嘘(うそ)
嘘だ。
嘘だと思った。
けれど、掌では彼の温もりを感じて、掌は彼の鼓動を刻む。
静かな時間が流れる。
死にたい。
彼を見るとそう思えてくる。
なんだかんだ言っても、人間が生きているか死んでるかなんて、解らないのだ。
彼を生きていると定義する人もいれば、しない人もいる。
血液が流れパルスが走るだけで生きていると定義するなら、ゾンビだって血液の代わりに微生物が流れ、生きていると定義できる。
私は、彼の手を取り、自分の胸に当てる。
血液が流れ心臓がポンプの役割を担い、脳が酸素を消費しパルスを発し、私の手から体温が彼へと流れ、鼓動を伝える。
「……女子高生の胸触ってんだから、少しは反応しなさいよ」
理不尽なことを、呟いた。
私の退院がもうすぐとなり、友人二人も退院祝いに何かしようと話になった。カラオケなど様々な案が浮かぶが、どれも今一つしっくりこないらしく決まらない。私は学校に戻れるより、あの死者なのか生者なのか解らない少年と、出会える機会がなくなってしまうことが悲しかった。
「ちょ、おい聞いてんのか」
聞いてないと思ったのか、友人が私の頭を小突いてくる。
「聞いてるわよ」
実際はまったく聞いてなかったのだが、適当に話を合わせるのはいつもの事だった。
「まったく、お前のお祝いなんだから少しは考えろよ」
「私のお祝いなのに私が考えなくきゃいけない時点で、色々おかしい気がするんだけど……」
「まぁまぁ、でも早い退院で良かったよ」
予定通りであるので早いも何もないが。恐らく、彼女は怪我がひどくなくて良かったと、そんなことを言っているんだろう。
「あたしだったらもうちょっと学校サボりたいけどなー」
「もう、不謹慎だよ」
「ははは、わりぃわりぃ」
「……でも、もうちょっとだったんだけどねぇ」
あと少しで、死んでたのにねぇ……と、呟いてしまった。つい、零していた。感情を、本心を。
誰に言っても相手にされない、想いを。
友人二人は黙り、私を見つめる。弁解するチャンスはあったのに、何も言わず窓の外を見る。
本当、あと少しで、死ねたのに。
「なぁ、シズクは死にたかったん?」
友人が、やや険しい顔で尋ねてくる。普段、教室でも、たまに死にたいと漏らしていたけど、そんなのは冗談だと受け取っていたと思ったけど、彼女は、少し違うのか。
「……まぁ、どうせなら、ね」
ここで誤魔化すこともできたのに、私はしなかった。
何故しなかったのか、解らない。
「……うっぜ」
ほら、やっぱり。
頭のおかしい奴だと思われた。
予想通りで、想像通りだ。
このあとは、この言葉づかいが荒い友人は、しらけたお祝いとかもういい、とか言って、病室から出て行く。もう一人も、困ったような、でも流されやすい顔をした彼女は、出て行った友人の後を追いかけ、それで私は、友人を二人失う。
生きている人間なんて、死にたいと思わないのだから。
「お前さ、あたしの名前言ってみ?」
「……は?」
「いいから早く」
予想外だった。意味が解らなかった。
怒っているはずなのに、いや、怒ってはいるのだが、それでも、なんでそんなことをさせるのかさっぱりわからない。
「なんで?」
「もしかしてあたしの名前忘れた? それだったら殴るけど」
……忘れたわけじゃない。ど忘れしただけだ。
そう、この言葉遣いが悪い友人は……スバル。スバルだ。
「スバル」
「もっかい」
「……スバ、ル?」
「間違ってないからもっかい言ってみ」
「スバル」
「まだまだもっと」
「……スバル、スバル、スバル、スバル」
何十回か言わされた後、隣を指さし同じことを言い出したスバル。
「んじゃこっちのオタオタも」
「オタオタって私のこと?」
オタオタ……じゃなかった、スバルの隣に座る……ヤコ、だったか、ふてくされた表情で文句を言う。
それを無視して、私はヤコの名前も言わされた。
「よし」
と、スバルは満足そうに頷いた。
意味が解らない私は尋ねる。
「……ねぇ、なんなの?」
「名前だよ」
当たり前なことを言い出した。意味が解らない。
「そんな事を聞いたんじゃないんだけど」
「そうだよ」
「はい?」
「生きるとか死ぬとか、その前に、シズクはシズクだろ」
「いや、なに?」
「シズクはシズクで、勝手に死なれたら、シズクって呼べなくなるんだよ」
何が言いたいのか本当に解らなく、私はヤコに助けを求める。
「ねぇ、スバル何言ってんの?」
「残された人は、名前を呼んでも返事がもらえないってことだよ」
ヤコは、睨むように、私を見る。
「解ってる? シズクがさ、どう思おうが勝手だけど、困るのは私達なんだよね。勝手にいなくなられたら、もうこれから、シズクをシズクって呼べなくなる」
「……勝手じゃない? それ」
「勝手だろ、生き死になんて。どっちの勝手が優先されるかだけだろ。シズクはあたしの事、スバルって呼びたくないのか?」
「私はね、シズクって呼んで、ヤコって呼んで欲しいよ?」
怒った顔で理不尽なことを言われている。理解するのを放棄することにした。とりあえず謝ろう。
「あーごめ」
パァン、と、強烈で痛烈な音が病室に響いた。
乾いた、弾いた頬が痛む。さすがにこれにはムッときた。
「っつ……スバ」
「逃げんなよ」
怒った声で、顔で、二人が私を見る、と思っていた。そう、思っていた。
でも、違う。
これ、怒ってるかもしれないけど、ずっと怒ってたかもしれないけど、二人は、スバルにヤコは、ずっと、ずっとずっと、泣きそうな、泣き出しそうな、声で、顔で、私を、私を見ていた。
「逃げ、んなよ……」
唇を噛みしめ、涙を堪えながらスバルは絞り出す。ああ、ヤコも、シーツを思いっきり握っている。
ああ、ああ、ああ……。
二人は、スバルにヤコは、私の、言葉を、心を、信じているんだ。
死にたいと、冗談で語られ、バカみたいと呆れる考えを、二人は、真剣に受け止めてくれた。
私の、死を、受け取ってくれた。
「……っ」
何かを言いたかった。
ありがとう、ごめんなさい、信じたの、死ぬってなに、生きたいの、生死の定義って?
でも、どれも言葉にできなかった。生きているのに、意思があるのに、単語に変わらない。
強張る体。
だって、だって今まで、こんなに真剣に、私を受け止めてくれた人なんて。
「シズク」
私を呼ぶ、私の名前。
生きている人間。死んでいる人間。
その前に、私は、シズクという、人間だった。
「……しゅ……る……ひゃ……こ」
ふざけてる。馬鹿馬鹿しい。なんなんだ、この茶番。
だって、こんなの当たり前じゃないか。名前で呼びたいとか、勝手じゃないか。別に呼んでやってもいい。でも、私の唇から出たのは、嗚咽と拙い言葉だった。
「うん……っ」
何度も頷いて、私を見るヤコ。
私は、見られるのが恥ずかしくて、たまらなく、恥ずかしくて。顔を覆い、隠す。
何かを、隠す。
零れるものを、隠す。
何度も何度も名前を呼んでくる二人。
だから私も、何度も名前を呼ばなきゃいけない。
嗚咽混じりに、言葉になってない名前を。
二人は、なんで毎日来てくれたのか。
死を求める私が、死が充満するここにいるのを、不安に思ったのか。
解らない。
でも、今はそんなことより、名前を呼ばなくちゃいけない気がした。
生きるとか死ぬとか、そんなことより。
名前を呼ばれたら、返事をしなくちゃいけない。
世界は、
人間は、
そうやって、
隣にいるのだから……。
(END:呼応)