第七話 究極の魔法【月下美人】
霊夢の元に式符が届く二時間ほど前。
再び『紅魔館』の門を潜った咲夜を、門番の紅美鈴が呼び止めた。
「あの、咲夜さん?」
「どうしたの、美鈴?」
本当は一刻も早く、『大図書館』にいるパチュリーの所に向かいたかったのだが。
咲夜が振り返ると、美鈴は彼女の表情を窺うように見てから、少し躊躇いがちに言った。
「実は、メイド妖精の一人から咲夜さん宛てに、お嬢様からの伝言を預かっているんですが……」
「伝言?」
少しばかり驚いて、咲夜は美鈴に聞き返した。
二人の主人にして、『紅魔館』当主のレミリア・スカーレットは言わずと知れた吸血鬼だ。
その彼女は太陽の出ているこの時間帯は、いつもなら寝室で眠っているはずなのだが。
「お嬢様はもう起きていらっしゃるの?」
もしそうなら、それこそこんな所で油を売っている場合ではない。
咲夜は慌てて、レミリアの起床後の段取りを確認した。
まずは着替えの準備に、紅茶の用意。短い睡眠時間ではあったが、簡単なモーニングくらいはお出しするべきだろう。
その他、様々なことに考えを巡らせ始めた咲夜に、美鈴は首を振って、
「いや、お嬢様はまだ眠っておられます。この伝言は、お嬢様が就寝の直前にされたもので……」
「そうなの?」
どうやら咲夜の思案は杞憂だったようだが、それはそれで、彼女にとっては少々ショックな事実でもあった。
咲夜は内心で、
(今朝は、お嬢様を寝室までご案内してから『大図書館』に向かったのに……)
と落胆する気持ちを抑えることが出来なかった。
咲夜がその伝言を聞いていないと言うことは、咲夜がパチュリーと一緒にいた時、レミリアはまだ起きていたということになる。
だと言うのに自分は『紅魔館』を離れ、あまつさえ、主人に伝言という形でその手を煩わせてしまったことが、完璧主義者の咲夜にはとても辛かった。
そしてそれとは別に、咲夜にはもう一つ気になることがあった。
それは美鈴の言葉の歯切れの悪さだ。
こちらを呼び止めた時の彼女の態度も相まって、咲夜はレミリアからの伝言というのは、実は厳しいお叱りの言葉なのではないかと静かに覚悟した。
「で、その伝言の内容は?」
咲夜が不安を押し殺して尋ねると、美鈴は心配そうに彼女を見つめながら、
「その、今夜は起床時間になっても、誰も部屋に寄越さないでくれ、と」
「……それだけ?」
「はい」
頷いた美鈴に、咲夜はほっと胸を撫で下ろした。
(良かった。最悪、暇を出されるかと……)
伝言の内容に若干拍子抜けしながらも、安堵する咲夜。
すると美鈴が心配そうに言った。
「咲夜さん、お嬢様と喧嘩でもしたんですか?」
その言葉に、咲夜は思わず吹き出しそうになった。
確かに考えてもみれば、暗に一人にさせてほしいと言ったレミリアと、時を同じくして館を後にした自分。
美鈴がそう勘違いしまうのも無理はない。
「違うわ。だから安心なさい、美鈴」
そう答えながらも、咲夜はこちらを気に掛けるような美鈴の態度に、随分と心が楽になったのを感じた。
流石は〝気を遣う程度の能力〟の持ち主。……違ったかしら?
(今朝の件については、ナイフは勘弁してあげましょうか)
咲夜はそう心に決めると同時に、その伝言が意味するレミリアの意図もすぐに読み取った。
(今夜は〝異変〟解決に専念しろ、ですねお嬢様)
咲夜はありがたくその言葉に従うことにして、『紅魔館』の正門を後にした。
『大図書館』では相変わらずパチュリーが、執務机に陣取って山のような蔵書と格闘していた。
あの短時間で、よくもこれだけの冊数を。
咲夜はパチュリーの周囲にうず高く積み上げられた本を横目に見ながら、彼女の前に進み出て一礼した。
「パチュリー様、中間報告に参りましたわ」
しかし、パチュリーからの返事は無い。
視線は書籍の文面に落としたまま、完全にその内容に没頭しているようだった。
だが、こちらの話にはしっかりと耳を傾けていることを承知している咲夜は、そのまま話し始めた。
『太陽の畑』での出来事。
霊夢、魔理沙、妖夢との合流。
不在の風見幽香。
そして、『幻想郷』のどこかに集められる霊魂。
「なんですって?」
と、咲夜が霊魂のそれについて語った途端、急にパチュリーが本から顔を上げた。
その目は驚きに見開かれている。
普段滅多に見ることの出来ない彼女の表情に逆に驚きながらも、咲夜は『彼岸』と『冥界』で起こっている事実について詳しく説明をした。
その間パチュリーは何かを思案している様子だったが、見る見る顔が青ざめていき、咲夜が話し終わる頃にはすっかり顔面蒼白になっていた。
「咲夜、他の皆との連絡手段はある?」
「は、はい」
俄に震えた声で言ったパチュリーに、咲夜は頷いた。
「じゃあ、早くそれを使って、皆を呼び集めて」
「え? ですが――」
「早くっ!」
突然のパチュリーの怒声が、『大図書館』に響き渡った。
彼女のその鬼気迫る様子に、これは只事ではないと悟った咲夜は弾かれたように動いた。
急いで霊夢から渡された符を取り出し、それを宙に放り投げる。
すると符は一旦空中で制止した後、『大図書館』の出入り口の方向に向かって一直線に飛び去って行った。
「一体どうなさったのですかパチュリー様?」
式符が見えなくなるのを確認してから、咲夜はパチュリーに向き直った。
パチュリーは険しい顔付きを崩すことなく、硬い声で答えた。
「今朝、私が魔道書の盗難に気付けたのは、レミィの指摘のお蔭だと言ったのを覚えてる?」
「ええ」
そういえば、その時は気にも留めなかったが、確かにパチュリーはそのように言っていた。
しかし改めて考えてみると、どうして『紅魔館』で唯一レミリアだけが、魔道書が盗まれたことに気付けたのだろうか?
パチュリーは続けた。
「人の出会いも別れも、全ては〝運命〟の成せる業。それを操作する【月下美人】の盗難を、〝運命〟が見えるレミィが察知できたのは、ただの必然だと思ってた。でも……」
レミリアの〝運命を操る程度の能力〟の介入。
それがあったからこそ、彼女は【月下美人】が『紅魔館』から失われたことを気が付くことが出来た。
咲夜はパチュリーの言葉に大いに納得すると同時に、その言い回しに眉を顰めた。
「でも……?」
「どうしてこの時に思い至らなかったのかしら……」
後悔を滲ませた声色でパチュリーは言うと、そのまま彼女は頭を抱えて項垂れてしまった。
パチュリーの表情は前髪に隠れて見えなくなってしまったものの、その薄い唇からは、か細い声が尚も紡がれ続けた。
「本が盗まれただけで、それが見える程に〝運命〟に変調をきたすと言うことは、【月下美人】はそれが発動する前から、周囲に影響を与えていたということになる。それは〝因果律〟を乱し、同調する霊魂を術者の元に集める」
咲夜からして見れば、それは今『幻想郷』で起こっている出来事を的確に説明しているようにしか聞こえなかった。
徐々に紐解かれてゆく、【月下美人】のメカニズム。
それが明らかになっていくに連れて、自分たちは確実にこの〝異変〟の犯人に近付いているように思えたが。
「なんてことっ……!」
顔を上げたパチュリーの顔は憤怒に歪み、その目は凄まじい激情が燃え盛っていた。
「パチュリー様、私には何が何だか……」
それまで咲夜が見たことの無いほどに、感情を爆発させるパチュリー。
そんな彼女に気圧されながらも、咲夜は尋ねた。
パチュリーは、まるでそこに一連の事件の犯人の姿を見るように、虚空をじっと睨んだまま、
「貴女が毎日メイド長の仕事に従事できるのは、しっかりと食事を摂り、その体にエネルギーを摂取しているからでしょう?」
突拍子もない話に戸惑いながらも、咲夜は頷いた。
「それは貴女が時に怒ったり、泣いたり、感情を昂ぶらせる心の動き、即ち〝情動〟についても同じことが言える。だけど感情の変化は、自身の内面から湧き起こるもの。そしてそれは、外部から摂取したエネルギーには左右されない。つまり魂とは、それ自体が一つの大きなエネルギー体なのよ!」
瞬間、咲夜は背筋が凍り付く思いがした。
「まさか! では霊魂が集められたのは……!」
「そう。【月下美人】はその効力の性質上、〝因果律〟を狂わせて霊魂を集め、その霊魂は発動の際のエネルギーとして利用される。つまりこの魔法は、文字さえ読めれば例えそれが妖精であっても、必要な手順とエネルギーを一度に得ることが出来る、究極の魔法なのよ!」
言うや否や、パチュリーは勢いよく机に手を突いて立ち上がった。
「咲夜! 急いで皆にこのことを伝えて、すぐに捜査対象を練り直しなさい! 犯人は風見幽香ではないかもしれないわ!」
パチュリーがその言葉を言い終える前に、咲夜は既に『大図書館』の外に向かって駆け出していた。
背後からパチュリーの声が聞こえる。
「新しい捜査対象は、『幻想郷』の住人全てよっ!」
物言わぬ人形に導かれ、妖夢はアリスの屋敷の居間に通された。
そこは白壁の明るい、清潔感のある簡素な洋風の一室で、奥の窓際のテーブルには魔法使いのアリス・マーガトロイドが腰掛けていた。
その手に持っているのは、人形に着せる服だろうか。
アリスは小さなメイド服に針を通す手に、視線を向けたまま、
「あと少しで終わるから、どうぞ掛けていて。上海に紅茶も用意させるわ」
「いいえ、結構です」
しかし妖夢はキッパリと、アリスの申し出を断った。
妖夢は警戒の眼差しでアリスを見つめ、右手は『楼観剣』の柄に静かに添えていた。
「あらあら、信用ないのね」
と、ここでアリスは手元から顔を上げて、妖夢の方を残念そうに見た。
「状況が状況ですからね」
「確かにね。でもこの家で刀は必要にはならないわ。私はただ、貴女と話がしたいだけなんだから」
事務的に言葉を返した妖夢に、アリスは柔和に微笑んだ。
そして彼女は徐に椅子から立ち上がると、今度は自ら、それまで自分が座っていた席とは対面にあった椅子を引いて、妖夢に勧めた。
「それとも、わざわざ自宅に招いた客人を罠に嵌めるほど、私は醜悪な心の持ち主だと思われてる?」
悪戯っぽく笑うアリス。
そんな彼女の険の無い態度にすっかり牙を抜かれてしまった妖夢は、尚も彼女の目を注視しながら、『楼観剣』の柄からそっと手を放した。そして鞘を腰から抜く。
「刀はこちらで預かりましょう、と言うのも不安でしょうから、それは貴女が持っていて構わないわ」
「……では」
妖夢は二本の刀を膝に乗せるような格好で、席に着いた。
妖夢が座ると、アリスはまた自分の席に座り直し、テーブルの上に置かれていた裁縫道具を脇に避けた。
すると、それと絶妙なタイミングで、部屋の奥からアリスの上海人形が、お盆にティーセットを乗せて現れた。
湯気の昇る紅茶をカップに注ぐ上海人形の様子を視界の隅に捕えながら、妖夢はアリスに尋ねた。
「それで、話というのは?」
「そうね。昔話と言ったところかしら」
アリスは答えると、どこか遠い目で窓の外に目をやった。
「お母さんに会いたくなった、一人の魔法使いの話よ」
『東方逢月譚』第七話、お楽しみ頂けたでしょうか?
これで少しは、話が面白くなっていてくれると嬉しいのですが。
物語の構想を練っていると、良い思い付きがあった時に思わず「ニヤリ」としてしまうのですが、その発想を手札に喩えるなら、これでようやく最初のカードを切ることが出来た、と言った感じです。
勿論、まだまだ手札は残されているので、今後ともどうかお付き合い頂ければと思います。