返事に気をよくした慎介は、会いたい旨次の手紙で伝え、来月の稲門大学園祭の時という約束をとりつけることができた。

ワクワクしながらその日を待ち前日東京へ向かった。貧乏学生なので学割で切符を1800円で買い新幹線ではなく、まだ一本だけ走っている急行「桜島」に乗った。京都20時発、東京翌朝7時着であった。もちろんボックスシートの普通座席で寝台ではない。

慎介が車内で急行料金300円を車掌に払うとなんと100円札でおつりをくれた。まだ九州では硬貨ではなく札が流通しているようであった。

車中で少しまどろんでいるうち列車は東京に着いた。約束は午前十時、小田急線新宿駅西口改札。

時間の十分前から待った。

しかし時間をすぎても彼女の姿は見えなかった。

20分、30分、さすがに慎介はあせってきたがなにせ家の電話番号は控えてこなかったし、(聞かないでも卒業名簿を持っていた)あったとしても家に電話するのはかなり抵抗があった。

40分を過ぎたころ、慎介ははたと気づく。

「西口改札は地下と地上があった。」慎介は地下で待っていたのだ。

急いで地上にいくと、はたして彼女が不安そうな顔をして待っていた。

「池島さん、ごめん地下で待っていたよ。」

「ああよかった、永井君来ないのかと思った。」

「久しぶり、元気そうだね。」

会うことが決まって以来、下宿でいろいろ想像をふくらませていたがそのひとつが彼女の容姿であった。

もともと背は低く小太り気味であり、久しぶりに再会するとよりその傾向は強まっていたようだが特に気になるものではなかった。

一方慎介のほうは身長は180センチ、高校の時体重は90キロ近くだったが下宿生活のおかげで75キロになっておりだいぶ改善されているはずだ。

しかしその時はお互いにあまり相手の容姿を観察する余裕はなく、ただ会えてよかったという安堵の気持ちが強かった。

「大学に行きましょうか。バスで行くのよ。」

大学正門までバスに乗ったが、車中あまり会話はなし。

実は慎介は親の期待、家の経済状態から京大一本の志望だったが気持ちとしては稲門の理工があこがれであった。有名な時計台から彼女の学部まであちこち案内してもらったが残念ながら上の空。

彼女がクラスメートやクラブ(数学同好会らしい)の友人と親しげに話すのを見るのはなんか気分が悪かった。

昼が来たので大学のまわりにある喫茶店に入った。地の利を得ていないせいもあるが彼女のリードのままで

情けなかった。

何か気の利いた話題でもと焦る気持ちばかりでますますぎごちなくなるばかりであった。

結局夕方近くまでその喫茶店でねばり別れた。

「もう帰らないと。」

「今日はどうもありがとう。楽しかったよ。」

慎介にとって初めてのデートはみじめに終わったのだった。

想像していたものと現実のギャップに打ちひしがれ、気づいてみると次に会う話などまったくしなかったのだ。あんなに時間があったのに。

京都に戻り年がかっわた頃、気を取り直しもう一度恵子に手紙を出すことにした。

「前回は初めての経験でうまく話ができませんでした。やはりあなたのことが好きのようです。もう一度会ってもらえませんか?」

いろいろ考えたが直球勝負でいくことにした。

返事が来るか不安だったが、しばらくしてそれは来た。

「私のほうこそこの前はごめんなさい。暖かくなったらお弁当を持ってハイキングに行きましょう。」

ものすごくうれしかった。

すぐ今田の下宿へおしかけ気分よく話しまくった。理由はなぜか言わなかった。

「なんかいいことあったの?機嫌がいいけど。」

「いや、いつもこんなもんだぜ。」

そんなことはない。東京から帰って以来ふさぎ込んだ様子を今田には見られていた。一人でいると落ち着かなかったし、落ち込んで彼の下宿に泊まりに行ったりしていたのだ。

その後いわゆる遠距離交際を始める慎介であった。

色々なときめきを経験することになり、双方の家に招きあい親に紹介するまでになった。

一年があっという間に過ぎ、つまり大学二回(年)生のあいだ交際に没頭するのだ。

ぼんやりとではあるが結婚も意識し、学生であることがもどかしく感じてもいた。

ところがあるとき彼女から呼び出しがあった。

「ごめんなさい。もうこれ以上あなたとはお付き合いを続けられないの。さようなら。」

いきなりの別れを受け入れられない慎介は恵子が翻意してくれるよう努力するが結局だめであった。


なかなか精神的に立ち直れない慎介だがちょうどそのころ教養課程から専門課程に移るタイミングであった。

気分を変える意味で、長髪をバッサリ切りきれいに整え、また眼鏡も野暮ったい黒縁からメタルフレームにかえ着るものも小ぎれいなものにした。いままでは浪人時代の延長の姿をしていたのだ。専門課程の開始で久しぶりに再会したクラスメートからどよめきがあがった。

「おい、あれほんまに永井か?」

工学部の専門課程はなかなか忙しく、必修科目や実験等また下宿にもどっても課題やデータの整理に追われる日々を送ることになる。勉強に打ち込むことによって失恋の痛手から逃れようとしたのだ。


さすがに夏休みは時間の余裕があり、帰省した時に暇なこともあり学生援護会にバイトを探しに行った。

慎介の場合京都で登録していたが援護会は日本全国で利用可能なのだ。

そこでたまたま見つけたバイトが慎介にとって新しい人たちとの付き合いをもたらすことになる。

仕事は受験関係の出版社蛍雪社の全国模試の採点であった。

もともと仕事は3日間の契約であったが、一日で配置換えと一か月までの期間延長を提案された。新しい仕事は受験雑誌出版の仕事の補助とのことであった。最初の職場は周りに女子大生がたくさんいて楽しそうな環境だったので心残りだったがOKした。後で聞くと京大生だから引き抜かれたようだ。

バイトは蛍雪社の下請け会社が仕切っていて、そこの正社員として慎介の3歳年上の別府隆文とバイトの西嶋健介がいた。西嶋は一歳下の駿河台大3年生だった。

具体的な仕事は原稿の読み合わせ、整理、執筆する先生から原稿の受け取り等である。

要領のよかった慎介はうまく仕事をこなし蛍雪社の人たちから、さすが京大生と重宝がられた。

また別府、西嶋ともすぐ仲良くなり親交を深めていくことになる。

別府は宮崎出身、大学卒業後教師を目指すがうまくいかずバイトの延長でこの仕事をしているとのこと。

西嶋は兄が別府と知り合いでそのつてでバイトに来ていたようだ。

慎介にとって新鮮だったのは、初めての事務仕事であり(今まで肉体労働のバイト経験はあった)会社の職場というものを経験できたことである。

また学校以外での友人が初めてできたことは貴重であった。

特に別府は世間知らずの慎介の面倒をよく見てくれた。飲酒の経験が全くなかった慎介に手ほどきしてくれたのも彼であった。父親が全く飲まなかったのでいままで家庭での機会がなかったのだ。

バイトの後三人で高田馬場、中野方面でよく飲んだ。

体質的なもので、慎介は飲酒するとすぐ顔が赤くなり、ある程度飲むとすぐ気持ちが悪くなり吐いた。

「別府さん、もう気持ちが悪くてだめです。」

「ばか、それを乗り越えないと一人前の社会人とは言えんのだ。」

「飲め、それがだめなら歌え。」

よくわからないが、めちゃくちゃである。

「さ緑匂う神宮の~」とか、やけで高校の校歌など歌いだす慎介。

すると次は隣のグループからは違う校歌が飛び出し、歌声居酒屋の様相を呈してくるのであった。

しかし残念ながら、そのころにはトイレの中で死んでいる慎介であった。


そうこうしているうちに月日は流れ四回生になる。

いわゆる講座、研究室に配属され卒業研究に臨むのだ。

最初の問題はどこの講座にはいるかだ。大きく分けると有機化合物を合成する合成系と触媒を利用し反応を行う反応系、ノーベル賞候補の教授を擁する理論化学反応系の三つがある。

色々前評判など調べたが、慎介は内容重視で公害対策などにつながりそうな、触媒反応系の触媒工学講座を選んだ。ほかに就職に有利とか卒業研究が楽など重要な要素はあったが、あえて正攻法で選んでみた。

教授は退官まじかの新谷晴男、慎介の指導教官は助手の神田智之とのことであった。

初めての教授との面談、他に同級生は長島学、飯田正、菊谷和弘がいた。

「諸君らは触媒というものをどのようにとらえているかね? ええと君。」

永井が指名された。

「触媒というものは化学反応において、それ自身は変化せず反応を促進するものです。」

「きみい。そんなありきたりの答えは中学生レベルだよ。いいかね物事はすべて客観化することから始まるのだよ。・・・・・・。」これから始まり延々3時間の演説とお説教。

この教授の書いた文章、どんなに長くても最後の句点ひとつのみ。主旨を理解することは非常に困難であった。また会話が成立せず先輩の学生の中には我慢できず一年間を棒に振り、翌年別の講座に入りなおす者も複数いたそうである。

まさに反面教師であった。

次に指導教官との面談。

ここでは飯田正と一緒。他の二人は幸か不幸か教授の直接指導とあいなった。

「まず君たち二人には大学院修士課程へ進学してもらいます。試験が九月にあるのでそれまでは研究はいいですから試験勉強に努力してください。以上です。」

「神田先生、自分は就職希望なんですが。」慎介は言ってみた。

当然それまでに家族と進路については話していた。両親は大学院進学希望、一方慎介は家庭の経済状況等から就職希望であり絞り切れていなかった。

ちなみに修士課程は二年、一般企業でも技術職では修士卒がもとめられていた。博士課程はさらに三年となる。ともに論文が審査され修士、博士の学位が与えられる。

博士に進むと企業には求められず、助手の口を待つのみとなるようだ。

「永井君、きみの成績なら迷わず修士に進むべきですよ。それに就職のためには教授の推薦状が必要で、残念ながら君たちには新谷教授は書いてくれないと思いますよ。」

修士の定員は26名、講座の研究を維持するためにはそれなりの学生数が必要であるということなのだ。

はからずも研究室初日で大学の問題点、黒をも白と言ってはばからない教授を頂点とした徒弟制度の一端を垣間見たのであった。

慎介が入学当初感じた違和感の具現化されたものである。

この理不尽さを是正しようとする動きがいわゆる学生運動。

慎介は大学の3年間で学んだことがある。

高校までの学びは教師から学ぶ内容を与えられる学び。

大学では自分にとって何が必要かあるいは学びたいか考えて自分で判断し学ぶ。不必要かつ学びたくないものは学ぶ必要なし。

そしてそれをベースに自分がどうすべきか、何をしたいのか考えること、これが大学にいるうちにすべきこと。

そういう意味では研究室は極めて刺激的であった。

具体的には表向き修士進学をメインで準備し、公務員の試験であわよくばの就職も目指すこととした。

数少ない専門課程の必修科目の授業を受けながら受験勉強に傾注することになる。

京都の暑い夏の中勉強に励む慎介にある日東京の別府から電話があった。

「今年の夏は帰省しないのか? 蛍雪社の人もおまえを待っているぞ。」

「すみません、今年は受験勉強で帰れそうもありません。皆さんによろしくお伝えください。」

「OK,また来れる時はいつでも連絡してくれ。試験がんばれな。」

自分が他人から忘れられず、しかもまだ必要とされていることがわかりちょっぴり嬉しかった。

両方の試験で勉強する内容が異なる問題があったが、とりあえず両方勉強した。試験の時期は修士課程9月初、公務員8月初であった。

やはり世の中そう甘くはなく、公務員試験は国家上級職の一次が通っただけ。

修士課程は意外と問題が難しく苦戦するがなんとか合格することができた。

この時、同級生35名ほどにプラス外部からの受験者数名の受験であったが、定員の26名ではなく20名の合格であった。試験で半分できないと合格しないとのことだった。

友人の今田も合格、磯井は就職を選択していた。不幸にして不合格になった同級生は卒業後一年研究生としての身分で来年の試験合格を目指すことになる。

研究室の同級生では飯田が合格、長島は残念ながら研究生コース、菊谷は就職であった。

ちなみに学部で卒業する同級生の就職先は石油会社と商社が主だ。


ここで晴れて卒業研究の着手となるが慎介に与えられたテーマは一酸化炭素ガスの検知管作成であった。

検知管とはガス濃度を測定する簡易な器具でガラス管にガスと反応する薬剤を担持した細かいシリカゲルを充填したもので、ガスを通すと変色しその長さで濃度がわかるものだ。

「神田先生、世の中にすでに市販されているものを作ることに何の意味があるのですか?」

同席していた研究室の先輩、D-1(ドクターコース1年)下田、M-1(マスターコース1年)船田の顔色が変わった。M-2の町沢は皮肉そうな笑みをうかべた。

質問自体が徒弟制度の中ではタブーだったのだ。

「永井君、君は大学での研究というものをわかっていませんね。後で先輩諸君によく教えてもらいなさい。我々の研究室の目指すものの一つに完全変換反応つまり触媒層に入った物質がすべて反応するというものがあり、君のテーマはその一環なのですよ。また既存の検知管は濃度と変換長に直線性がなく我々はそれを目指すのです。」

「わかりました。」

釈然としないが時間もないことだしまあいいかと思う慎介であった。

すぐ下田と船田によばれた。

「ええか、永井君。まず神田先生の言うことはきかなあかんで。」

「あんたも修士へすすむんやからうちらと一緒に神田先生を支えていこうな。」

「はあ、そんなもんなんですか。」

しばらくすると町沢がニヒルな笑みを浮かべやってきた。

「研究室ってこんなもんやで。こういうところで上手くふるまわな。」

「町沢先輩は就職が決まっていて来年卒業でいいですね。」

町沢とは気が合いそうだ。


数日後、指導教官の神田から呼び出しがあった。

先日のお説教の続きかなと、かしこまりながら神田に相対した。

「永井君、君にお願いがあります。家庭教師を引き受けてもらえませんか? 相手は六甲高の一年で教科は物理、化学です。家は芦屋でちょっと遠いけど問題ないでしょう。」

意外な提案に戸惑う慎介。特に家から定期的に仕送りを受けていたので金には困っていない。

「先生、卒業研究に影響しないですかね。」

「心配いりません。とりあえず土曜日の午後が先方の指定時間です。引き受けてくれますね。」

なんとなくもう物事が決まっていて、断りようがない雰囲気に若干抵抗を感じたが、人から頼られると何となく嬉しい慎介は

「わかりました。お受けします。よろしくお願いします。」

「よかった。これが先方の名前、住所、電話です。今週の土曜日二時なのでよろしく。それとこの件は他言無用ですよ。教える相手が東洋船舶社長の跡継ぎ息子なので。」

いままでいくつかのバイトを経験していたが家庭教師は初めてである。

次の土曜日、約束の時間阪急芦屋川駅からほど近くの大きなお屋敷の門前にいる慎介、特に臆することは無く失礼の無いよう少し身ぎれいにしてきただけだ。

呼び鈴を押し、

「京洛大の永井と申します。神田先生の紹介でまいりました。」

「お入りください。」

遠隔操作で門が開いた。

豪華な応接室で当人と母親すなわち社長夫人との面談。

初対面の挨拶と簡単な自己紹介のあと

「科目は物理、化学で土曜日の午後ということでしょうか。」

「そうですの。ところで永井さんのご実家はなにをなさってるの?」

「父が建築士で自宅で設計事務所を自営しています。住んでいるところはアパートですが。」

このころ実家は三鷹から杉並区堀ノ内の都営アパートに移っていたがそこまで詳しくは言わなかった。

その後しばらく当たり障りのないやりとりがあり、

「それでは健夫さん早速永井さんにお勉強をみてもらいなさいな。」

雇い主はとりあえずOKのようだ。

健夫は高1にしては小柄で無口な少年だ。

ちなみに六甲高校は超エリート校で東大入学者数のトップを争う学校である。

いったい何を教えろというのか。

勉強部屋に入ると健夫はいきなりなにか図面のようなものを持ち出し慎介に質問した。

「永井さん、これなにか分かる?」

よく見るとそれは旧海軍の戦闘機紫電改の設計図であった。

実は慎介はいまでも軍事雑誌「丸」を愛読する,かくれ軍事おたくだったのだ。

旧海軍の艦艇ならシルエットで艦名をいえるほど詳しい。もちろん飛行機についても同様だ。

「紫電改の設計図じゃないの。なんでこんなもの持ってるの?」

旧軍の戦闘機は何種類もあるが外見が似たものが多く、よほど詳しくないと見分けは難しい。

驚いた表情を見せる健夫であったがなかなか疑り深い。

「じゃあこれは何?」

図面の中の主翼下面にあいた楕円形の孔を指す。

「それは排莢孔といって20ミリ機関砲の薬莢を排出する孔だな。」

健夫の信頼を勝ち得た瞬間であった。

「まあとにかく勉強しようか?」

おとなしくいうことを聞くようになった健夫から話を聞き、両教科とも基礎が分からないまま先に進んでいることに気付いた慎介は教科書レベルからやり直すことにした。

しばらくして休憩のお茶の時もう一つの事件がおきる。

「奥様がお茶をご一緒にとのことです。こちらへどうぞ。」お手伝いさんだ。

永井さん、永井さんと慎介にまとわりつく健夫を見て不審そうな目を向ける社長夫人。

一応立場上これからの勉強計画、すなわち基礎を重点的に行うことを説明し了承を得る。

あと取り立てて話題がないので周りを見渡すと部屋の隅にシャム猫がいたので近寄った。

「永井さん、その猫はオーレといってもう年寄りなのでなつきませんのよ。」と夫人。

「そうですか、どれどれ。お前オーレっていうのか?」しばらく背中やのどをやさしく撫でてやった。

席にもどって残りのお茶を飲んでいると、なんとオーレが慎介の膝に飛び乗りのどをゴロゴロいわせ甘えてくるではないか。

飼い主にさえなつかない気難しい猫の行動に全員びっくり。

「永井さん、魔法でも使ったの?」

実は猫も慎介の得意分野で、子供のころから猫は何匹も飼っており猫の鳴きまねをすると近所の野良猫でさえ寄ってくるという愛猫家であったのだ。

ひょんなことから当人、母親両方の信頼を勝ち得た慎介であった。

翌週すぐ神田のもとに夫人から今回はよい学生さんを紹介してもらったと感謝の電話があったそうである。

毎週末京都から芦屋まで通う生活がはじまる。

のちに慎介のこの行動を察した町沢から、このバイト先には神田が定期的に学生を送り込んでおり、長くても一か月程度でくびになっていること、また健夫本人から学生の家庭教師は永井だけで他の主要教科は六甲高校の現役教師、数学にいたっては有名な参考書の著者がじきじきに教えに来ていること等がわかった。

つまり健夫にとって物理、化学は受験科目ではなく、ただ高校で赤点さえ避ければいいこと、また慎介の役割は一番年の近い家庭教師として健夫の気分転換、息抜きの相手ということだ。

幸か不幸か一か月後の中間試験で、基礎を固める作戦が功を奏し物理、化学でそこそこの点をとることができ、ますます信頼される慎介であったがそのころにはバイトの拘束時間が土曜の昼から翌日曜の夜までに延長されていた。

つまり健夫が他教科を自習するときの監視役も仰せつかったのだ。頼まれると断れない慎介であった。


修士への進学が決まったタイミングで各企業からの修士課程二年間の奨学金の募集を知ることになる。

特に深い理由があるわけではないが慎介は財閥系の帝国化学工業に応募した。

たまたま他の研究室からも同級生が一人手を挙げ、二人で受験することになった。

奨学金をもらうということは実質的に入社を意味していた。

ひと月後結果は教授の新谷経由でもたらされ、残念ながら不合格であった。理由は定員一人のところへ二人応募したためであった。どちらの教授の顔もつぶせなかったのだ。

それには関係なく、新谷の三時間を超えるお説教をうける慎介の反省。

大学の中にいるとその小さな世界に埋没しがちになるが、京大教授の推薦状もオールマイティではなく世間の景気動向等配慮すべきなのだ。


そうこうしているうちに無事卒業研究も終え卒業式をむかえる。

まだ継続して大学に残るが、節目なので両親を京都に招待した。苦労してここまで育ててくれた、また大学生活を応援してくれたことへのお礼であった。幸い芦屋のバイトで金はあった。皮肉にも使う暇が全くなかったのだ。

卒業式の後、旅館で両親とゆっくりした。

「よかったね、おめでとう。」と母。

「まったくだ、それで修士のあとはどうするんだ?」と父。

「そうだね、博士までいくと企業に就職できないし、みてると大学の教員になるのもきびしいみたいよ。

だから就職するのが無難じゃないかな。」

実際ドクターコースに進んだ人は行き先がなく研究室に残り、オーバードクターと称し他大学を含め助手の口を待つ状況だ。

身分は研究生なのだ。

講座の定員は教授、助教授各一名、助手二名なのでそうそう人の流動化が起こりえない。


M-1(修士一回生)に進んだ慎介だが、研究室に事件がおきる。

新谷教授の定年退官である。

退官自体年齢で決まっているので事件ではないが、講座を継承するものが決まっていなかったのだ。

順当では助手の神田が後継者たるべきだが、助教授に昇格せねば権利がない。

ここで慎介には理解しがたい事が生じる。

「研究室の学生全員で新谷教授の家に行き、神田先生の助教授昇格をお願いしよう。」

研究室の学生ナンバーワン、ツーの下田、船田が言い出したのだ。

「ちょっと待ってください、それは納得できません。そもそも学生が口を出す問題ではないと思います。」

前からわかっている退官に何の策も講じない新谷の無責任ぶりに腹も立つが、そんなことは学科教授会の責任だ。

正面から反対したのは慎介だけ。もちろん行動には参加しなかった。

研究室内のかくれ批判勢力の仲間だった町沢はすでに卒業していた。

その後いろいろあったが結局神田の昇格はなく、他講座の教授が三名で兼務するということで研究室は継続されることとなった。

またこの件と相前後して開催された新年度のテーマ検討会での出来事。

上級生船田の研究テーマに慎介が疑問を呈することになる。

ちなみに彼のテーマは「吹き抜け構造の速度論的解析」だ。簡単に言うと通常は縦に設置した反応管にめいっぱい触媒を充填して反応させるところを管を水平に置き、触媒をその下半分のみ充填の想定で反応させるというものだ。

前々からこれに疑問をもっていた慎介は自身のテーマの不満足さもあって我慢も限界だった。

慎介の考えはこうだ。

そもそも工学部の研究テーマはまず実業への応用がメインであるべきで、原理的なものは理学部のテーマ。

部分的なものであっても、この研究は完成すると実際このように役に立つ、そのためにこの部分の技術的問題を解決するものだと示されねばならない。

実業から離れたテーマがあまりにも多いように感じていたのだ。

「船田先輩、そもそもこの研究は何の役に立つのですか?」

直接的には船田への質問だがもちろん神田を意識したものだ。

「え、それどういう意味?」

あまりにストレートな質問に狼狽する船田、

「船田君、M-2にもなってそんな質問に答えられないのは情けないですよ、抵抗が減るため流速を上げられ高反応量が達成できるということでしょう。」

いらだたしげに神田。

「しかしその充填状態で流速を上げると下半分においた触媒が吹き飛ばされ、反応管の後ろに吹き寄せられませんか?」

「まあそうならない程度の流速で実施する必要はありますね。」

それ以上議論は深まらなかったが、そのような慎介の言動に対する対応は直ぐあらわれた。

新谷の退官後の本館への引っ越しに慎介は加えられず居残りを命じられるのだ。

本館は百万遍のかどにあったが、新谷在任中は神田はじめメインの学生ほとんどが正門近くの別館、といっても倉庫に毛が生えたような研究室だが、になるべく影響を避けるべく離れていたのだ。

なんとその状態は半年ほど続き、四回生の学生と二人で別館にいることになった。

修士のテーマも与えられず何となくぶらぶらしていた。

そんなおり下田、船田のコンビがやってきて

「永井君、もういいかげんに神田先生に謝罪したらどうや。われわれが口添えしてやるぜ。」

「はあ、おっしゃってる意味がわかりません。私は謝罪するようなことは何もしていませんが。」

まともな議論さえできない大学なんてもうどうでもよく、修士に進学したことを悔いる慎介であった。

しかし状況は劇的な改善を見ることとなる。

あるとき修士課程の授業を受けていた慎介は授業後その教授に声をかけられる。

「永井君、ちょっと話しましょう。教授室へ来ませんか。」

分子軌道法の世界的大家、福島教授だ。のちにノーベル賞を受賞する。

慎介は三回生の専門課程でこの科目を熱心に勉強し、少ない人数にしか与えられない優を獲得し教授に名を覚えられていた。

「永井君、今どんなテーマで研究しているのですか? 新谷研の学生諸君がどんな状況にあるのか気になっていたのですよ。」

「実は先生、・・・」

現状を訴える慎介。

「そうですか、わかりました。」

話を聞いてもらえるだけでうれしかったが、自分を理解してくれる先生がいることがわかり大学も捨てたものではないと思った。

すぐに神田から呼び出しがあり、テーマが決まり修士の研究が始まった。

「NO無害化反応の速度論的解析」だ。

もう文句はいわず、粛々と卒業、就職を目指すことを心に誓った。

ちなみに船田の研究テーマが微妙に変わっていることを知る慎介だが特に感想はなっかた。


順調に研究生活を送っており、年二回ある触媒反応学会でも大学院の学生の務めとして発表を経験することになる。

ラッキーなことにM-1が北海道、M-2が九州と学会参加に旅行を兼ねることができた。

いちおう発表者は公務ということで、研究室から旅費が支給されたのだ。

しかしあれ以来慎介の生活は非常に不自由なものになっていた。

芦屋のバイトである。

自分の責任時間がどんなものか理解した慎介は、決して休まず、また時間を変更することなく役目を果たしてきたのだ。このとき健夫は高三になっており受験勉強の真っ最中で目指すは東大であった。

九州の学会の帰り、曜日の関係で夜行に乗り直接芦屋に向かい役目をこなす慎介。いままでもこのような綱渡り的スケジュールはよくあった。

「ご苦労様、九州から夜行で来てくれたそうだね。」と社長の父親。その日の夕食の席だ。

慎介の努力に健夫の両親も感謝し、良くしてくれていた。

二人とも忙しい中、時間をみつけると研究室に電話をくれ神戸あるいは京都の料理屋に誘ってくれたりしていたのだ。

家族同然の扱いに恐縮する慎介ではあった。

さらに父親が、

「ところで永井君、来年大学院の卒業だけど就職はどうするの?」

「永井さんは優秀だからきっと博士課程にすすまれるのよね。」と夫人。

「就職希望です。学んだことを社会で試してみたいのです。」

面接の答えみたいだが、研究室でいろいろあったので本心である。

「しかしいま就職は非常にきびしいよ。どんなとこが希望なの?」

ちょうど世間はオイルショックまっただ中で不景気に直撃されていた。社長に指摘されるまでもなく慎介自身漠然とした不安に襲われていたところだった。

「化学会社希望ですが、特にどこということはありません。」

「いま大手は採用を手控えているみたいだから厳しいかもしれないわね。この前お姉さまにお会いしたらそうおっしゃっていたわ。困ったわね。」わが身のことのように心配してくれうれしかった。

「まあどうしようもなければうちに来てくれてもいいけど、専門外だからね。」

「ところで大阪に本社のある明治化学を知っているかね。あまり大きな会社じゃないけどそこの社長さんと懇意にしているからよければ口をきいてあげられるよ。」

財閥系の大手ではないが化学会社の中では珍しく自社技術を標榜する会社であった。もちろん慎介もよく知っていた。

「ぜひお願いします。先輩も何人か入社していますし、神田先生の博士論文のテーマを実業で実践している会社です。」

「まあそうなの、じゃあさっそく話をすすめてくださいなあなた。」

週明けに教室の主任教授に訳を話すとちょうどその会社から学科に応募受付の知らせが来たとこだった。

「OKわかった。この会社はそういうことなら君が応募ということにしよう。今年は厳しくてなかなか採用されないんだ。少しでもそういうつてがある人を優先しないと難しいからね。」

同級生の大半は不況になる前の奨学金でほとんど就職が決まっており、慎介のようにまだ決まっていない学生は少数だった。

ちなみにこれまでに経験した不安定な時期、大学が決まらなかった浪人時代、そしてこの時の就職が決まるまでの時期のことはちょくちょく夢をみることになる。

入試が迫るのに全然勉強してなく焦る夢、卒業するのに就職が決まらない夢で、ともに目覚めて現実を認識しほっとするものだ。

それだけ精神的に追い詰められていたのだろう。

現実には社長夫妻が万全の支援体制でバックアップしてくれ無事就職が決まる。

慎介は両親とともに芦屋のお屋敷にお礼の挨拶に伺い、それをもってバイトも卒業となった。

昭和51年秋で健夫の合否がまだわからないのが心残りであった。


ちょうどそのころのある夜、下宿の家主から声がかかった。

「永井は~ん、電話どすえ。」

「は~い。」

「慎介、元気にしている?そういえば今度いつうちには帰ってくるの?」母親からだった。電話はほとんど慎介が外の公衆電話からかけていて家からかかるのは珍しかった。

ひとしきり何気ないやり取りをした後母親が言いにくそうに言った。

「今日そういえばあの池島恵子さんから電話があったわよ。なんか伝えたいことがあるとか。」

恵子との付き合いの後、慎介がなかなか立ち直れなかったのを見ていた母親は当然恵子にいい印象をもっていなかった。

「そうなの、だけどこちらからは用がないし、いま忙しいしね。」

ちょっと動揺しながら強がる慎介。

「今どうしてるか聞かれたから、大学院へ進み下宿も変わらないことを伝えといたわよ。」

瞬間的に話しながらどうしようかと考えた慎介に、母親が答えを言ってくれた。

「そうだね、なにか用があるなら連絡があるだろうしね。」

恵子と別れてから二年半ほどになるが、その間ずっと一人でいたわけではなかった。

何人かの人と付き合い、さらなる別れを経験していたのだ。

そのうちの一人とは彼女が家の事情で故郷の村上へ帰ることになり、京都駅でイルカの「なごり雪」そのものの別れをしていた。

はたして待つほどのことは無く恵子から手紙を受け取る慎介。

「前回のお付き合いの時はあなたの気持ちを受けられずごめんなさい。まだ学生の身分であれ以上深みにはまっていくのが怖かったのです。私は学部で卒業し、教員になりました。

できればもう一度会ってください。あなたの都合のいい時京都に行きます。」

別れ方が別れ方だったので、恵子に未練があった慎介は悩むことになる。

そして出した答えがこれだ。

半月ほど後の土曜日の午後、東京を出発する新幹線の指定席券を恵子に送ったのだ。

約束の日、晩秋の日差しがさす京都駅の新幹線ホームで待つ慎介。

まだ紅葉が楽しめ京都で降りる乗客は多い。

やがて列車が到着し、不安げに降りてくる恵子の姿が見えた。

「やあ、久しぶり、よく来たね。」

「おひさしぶり。切符送ってくれてありがとう。」

「昔の新宿西口での待ち合わせを思い出したよ、ところで予定はどうなっているの?」

時間的にはもう日が沈みつつあるころあいだ。

「父親には友人の家に泊まることになっているの。明日の夜までに帰ればいいの。」

「じゃあどこか泊まるとこを探さないとね、さすがに下宿に来てもらうわけにはいかないし。」

「あの、一人で泊まるのは心細いの・・・」

「わかったよ。」

まず恵子が来るかどうかも不確かだったし、その可能性も考えないではなかったが恵子の言葉にちょっとうろたえ、焦る慎介。

前回のこと、あるいは二年半のブランクを考えるとすんなり交際を再開することにいささかの抵抗はあったが、翌日大学や嵐山をまわって東京へ帰る恵子を見送るころには気持ちが昔にもどり、次にあう約束をしているのは自然の流れか。

「次は東京で年末だね。」

「今度は私が東京駅へ迎えに行くわ。」


昭和52年3月、いよいよ慎介は修士論文審査の日を迎える。

主査一名、副査二名の教授の前で論文内容を発表し質疑応答の審査を受けるという形式だ。

慎介にとって六年間のあるいは浪人時代を加えれば七年間の学生生活の総括である。

研究テーマについては個人的には満足できるものではないが、自分なりにテーマ自身の位置づけを考えていたのだ。

修士のテーマは反応の速度論的解析だが、その対象は触媒を用いた固定床流通反応で実用に通じる、またその時の研究室ではだれも行っていなかったが、触媒を実際に調製することに通じることを学士の研究で経験していたのだ。

慎介の発表が終わりひとしきり質疑応答が済んだあと主査の福島教授が意外な発言をする。あの一度慎介に救いの手を差し伸べてくれた教授だ。

「永井君、あなたが博士課程に残らないのが残念です。社会に出たら本学で学んだことを生かし活躍することを期待します。がんばってください。」

「ありがとうございます。がんばります。」

新しい世界に挑戦するタイミングでおおいに勇気をもらう慎介であった。


3 不信神な触媒


昭和52年3月末、入社式に臨むため、大阪駅にほど近い会社の宿泊施設に集合する新入社員たち。

不景気の影響で全員で十名、技術系七名、事務系三名全員学卒以上だ。

これから一か月近く集団生活を行い、研修、あるいは各事業所の見学などを行うという。

明治化学は大阪難波に本社、東京新橋に支社、中央研究所が大阪茨木、生産工場が横浜根岸、兵庫県高砂のコンビナート内、それと大阪茨木にあった。

修士卒は慎介以外四名全員が中研配属だが、慎介は自身の希望もあり大学の指導教官神田の研究テーマ「プロピレンの酸化」を実施している根岸工場に配属とのことである。

根岸配属は慎介のほか、事務屋の大東と山下。さすがに大阪ベースの会社だけに、関西の大学出身者のみで根岸勤務は島流しのような受け止めだ。

各事業所めぐりでは、そこに配属されるものが特別扱いされ歓迎されるという変な経験をしながら研修は終わった。

変な経験といえば給料がもらえることもそうだ。まだ本格的に働いていないこともあるが、大学時代との決定的違いである。


工場勤務が始まるが、慎介は寮に入ることを希望していた。六畳一間に二人で、幸い慎介は同期の大東と同部屋、もう一人の山下は現場の交代勤務者と同室になり苦労することになる。

ちなみに慎介は技術部配属でプロピレン酸化反応の触媒改良の担当、上司に主任(課長待遇)の中野、副主任(係長待遇)の藤田、二年先輩に同窓の田島、一年先輩に同窓同学科の岸田が同じ実験室におり、そのほかにもう一つ同じ仕事をしている実験室があり、さらに学卒三名がいた。それぞれ学卒の研究者に一名の高卒の人が助手としてついている。

会社の規模の割にはこの研究に精鋭メンバーをつぎ込み力をいれていることがわかるが、この時酸化プロピレンとその誘導体の製品が会社の売り上げ、利益のメインであったのだ。

酸化プロピレン(PO)だけで年間十万トン以上生産しており、反応の選択率つまり原料のプロピレンを反応させて酸化プロピレンを獲得できる割合が1%向上すると利益が1億円増えるといわれ、反応を支配する触媒性能の向上に力を入れるのは当然であろう。

ちなみに触媒とはどんなものかというと、化学反応を行う時不可欠なもので、反応を始めたり促進したりする働きがある。セラミック系の粒の表面に金属をまぶしたものが主な形で、身近なものでは自動車のマフラーにある排ガス浄化用のもの、あるいは使い捨てカイロの中身などがある。

慎介の指導教官神田と退官した教授の新谷は学会でこの反応の選択率100%の触媒を開発できたことを発表しており、特にこの実験室の人たちから非常に注目されてたことを知ることになる。

また触媒の研究をなぜ中央研究所でやっていないかは、開発した触媒をテストする反応ガスが工場だと容易に手に入るからだ。


また工場勤務ということで、すぐに微妙な経験をすることになる。

つまり生産現場はもちろん、触媒製造部門、また研究をしている技術部門では研究助手、触媒をテストするパイロット部門でもほとんど高卒の人が主流で、学卒はなにかと厳しい目で見られているのであった。

この時代誰でも大学に行けるわけではなく、家の経済状況で優秀でも高卒で働く人が多かったのである。

慎介にとってそういう状況はむしろ望むところだった。

大卒の肩書で仕事ができるものではなく、結果がすべてということは大学での経験からよく分かっていた。

大卒を鼻にかけず、高卒の人からも色々学ぼうと努力する慎介の姿勢は、おおむね高卒の人たちから好意的に迎えられるのであった。

配属されてすぐに現場の触媒交換の応援に出される。

作業自体は肉体労働そのもので、暑い中反応器の中に入り、汗まみれ、埃まみれになり製造現場の人と一緒に作業した。色々なことが学べまた現場の人に顔と名前を覚えてもらい、工場で働くうえで大変貴重な経験であった。


新入社員のうちはそう仕事が忙しいことは無く、定時で退社する日が多かった。

工場からバスで十分ほどの寮に帰り、入浴、夕食を済ませると特にすることもなく大東と二人で毎晩のように自分の見たこと、人から得た情報、うわさなどいろいろ話し合った。お互いに初めて経験することがほとんどで刺激的だった。

六畳一間で二人して万年床だったので足の踏み場がなく、帰ってくると二人して布団にはいっているという奇妙な生活である。

慎介は金曜日の夜から日曜日の夜まで東京の実家に帰っていたので、二人にとってストレスがたまることは無かった。


実験室での仕事が始まった。

当然初めは見習いなので、二年先輩の田島と一緒に仕事をすることを命じられる。

自分たちで触媒改良のアイデアをだし、そのアイデアに基づく触媒を調製し、パイロットにもっていき反応にかけ評価する。これが一連の仕事となる。

またひと月に一度検討会があり、結果とそのテーマの評価を議論する。

業務外では、雑誌会という勉強会も月一で催されていた。

慎介は研修期間中、根岸工場の見学時に工場の食堂で夕食を食べている時、田島に声をかけられていたのだ。

「永井君やね。今度一緒に仕事をする田島です。早速やけど配属されたらすぐ勉強会で修士の研究テーマ紹介してもらうから用意しておいてや。」

「わかりました。」

その勉強会では質問攻めにあう慎介。

研究テーマはきっかけにすぎず、質問はもちろんPO触媒に集中した。

「新谷研の研究室ではまだPOの研究はしているのですか?」

「いえ、もう終了したときいています。」

「PO触媒を見たことがありますか?」

「はい、触れませんが見たことはあります。」

「どんなでしたか?」

「現行のものより小さめで銀色の光沢がありました。」

「研究室ではどうやって触媒を作っていますか?」

「私がいる間、誰も作っていません。必要なときは研究室に保存してあるものを使っていました。」

「選択率100%は本当なんですか?」

「自分がいない時代のことでわかりませんが、研究室の実験のやり方を見ていればおおむね想像はつきます。100%も80%もあまり違いはなかったのではないでしょうか。」

「どういう意味ですか?」

「すみません、その言葉どおりです。」

等々。

残念ながら皆さんの期待には応えられなかったようだ。

ただ慎介は両研究室を見て確信したことがある。

仕事をする上での、反応、分析装置のレベルに圧倒的な差があり、それは評価の精度に直結すること。

間違いなく会社の触媒のほうが実用的には優れているであろうこと。

会社では理屈はともかく結果はごまかしようがない。つまり皮肉にも反面教師の新谷の口癖にあった通り、究極に客観化されているのだ。

他方大学では結果の評価に懐疑的なものが多く、理論先行で結論ありきの実験のあることを経験していた。

ただ会社の研究においては、行われているテーマをざっと紹介されたが、元素の周期律表の順番に第二成分を加えるようなことが堂々と行われており、触媒の本質から遠い感じも受けた。

神田先生の触媒を気にする理由がわかるような、そして自分でもこの職場でなんとかやっていけそうな気がする慎介であった。

しかし他部署での不首尾が慎介の運命を変えることになる。

技術部には慎介らのPO触媒グループのほかにPO誘導品を製品化するグループがおり、そちらでの仕事に不都合が生じていたのだ。

ある製品を商品化する計画が進んでおり、反応装置が一年以内に完成という時になっても実際使える触媒に目処がたたないというのだ。想定していた市販のものが長期の使用に耐えないことがわかったらしい。

すぐにPOグループから田島、岸田、永井の三人が応援に出され問題の解決を命じられる。

「なんで我々がそんなことせなあかんの。」

「人の尻拭いなんてかなわんわ。」

慎介と岸田は不満たらたらだが、意外と田島がリーダーシップを発揮する。

「会社にとっても重要なことやし、さっさと済ませればいいだけや。一年以上ということはないんやから。」


一方私生活だが、恵子との関係がいろいろあったが続いており、慎介も社会人になったし、お互い年も26になったということで結婚の話が出ていた。

問題がいくつかあり、ひとつは慎介が就職したてで貯金が全くないこと。ふたつめは家は相変わらず貧乏で

しかも慎介が就職してすぐ父が脳梗塞で倒れ、現在リハビリ中だがどこまで回復するかは不透明。

幸い妹の加世子は卒業後建設大手の加賀組に就職し同僚の社員と結婚していた。

「母親は家のことは気にせず結婚したらと言っているけど、やっぱり貯金の無いことが問題だよね。」

「いいわよ、わたしがいくらかあるし、結婚式と新婚旅行くらいなんとかなるわ。その後ちゃんと食べさせてくれればいいのよ。」

「まあ、それはもちろんだけど・・・・」

本当はもう少し待ち、お金を貯めたい慎介であったが、

「じゃあ、来年二月ということでどお。住むとこは根岸の新婚者用社宅になると思うけど。」

「いいわよ、それでいきましょう。式場は私が調べるわ。」


ある日蛍雪社のバイトで一緒だった別府、西嶋から呼び出され、久しぶりに飲んでいた。

西嶋も卒業後就職し、いまは小さな出版社で働いているとのこと。

「どうだ、会社のほうは?」

「そうですね、工場勤務ですがバイトの時の経験が役に立っていますよ。」

「そうか、それはよかった。ところでお前野球できるか? 今わしの友達と草野球チームをつくらんかという話が出ていて、仲間を募っているところなんよ。健介も参加するで。」

実は慎介は子供のころから遊びで野球をしており、高校ではクラブではなく同好会を結成し活動していたのだ。

大学の時も、北白川の農学部グラウンドで早起き野球同好会に参加しピッチャーとして活躍していた。

「是非参加させてください、望むところです。自分はカーブでストライクがとれます。」

「本当か?まあ誰が参加するかわからんし、ピッチャーができるか約束できんがまあ参加ということでいいな?ところでユニホームを作るんだが背番号に希望はあるか?」

「できたら三番をお願いします。」

慎介は子供のころから長嶋のファンだったのだ。

「わかった。三番はまだ空いてたかもしれん。」

半月後チームの結成会合のため中野の居酒屋にいる慎介。

メンバーは以前蛍雪社バイト時に面識のあった、健介の兄伸一、大東兄弟など別府の友人中心に十数人ほど集まった。半数以上は初対面だ。ほとんど出版関係で働いているとのこと。

設立の趣旨が確認され、日曜日の夜集まって飲むための前段の準備運動ということであった。

年上の者から順に希望のポジションを与えて様子を見ようということになった。

最初の様子見の試合の後、最年長なので監督になった長野から慎介は今後ピッチャーに専念するよう言い渡される。慎介より球の速い者はいたが、コントロールのよさが決定的であった。フォアボール連発では試合が進まないのだ。

キャッチャーは気心の知れた西嶋で、このあと二人でバッテリーを組んでいくことになった。

初試合以来何試合か順調にこなしていた。

さすがにカーブでストライクがとれると圧倒的で、素人に毛の生えたようなバッターに打てるものではなかったのだ。

三振の山を築いてもあまり意味がないので、つまり守っている人にも楽しんでもらうため、今日はライトに球がいってないなと思うと、外角高めの配球をしライト方向に球がいくようにする余裕もでてきた。

そんな中ある日の試合で事件はおきる。

その日慎介は特に好調で、そういう日はバッターが球を引っかけ結果三塁方向にボテボテの打球がよく飛んだ。

サードは背番号三十一の後藤、いつもはそこそこ守れるのだがその日に限ってはエラー連発でとうとう最後には自信をなくしたのか、足が動かず自分の脇を通り過ぎる打球を捕ろうともせず、ただ見送るありさまだったのだ。

さすがに頭に血が上った慎介はその回の守備が終わってベンチに帰った時、

「すまん、永井君。」と謝る後藤を無視し、グラブをベンチの壁に投げつけたのだ。

チームの空気が凍った。

「おい、永井。ちょっと来い。」

別府にベンチ裏によばれ、いきなり一発顔を殴られた。

「俺はお前をそんなつもりで呼んだんじゃない。」

その一発と一喝で慎介は目が覚めた。

ピッチャーをそこそここなしていることで、チームの中心選手のような気になり天狗になっていたのだ。

そして一番大事な設立の趣旨、みんなで野球を楽しむということを忘れていたのであった。

すぐにベンチの端でうなだれている後藤の前に行く慎介。

「後藤さん、申し訳ありません。大変失礼な態度をとってしまいました。どうか許してください。そして未熟なピッチャーですが引き続き守備をお願いします。」

涙と鼻血を流しながら謝罪する慎介を見てあっけにとられる後藤とチームメイト。

「監督、おれたちのエースの頼みをきいていいかな?」

この時後藤はサードの交代を監督に申し出ていたのだ。

「もちろんだよ。今日のサードは難しいから誰にしようか迷っていたんだ。」

肩をたたかれて振り向くと、健介がタオルを渡してくれた。

「とりあえず顔を拭けよ。まだ三回残っているぜ。」

試合は負けたが、その晩の反省会は盛り上がり初めてチームの一員になったことを実感する慎介であった。

帰りの電車の中、

「別府さん、今日はありがとうございます。」

「当たり前だ、俺はお前を連れてきた責任があるし、なによりお前のお袋さんに頼まれているしな。バイトを始めた当時、お前の家に電話した時、世間知らずの慎介をよろしくお願いしますと言っていたんだ。

これからも容赦せんぜ。」

「よろしくお願いします。」

慎介の人生において大変貴重な経験であった。


一方応援の触媒開発は佳境に入っていた。

期限は迫るが、使える触媒は無いという状況が続いていたのだ。

もう触媒開発はいつのまにか田島以下三人に任されるという状態。

時間は無かったが、さすがに大学出たての三人、理論重視の姿勢は変わらず基本的な触媒設計を一番大切にし議論に時間を費やした。やみくもに手当たり次第ということはしなかった。

しかもこの時の議論は理屈だけのものではなく、結果がすぐ出てきてその考え方が正しかったか否かがすぐわかるという厳しいもので、それぞれの主張の正しさを証明すべく意地になって仕事をした。

結果を出すために会社に泊まり込みもしていた。

自分たちで方針も決められたし、もちろん責任もあり極めて充実した時間であった。

大学にいる時より楽しかった。

そうこうするうちに三人の努力が実を結び、何とか実用に耐える物が出来てきた。

「さすがは京大三人組。悪いが次はこの触媒を現場で製造できるようにしてくれ。」

と技術部長の熊井、岸田、永井の同窓同学科の先輩でもある。

「ええっ、いい加減にしてくださいよ。開発が終われば応援終了じゃないんですか?」

と異口同音に三人。

「何を甘いことを言ってる、プロジェクト完成までが契約期間だぜ。学生の実験とは違うんよ。」

「やれやれ、毒食らわば皿までらしい。」と田島。

「・・・・・・」無言の岸田と慎介であった。

しかしその後不公平がおきる。

岸田のみが応援から外され元の仕事に復帰するのだ。

「田島さん、なんでわれわれは戻れないんですか? おかしいじゃないですか。」

「わからへんけど岸田さんは部長のお気に入りだし、この触媒の特許を書くためもあるそうなんよ。」

「へえ、そうなんですか。」

正直言うと、現場での触媒製造にも興味深々の慎介であったのだ。

また今回一緒に仕事をして、先輩二人の能力と人間性がよく分かった。

田島は高分子が専門だけに触媒の原理には詳しくないが、仕事をする上でリーダーシップがあり他部署との折衝も巧みである。ただ自分本位のところがあり少し強引なところがマイナス面か。

一方岸田は学究肌で、さすがの慎介もこの人には頭の良さでは勝てないと思うほどであった。

むしろ大学に残るべき人材のように思えた。つまり工場で働くような人ではないのである。

現場での触媒製造装置の設計、据え付け、試作テスト等に臨んでいく田島と慎介。

この間、慎介にとって少しだけ嬉しいことがあった。

触媒製造部門の人と一緒に仕事をしていた時、そこの若い高卒の人から

「ええっ、永井さんて学卒だったんですか? 全然そう見えませんね。」

と言われたのだ。

実は人生の先生である別府からも

「お前は優等生然として鼻持ちならないところがある。社会に出たら気をつけたほうがいいぜ。」

と指摘され、特に工場勤務になってからは意識していたのだ。

反対に、現場の窒素配管の下流側の圧力を下げるためにオリフィス(絞り板)を入れる場面に遭遇し、現場の課長さん以下の見ている前で化学工業概論の教科書からの公式をもとに孔の大きさを計算し、一発で数値を達成でき皆に尊敬のまなざしで見られたこともあった。

最後のころには現場の人たちと三交代(8:00~16:00、15:00~22:00、21:00~8:00)の勤務を一緒に行い、文字通り寝食を共にしていたのだ。


そんな忙しいさなかではあったが、予定の二月がめぐってきて恵子との結婚式を挙げる日が来た。

式は双方の親類、友人、職場の関係者等を招き東京、青山でこのころでは珍しい人前式、すなわち招待した人たちの前で行うものである。

恵子とはすんなりここまで来たわけではなかったが、慎介は幸せを感じていた。

しかしこの成り行きにはどこか無理があったのか。

式当日はあいにくの雨であった。

式は滞りなく終了し、翌日から九州へ新婚旅行へ出かけた慎介と恵子。

旅行二日目の鹿児島市のホテルでの夕食後、直前までの激務のせいか熱を出す慎介。

「ちょっと結婚に対して真剣みが感じられないわ。なんで直前まで残業なんかしてるの。だから具合が悪くなるのよ。あなたが全然協力してくれないから全て私がすることになったのよ。私のほうが一方的に結婚したがっているみたいで恥ずかしかったわ。」

確かに恵子が一人で式場から旅行、家具を揃えるまで手配していたのだ。

「おかげで私の貯金もかなり目減りしたわよ。」

支払いも恵子が負担していたのだ。

「申し訳ない、だけどこれからしっかり稼ぐからさ。」

「あなたの安月給では頼りにならないわ。わたしも当分教師の仕事続けるから。」

新居での生活も安寧は得られなかった。

社宅は根岸工場の近くにあり、2DKだが風呂がなく銭湯に行かねばならなかった。

悪いことは重なるもので、住み始めて二か月後、階上の住人のミスで洗濯の水を溢れさせ慎介、恵子の住戸が水浸しになる事件がおきる。

「もういや、私ここには住めない。引っ越しましょ。」

勤め先が東京、新小岩で根岸からは遠く、いままでも文句たらたらだったのだ。

さすがに限界を感じた慎介。

「いいけどどこに移る? 民間のアパートは高いし、公団の抽選もタイミングをはまだだよ。」

「これ以上待てない。経堂の私の実家にいきましょ。そこなら住める部屋があるし両親も歓迎するといっているわ。」

長男である慎介に恵子の両親との同居は抵抗があったが、状況は追い詰められていた。ちなみに恵子には弟がいるが父親と折り合いが悪く家を出ていた。

状況が状況なので緊急避難的に恵子の提案を受け入れ、次のことはゆっくり考えようと思い、

「いいよ、じゃあお義父さん、お義母さんにお願いしよう。」

式から数か月してようやく落ち着いた生活が送れるようになったが、慎介にとって恵子の親と同居というのは微妙なものがあった。

「どこか適当なアパート探して出よう。」

「アパートって簡単に言うけど家賃だって高いのよ。ここにいればその心配がないしね。」

恵子にとっては居心地が最高だし、また家を出ていくのは抵抗があるようだった。

このこと、あるいは些細なことが原因で頻繁にけんかをする二人。

恵子が親の部屋に行って戻らなかったり、慎介が家を出て実家に泊まるなどを数回繰り返していた。

そんなある日、恵子から思いがけないことが告げられる。

「赤ちゃんができたみたい。」

「ええっ、すごいじゃん。うれしいよ。よかったね。」

毎日の生活に追われ、子供ができるなどと考えたこともなく、驚きもあったが本当に嬉しかった。

おかげで家を探す選択はなくなり、子供が産まれ落ち着くまでここにとどまることが決まる。

二人に落ち着いた生活が訪れた。

もちろんそれ以降もけんかの種はいくらでもあったが、妊娠中の恵子を刺激しないため慎介が我慢したのだ。

やがて月日は満ち、出産の時を迎える。

病院の廊下で不安いっぱいで待つ慎介。

普段神仏を頼らない慎介だがさすがにこのときばかりは、

「神様、母子ともに無事に五体満足な子供が産まれますように。」

とひたすら祈った。

ようやくにして看護婦さんから声がかかった。

「永井さん、おめでとうございます。女の子でお母さんともども元気ですよ。」

どっと力が抜けた。

なによりほっとした気持ちが強かった。

すぐに赤ちゃんと恵子の顔を見に行く。

「おめでとう、よく頑張ったね。」

「大変だったわ、もういやって感じよ。本当に疲れたわ。」

「まあ、とにかくご苦労さん、ゆっくりしなよ。」

数日後、区役所へ出生届を出した。

子供の名前は事前に恵子と相談しており、女の子ならはるかで漢字で少しもめたが春香とした。

その足で病院へ母子の様子を見に行くが、思いがけないことが起こる。

たまたま慎介の両親が赤ちゃんの顔を見に来たが、ちょうど授乳のタイミングにあたりその姿を見られるのが嫌だったのか、恵子がひどく興奮していたのだ。

「あなたの親は人の胸をジロジロ見て非常識だわ。あなたの顔も見たくないし帰って。」

「あなたが家にいるから母親がご飯をつくる手間が増え大変なのよ、実家に戻ったら。」

大変な剣幕で、両親はただオロオロするばかりだ。

もともと慎介の実家とは色々な意味でギクシャクしていたのだ。

ここにきてそれが爆発したようであった。

看護婦さんを通して病院の先生に相談してみると、

「産後、精神的に落ち着かないこともあるのでそっとしておくのが一番ですよ。」

とのことであった。

結局将来に大きな不安を感じながら、その日を境に慎介は実家に戻ることになる。

数日後、そろそろ退院と思い病院へ行ってみるとなんと昨日退院したとのことであった。

なんで連絡もなしにと家に行ってみると義母が応対し、

「今日は疲れているのでお引き取りくださいとのことです。」

「どういうことですか? 自分の子供に会えないなんて理解できません。」

「とにかく又にしてください、会いたくないと言っています。では。」

嫌な思い出がよみがえった。

最初付き合った時の別れと似たような展開だったのだ。

しかし今回は結婚しているし、子供も生まれたのだ。そんな馬鹿なことが起こるはずはない。

そう信じたい慎介だった。

しかしそれ以来何回池島家を訪れても恵子と子供に会えることは無かった。

毎日自分の実家から出勤する慎介。

ある日勤務中、総務課長の南から電話を受ける。

「おう、永井か? ちょっと時間あるか。事務棟の応接室一番に来いや。」

高卒たたき上げの課長で面倒見のいいことで有名だった。

「永井です、何か?」

「おう、ちょっとすわれや。」

「お前、奥さんとどうなってる? 昨日電話があって子供が医者に行くんで健康保険証送ってくれと言っていたぜ。お前が保険証渡さないとも言っていたけど、なんなんだ?」

それまで職場等で子供が産まれたお祝いなどもらって非常につらい思いをしていたのだ。

「南さん、実は・・・・・」

すべて打ち明ける慎介。

「そうか、お前も苦労しているんだな。まあ時間が解決してくれればいいが、ある程度覚悟をする必要があるかもしれんな。保険証は送っておく。とにかく今後遠慮なく俺に相談しろ。

それとお前の直属の上司の藤田にはこのこと話しておいたほうがいいぜ。」

「あとお前今自腹で自分の実家から通っているんだろ。定期の変更申請しろ。住所変更の届け出が無くてもなんとかしてやる。」

「ありがとうございます。面倒をおかけしてすみません。」

「元気出せよ。」

その足で藤田に打ち明けた。

「最近元気がないんでどうしたのかと思っていたんだ。南さんには俺から話しておく。」

「実は南課長にはさっき・・・・」

「そうか、ところでお前今応援に出ているが大変じゃないか? 戻れるように部長に話そうか?」

「いえ、仕事は今のままでお願いします。私事でご迷惑はかけたくありません。」

「現場の仕事なんでケガなどしないように気をつけろよ。」

「わかりました。」

今まで一人で悩んでいたが応援してくれる人が現れ少し勇気をもらえた。

さらにしばらくして恵子から連絡があり、話したいという。場所は恵子の知人が経営する会社の事務所が指定された。二人きりで会うのは嫌とのことだった。

「もうあなたとは暮らせない、別れてください。慰謝料はいりません。」

「なんで子供ができたばかりで別れなきゃいけないの。絶対嫌だ。そもそも理由は何?」

「いまさらあなたに言っても傷つけるだけだから、いままでいろいろ我慢してきたのよ。」

「いいけど別れないからね、裁判所に調停を申し立てたから。こんなところじゃなくて、そこでちゃんと話をしよう。」

慎介はいろいろ調べ、夫婦関係を修復するための調停を家庭裁判所に申請していたのだ。

「そんな大げさなことしないでいいじゃない。」

「何を言ってるの、君はそれだけのことをしているんだぜ。」

もちろんその場で話はまとまらず、調停の場に持ち越される。

第一回調停の日、慎介はかすかな希望を持ち家庭裁判所に出掛けた。

別々に調停員に事情を聴かれ、間接的なやりとりがあった。

そのうち恵子が直接の話し合いを希望しているとのことで、調停員の前で話し合うことになる。

「夫である慎介さんは強く婚姻生活の継続を望んでおられます。」と調停員。

「わかったわ。その方向で考えます。もう裁判所に呼び出されるのは嫌。」

「申し立てを取り下げます。ありがとうございました。」

その後裁判所近くの喫茶店でアパートのことなど話し合った。

一旦その日は別れそれぞれの実家に帰る。

夜、恵子から電話があった。

「やっぱりダメ、別れてください。」

さすがに、もうどうしようもないと感じる慎介であった。

「わかった。離婚届はハンコを押して送るから。」

もちろん全然納得はいかないが、もうできることは無かった。

心身ともにボロボロになった慎介。

昭和54年4月のことである。


幸せだと信じていた生活がもろくも崩れ去り、抜け殻のようになっていた。

いったい何が悪かったのか。

どうすれば良かったのか。

つらい毎日が続いていた。

半年ほどたったある日、妹の加世子が遊びに来た。

「お兄ちゃん、私の友達の知り合いに別れたばかりの人がいるみたいよ。旦那さんとうまくいかないで小さな女の子を連れて家を出てきたらしいの。友達が言うにはきれいでいい人みたいよ。

どお、一回あってみる?」

別れたとはいえ自分にも子供がいるので、相手に子供がいても特に抵抗は無かった。

また一人の寂しさもだんだん限界にきていたのだ。

両親も薦めることもあり、慎介もその気になった。

「そうだね、よろしくお願いするよ。」

前回のこともあり今回は慎重であった。

まず加世子夫婦が先に本人に会い、様子を見た後慎介という手順になった。

前回のことでは加世子夫婦も巻き込み、迷惑をかけていたのだ。

なお相手は加世子の大学時代のバイト先で知り合った友人の大学の同級生、渋井香子さん、26歳、明治学園大卒で現在品川区の公務員、娘さんは三歳とのことだった。

「なかなかいい人そうだったよ。再婚に対しても前向きだし、ただ子供がいることを心配していたけど大丈夫だよね。ちゃんと受け入れられるよね。」

「まあ大丈夫だと思うよ、自分にも離れてるけど子供がいるし。それよりも相手に気に入られることが先じゃね。」

「まあそれもそうだね。今度の日曜日新宿で会うことになったから。最初私たちも一緒に行くからね。」

加世子夫妻と四人で紹介を兼ねた昼食を共にした後、二人で喫茶店に入る。

「つらい経験をされたんですね、大丈夫ですか?」

「まだひきずっていますね、そちらはもう平気なんですか?」

「私はもう別れて一年たちますし、その前も気持ちが離れていたからもうなんともありません。」 

聞けば香子も義両親と同居する中、そこから離れ結婚生活を継続しようと働きかけたが相手が応じず実家に帰ってきたとのことであった。

お互い同じような経験をしていることがわかり打ち解けるのは早かった。

また最初の結婚は不幸にしてうまくいかなかったが、もう二度と結婚は嫌だというのではなく、むしろもう一度チャレンジしたいという気持でも一致していた。

お互いに最初の関門はパスしたようであった。


慎介がプライベートな生活で新しい局面に差し掛かっている頃、仕事でも変化があった。

応援がようやくにして終了したのだ。

晴れて元の職場に戻り新しい気持ちで仕事に向かうことができた。

応援での仕事ぶりから、上司からは一人で自由にやってみろと任されたし、慎介自身も応援の経験から会社の仕事というものが分かり自信をもったところであった。

まず正攻法の基礎から攻める方針をたてる。

いままでの研究の歴史を調べたがほとんど参考にはならなかった。

素人の思いつきだけであったのだ。

そこで身近にある分析機器を使い、現行触媒の姿を多角的に調べてみた。

大学に比べ多種多様の機器がありそれを使うことに興味もあったのだ。

そしてひとつのヒントを掴む。

使用前の触媒はかなり有機物に覆われていて汚いのだ。

これをきれいにしたら性能向上が可能かもと考えた。

具体的には不活性ガス流通下での高温加熱処理だが、もともと示差熱天秤とその排ガス分析からの情報だったので、この方法は当然の帰結であった。

アイデアとして月次検討会で提案するが、諸先輩からは非難の嵐であった。

ほとんど全員から反対されたが、言い分をまとめると、

「反応温度の250℃以上で加熱するなどあまりにも非常識。」

というもののようだ。

「まあ予定している反応テストまでやってみますから、その結果を見て議論しましょう。」

「そんなもの反応するだけ無駄だ。」

「やってみないとわからないでしょう。そもそもあなたのやっていることのほうが無駄ではありませんか」

最初からけんか腰である。

スクリーニング用の小スケール反応管が30本あり毎日試作触媒のテストを行っており、テストのためこの反応管を確保するのが慎介のような新参者にはもう一つの仕事だったのだ。

しかしそれから半年ほどたち、加熱処理により触媒第二成分のKカリウムが多く必要なこと、また反応の耐久性、つまり寿命が延びそうなことが分かってきてから状況は一変する。

ちなみに触媒はアルミナ系の担体に銀を分散担持したものがベースでこれは業界、学会の常識で銀の分散の仕方、第二成分の種類、量などが研究対象になっている。

慎介のテーマが技術担当の専務中井の目に留まり、このテーマを促進するよう指示されたのだ。

「この永井君のテーマ面白そうだ、どんどん進めるように。」

さすが神の声。まわりからの雑音は一切消える。

PO触媒の改良は会社の重要テーマであることは説明したが、そのため二か月に一度ほど中井が工場を訪れ研究の進捗状況をチェックしており、その際慎介のような新入社員も会議に呼ばれ直接話ができた。

早速いままで藤田の助手をしていた野上が慎介のパートナーになることに指名され、仕事がやりやすくなる。都合の良いことに彼は慎介の一歳下であった。

高温焼成触媒の完成、成功にむけ、地道な努力が始まった。

焼成炉の導入、そして現場での製造条件の決定等すべきことは山ほどあったが、計画をしっかり立て、こつこつときっちり基礎を固めながら二人ですすめていった。

また応援に出ていた時の経験が大いに役に立った。仕事の進め方、他部署との折衝、現場の人との関係等である。

幸い野上との関係は年も近いせいか良好であった。

もちろん仕事の方針は慎介が主導で考えたが、どう作業を進めていくかは対等に相談し意見も受け入れた。

作業も平等に行い、従来の学卒高卒の関係ではなかったのだ。

連続実験をこなすため昼夜交代で勤務したり、会社に泊まり込むなど充実した生活であった。


香子との関係はいい方向へ進んでいた。

娘の暁子を含めたデートを重ねお互い、

「この人と結婚生活をやり直してみたい。」と思うに至ったのである。

二人だけで軽井沢の高原教会で結婚式を行い写真のみ撮った。

その後両親、兄弟だけ集まり食事を共にし、顔合わせを行った。

新居は香子の勤め先が池上線の戸越銀座だったので同じ路線の洗足池駅近くのアパートに決めた。

この時香子は中学校の事務員だったのだ。

勤めを続けるため暁子を保育園に入れねばならず、翌年の三月まで同居はできない。

慎介が先に一人で住み、週末を一緒に過ごす生活から始まった。

香子との関係は良かったが、新しく娘となった暁子への接し方に戸惑う慎介。

暁子は「パパ、パパ」と懐いてきて嬉しかったが、残念ながら愛情よりも父親としての責任感からか、どちらかというと厳しめに接していた。

両親からは顔を合わせるたびに、

「暁ちゃんを自分の娘と思って可愛がりなさい。春香ちゃんが新しいお父さんにいじめられていたらあなたはどう感じるの?」

と諭されていた。

色々手さぐりではあった。いずれにせよ将来、暁子が実の父親について知るときがくる。その時に恥ずかしく無いようにしていたいとは考えていた。

年が明け三人の生活がスタートした。

家は駅から1分で便利だったが、保育園が駅とは反対方向で15分ほどかかった。

この送り迎え、炊事洗濯の家事全般を香子は働きながらすべてこなしたのだ。

香子のほうが新しい生活に全力で取り組んでいた。

慎介は申し訳程度に休みの日に掃除をしたり、土曜日の午前中に暁子といるくらいであまり役に立たなかった。

前の結婚生活はつらい期間が長かったので、よくその時の夢を見た。

夜目をさまし、隣に香子と暁子が寝ていて深く安心する慎介。

いつもそっと寝ている香子を抱きしめた。

「どうしたの? また夢を見たの?」

「なんでもないよ。でも一緒にいてくれてありがと。おやすみ。」

洗足池での生活は安定しており、楽しかった。

香子との生活が始まり、慎介は新しい世界に足を踏み入れる。

スキーだ。

最初の冬、香子がスキーが好きだということがわかり二人で苗場スキー場に行くことに決めた。

軽井沢では一泊しかしなかったので、新婚旅行の気分でもあったのだ。

さすがに暁子はまだ小さかったので義母に預かってもらえた。

慎介にとってスキーは学生時代に二回しか行ったことがなく、初心者同然。

香子は反対に学生時代によくしてたようで、自信があるような口ぶりだった。

恐らくこれからもスキーは続けると思ったので、道具は一応買い揃えた。

ゲレンデの中にあるプリンスホテルに二泊の予約をいれた。

初日、到着してすぐ初心者コースでなんとか滑っていた慎介に

「もうここはあまり面白くないわ、私はあっちへ行くけどあなたはどうする?」

香子はどうやらもっと急な斜面に行きたいようだ。

一人でいるのも嫌だったので

「一緒に行く。」

と言ってついていった。

さすがに苗場の上級者コースは上から見るとまるで壁である。

香子は臆せずすいすい滑り、いつもはおとなしい彼女のまた違う一面が見られた。

足がすくみなかなか降りられない慎介。

すぐに香子がリフトで戻ってきて一緒に降りてくれた。

なかなかうまく滑れないがスキーは楽しかった。

またその晩、プリンスホテルのメインダイニングを予約しディナーを経験する。

二人でメニューを見ながら首をひねった。

初めての経験でどう注文したものか要領を得なかった。

「まあわからないんで聞いてみよう。」

フロアのスタッフを呼んだ。

「すみません、どんな感じがおすすめなんですか?」

「そうですね、特別のお好みがなければこのコースメニューはいかがですか? メインがヒラメとビーフの選択になっております。」

「君はどっちがいい?」

「私はヒラメがいいわ。」

「OK,じゃあ僕はビーフにするから半分こで味見しようね。」

「ワインはどうされます?」

「白と赤がいいんですけど。」

「わかりました、ハウスワインのグラスでよろしいでしょうか?」

「それでお願いします。」

「食前酒はどうされますか?」

「すみません、普通どんなものがあるんですか?」

「そうですね、一般的にはシェリーなどがおすすめです。」

「それにする?」

「ええ、いいわ。」

「じゃあそれを二つお願いします。」

なにごとも経験で、知らないことは素直に聞くことである。

慣れない食事だがスキー同様結構楽しむふたりだった。

安定した生活を送ることができるようになり仕事に全力で取り組めた。


仕事は順調に進んでいた。

会社における仕事で大学と決定的に違うところがいくつかある。

一番は結果を出すことが重視されるところだが、もう一つそれに関連した特許をとることである。

同業者間では世界的に技術レベルでしのぎを削っていた。

POプロピレンオキシドの触媒も例外ではなく、特に世界的企業のオランダに本社のあるUAB社がトップランナーで各種広範囲で特許を取得していた。

国内で5社PO生産を行っていたが、慎介の会社以外すべてがUAB社の技術を導入していたのだ。

やはり触媒の最適化を図っていくと、どうしても技術的類似性は避けられず、他社の特許範囲に近づく結果になってしまう。

ところが慎介のテーマは先輩たちから指摘された通り、あまりにも非常識、つまり従来の技術範囲から大きく外れるもので、他社の特許からの独自性があった。

この点も中井専務が注目した理由のひとつなのだ。

性能的にも当初期待した、耐久性つまり性能の経時低下が著しく少ないことが実証されつつあった。

このころ根岸工場のPO製造装置を更新、大型化しようという計画があり、慎介の触媒が新しい反応器で使用されるものの最有力候補になっていた。

会社の資本金に等しい60数億円を投資する一大プロジェクトということであった。

「永井さん、どうも我々の触媒が大変なことになっているみたいですね。」と野上。

「まあ、計画通り仕事を進めていこうや。しっかりデータを固めていけば安心だぜ。

むしろこういう状況になって、中間実験も触媒工場も全面的に協力してくれ、やりやすくなったじゃん。」

「そうですね。」

「そういえば昨日部長が、人手が足りないならなんとかすると言ってくれたけど、どお?」

「今の計画をこなすだけならいりませんけど。」

「そうだね、同感だよ。このままでいこうか。」

「ところで今日は定時で終われそうなんですが、その後どうしますか?」

「もちろん行こうよ、佐々木も誘おうか?」

パートナーの野上とは色々な遊びをしており、いまは工場の岸壁でのボラ釣りにはまっていた。

5~600円で売っている釣りセットで、エサは必要なく、さびきという仕掛けで釣るのだ。

岸壁にはボラが群れを成して回遊しており、30センチを超える大物が釣れ楽しめた。

時には、コノシロ、スズキなどもかかり、試作触媒をテストする部署にいる若手の佐々木が家に持って帰り食べようとしたが、油臭くてだめだったとのことだ。

釣り上げた魚を岸壁上に並べていたが、同じおじさんが何回かやってきて魚を持って帰っていた。

いったいあの魚をどうしたのか、謎だった。


洗足池のアパートで暮らし始めて二年ほど過ぎたある日。

「赤ちゃんができたわ。」

と香子に告げられる。

子供は暁子のほかにもう一人は欲しいねとは話していたのだ。

「まずは良かったね。それでどうしようか? このままここに住んで赤ちゃんを育てるのはちょっと難しいよね。」

「そうね、私は勤めを続けたいから産まれる赤ちゃんはしばらく面倒を見てもら必要があるわね。お母さんに頼んでみるわ。」

「うちの親は加世子が利用しているからね、申し訳ないけどそうなるといいね。産まれるギリギリまでここにいて、茗荷谷の近くに引っ越そう。」

香子の実家は文京区の小日向にあり地下鉄の茗荷谷駅近くだった。

赤ちゃんが産まれて、保育園に入れられる頃まで香子のお母さんに頼ろうという計画であり、これがお母さんに受け入れられる。

親も慎介、香子の結婚生活を応援してくれていたのだ。

結局赤ちゃんを毎日受け渡す煩雑さ等の理由から、近くのアパートではなく実家の二階に間借りすることになった。

以前実家では人に間借りさせており、二階はトイレ、台所があり独立した生活ができるようになっていた。

実際引っ越して住んでみると、平日の慎介は朝早く出るし夜もおおむね残業で遅く、夕食は二階の自分らの部屋で食べるか工場で済ませてくるかで、土日の夕食のみ両親と一緒で特に軋轢が生じることは無かった。

お義父さんはおとなしい人で、晩酌を日課にしていて慎介がつきあった。

おかげで慎介はだんだん酒が強くなり、また酒を飲む楽しさを知り、大げさに言えば人生の幅が広がったのだ。お義父さんに感謝である。

そうこうするうち香子がお茶の水の広楽病院で無事女の子を出産する。

もちろん慎介もその場にいて、先生からご主人も中で立ち会いませんかと誘われたが、怖かったので断ってしまった。あとで後悔する慎介。

母子共の健康に安堵するとともに、今度こそは子供とは絶対離れないと強く心に誓う。

すぐに顔を見に行った。

「よく頑張ったね、大丈夫?」

「平気よ、わりと楽だったわ。」

赤ちゃんの名前は女の子なら香子が決めることになっており、和美と名付けた。

今度は親子四人の生活が始まった。

暁子はちょうど小学一年になったところで妹ができたことを非常に喜んだ。

和美が産まれた翌年、慎介の身に大変なことが起きる。

暁子のおたふく風邪がうつったのだ。

慎介の母親に確認したが、子供の時にかかっていないという。

まず40度前後の熱がでて、非常に苦しむことになる。

さすがに近所の女医さんに往診を頼んだ。

もうその時にはとても歩いて医者に行ける状態ではなかったのだ。

すぐ入院という判断で、その女医さんの出身校の女子医大病院を手配し救急車を呼んだ。

慎介は二階の部屋で寝ていたが、来てくれた救急隊の三人はわりと小柄な人たち。

「すみません、下まで降りていけますか?」

「おきられません・・・」

「そうですか、じゃあしょうがないですね。」

ストレッチャーを椅子型にし慎介をのせ、三人で階段を降ろしてくれた。

非常に重そうで恐縮であったが、苦しくてその時はそれどころではなかった。

玄関から救急車に運ばれるまでも野次馬が大勢いて、

「あっ、暁子ちゃんのお父さんだ。」

などと、近くの公園で遊んでいた子供たちに騒がれた。

入院して高熱はさすがに一晩で下がったが、別の苦しみが始まった。

なんと睾丸がめちゃくちゃ腫れてものすごく痛いのだ。

看護婦さんが丸いビニール袋に氷を入れてきてくれ、それで冷やすと少し和らぐ。

しかし次の苦痛がやってくる。

女子医大病院ということで学習中の女医の卵が沢山いる。

その卵たちが大勢群れを成して慎介の腫れた睾丸を観察しに来るのだ。

「永井さん、非常に珍しいケースなので協力をお願いします。」

「・・ええ、しかたありませんね。」

10人くらいのグループでやってきては、代表者がゴム手袋をはめた手で上にある縮こまったものを邪魔そうにどけ、興味深そうに観察していくのだ。

さすがに三、四日たつとすっかり元気になったが、主治医の先生がなかなか退院の話をしてくれない。

十日目まで我慢したが、病院の事務に退院するから会計をしてくれるよう申し入れる。

「勝手に退院するとどうなるかわかりませんよ。」

「結構です、お世話になりました。」

自分で勝手に退院してきた。

大学病院も正直考え物だ。

病院から戻った慎介と香子には次の解決すべき問題があった。

住まい探しで、今度はマンションを購入する計画だ。

住宅情報誌を買いあさり、実際いくつも現地に見に行った。

和美も保育園に入れるつもりだったので、双方の実家に近いところから探し始めたがなかなかいいところが見つからなかった。

結果実家の拘束を外してみると、大田区多摩川の新築マンション、3LDKで2600万円、隣がやはり新築の保育園というものが見つかった。

自己資金、ローンの返済計画等勘案しこの物件の購入を決める。

もちろん慎介と香子の持ち分は半々とした。

昭和57年11月に完成、引き渡しがあり、まず慎介が一人で住み始める。

新年度はじめから和美が隣の保育園に通えることになり、そうすれば一緒に住めるのだ。

最寄駅は目蒲線の矢口渡駅でマンションは多摩川べりにあり、環境的にもまあまあだった。


根岸工場のPO製造装置改造工事完成まであと半年というところまで来た時、大変なことがわかった。

新反応器に使える触媒が慎介の触媒のみになってしまったのだ。

新しい製造設備には実績のある従来タイプの触媒が第一本命なのは当然であった。

しかし新しい反応器は従来のものから設計変更されたため、反応する条件がより過酷になっており従来タイプの触媒では一年も持たないのだ。

ここで一番あわてたのは触媒の責任者の技術部長熊井。

彼は石橋をたたいても渡らないといわれるほど慎重な性格なのだ。

毎日のように慎介のところへやってきては、

「おい、永井君、高温焼成触媒大丈夫だろうな? テストに問題はないだろうな?」

と聞いてきていたのだ。

「部長、大丈夫ですよ、大船に乗った気でいてください。」 

「泥船じゃないだろうな?」

そのころには現場で触媒を製造するときの条件の変動幅、あるいはPO製造時の反応条件の変化などを想定したデータなども十分とっており、現場での実績が無いだけで準備は万全であった。

しかしなにが起こるかわからないのも触媒で、一種の賭けのようなものである。

理論的なベースが無いだけに個人のセンスが問われる仕事だ。

例えば、ち密さと大胆さ、客観的と主観的な視点などが必要なのだろう。

つまり自分にできることをすべてやった後は、成り行きに任せるしかないということだ。

熊井はそれが泥船だろうが大船だろうがおとなしく乗っているしかないのだ。

結果は大船であった。

新しい製造装置が稼働し始め、反応のデータが打ち出されてくるのを製造部の管制室で固唾を飲んで見守っていた慎介はほっと安堵のため息をはいた。

予想通りの期待した数字が打ち出されてきたのだ。

なんか子供が産まれる時の気分と一緒だった。

「本当に良かった、なあ永井君良かったなあ。」

満面の笑みの熊井が印象的であった。

現実問題として彼にとってこのプロジェクトの成否が上の地位に上がれるかどうか直結しているのだ。

慎重な熊井は従来タイプの触媒のつもりであったが、慎介の触媒を選ばざるを得なくなってしまっていたのだ。

まあ運も実力のうちか。

慎介にとってはこの高温焼成触媒の成功が次の新しい世界を開くことになる。

ちょうどそのころ世界のPO生産会社のいくつかから触媒を買いたいという申し出がきていたのだ。

昭和59年で入社から7年がたっていた。。

この時対抗する会社が次々とリタイアし、世界のPO触媒の市場は国際企業UAB社の独占状態だった。

慎介の会社明治化学は珍しく独自の反応方式とその触媒を持っていた。

会社にとって反応方式と触媒のセットでいわゆる技術輸出の経験はあったがかなり過去のことで、相手もソ連と中国だった。

数少ない成功体験に酔っているうちに世界レベルからいつのまにか取り残されていた。

しかし今回のプロジェクトで新反応方式とそれに合致する触媒が完成し、また世界と話ができるようになったといったところだった。

触媒販売の窓口は東京本社(数年前に支社から改組)の国際事業部で、本件どう対応していくか会議がもたれた。

根岸工場からは工場長に昇進した熊井と慎介が出席した。この時触媒の開発は会社の方針でなぜか大幅に縮小されており、学卒では慎介のみ残され、係長に昇進し触媒の責任者になっていたのだ。

国際事業部からは部長の越後谷以下担当者。

「いままでPO触媒の引き合い断ってきましたが、今回新しい触媒が完成したそうなので応じていこうと思うんですが、どうでしょうか? 従来のものより性能はいいし、特許も問題ないと聞いていますが。」と越後谷。

「性能と特許についてはその通りです。工場から触媒は提供できます。販売についてはそちらが主体で責任を持ってやってくれるんですよね。」と慎重な熊井。

「もちろん販売についてはこちらが責任を持ちます、しかし物がものだけに技術的サポートは不可欠です。

今後永井君と直接やらせてもらってもいいですね。これから具体的に計画は立てますが、アメリカ、ヨーロッパの会社中心に訪問し引き合いに答えようと思います。技術のプレゼンは彼にやってもらいますよ。」

「結構です。永井君いいな。」

「はい、わかりました。」

「そちらは誰が担当されるんですか?」

「しばらく私が直接やります。」と越後谷。

「じゃあ永井君、このあと残ってくれるか? 具体的な打ち合わせをしよう。」

打ち合わせの後越後谷に誘われて新橋で飲んだ。

「じゃあさっき言ったようにパスポートは直ぐとっておいてな。それとあんたの英会話のレベルはどんなもんなんや?」

「学生の時お金を払って一年ならいにいきました。教室にドイツ人の留学生がいてそいつとよく話していましたが、そんなもんです。」

「まあ君らはテクニカルタームという共通語を持っているんで、自信をもってやりなはれ。」

「わかりました。よろしくお願いします。」

結局一か月後、アメリカ三社、ヨーロッパで具体的にはスゥエーデン、ベルギー、イギリス各一社を訪問しプレゼンすることが決まった。

初めての海外である。


本社からならともかく、この時根岸工場から海外出張なんて例のロシア、中国以来久しぶりであった。

少し昔なら各職場から餞別をおくられ、成田まで見送りの一行とともに行き出発なんてことがあったらしい。

慎介は初めてのことなので同行の越後谷と箱崎のJALチェックインカウンターで待ち合わせた。

会社の規定で海外出張はヒラでもビジネスだったが、

「おい永井君、君はついてるぞ、ファーストにアップグレードだ。」

「そうですか、ありがとうございます。」

なにしろ海外どころか、飛行機に乗るのも初めての慎介、そのありがたみなど分かるはずもない。

まずアメリカを回るので、会社の駐在員事務所のあるニューヨークを目指す。

最初緊張していたが、飛行機が巡航高度に達しワインと食事を楽しむ頃、すっかり快適さを感じる慎介。

同行の越後谷は、入社後アメリカの大学に留学の経験があるわが社きっての国際派の一人で人格的にもすばらしく、一言で表現すれば紳士である。

機中で彼の経験や、海外でのふるまい方など話を聞けて大変参考になった。その辺は慎介のまったく知らない世界で、これからそれが経験できるかと思うとワクワクした。

ちなみに今回の行程は成田からニューヨーク、そこの会社事務所でテキサスから出てくる会社と会議、ルイジアナのバトンルージュ、テキサスのヒューストンで各一社訪問、ニューヨーク経由でスェーデンのヨーテボリ、ベルギーのアントワープ、イギリスのスコットランド各一社訪問というスケジュールだ。

アメリカ国内は自社の駐在員事務所があり派遣されている社員が同行するが、ヨーロッパは現在事務所設立の準備中で今回は慎介、越後谷のみでまわる。

海外の仕事に長けていない特に製造会社はこういった場合、日本の商社を起用するが当然ある程度のお金を口銭として払う必要があるし、事業の独自性も失うので越後谷はそれを選択しないようだ。

現実として、現地での移動、通訳、食事、あるいは観光等を自分らでやらねばならないということだ。

言い換えれば商社を頼れば、担当者はそれらの恩恵を受けられるのだ。

慎介は越後谷の方針に賛同できたし、望むところであった。

14時間ほどかかってニューヨークに到着した。

成田を出たのが日曜日の正午であったが、到着が現地時間同じく日曜日の午前10時と体は真夜中なのに時間はまだ午前中。

これが話に聞く時差というものだ。

最初の外国人との会議はニューヨークの自社事務所で行われた。

会議自体は越後谷が仕切り、なるほどこうやってビジネスを進めるのかとかああこういう風に英語で表現するんだとか学ぶこと満載であった。

慎介はもちろん技術のパート担当で、相手の英語を理解するのに苦しんだが、入念に準備したせいもあり、また越後谷に事前にアドバイスされていて席をホワイトボードのそばにとり、ややこしいことはすぐ図などで書いて説明したので初めてにしてはスムーズにいった。

次の段階として先方のテスト装置で触媒を評価することで双方同意し会議が終わる。

具体的には先方工場を一か月後触媒を持って訪問することとした。

その日の夜の反省会を兼ねた飲み会、

「永井君、初めてにしてはなかなか良かったやんか。特に触媒に自信がある姿勢がはっきり出ていたところが良い、相手もいい印象を持ったと思うよ。」と越後谷。

「まあ、苦労して開発した触媒ですからね。それと部長のアドバイスのおかげです。海外での仕事もなかなか面白そうですね。」

「最近そういう人が少なくて困るよ、このニューヨーク事務所の社員もなり手が無くてね。

打診してもしり込みする人が多いんだ。困ったもんだよ。」この事務所も越後谷が責任者なのだ。

「そんなもんですか、もったいないですね。」

「あんた来たらどうだ、向いてそうじゃないか。」と事務所長の松田。

「いやいや、永井君は工場が離さないだろ。いまPO触媒は彼しかいないんだ。」

「しかしこの仕事を続けていったら、彼は出ずっぱりになりますよ。だって彼しかいないんでしょ?」

いみじくもこの松田の指摘は正鵠をついていたのだ。

ちなみに事務所はマンハッタンの真ん中にあり、ホテルはレキシントン通りのサミットホテルに泊まっていた。

ホテルに帰るとき事務所長の松田からこんこんと言われた。

「いいか、夜勝手に外へ出かけないように。マンハッタンは危ないんだぜ。特に地下鉄なんか乗らないようにな。」

しかし慎介はここでどうしてもしたいことがあった。

それはビリヤードだ。

学生時代、一時暇なときビリヤードにはまったのだ。

大学近くのビリヤード屋にいりびたり、そこの親父と親しくなり時々店番までしていた。

腕のほうもそこそこ上達し自分のキューを持つまでになっていたのだ。

マンハッタンのビリヤード場で一度腕を試したいと思っており、今回の出張は千載一遇のチャンスである。

ホテルに帰りイエローページで近いビリヤード場の住所を調べ、同じ通りの14丁目にあることがわかり、地下鉄で意気揚々と出かける。

目指す場所はすぐに見つかった。

「すみません。一人で一台借りたいんですけど。」

ちなみに昼間の経験から、英会話も中学レベルの文法で充分対応可能なことが分かっていた。

とにかく会話を成立させるためには、相手の言うことの中で最低一つか二つ単語を聞き分けること。

これが重要。

そしてあなたはこう言っているんですかという風に聞き直す。

そうするとこちらがどれくらい理解しているかがわかり、より分かりやすく言ってくれたりする。

単純にもう一度言ってくれますかは経験的にあまり役に立たない。

分からない言葉をもう一度言われても分からないのだ。

「いいよ、30分10ドルだ。それと一人だと賭けを持ちかける奴がいるが気を付けて。

空いているとこならどこでもいいよ。払いは現金で、30分前金ね。」

と球のセットを渡される。

慎介がやっていたものはポケットと言われ球を穴に落とすもので、関西では主流なのだ。

アメリカでも同様でちょうどこのころ有名な映画ハスラーが流行っていた。

10ドルを払い、いまいち不安なので親父のいるカウンターの前の台を選ぶ。

壁から適当なキューを選び球を落としていると、若い白人のお兄さんが寄ってきた。

「こんばんわ、ちょっと遊びませんか?」

来た来た。待ってました。

「ナインボールでよければ、一ゲーム5ドルでどうですか?」

と慎介、ゲームの種類は知っていたがレートの相場が分からなかった。

「いいですよ、トータルのゲーム数を決めませんか? 10ゲームでどうですか?」

と若者。なるほどゲーム数を決めれば最大の負け額がわかるわけだ。この場合50ドル。

「いいですよ。」

「じゃあ楽しみましょう、テッドです。」

「シンと呼んで。」

{中国人?」

「いや、日本人だよ。」

せっかく忠告してやったのにという顔をして見ていた親父の前で、あっという間に3連勝する慎介。

これで最大負け額20ドルまできた、相手がレートを上げても断ろうと決める。

しかしその申し出はなく、最後のほう手加減したのは慎介のほうで、結局慎介の20ドル勝。

まあまともな相手だったようだ。

しわくちゃの10ドル札2枚受け取り、

「テッド、ビール飲む?」バーカウンターに誘う。

「もっと強いのがいいな。」

次の相手を探すようだ。

「シン、明日も来るのか?」

「いや、明日はルイジアナのバトンルージュで仕事。」

「じゃあポーボーイかクレイフイッシュを楽しんでくれ。じゃあな。」

なんだかわからないがルイジアナに行ったら聞いてみよう。

テッドはいいやつだった。

ホテルに帰り極めて充実した一日に満足しベッドに入った。

後日、このことを知った松田所長が

「あの永井はとんでもない奴だ。人のいうことを全然聞かないで。そのうちひどい目にあうぞ。」

と言ったとか。

初めての海外経験だったが、ニューヨークは好印象であった。

街を歩いていて、自分が外国人ということをあまり意識しないのだ。

昼間会議後ホテルに戻る途中、道で田舎から出てきたと思われる老夫妻に

「エンパイアステートビルはどう行ったらいいんですか?」などと道を聞かれたりする。

色々な人種の人がいるからだろう。

この後バトンルージュとヒューストンを回るが、仕事は最初と同様の展開だった。

どこの会社も触媒のテスト装置を持っており、次のステップに進むこととした。

ちなみにポーボーイはプアーボーイで現地のホットドッグ。

クレイフィッシュは日本にいるアメリカザリガニであった。にんにく炒めがおいしかった。

さあ次はまた初めてのヨーロッパだ。

ニューヨークからパリ行の飛行機に乗り込んだ。

目的地はスウェーデンのヨーテボリ。


このスウェーデンの会社は業界で一番の高反応量で生産しており、つまり触媒への負荷が一番大きく三年間の使用期間の性能保証がいままで問題だったようだ。

しかし今回紹介する新触媒はそれがアピールポイントなので、先方の興味の強さから手応えがあった。

三年後の性能保証さえすればすぐ契約するというところまで話を詰めた。

会議後

「おい、永井君そういうことだから、根岸に帰ったら熊井のおっさんを説得してこの保証値を出してな。」

「わかりました、それは大丈夫だと思いますよ。なんとしてもひとつ実績を出したいですからね。」

「そうなんだ、本当は実績を作るために安く売ってもいいくらいなんだ。」

スウェーデンの印象、

岩がごつごつ出ていてやせた土地。

男も女も背が高い。

酒が恐ろしく高い、ホテルのバーで二人で各二杯で約一万円。

しかし越後谷部長が払ってくれた。

「君が今度若い人と来た時めんどうみてやってくれ。」 いい人だ。

そして料理がまずい。

次の目的地ベルギーのアントワープにはヨーテボリから小さなプロペラ機で向かった。

一応国際線なので、ビジネスクラスは酒に軽食などサービスされ快適であった。

ただし時間が短くあわただしいことこの上ない。

アントワープ郊外のスケルト川沿いの工業地帯に目的の会社BOC、ブリティシュオイルケミカル社はあった。

今回の訪問のメインで、ここでの会議後同社の研究施設がイギリス、エジンバラ郊外にあり、そこで触媒をテストすることになっていたのだ。

先方担当は二人で、ともにドクターのキントさんとビビルさん。

会議は主にテストの打ち合わせだった。

とりあえず小スケールの触媒テストをおよそ一週間行いたいとのことだった。

ビビルがエジンバラに同行するという。

打ち合わせ後、工場のゲスト用の食堂で立派なフランス料理をワイン付きでふるまわれた。

聞けばベルギーはなかなかグルメの国のようだ。

料理もワインも大変おいしかった。

ホテルへ向かうタクシーの中で、

「永井君、悪いけどエジンバラへは君一人で行ってくれんか? 僕は別件で回らんといかんとこができたんや。一週間後予定のパリのホテルで合流ということでどうかな。」と越後谷。

「ええっ、部長、自分ははじめての海外なんですが?」

「いままで一緒に見てたけど、あんたなら大丈夫だよ。なんかの時はホテルに電話してくれ、それにビビルも一緒だし安心よ。」

「そうですかね・・・・・」

評価してくれるのは嬉しいが、心細く心配な慎介であった。

まあ、なにごとも経験か。

初めてのイギリスだがスコットランドのエジンバラ。

着いてすぐに疑問がひとつ。

直ぐビビルに聞いた。ちなみにビビルはベルギー人。

エジンバラには旗がたくさんあり薄い青地に斜めの白のクロス、

「ビビルさん、あれ何の旗?沢山あるけど。」

「あれはスコットランドの旗だよ。イギリスの国名知ってる?」

「UKといって、ユナイテッドキングダムじゃないの。」

「そう、イングランド、スコットランド、北アイルランドがそれぞれ王国で独自の旗があるんだ。あの旗はスコットランド王国の旗、ちなみにイングランドの旗は白地に赤の縦クロス、アイルランドは白地に赤の斜めクロス、三つの旗を合わせるとできるのがユニオンジャックなんだよ。」

なるほど、世の中には知らないことが沢山あると感心する慎介。

またエジンバラではスコットランド銀行発行の一ポンド紙幣が流通している。

ヒースロー空港では一ポンドはコインであった。

旗と紙幣で、初めての訪問であったがスコットランドの強い独自性を感じることができた。

触媒の性能評価は順調に行われた。

しかし結果が出るまで一週間は待たねばならない。

一応ビビルが一緒にいるが、彼は彼で忙しいのだ。

ここの研究施設はBOCの大精油所の中にあり、北海油田から原油が直送されているのだ。

夜は大体一人で、ホテルの近くのパブに行った。

毎晩行くもんだから親父に顔を覚えられた。

「どこから来たの?」

「東京だよ。」

「日本人か、パブでのビールの頼み方知ってる?」

「知らない、教えて。」

「まず、ジョッキの大きさを言う、パイント又はハーフパイント、そして土地でいろいろな名前のビールがあるがラガー又はビターを選べばOK。」

これが後々大変役に立つ。

「次にここはスコットランドだからウイスキーについて教えようか?」

「是非お願い。」

「スコッチウイスキーの主流は混ぜないシングルモルトだ。大別して普通のものとスモーキーなフレーバーに分けられる。後者はアイレーと呼ばれ、スコットランドの西の島で作られる。製造過程でピートという泥炭を使用するからその匂いがつくんだ。」

「それぞれ代表的な物は何?例えばそこの棚にあるやつでは?」

「普通のやつでは、グレンモランジ、マッカラン、グレンリベット、スモーキーのものはラフロイグ、ダルモアなどかな。あと飲み方なんだけど日本ではどうしてるの?」

「水割りだよ。」

「なにそれ?」

「ウイスキーに水をいれ氷を浮かべて飲むんだ。」

「ええっ、信じられんね。水で薄めるなんて。味が台無しになるじゃないか。スコッチ&ウオーターは生のウイスキーとはべつのグラスに水を入れそれを横に置きストレートでのみながら、時折水を含むんだ。

スコットランドではこれしか認められん。帰ったら日本人に教えてやってくれ。」

「わかったよ、ありがとう。」

「ところで名前にグレンが多いけどなんか意味あるの?」

「いい質問だぜ。グレンというのはスコットランドの古い言葉のゲール語で小さい渓谷という意味だ。普通 そこには小川が流れており、だいたいそのほとりに一つウイスキーの蒸留所があるという訳だ。」

「分かりました、とりあえずそこのウイスキー端から味見していきます。」

「よしきた。」

そうして毎日ボロボロになっていく慎介であった。

触媒の一次評価テストは合格で、次に実際の反応管一本分の量およそ9Kgでテストすることとした。

時期はなるべく早くとのこと。

具体的には再度触媒を持って訪問することとした。

時期は一か月後目処。

エジンバラでの最後の夜、順調に仕事が終わったこともありビビルをエジンバラ唯一の日本食レストラン「さくら」に誘う。

刺身、てんぷら、寿司などを振る舞った。

初めての和食を非常に喜び、日本酒もおいしそうに飲んでくれた。

個人的なコメントと断りながら、

「シンスケ、今のままの条件でお前のところの触媒買う会社が出てくると思う。

うちの会社もその方向で結論を出すと思う。自信を持って販売を続けろ。」

初対面の外国人と一週間一緒に仕事をしただけなのに信頼してもらえたみたいで嬉しかった。

翌日ロンドン、ヒースロー空港経由でパリ、シャルルドゴール空港に着きオペラ近くのホテルスクリーブへ。

嬉しそうに結果を越後谷に報告する慎介、

「そうか、まあ君のほうだけでもうまくいって良かったよ。」

なんとなく浮かない顔で返事する越後谷、別件のほうがうまくいっていないらしい。

慎介は自分の担当する仕事が順調で気分が良かった。

しかし翌日、世の中はそう甘くないことを知ることになる。

空港で日本に帰国すべくチェックインしようとするとなんとJALがアンカレジの火山の噴火の影響で欠航しているとのこと。2,3日様子を見るらしい。

越後谷は帰国後翌日重要会議があるらしく、どうしてもと別便をあたりまくりとうとうスイス航空の南回り

を探し出した。しかしエコノミーらしい。

とにかく行こうということで、チューリッヒまで移動し成田行きを確認する。

カルカッタ経由のエコノミーであった。

日本へ帰ることが優先なのでとにかく乗り込む。

当然席は狭くおまけに満席で、工場各部署へのおみやげとしてウイスキーを10本以上持っている慎介にとって地獄であった。

頭上の荷物入れはすでに一杯で、自分の大量の手荷物は足元に置かざるを得ず文字通り足の踏み場もない状態でスイスから日本に帰った来たのだ。

まあ行きがファーストだったのでこれでトントンということか。

初の海外出張は慎介にとって極めて有意義であり、今後の彼の人生観を変えるほどの影響があった。

少なくとも仕事でもプライベートでも海外の魅力を知るきっかけにはなった。


{ただいま、帰ってきたよ。」

「おかえりなさい、お疲れ様。」

初めての海外出張での二週間は長かった。

ニューヨークからとエジンバラから二度短く電話しただけであった。

アメリカはともかくヨーロッパはホテルからの電話代が高く、越後谷がちょっと会社に連絡しただけでほとんどホテルの宿泊代に匹敵するほどだったのだ。

「パパ、おみやげは?」

「はい、これだよ。」

このとき9歳と3歳になっていた暁子と和美にはスウェーデンで若い娘が着る民族衣装を時間の無い中買っていたのだ。

和美は無邪気に喜んだが、暁子は反応が微妙であった。

おみやげもなかなか難しいことを知る。

「あたしのは?」

「なにもないよ、だけど約束、来年夏休み二人でパリへ行こう。」

香子は大学で仏文を学んでおりフランスには並々ならぬ興味を持っていたのだ。

今回も、

「いいわね、パリってどんなとこだった? 何食べた?」

などと聞いてきてきた。

実際はどの都市でもほとんど空港とホテル、そして相手の会社、工場の行き来でいっぱいなのだ。

海外を楽しむなら自分の金で、夫婦で行けばいいのだ。

「いいわよ、楽しみに待っているわ。その時自分の好きなものを買うし。」

その晩久しぶりに我が家で、心身ともに疲れた体をいやす慎介。

家族のいるありがたさを感じた。


その後触媒販売の仕事にかかりっきりになり、2か月に一回欧米を中心に飛び回ることになるが、その努力が実り、まずスウェーデンの会社とビビルの会社BOC社と成約することができた。

初めての海外出張からおよそ一年経っていた。

慎介の開発した触媒が世界に認められたのだ。 嬉しかった。

しかし喜んでばかりはいられない。

次はスペック通りの製品を期日までに生産すること。そして納入後もこれをちゃんと使ってもらうように生産開始時の技術指導、つまりスタートアップ時の立ち合いがある。

これらをうまくこなして初めて販売がうまくいったと言えるのだ。

実はこの二つも簡単そうだがそうでないことを思い知ることになる。

まず生産だが、今まで自社分の触媒しか生産していなかったこともあり品質管理という点ではまったくレベルに達していなかった。

触媒製造現場の実質責任者である山倉和夫と頻繁に議論しながらすすめた。

幸い山倉は実験室にいたこともあり、この仕事を積極的に応援してくれた。実は彼は慎介の麻雀と酒の友達だったのだ。

またこのころ実験室つまり触媒の開発が縮小され、大幅な人員削減があったのだ。

田島と岸田そしてパートナーの野上は他部署へ去ったが、その時慎介は岸田のパートナーだった桐谷を自分の相棒として引き抜いていた。

高卒だが夜間の大学を出ている努力家で、仕事に対する姿勢も真面目であった。歳は慎介の二つ下。

一人では触媒販売の仕事ができないことは分かっていた。

山倉には触媒の製造を、桐谷には客先での技術指導を中心にやってもらおうというアイデアであった。

またこの触媒販売の成功が根岸工場のPO製造部門にちょっとした恩恵をもたらしてもいた。

客先でのスタートアップ立ち合い時には実験室から触媒の専門家と製造部門から装置運転の経験者がペアで派遣されることになっていて、それを心待ちにする人がいたのだ。

海外出張が出来るからである。

時々工場の風呂で製造の人と顔を合わせると、

「永井さん、次はどの辺に売れそうなんですか? できたらヨーロッパ方面がいいですね。立ち合いが俺の順番なんだよ。」

「すみませんね、インドの会社が先に決まるかもしれません。」

「ええっ、それなんとか遅らすことできないの?」

まあなんでも職場が活性化することはいいことだ。

このころ順調に客先も伸びてきたが、立ち合いの面では非常に厳しい会社を経験することになる。

日本の会社が採用してくれたのだ。

採用を決めてくれた現場の製造課長さんが真面目で厳しい人だった。

今まで海外の会社ではコミュニケーションが充分とれないことをいいことにあまりつっこんだやりとりはなかった。

またあまり大きなトラブルもなかった。

しかしこの会社でのスタートの時反応のトラブルがあり、順調に反応が立ち上がらなかった。

連絡を受けて急きょ慎介と桐谷が現地に向かった。

「永井さん、折角おたくの触媒を採用したのにどうしてくれるんですか? これ以上生産計画から遅れるわけにはいかないんですよ。」

「分かりました、半日時間をください。原因を究明し対策を提案させていただきます。」

自信は無かったがそう答えるしかなかった。

桐谷と二人でデータを見ながら、あるいは先方の運転員に話を聞いたりして真剣に検討した。

結果自社で経験したことと同じ現象であることをつきとめる。

要するに反応装置の欠陥で反応器出口部分にガスの滞留部があり、そこで生成物の重合反応が起きている可能性が高いのだ。

特に触媒を替えたことによるものではなく、いままでにもこの現象は起きていたはずである。

最初は二人事態の深刻さに顔面蒼白で取り組んでいたが、状況を把握してからは余裕で談笑などしていた。

これを場所がないので先方の管制室の隅でやっていたのだ。

ちょうどその場にいた先方の運転責任者小川さんに様子を聞くと、確かに今までも同じことが起こっており問題だったようだ。

よし、それなら話は簡単だ。

しかし小川からは思いがけないことを言われる。

「永井さんは上司で学卒、桐谷さんは部下で高卒ですよね。なんでそんなに仲がいいんですか?」

二人で朝から真剣に議論していたのを見ていたらしい。

確かに桐谷とはよく酒も一緒に飲むし、言いたいことを言い合える仲である。

よくよくこの会社内の人間関係を見ていると、特に課長と部下は必要なこと以外は口を利くことはないようだ。トイレの中に上司の悪口が書いてあるのも驚きであった。

二人で顔を見合わせ、

「おい、桐谷よ、これってうちの会社の強みかもね。」

「そうですね。」

外に出てみるといろいろなことがわかるものだ。

その後の会議で改善策を提案し、問題が解決でき課長さんには大変感謝され、最後に家に招待され奥さんの手料理を振る舞われた。

しかしそれまで慎介と桐谷は、客先工場の管制室に二週間昼夜交代で勤務し続け反応を見守ったのだ。


慎介、香子ともお互いの仕事で忙しくしていたが夏休みに一週間休みを取り、約束通りパリに行くことにした。

暁子は小学生になっていたが、和美とともに茗荷谷の両親に見てもらう。

この時ヨーロッパ行にようやくシベリア上空を飛ぶ直行便が導入され、12時間でパリ~成田を結んでいた。

もちろんエコノミーで一人40万円であった。一緒にJTBでパリのモンタボーホテルを予約する。チュルリー公園の近くとのことだ。

行ってみるとホテルはそこそこで、なによりあこがれのパリなので香子は大満足であった。

ルーブル、オルセーほか、同じマンションに住んでいた暁子の友人家族がパリにいたのでそこを訪問したり大いにパリを満喫する。

しかしいつものように、ささいなことからけんかした二人は大きな災難に見舞われる。

夕食に出掛ける時けんかした二人は地下鉄のチュルリー駅にさしかかる。

慎介が先に改札を通るが、なぜか若い男が慎介と香子の間に割り込んだ。

香子は切符を機械に入れるがなぜかバーが動かない。

ガチャガチャしてるうちにようやくバーが動いた。その時は香子のすぐ後ろにもう一人、人がいたことを何も不審には思わなかった。

シャンゼリゼにあるレストラン、アルザス料理のラルザスのテーブルに着きメニューを見ようとした時、

「ポシェットが開いているわ、変ね。」と香子。

「中身大丈夫?」

「大変、お金がないわ。」

何もオーダーせず出てきた。

出張を重ね、旅慣れていると勘違いした慎介が、

「大丈夫だよ、トラベラーズチェックは使いにくいから現金を持っていこう。」

と心配する香子を説き伏せ日本の銀行で円をフランスフランの現金に換え持ってきていたのだ。

そして悪いことにこの時そのかなりの部分を香子が封筒に入れポシェットに入れていた。

また普段は香子を先に通す改札も、けんかのせいで慎介が先に通っていた。

結局改札の二人組に約10万円ほどとられた。

「まあ、お金で済んでよかったね。」

世の中甘くは無いと知る二人。

高い授業料だった。

幸いお金はそれ以外にも持っていたので旅行には差し支えなかったが、その晩はアルザス料理の代わりに売れ残りのクロワッサンと水で済ませた。

翌日現地ツアー、パリビジョンのロワール巡りに参加し、バスの中で隣のアメリカ人夫婦にスリにあった話をすると自分らもやはり地下鉄内で財布をとられたと盛り上がり、なんか気分が晴れる香子と慎介、やはりせっかくの旅だ、楽しもう。

このボストンから来た夫婦に紹介して盛り上がったもう一つのトピック、パリ郊外に住む友人を訪ねた時のこと、地下鉄を降りてから道がよく分からないので、歩いている紳士に香子が得意?のフランス語で道を聞いた。

いまいち通じなかったのか何回かのやりとりのあと、とうとう紳士が

「ドゥー ユー スピーク イングリッシュ」

と聞いてきたのだ。

香子は

「わたしもうやだ。」

とすっかり自信をなくしたようだが、よくある話である。

フランス語であれ英語であれ通じなくてもともと、通じればラッキーの感覚が重要なのだ。

最後の晩、オペラ座近くのグランカフェで生ガキを中心とした貝の盛り合わせ、フルイドメールをつまみながら、

「どうだった? お金はとられたけどパリよかったよね?」

「そうね、久しぶりのフランス語だったけど大満足よ。また来たいわ。」

「そうだね、また来よう。」

「今度はちゃんとトラベラーズチェックにしてね。」

「もうかんべんしてくれよ。この次はラルザスでちゃんとご飯をたべようね。」

「ホテルももう少し良いところに泊まりたいわ。」

「承りました。」

ゆったりとパリの夜は更けてゆくのであった。


「おい、永井君、大変なことになった、すぐ来てくれ。」越後谷からの電話である。

一旦家に帰り、背広に着替えて東京本社に向かう慎介、工場勤務なので普段はラフな格好で出勤し、すぐ作業服なのだ。

「遅かったな、まずはこれを見てくれ。」

英文のレターだ。

一読し、

「これはUAB社からの特許侵害の警告状ですね。」

「そうだ、どう対応するかまず内輪の会議をしよう。」

レターの内容はこうであった。

貴社、明治化学は欧米において、PO触媒を販売しようと活動し実際数社に既に販売しているようである。しかし当該触媒は弊社UABの保有する特許これこれ番に抵触する可能性がある。

ついてはこれを友好的に解決するために一度話し合いを持ちたい。

場所は貴社オフィスのあるニューヨークを提案する。都合の良い日程を知らせてくれ。

「で、実際のところどうなんや? 今日君に一人で来てもらったのは、正直なところを聞きたかったからや。」

「この特許は我々も先方出願時から認識しており、日本では先願との関係で特許無効の判断がでると思います。まあ、この辺は特許部の人から聞きましょう。

触媒中のKの量を問題にしようとのことでしょうが、うちの触媒は完全に範囲外ですよ。」

「まあ、その辺のところは社外の第三者のコメントをもらおう。

それより知りたいのは過去のことなんや、いままでの触媒はどうや? もし裁判になった時、過去のことが穿り出されることがあるし、それが一番心配なんや。なんせ根岸は秘密主義だからな。」

慎介は自分のテーマにたどり着く前に、自社の研究の歴史を調べており、根岸工場で過去使用していた触媒が一部かなりきわどいものもあったことを知っていた。

職場に配属されてすぐ、上司からは触媒の話はたとえ自社の同僚にも話してはいけないと厳命もされていたのだ。

しかしその背景をみてみると、こちらが特許を出し遅れたとかの一応理由のあるものでもあったのだ。

事実慎介の開発した高温焼成法も特許出願から一年以内に米国のライバル会社から全く同じ技術内容で出願されるということがあった。

結局は同じところにたどり着くということなのかと驚かされる。

「過去のことは調べましたが大丈夫かと思います。」

「そうか、まあ一度社長に報告しておこう、その時あんたも来てくれ。中井のおっさんは技術屋さんの言葉しか信用せんからな。」

その時、あの中井専務が社長になっていたのだ。

すでに世界には当該の触媒を使用しているお客さんがいて、引くに引けない状況でありまずは相手の要望通り会合を持つこととした。

会社は別件で特許訴訟を経験しており、その時起用したニューヨークの弁護士事務所トム&ジャックを起用する。

サムロック弁護士が前回同様担当になるが、この世界の重鎮だ。

当方は本件担当リーダーに越後谷、特許部から部長の田川、そして技術担当に慎介。

触媒は慎介しかいなかったし、根岸工場は過去の微妙ないきさつがあるので勿論だれも関わろうとはしない。

先方からは、触媒のビジネスマネージャー、当該特許の発明者ドクターウエストウッド、そして社内弁護士の三名が参加した。

なお重要案件ということで通訳として、ニューヨーク初代事務所長、現地在住の木島顧問にも参加してもらう。サムロックの友人でもある。

慎介はなによりウエストウッドに会えて感激であった。

この触媒の世界ではスーパースターなのだ。

「ドクターウエストウッド、あなたのような著名な方に会えて感激です。」

「あなたがドクターナガイですか、あなたの発明は我々も注目しているのです。今回の話が友好的に解決するといいですね。」

「すみません、ドクターでなくミスターです。」

大変な紳士であった。

しかしビジネスがからむと話は簡単ではない。

まずは明治化学の触媒が当該特許を侵害しているか否かを確認しようということは双方合意できた。

相手の主張は予想通り触媒中のK量で、しかも特許中に記載のある「表面上にある」量が問題とのことであった。

しかし当方からの主張、特許中に「表面上にある」の定義がないし、量り方も書いてないこと、つまり「表面上の」量を量りようがないことを指摘。

結局先方主張の、二回煮沸水洗と当方主張の煮沸水洗50回と希フッ酸による抽出を試みることとした。

場所はテキサス州ヒューストンにある先方指定の第三者分析機関で双方立会いの下。

これで第一回目のUAB社との会議は終わった。

この会議までの間に以下のことは確認されていた。

当該触媒はUAB社特許の上限値をはるかに超える量のKを含む。

その量は蛍光X線分析などの全量分析で確認できる。

簡便な煮沸水洗では50回ほど繰り返さないと抽出できない。

フッ酸などの強い酸では簡単に全量抽出できる。

最新の表面分析法のXPSを用いると触媒中のKは表面にあることがわかる。

その後当方弁護士をまじえ作戦会議が持たれた。

まずは話し合いで本件解決できればそれに越したことはないので、先方の要求に誠実に対応する。

また先のことをつまり裁判になったことを想定し、表面にあることを第三者に証明してもらう。

そのためにMITのマーチン教授を当方の技術顧問に起用する。

等が方針として決定する。

慎介と越後谷はボストンのMITを訪問し、マーチン教授と対応を協議。

ピッツバーグ大学でXPSの分析、

マンチェスター大学イギリスでSIMSの分析

を行い触媒中のKがいわゆる表面にあることを証明することとした。

ちなみにXPSもSIMSも最先端の元素分析ができる表面分析装置である。

またしても世界を飛び回ることになった慎介であった。


仕事は風雲急を告げ忙しい慎介だが、プライベートな生活は安定していた。

暁子は小学校、和美はマンションの隣の保育園に通わせ、香子と慎介は平日は仕事、休日は勤めの疲れでゆっくり過ごすという生活をしていた。

時には和美の保育園の友達の親同士でバーベキューを楽しむなどしていたが、特に親しくなったグループで温泉旅行などするようになった。

その中に同じマンションに住む池中夫妻がおり、ひょんなことから二人とも慎介の大学の二年先輩とわかり一層親しくなった。法学部出身で旦那は大手の日本鉄鋼勤務、奥さんは弁護士、ホームパーティやカラオケなど一緒に楽しんだ。

また毎年冬になると、新潟の石打スキー場に両家族で一緒に数泊するのが恒例になった。

スキーは子供たちの相手がメインで、大人たちは地元のにごり酒「美の川」を寺泊の海産物を肴にちびちび酌み交わすのが楽しみだったのだ。

お互い仕事は全く違う世界だったが、共働き等で生活環境が似ておりもちろん子供同士が友達ということもあり親交を深めていくことになる。

もちろん野球も続けていた。

この頃には、チームのほとんどのメンバーが関連する出版業界の人たちがつくる野球チームが6チーム集まって、リーグ戦を行うようになっていた。毎年各チームと一試合,計5試合行い順位を着け優勝を争っていたのだ。

個人成績も競っていたのも言うまでもない。

最初の年あるチームとの対戦で、その日は慎介もチームもすこぶる好調でこちらは毎回得点、相手はゼロ行進が続いていった。

時間切れで5回が終了し試合は成り立ち、なんとノーヒットノーランを達成してしまったのだ。

チームの誰も気づいておらず、試合終了後リーグ戦の記録員に言われ分かったのだ。

いつぞやの教訓から、エラーで足を引っ張られても黙々と投げ続ける慎介を見ていた別府から、

「おい、永井よ、一生懸命やっていると報われる時が来るんだな。」

すかさず女房役の西嶋が

「今日は俺のリードが特に良かったんだよ。」

「いや、本当の理由はフォアボールとタイムリーエラーがゼロ個だったからだよ。」

と小さい声で慎介。

「ばか、それを言ったらだめなんだ。」

とたしなめる別府。

「まあ何でもいいじゃないですか、とにかくチームが初めて達成したことです。今晩は飲みましょう。」

今度は大きな声で慎介。

「そうだ、そうだ、祝い酒だ。飲むぞ。」

このころチームの監督は、初代監督の長野が仕事の関係で引退し大東が引き継いでいた。

大東は設立の趣旨を守りチームの運営をしていた。

あくまで日曜日の夜楽しく酒を飲むために、友人同士が集まり野球を楽しむ。

久しぶりに来た人はへただろうがうまかろうが、フル出場が原則だったのだ。

勝利を優先するために、せっかく参加したのに試合が決まってからの代打のみというようなことは無かった。

チーム創立の時のメンバーが中心となり、この運営方針が守られていたのだ。

そういうところが他チームからはユニークなチームと思われていた。

強いのか弱いのかわからない、しかし愛される、うらやましがられるチームだった。

草野球チームが勝利を優先すると人の出入りが激しくなり結果まとまりがなくなり、最後には自分の守備位置も居場所も無くなるのだ。

慎介にとって野球とその人との付き合いは、仕事と同じくらい重要なものになっていた。

別府が飲みながら、

「おい、永井よ、最近仕事が忙しそうで海外にも頻繁に行ってるようだけど、野球は来いよ。付き合いも大事だし、なによりお前がいないと始まらないからな。」

「別府さん、充分わかってますよ。野球の日程を見ながら出張のスケジュールを立ててますから。」

「そうか、結構、結構、お前もだんだんわかってきたようだな。まあ飲めや。」

これは本当だった。

ある時は、日曜日の午後試合が終わった後成田に向かい、夜の便でヨーロッパにむかったこともあったのだ。

またヨーロッパでは金曜日中に仕事を終わらせ、夜発の便に乗り土曜日中に帰国、日曜日の試合に間に合わせることもした。

特にフランクフルト発のJALは夜9時発で充分に間に合うのだ。

ちなみにこの時分欧米中心に出張していたので期間を一週間とすると、日曜日日本発で欧米どちらも同日着、月曜日朝から金曜日午後まで仕事で土曜日現地発日曜日夕方成田着が標準的日程であった。

慎介は工場勤務なので翌月曜日朝八時からの勤務はしんどかった。


香子とは毎日の生活に追われていてよくケンカはしたがまあうまくいっていた。

夏休みには慎介の両親と一緒に温泉旅行などで箱根、日光とでかけてくれた。

いきなり子供を含めた生活から始まったので、二人きりでの時間が無かったのだ。

パリへ出かけた翌年、今度は二人で京都、奈良への一泊旅行を計画する。

香子は子供を親に任せおいていくことを嫌がったが、今楽しめることをしようという慎介が説得しようやく納得してもらう。

香子は真面目な性格で仕事のことで悩んだりして、胃が痛くなったりしていた。

そのたびに慎介が気楽にいこうと話していたが、なかなか自分の考え方や生き方は変わるものではない。

しかし結婚して一緒に暮らすということは、いくばくかは相手に合わせて自分を変えるということなので、

この旅行も一つの例なのだ。

そしてなにより話すより実行することが重要なのだ。

ある初秋の土曜日朝、新幹線で京都に向かう二人。

ちなみにこの頃香子は品川区の公務員だが、土曜日は隔週の休み、少し前までは毎土曜午前中出勤、慎介は一応週休二日だが祝日があると出勤となる変則的なものだった。

二人きりの旅行は苗場のスキー、パリ以来三回目だ。

毎日家事に育児に自分の仕事に、そして慎介の相手と一生懸命生活する香子を見ていてなんかしてあげたいと思い始め、日々の生活では掃除、簡単な食事つくり、買い物などをやりだした。

今回も香子の楽しみの一つが旅行とわかり、慎介が青春を過ごした京都そして奈良を回ろうと連れ出してきたのだ。

シーズンなので車内は混んでいたが、幸い指定席は二人席でゆったりした気分で京都に向かう。

「私、修学旅行が東北だったので京都は中学生以来よ。」

「京都のことならまかせて、どこでも案内できるし。」

「今日はすぐにまず奈良に行くのね、どこをまわるんだっけ?」

「京都駅に着いたら近鉄の特急の切符を買い、橿原神宮まで行き、自転車を借りて飛鳥寺を中心に観光するんだ。」

「石舞台もいきたいわ。」

「いいとも、そして今晩は京都に戻って泊まりはグランドホテル、駅の近く。僕が最初の受験の時泊まったホテルなんだ。明日は嵯峨野、嵐山のあたりを回るんだけどその前に大学と下宿を見に行こうか?」

「そうね、下宿は興味があるわ。」

「それと今晩何食べようか? ホテルのレストランは和食だけど。バイトしてた頃連れていてもらった料理屋さんを知ってるけど一見さんお断りの店だろうしね。」

「時間的にホテルで食べたほうがゆっくりできるんじゃない。」

「OK,じゃあそうしよう」

その日は一日秋晴れで暑いほどであった。

京都のホテルに戻り夕食後バーでくつろぐ二人。

「今日は楽しかったわ、明日香は初めて。二人を置いてきてでも来てよかったわ。」

「まあ今楽しめることはしておこうや、お母さんにお土産を買って帰ってご機嫌をとっておかないとね。

それと毎日有難うね、君と一緒にいられて幸せだよ。これからもよろしくね。」

「私もよ、一回目はうまくいかなかったけどあなたとやり直せてよかったわ。私のほうこそよろしくお願いします。」

「お互いに言いたいことは言い合ってやってこ。」

「そうね、そうしましょ。」


UAB社と二度目の会議を持ったのはそれからしばらく経ってのことであった。

場所は前回同様ニューヨーク事務所、当方は前回同様のメンバーで臨んだが、先方はビジネスマネージャーただ一人。

前回合意した分析結果など技術的議論を期待していた当方にとっておおいに当てが外れた格好である。

先方はもう話し合うつもりはなく、通告してきた。

「ビジネスから撤退せよ、さもなくば訴える。」

前回の紳士的態度はどこへやらで、本性を現したようだ。

もちろん受け入れられるわけもなく、会議は十分とかからず決裂した。

その後弁護士事務所で作戦会議を持った。

サムロック弁護士から指摘があり、

「先方の誠意のない態度は分かったと思う、もしここで裁判怖さに譲歩したら既に販売したベルギーで賠償を求めてくるのは必定、顧客のことを考えるとここで踏みとどまり戦うべき。

相手の手の内は分かったからこちらは定石通りまず相手特許の無効、具体的には表面上の定義がないこと、そしてこちらの当該成分が最新の分析で表面に特許の上限量以上あることを示し、非侵害をであることを主張する。

今回はこれで勝てると思う。」

「わかった、まず経営陣に報告しこの方針を了承してもらう。永井君はテキサスに行って分析サンプルを回収してくれ。其の後MITに行きマーチン教授と分析の詳細打ち合わせをしてくれ、この結果が非常に重要だからな。」

と越後谷。

「わかりました、すぐアポをとります。木島顧問に同行してもらっていいですか?」

「もちろん、重要なことなのでわしが同行しよう。」

ほどなくしてUAB社から二件の訴訟が起こされる。

一件はベルギーで特許侵害を理由に、明治化学とその触媒を使うBOC社に約十億円の損害賠償訴訟。

二件目はアメリカで明治化学が販売しようとする触媒が特許を侵害することの判断を求める訴訟。

会社の経営陣も先の基本方針を了承し訴訟を受けて立つこととした。

触媒上のK量の表面分析がキーとなり、慎介はボストンのMIT,イギリス、マンチェスター大学、アメリカ、ピッツバーグ大学を行き来することになる。

基本的には、最新分析法のXPS,SIMSとも触媒製造時に投入したK量がそのまま表面にあるという結果を示しており、問題なく明治化学が有利の状況である。

慎介たち技術陣の努力が実を結んだのだ。

そしてこの事実が経営陣の方針決定のための重要なポイントになった。

慎介もその会議に呼ばれ状況を報告していたのだ。

またベルギーでも裁判になったため、ブリュッセルの弁護士事務所と契約し訴訟に対応することとした。

ブルーノ、デレク氏が担当の弁護士となった。

ベルギーでは実際顧客もおり、それによる損害賠償も請求されているので負けるわけにはいかない。

ベルギーの場合、担当判事がそれぞれ特許、触媒、表面分析の専門家を指名し判事の判断のサポート役をするという。

また裁判手続きの主なものは、裁判所からの書類提出に応じることが主なものになるとのこと。

また判決まで代理人と裁判所のやりとりがメインで、原告、被告双方を伴うイベントはまずないとのことである。

デレク弁護士のコメントは簡潔だ。

UAB社の特許は、表面上の定義が無いため特許無効の可能性が極めて高い。

また第三者の表面分析の権威から明治化学社の触媒上に当該成分が特許範囲外量存在するというお墨付きが得られれば、非侵害は認められる。

極めて妥当で見通しは明るい。

ベルギーでの唯一厄介な点は、被告がもう一社顧客であるBOC社がいることである。

何をするにも相談しながら共同歩調をとらねばならない運命共同体であるが、万一負けたら賠償分をどう払うか争わねばならない相手でもあるのだ。

一方アメリカでの状況は複雑であった。

なんと特許裁判に陪審員制があり先方はそれを要求しているのであった。

偶然集められた善良な一般市民に表面分析等の技術論が理解できるというのか。

ちょうどこの頃、日本の自動車が大挙アメリカに押し寄せており、同じ論法でこのケースも日本から製品がアメリカに来て、アメリカ人の職場を奪うという素人受けする主張が予想されるとのサムロック弁護士の見立てである。

じゃあこちらはどうするのか。

UAB社の意図は競争相手のいない市場の独占であり、結果これが関係する製品の値上げにつながり市民に影響するとの主張をベースにする。

しかし正攻法の技術論もしっかり行うというものだ。

手続き的にも複雑で、色々な選択肢があるとのことである。

通常の手続きはまず先方が特許侵害でまたこちらが特許無効で訴訟を起こしているので、それぞれの原告が証拠集めのために相手に対し必要と思われる書類などの提出を求めることが可能で、応じなければならない。

これが実は想像を絶するほど大変で、今回のケースでは相手から明治化学のPO触媒に関する殆どの書類の提出が求められていた。

開発、製造、現場での使用、販売等々に関する書類である。

具体的には、会議の議事録、生産の記録シート、個人の実験ノート、出張の報告書など多岐にわたる。

証拠はこの時にすべて提出し、後からは認められないのだ。

また必要あれば関係する個人から証言も求めることが可能で、すでに相手方から当該触媒の発明者である慎介が証言人として指名されていた。

またアメリカでは法廷での審理と並行して当事者同士の和解への話し合いも可能で、こちらも進められることになる。

社内では本件越後谷が担当チームのリーダーとして扱われ、慎介が一介の係長だが技術担当の責任者であった。

根岸工場の過去まで慎介の肩に乗ってきたのであるが、望むところであった。

実際根岸工場でも過去のことに詳しい人はもういなくなっており、現実問題として慎介に任せるしかない状態だったのだ。

まず相手方要求の書類を集めねばならない。

もちろん対象の書類は工場内にあり、これを要求に応じてコピーしなければならない。

これがまた大変な作業で、状況をよく理解している桐谷と山倉、そして実験室の若手二名で作業チームを結成し工場の一室にこもり作業に没頭することになる。

この書類をもとに相手方弁護士から尋問されるので、開発、販売等のストーリーを構築しておく必要があるのだ。


ある日妹の加世子から電話をもらう慎介、

「お兄ちゃん、おばあちゃんが入院している病院の先生が、家族の人に話があるそうなのであさっての夕方病院へ来てくれる?」

しばらく前から母親の三井が体調を崩し、検査のため実家近くの病院へ入院していたのだ。

妹の加世子は結婚退職後建築士の試験に合格し、子供二人を実家に預け建設会社に再就職していた。

何となく嫌な予感はしたが、約束の時間担当医に面会する。

「お母様ですが、残念ながらすい臓がんの末期的状態です。これが血管造影の写真ですが・・・・」

後は全く耳に入らなかった。

頭が真っ白になった。

母親はまだ61歳なのだ。

「あとどれくらいですか?」

慎介がかろうじて聞いた。

「恐らく半年もてばと。」

病室に戻り母親と話をしたがまともに顔を見られなかった。

しかし普段通り振る舞わねばならない。

加世子と相談し、退院させ近所のかかりつけの医者に痛み止めを頼み母親を家で過ごさせることにしたのだ。

「すまないねえ、忙しいのに、わざわざ来てくれたのかい。」

「よかったね、明日退院できるそうだよ、だけどしばらく無理はできないと先生は言っていたよ。」

妹夫婦が近くに住んでいるので、様子を見てもらうことにしてその晩は家に帰る。

途中どうやって帰ったのかまったく記憶にない。

家に帰り香子に話した時何かがくずれた。

もう我慢できなかった。

香子の膝で思い切り泣いた。

自分がいかに母親を愛していたのかこの時初めて実感した。

母親の兄弟は五人いたが全員短命で、既に母親一人を残しみな亡くなっていた。

母親は働き者で、我慢強い頑張り屋だ。

今回も体の不調をすぐに訴えなかったため手遅れになってしまったのだ。

わがままな夫に我慢し、貧乏にも耐えこれからという時に、苦労ばかりの人生に思える。

親孝行もできていないのにこの運命は残酷すぎる。

慎介にとって心の救いは香子であった。

「あなた、悲しいことだけどお母様が生きていられるうちにできるだけのことをしましょう。

まず、お母様の好きな京都に一緒に行ったらいいわ。あなたがまた大学を案内してあげたら喜ばれるわ。そしてどこか静かなところで京料理でも食べましょうか。」

「そうだね、ありがとう。ホテルは僕が受験の時泊まったグランドホテルにしようか。料理屋は下宿の近くの下鴨茶寮がいいかな。」

「明日あなた東京本社で会議って言ってたわね。帰りに早速新幹線の切符買ってきたらどお。お母様の体を考えたらグリーン車がいいんじゃない。」

「そうだね、新橋駅前のチケットショップで買えば安く買えるしそうしよう。」

香子のおかげで気がまぎれたし、自分の今すべきことが整理された気がした。

両親と香子、慎介が京都を訪れたのはちょうど四月の初め、桜の花が満開を迎えた頃であった。

体はだいぶしんどかったはずだが母親は素直に喜んでくれた。

一泊旅行で、両日タクシーをチャーターし京都の町を回った。

タクシーの運転手さんが親切な人で、母親に気を使ってくれ無理なく行程を組んでくれて良かった。

「京都はやっぱりいいねえ、お前はこんなところで勉強できたんだね。なんか来たがってた訳が分かるような気がするよ。元気になったらまた違う季節に来たいね。」

「そうだね、次はモミジの季節なんかいいんじゃないの。」

こんな会話が胸に痛い。

もう来年の桜は確実に見られないのだ。

隣にいる香子の顔を見ると目が潤んでいる。

つらい旅行であった。

この後も出張の続いた慎介は、ホテルの部屋の電話についているメッセージランプが点灯しているのを見るたびに、恐る恐るオペレーターに確かめるのだった。


今回特許の裁判を通して当たり前のことだが再認識したことがある。

裁判をどうもっていきたいかは自分自身で考えねばならないということで、弁護士はあくまでアドバイザーに過ぎず、むしろうまく利用すべきということである。

もうひとつの表現をすると弁護士はその立場上、悪事には加担しないということ。

つまりこちらに都合の悪いことがあった場合、それを弁護士には相談できないということである。

裁判に持ち込まれるということは、お互いに真っ白や真っ黒ということはなく、白や黒に近い灰色からお互いにどれだけ白かと主張しあう、また黒い部分を暴きあう活動になる。

今回の場合、その黒い、いやかなり黒に近い灰色の部分は根岸工場の過去にあった。

もちろん慎介の入社前のことであり、当該の触媒とは関係なかったが先方要求の書類の中に該当するものがあったのだ。

現在の触媒での争いなら間違いなく勝てる。

過去の触媒に足を引っ張られるのはまっぴらだった。

もちろん慎介の立場上判断を上司にゆだねることは可能だし、組織としてはむしろそうすべきだとは十分わかっていた。

しかし裁判が始まって以来逐一状況は報告しているし、いままで上から何の指示がないことをみると慎介は都合よくすべて任されていると解釈することにした。

またこのような岐路に立たされたとき、香子が公務員として働いていることが大きな判断のベースになった。

万一自分が会社を辞めることになってもすぐ家族が路頭に迷うことはないということは、より自分の心に正直になれたのだ。

方針は定まった。

過去の触媒と今回のものを完全に切り離すこと。

実際そうだったので、そう苦労することはなかったがそのストーリーでせっせと書類を準備した。

しかもこの頃の日本の会社の常で、あまりちゃんと書類を保存していなかったのもその点では幸いした。

本来研究者の実験ノートなど公式書類として会社が保存せねばならないのだが、完全に個人のものとしていいかげんに扱われていたのだ。

ただし欠落する部分は関係者の証言で補完せねばならず、それを慎介一人でやらねばならないと自覚するのであった。


マンチェスター大とピッツバーグ大での分析の結果、当方に有利で十分裁判所に提出できるレベルになった、を確認し帰国して工場でデータの整理をを行っていた時妹の加世子から電話が入る。

「お兄ちゃん、すぐ来て、おばあちゃんが・・・」

「わかった、すぐ行く。」

すべて放り出し急いで実家に向かう。

実家に着いた時、まだかろうじて母親の意識はあった。

「慎介かい・・、香子さんと幸せにね、曉ちゃんをかわいがるんだよ。

それとお墓は別にしておくれ・・・・」

苦しい息の中での最後の言葉であった。

「わかったよ、まかせといて。いままでありがとうね。」

それきり意識がなくなり、しばらくして息を引き取った。

医者から宣告されてから八か月後のことである。

父親はそばで呆然とし、慎介は加世子と大泣きした。

しばらくして香子が職場から駆けつけてきた。

亡くなる直前まで曉子のことを心配していたことを告げると今度は香子が泣き崩れた。

家族全員医師の宣告以来耐えてきたものが爆発した感じだ。

長くつらい八か月だった。

母親もようやく苦しみから解放されたのだ。

こういうどん底の気分の時、伴侶、兄弟がいると心強いということが身に染みる。

早速墓の手配をせねばならない。

父親もそのつもりでおり新しい永井家の墓を母方の実家の菩提寺、文京区白山の常瑞寺に建てるという。

母親の気持ちはよく理解できる。

姑、父の兄弟からひどくいじめられていたのだ。

母親が嫌がっていたので、慎介も父方の親戚とは全く没交渉であった。

永井家の墓は埼玉の久喜にあり父親は長男、そして慎介も長男であるが姑の仕打ちを子供のころから見ていたのでその墓を継ぐつもりはなかった。

その後は目の回るような忙しさで、嘆き悲しんでいる暇などなかった。

通夜、告別式とも常瑞寺で行ったが特に慎介の会社関係の人たちが大勢参列してくれた。

慎介が指名された相手方弁護士の尋問、証言録取デポジションが予定される一週間前のことであった。


ニューヨークの弁護士事務所トム&ジャックでの打ち合わせ、まず状況のまとめが行われた。

UAB社が自社の特許をもとに明治化学社を特許侵害で訴えた。

すぐに明治化学社はUAB社の当該特許の無効訴訟を起こしている。

ベルギーでは当該触媒を購入し、使用しているBOP社を共同被告とし10億円の損害賠償訴訟。

裁判所は特許、触媒、表面分析の専門家を指名し判事のサポート役とした。

審理は代理人を通して行われており、状況は明治化学有利に傾いているという非公式な情報がある。

アメリカではまだ販売はされていないが、その触媒が特許に抵触しているという訴えがおこされた。

陪審員制の訴訟で、現在証拠集めの段階で書類の提出が終わりデポジションが行われる段階。

肝心の触媒上のK量は最新の表面分析の結果いわゆる表面上に全量あることが確かめられ、第三者のエキスパートの証言も得られた。

これは極めて当方有利な結果だ。

ところでデポジションは会社でも初めての経験だ。

サムロック弁護士から手順、要領等を聞く。

場所は裁判所でなく、今回はこのトム&ジャック事務所の会議室で双方合意している。

相手方の弁護士が質問役、裁判所からは公式記録員が参加し証言を記録する。

通訳は先方が用意する。

その場には当方弁護士も立ち会え、必要あれば別室で相談もできる。

期間は二日間を先方要求。

サムロック弁護士が極めて印象的な発言をする。

「いいか、シンスケ、重要なアドバイスをする、デポジションでは真実を語れ。」

当たり前の話だ。

それができれば誰も苦労せず、弁護士などに相談する必要は無いのだ。

予想通り誰も頼りにならないことが良くわかった。

まあいい、書類の提出を通して十分準備してきた。

後は自信をもってやるだけだ。

前の晩、提出した書類をすべて見直した。

それぞれに何を聞かれるか想定し答えを考える。

書類の量が莫大なので夜明け近くまでかかる。

いかん、いかん少しでも寝て体力を温存しなければ、今日は根競べ、体力勝負だ。

しかしこの直前検討で対抗策がまとまった。

今回のデポジションは相手の立場に立てば目的は二つ。

一つは書類で欠落する情報の補完。

今の触媒はともかく、過去の経緯にどれだけ興味を持つかだ。

二つ目は先方主張の元素Kが高温焼成で表面から担体中に潜り込んでいるということを証言から引き出すこと。

質問するのは先方なのでこちらは受け身になるが、チャンスをとらえてこちらの主張を述べる機会を得たい。

いくつかの場面を想定しコメントも準備した。

まあとにかく寝よう。考えていても切りがない。

翌日トム&ジャック事務所の会議室、

先方からは弁護士二人と通訳の日本人、三十代の女性、ニューヨークで旅行関係の仕事をしており今回はたまたま臨時に雇われたらしい。UAB社とは関係ないとのこと。

当方はサムロック弁護士、越後谷国際事業部長、田川特許部長、ニューヨーク事務所の木島顧問、そして慎介。

越後谷、田川、木島は主に通訳が適正に行われるかのチェックが主たる役割。

そして裁判所から速記タイプとともに公式記録員の黒人女性。

これがすべての参加メンバーだ。

参加者の紹介が終わりいよいよ始まる。

まず質問役の弁護士

「まず永井さん、ここで真実を述べることを神に誓ってください。」

きたきた、まずこのセリフを待っていた慎介、

「残念ながらそれはできません。」

堂々と答えた。

通訳を聞いて不審そうな顔を見合わせる先方弁護士二人。

ここは打ち合わせしていなかったのでわが陣営にも動揺がはしる。

「なぜ誓えないのですか?」

「私は神を信じません。仏教徒ですから。」

早速こちらをちらちら見ながら相談する相手方弁護士。

しばらく相談した後、

「わかりました。それではあなたの良心に誓って真実を述べてください。」

「はい。」

どうしてもこのイベントは相手から一方的に質問されるので、向こうのペースになってしまう。

それが嫌なのでこのセリフを考えていたのだ。

次はこのおばさんには悪いが通訳を痛めつける番だ。

話の内容が何のジャンルなのかもわかっていない、単なる言葉だけの通訳なのだ。

キャタリストを触媒と訳せないレベルなので、弁護士の英語の質問が正確に訳せるまで何回も聞き直した。

相手の弁護士の質問は速記のためゆっくりしゃべるので質問は英語で理解できたのだ。

「すみません、意味がわかりません。もう一度訳してください。」

安易な気持ちで通訳を引き受けたのだろうが、ここは残念ながら社交の場ではなく真剣勝負なのだ。

ある意味会社の命運がかかっているので、いいかげんなやりとりなど出来ようか。

開始早々で泣き出しそうになるが、そんなことは知ったことではない。

最初の一発もありだんだん慎介に余裕が出てきた。

相手の弁護士の質問の内容からこの連中のレベルが分かってきたのだ。

内部で打ち合わせをしてきたのであろうが、こちらが恐れるところに突っ込む鋭さが無い。

まだもちろん油断はできないがなんとなく気分が楽になってきた。

たいしたことのない質問にちょっと考え、

「すみません、弁護士と相談したいんですが。」

と別室に移り、心配そうなサムロック弁護士に

「ちょっとコーヒーを飲みたくなりました。」

などとフェイントをかけられるようになってきた。

この日は相手がかなり概念的な質問をしてきたので、通訳もうまくなく何回も聞き直す場面がありとにかく時間がかかったのだ。

さんざん聞き直した挙句答えは一言イエスの場面も多々あった。

そうこうしているうちに相手の弁護士の質問、

「双方合意で行ったテキサスのラボでのデータによると、一回の水洗いで投入量の30%しか出てきませんね。残りの量は触媒の表面にないのではありませんか?」

慎介が期待して待っていたのはこの質問なのだ。

「あなたがたの特許には確かに表面上という記載はありますが、その量を測定するのが一回の水洗いとはどこにも書いてないですね。そもそも表面上に存在する元素の測定法に一回の水洗いが適正なことを示してください。そうでないとその質問には答えられません。」

慎介のコメントを聞いて顔を見合わせる弁護士、しばらく小声で話し合った後

「別室で相談したい。」

「どうぞ。」

とサムロック弁護士、慎介のほうを見てウインクする。

バカなやつらだ、先方は攻めるだけのはずなのに大きなエラーをしてくれた。

しばらくして相手から一時間休憩の申し出がある。

どうやらヒューストンのUAB社と連絡をとりあうとのこと。

きついカウンターパンチになったようだ。

そのまま昼食休憩にはいり、午後の再開早々、

「先ほどの質問は撤回したい、無かったことにしてもらえないか?」

「応じられない、明日デポジション終了後話したい。」

とサムロック弁護士、なかなかしたたかだ。

もしこちらサイドにボロが出た場合、相殺するために保留しておくのだろう。

その後そして次の日も含め、相手方からの質問は事実関係の確認に終始し特に何ということは無かった。

再び虎の尾を踏まないようにという感じだった。

終了したとき慎介は心底ほっとした。

また準備が報われて満足であった。

ちなみに質問削除の件は、同じことを別途裁判の手続きで主張するので同意することとした。

その晩反省会のディナーの席上、

「シンスケ、いままで経験したデポジションで一番素晴らしかった。お前はなかなか日本人らしくクレバーなやつだ。おかげで今回はこちらの勝利だ。」

と皮肉を込め、褒めてくれるサムロック弁護士。

「永井君、あんたはなかなか賢いね、最初の言葉もよかったが、受け身でなく攻撃的姿勢が気に入ったよ。相手の弁護士をビビらせたのはたいしたもんだ。」

高齢で気難しい木島顧問からも賛辞をもらう。

「サム、このシンスケは初めてニューヨークへ来た晩、マンハッタンのプールバーへ一人で行って地元のハスラーから金を巻き上げるようなやつなんだ。」

と木島顧問。

「なんだって、やはりこいつはとんでもないサムライなんだな、あの度胸はただものではないと思っていたよ。」

皆さん、不安視していたデポジションがうまく切り抜けられご機嫌なのは結構だが、慎介は心の中で、

「今回は、相手の弁護士がアホだったか、こちらをなめていたせいでポイントを稼いだだけだ。我々の目指すのはあくまで最終の勝利しかない。」

と思うのであった。


このあたりで入社から10年余りが過ぎていた。

新しい触媒の開発に成功し、それが世界に認められ使用されるようになった。

さらにそのマーケットを支配する会社から脅威とみなされ特許で訴えられ裁判を経験する。

研究者としては幸せな成り行きだと思うし、またこれ以上の経験もないのではとも思う。

自分で好き勝手にでき今の結果にたどりつけたことも個人的には満足であった。

しかし物事には表裏があり、社内では慎介たちに対する評価は50,50であったと思う。

大UAB社に対してがっぷり四つに組みひけを取らない、むしろ勝ちそうになっている事は十分評価された。しかしもともと裁判自体マイナスのイメージだし、結果勝ってもともと、負けたら大きなマイナスという状態でこのままずるずる継続すべきなのかという声も上がっていた。

つまり、かける時間、金、リスクで得られるメリットは何?という訳だ。

この時点で弁護士事務所トム&ジャックへの支払いが一億円に迫っていたのも大きなマイナス要因だ。

そもそもいままで売っていなかったPO触媒のマーケットに嬉しそうに入っていったから、UAB社の逆鱗に触れたんだという言われ方もした。

結局、経営が示した方向は負けないように幕引きをはかれであった。

その後しばらくしてこの裁判は双方勝ち負けなく和解ということで終息する。

明治化学は触媒販売を再開するがUAB社の顧客の囲い込みが完成しており獲得できた顧客は少数にとどまった。

商売的にはUAB社の勝利だった。















































































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