近づきすぎ(つっこみ)
彼女と言葉を交わすようになったのは、去年同じクラスになってからだ。
同じ中学出身だったが、それ以外に僕と彼女の関連性は皆無だった。
僕は帰宅部で、彼女は女子バスケ部のエース。
関わり合いになる要素がなかったのだ。
中学時代に口をきいたことは何度かあったけれど、
大抵は勉強の質問とか、事務的なものだった。
僕の成績はそれなりだったから……
そして、そのことを記憶していた彼女に、
進級当初声をかけられたのが、僕たちの距離の始まりだった。
「ひさしぶりー、覚えてる?」
読書中に急に声をかけられて、僕は心臓が縮み上がった。
読んでいた本も悪かった。僕はそのとき『Another』を開いていた。
ちょうど、久保寺先生がアレするシーンで。
うん、まあ、なにごともタイミングである。
とにかくぶるっていた僕は、
机に手をついたポニーテールの女子の名前なんて思い出せなかった。
『鈴木』か『佐藤』か……多分佐藤だったはずだったが、
間違ったらいけないので、僕はわからない、と答えた。
まあそもそも、タイミングがよかろうが、
僕に彼女の名前が思い浮かんだとは限らないのだけど。
社会不適合者な僕は、人の顔や名前を覚えるのが、絶望的に苦手なのだった。
そして回想するたびに首をひねってしまうのだけど……、
僕の対応は想像するだにおよそ最悪なものだったはずである。
それなのに、
声をかけられるたびに似たような反応を繰り返すうちに、なぜだか気に入られてしまった。
僕は自分が変人である自覚があるが、彼女も彼女でよっぽど変わってる。
おざなりな対応をされることが、嬉しくてしかたないようだった。
マゾなのかもしれなかった。
学年が上がり、クラスが離れた。
離れたクラス間の距離は、そのまま彼女との関係に当てはまるはずだった。
仲が良かった友人たちともバラバラになり、
一年時のようにボッチを極めんと、自分の席で空気になっていた。
選択科目が増えた影響で、教室移動が毎時間のようにあった。
空気である僕が、単独で廊下をふわふわと漂っていると、
彼女が友人らしき女子生徒と連れ立って歩いてくるのが見えた。
クラスが変わって関係が切れたはずなので、
僕は彼女に吸いこまれないように注意しなければならなかった。
向こうも、
僕のような無色透明の気体なんか目もくれないので、安心していいはずだった。
しかしそうではなかった。
彼女は、いつかのように、「ひさしぶり」と声をかけてきたのだ。
とっさに知らない人のふりをしたが、なおも話しかけてくるので、
僕は観念してああ、とか、おう、みたいな声を発した。
彼女の友人は突然に無色透明な空間が声を出したので驚いたに違いなかった。
面食らった顔をして、彼女に「誰?」と訊ねていた。
「友達だよ。だよね?」
同意を求めるように彼女は上目遣いで言った。
僕には彼女とそんな間柄だなんてつもりは微塵もなかったが、
それを否定して彼女に恥をかかせる理由も特にないので、
まあそうなんじゃないかな、というようなことを答えた。
「へえ……。おもしろそうな人だね」
彼女の友人がそんなことを言った。どこが? と思う。
思うだけで、 口にはしなかったけれど。
初対面の女子につっこみをいれられるほど、
僕のコミュニケーション能力は高くなかった。
顔がおもしろいとか、そのような意味だろうか。
失礼な女だな、と思う。言わないけど。
「でしょう?」
彼女は嬉しそうに友人のセリフに便乗していた。
ひどいなあと思っていると、予鈴が鳴った。
「またね」、と手を振って彼女はすれ違う。
僕はじゃあ、と言って、教室へ向かう。
彼女とは、廊下や、道端で顔を合わせた時、ちょっと話すような距離感だった。
その距離が変化するのは、ゴールデンウィークのことである。
◆◆◆
僕はその日、珍しく外に出ていた。
昨日まで降り続いていた雨は上がって、快晴だった。
雨は嫌いな僕だが、
照りつける日射しが呪わしく感じられるくらいに、よく晴れた休日だった。
僕が外出したのは、映画を観るためだった。
なんの映画だったかは、正直記憶に残っていないのだけど。
というのも、それなりに楽しみに映画館に入ったその時に。
見覚えのある後ろ姿を、僕は見つけた。
馬の尻尾が揺れていて、ああ、あの子も来てるんだ、と思った。
声をかけてみようかな、と頭の片隅で考える。
ほんの思いつきであり、
ちょっとしたきっかけがあれば、即座に断念するような思考であった。
“きっかけ”はすぐに見つかった。
彼女は一人ではなかった。二人で歩いており、相手は男だった。
映画の内容は頭に入ってこなかった。
近くのファーストフード店に入り、メニューを注文し、
さて──と、頭の中で一人ごちる。
別に、ダメージなどは負っていなかった。
僕たちの関係は、友人とも呼べないようなものである。
ただ、退屈な日々の中、
少し重なりあった時間を共有するだけ。
そういうこともある、と、静かな気持ちで受けとめていた。
チーズバーガーを一口かじる。
「──すみません。ここ、いいですか?」
女の声が降ってきて、僕は目を上げた。
数秒眺めたのち、どうぞご自由に、と答える。
彼女はその時、なぜだか一人のようだった。
見間違いだったのだろうかと、少し考えた。
「やっぱり、そうだ。池元くんと、そうじゃないかな、って話してたんだけど」
しかし彼女の言葉に否定される。
『池元くん』とは男子バスケットボール部のキャプテンであるはずだった。
実在する人物の名が出されて、僕は現状を正しく認識した。
ああ、どうやら失恋したらしい、と。
「来てたなら、声かけてくれてもよかったのに……」
しかしそれならば、なぜこの元・同級生は、
池元を置いて、こんなところにいるのだろうか。
僕はふと疑問に思いつつ、俺から話しかけたことなんてないだろ、と言った。
普段なら、こう答えて終わりだった。しかしその時はどうしてだか、
それにデート中みたいだったから、邪魔しちゃ悪いと思って。とつけ加えた。
「デートって……やっぱり、そんな風に見えてたか」
彼女は物憂げなためいきをついた。
「あのね、それは勘違いだよ」
どういう意味だろう、と思う。僕が怪訝な顔を向けると、
彼女は右、左、と周囲を窺い、それから内緒話をするように顔を寄せてきて。
「ちょっと、場所を変えようか」
断ってもよかったが、
別にそれをする意味は特になかったので、
僕はうなずいて、チーズバーガーの包み紙をくしゃりと握りつぶした。
ひとけのない裏路地を見つけて、「ここで……」と彼女は立ち止まった。
「池元くんとは、別になんでもないよ」
一呼吸置き、彼女は言った。
ふうん、と思う。そうは言うが、それを証明する根拠はない。
「観たい映画のチケットがあるから、
二人で行こうって言われただけで、
別に、デートでもなんでもなくて……」
それをデートと呼ぶんじゃないかと思ったが、
つっこみを入れるつもりはなかった。
ただの友人に語りかけるには、彼女の様子は必死すぎた。
同じ中学出身の人間は、僕以外にもいて、
僕より成績がいい人も、僕よりとっつきやすいやつもいて、
なのに僕にやたらと絡んでくる理由を、考えたことがないではない。
けれど、
どうしても、
信じられなくて……。
そんなことが、起こるわけがないと。
「お願い、信じて……。私は」
彼女は僕の腕を取り、上目遣いで。
距離が、
重なる。
◆◆◆
ぐちゃり、と音がした。
◆◆◆
音は僕の腹部から聞こえた。
「ずっと、こうしたかった……」
恍惚の表情で、蕩けるような声で、彼女は言った。
僕は何も言わなかった。
下の方からこみ上げるものがあり、
それが喉もとまでせり上がってきて溺れそうになり、
口から吐き出さなければならなかったからだ。
赤黒い液体が、舌を滑り落ちて地面にこぼれた。
内臓を、腹に突き立てられたものによって、
ぐちゃぐちゃと。
かき混ぜられる感覚があった。
腹からも、血液が大量に溢れだした。
僕は死んだ。
◆◆◆
死んだあと、僕は彼女に取り憑いた。
しがみつくように、絞め殺すように密着していると、
傍に池元が出現した。
きみもかい、と訊ねる。
どうやら、オレも殺されたらしいね、と池元は困ったように言った。
罪人は笑顔だった。僕は場違いながら、そんな顔を見れてうれしいな、と思った。
よい休日をお送りください。皆様のご幸福を、わたしは心よりお祈りいたします。