ケース『舌戦』
そこは生暖かい風吹き抜ける荒野だった。草木はまばらで赤茶けた地表が剥き出しになり、直射そのものと照り返す上下の挟み込むような熱線により、喉を焼き付け、水を欲し、蜃気楼のように舞っている大気の渦が取り巻く。
この大地は紛れもない死地であり、決闘のための淡い領域であった。
言うなれば、舌戦のフィールド。
そんな中ふたつの影が伸びていた。立ち誇るそれと、立ちすくむ『おれ』の足元のそれ。
紛れもない、おれとは……ミカ太である。
影はそして、それぞれがもう一方へと気を張り詰め対峙しているのだ。
ちょうど陽を背にしているためか、陰を顔一面に展開させた真っ暗な姿が今眼の前に……いる。
ヤツはそれでいてハイエナと言う。
ややあってハイエナは顎に手を当て肩を震わせ始めた。表情はこちらから読めないが……確かに笑っているのだ。
くっくっく、と咽が鳴る音が響き渡る。
明らかな挑発。すくなくとも、おれはそれと解釈した。
少しだけ屈み込んで膝をはり叩き、二度、三度と脚を鼓舞する。
己がゆくは、志道、吾道。
準備用意。
重圧によってか、おれの神経が張り詰める。やがて呼吸だけが辺りを支配した。
ふたつの乾いた音の応酬。鳴り渡るそれで機会を狙う。
そして… …『俺は弾け』た。
瞬く光のような感覚を抱きつつ、一瞬でヤツとの間合いをつめる。
「ハイエナさぁ、アンタでっけぇよなー。まるでデクノボーって感じだ。あんまりでかくておまけに動きも鈍すぎてさぁ、正直、頭の中まで鈍くなってんじゃねぇの?」
おれは左の拳を強く激しく握り込み、軽く回転を加え、捻るように左をえぐり込む。
周囲の旋風を巻き込み、竜巻のごとく螺旋を描くように。
ヤツの鼻っ柱に叩きつけるように解き放った。
……だが。
「それがどうかしましたか?」
ハイエナは額に指を当て軽く仰け反り、そのせいで俺の初撃は空を切った。
勢いづいた慣性のままに足元がふらつき、前方に数歩よろける。とっさに俺は両の脚を踏みしめ、体制を整え持ち直すために気合いで振り切ろうとする。
しかし、その時だった。
「むしろ、あなたがチビなんですよね?」
視界がぐにゃり、と歪み、身体が深く地に沈んだ。
見ると、手首の根本までが埋まるように、ハイエナの腕がおれの腹部へと突き刺さっていた。
食道、気道、おおよそ俺の全ての管という管に衝撃が駆け巡り……熱いものが込み上げる。
そして。
「どうも僕は先程よりやけに首が凝っているようなのですが、原因はあなたでしたか」
ハイエナの……連撃。
そこには踵を返すヒマなどない。対の追撃が遂には、おれの威勢とか自信だとかを根こそぎ刈り取っていった。
先程まで気力に満ちていた体躯が、くの字に折れ曲がる。
「ですが、チビでも気にすることありませんよ」
すかさず喉元を掴まれ、高く吊り上げられる。ギリギリ腕に力が入っていくのが手に取るように伝わってきた。
じっ、と圧倒的劣勢のままで。しばらく耐えるだけに徹するしかない。
「チビ言うな……」
そんな中、かち上げられた状態でおれは自分の余力を確認した。……まだ、やれる。
たらん、とぶらさがったおれの腕に感覚が少しずつ、わずかではあるが戻ってきた。
「チビ言うなぁぁぁぁ!このイカ野郎ぁぁぁぁっ!」
「っ!?」
乾いた鈍い音をたて、拘束が解かれた。
おれが、ハイエナの肘を殴り付けたのだ。そして着地と同時に、いまだ軽いとは言い切れないものの滑らかなフットワークを発揮し、右、左と大きく素早く揺さぶる。
「アンタ、足、長すぎるんだよ!タコかっつーの!この頭足類が!!」
「こ、この僕が軟体生物だって……?」
相手の瞳に残るであろう残像の効果を利用し、リーチやそれが届くまでの間合いといったもの全てをつまりは誤認させ、強く激しく詰め寄る。
「何だ、堅物かよ」
それでいて、くるり、と滑らかな円を描くように……回し蹴る。
ぐさり。
砂袋を落としたような薄い破裂音が耳に届いた。
「だったら頭もガッチガチに固まっているんじゃねぇの?」
「な……!?」
おれは間髪を入れず、反動をつけ、瞬く間に中空へと跳び舞い駆ける。
ふわり、と長い髪が肩に掛かるのが感じられた。
締め上げた渾身の膝がハイエナを捉えると、ヤツはもんどり打って背中から地面に倒れ込み。
……小刻みに痙攣した。
「チャーンスっ!!」
これを、待っていた。
この隙を。この瞬間を。
おれはポケットに手を突っ込み、長方形の紙切れのようなそれを取り出す。
「!?……『それ』を否定します!」
まさにその時。
ハイエナは才覚を発言させようとするが。
「それって、どれさ?」
言うや否や。
おれは思いっきり額に貼り付けてやった。
「う、う、うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
ただのひとつの油断だったのだろう、その代償としての唸り叫びをあげ、身悶え苦しむハイエナ。
おれが、俺達が考えたハイエナの弱点が……これだ。
『否定』のしようがない、物体。
……だって、おれにだってよく理解んないんだもんな。
『明さん』が残していった謎の、おそらく、お札であるかもしれないモノ。
きっとそれは言うなれば悪霊退散の札。あくまで、俺は詳細を知らないあやふやなものだ。
ただ、効果はあったようだ。
『あれ』からおれの手元に残ったのをずっと懐へ忍ばせていたのだ。
反撃のチャンスを。
*
俺の真ん前にミカ太がいる。
ってことは、だ。
「え? 高見……くん? その格好……」
絵那さんが声をあげるまでもなく、……俺は自分の姿を確認した。
「よし……戻った!」
俺の目には以前の、男子高生としての自然な体格が自分の元にちゃんと返ってきたように写ったわけで。
そこにいたのは、なんてことはない。当たり前の、俺。
「高見もかっ!」
ミカ太もか。
さっきまで俺の声であったものが、また別の場所で聞こえてくるのはちょっと奇妙な感覚だ。
けれど。
やっとこさ取り戻したのだ。ミカ太と、俺と。
「ぐおぉぉぉ!」
「ほんと危険なアニムスだよなっ! ……さぁ、話は早い、アンタで己の『否定する才覚』自体を『否定』しろっ」
そしてまた、アニマとアニムスは対峙する。
「まだです……まだ終わってはいません」
ふらふら、とよろめきながら再び視界を確保するかのように、ゆっくりと額の札を引き剥がしていくハイエナ。
「いや、詰んでるね」
ミカ太は口角を釣り上げて言い放った……と思う。
こちらではハッキリとした表情は読み取れないけれど、その口調はやけに鋭い。
「おいミカ太……もういいだろ」
「どうかな」
俺が制止させようにも、それを許さない確かな空気があった。
「おれのこと獣性って言ったよなアンタ。『獣性のアニマ』のこと、何か知ってんの?」
「……ええ……あなた、実に凶暴です。何にでも噛みつく……やはりアニムスとアニマは別次元の存在なのでしょう。確か、あなた以外に自分のことを獣性と言っていたアニマ的な何かを否定したことがありましたが」
ギリ、とミカ太の歯が軋るのが聞こえた。
「ミカ太? 一体どういう」
「オス犬だよ」
「へ?」
「昔飼ってたでしょ。オス犬のアニマみたいなのが否定されて、その存在が消えたのさ」
え。
……えっと。つまり、どういうことだよ。
そもそも、犬にもアニマのような概念があるのかよ。その前に……消えたって何だ。
「消されたと言った方が正しいかもね。それが、おれのアニムスを憎む理由そのものだったんだよ」
「え? 私のせいなんですか!?」
絵那さんが豆鉄砲くらったような顔でがば、と立ち上がる。そんなことは知らない……と言った面持ちだ。
俺だってアニマのことなんか、ほとんど把握などしていないので当然かもしれないが。
「……違うよ、絵那さん。アンタもアニムスの制御なんてたぶん不可能だったんだろうし、別にいいんだ。それよりもヤツだ」
たった一度の攻防で満身創痍となったのだろうかハイエナは、胸を押さえ目を見開き、肩でかろうじて息をしている程度であった。
じり、じり、とそこににじりよるミカ太。
「仕方ありません……最終手段です。……今より僕は全てを『否定』することにします」
ハイエナは右腕を天に向けて掲げ、何やらつぶやき始める。
ヤツの冷たい笑みに、俺は周囲の温度が数度は下がったような寒気を覚えた。
だけれど。
「どういう意図があるか不明だけど、そんなことしてもおれには隙なんてできないよ」
ミカ太は、平然としている。
むしろ、勝ち誇っている……のか。
「っ!」
それに裏打ちされるかのように、何やらハイエナの様子がおかしい。
「だってアンタもう半身、透けてるよ」
……確かにその通りだった。ハイエナの脚はまるで噂に聞く幽霊のそれのように徐々に透過しつつあったのだ。
「く……くく、はははははははははは!バレてましたか、いやはや」
「アンタ、まだやるの?」
「どうでしょう」
と、同時にハイエナが駆けた。精神的に押されてガタガタであるはずが、音のような速さにさえ感じられた。
しかし。
「そっか、じゃ処理しちゃうけど」
「!?」
迫り来るハイエナに向けてミカ太は何かを取り出した。
これはまさか……さっきと一緒のパターンなのか。
「くっ、僕は、それを否定し」
「それってどれだよ?」
ミカ太がつまんでいるあれは……ありゃあ何だ。武器……には見えなくもないが、どこかで見たような……。
「獣性のおれの……言わば獣性ペン!『EXカリバーン』っ!!!」
息をつく暇もなく、煌めく閃光が真一文字に走る。
そのままミカ太のペンという名の剣は、ヤツの上で踊り狂うように軌跡を描いた。
*
辺り一面に。
小刻みな振動が伝わり。
やがてそれは膨張し。
……バラバラに砕け散った。
緊張の糸で繋がれた何かがぷつり、と切れたのである。
長身の男の膝の、崩れ倒れ込む音が俺の聴覚に感覚として到達した。
「終わったなっ!」
これだけガッツポーズが似合わないのも珍しい。と俺は思った。
「これでハイエナの『否定』も、もう不可能だろうね」
そんなミカ太の満面の笑み。
つまり。つまりだ。
……終わったのか。
絵那さんは……問題ない。どうやら何事もないようだ。
心配でもしているのかハラハラ、とした目つきでこちらを見てはいるが。
そして、肝心のハイエナだけれど。
「……く……くっくっくっ」
妙な声が聞こえる。
「だけどあなたも終わりですよ……くく」
先程から間を開けて、何というか、かすれた声で変なことを呟いているようだ。
「なあミカ太……こいつ」
「僕は今まさに『僕とそれに触れるもの』を、『完全否定』したのです」
「え!?」
「最後の企みは果たされました。もうじき僕も消えるでしょう。そして世界は元に戻るのですよ。悪い話じゃありませんよね?」
え、何が。
「これで大体は元に戻ったわけだし、飯食ってちゃちゃと後片付け済ませようぜっ」
「ミカ太……?」
「ん、どうした? 高見?」
あちらに目を見やると、さっきまでそこにいたはずのハイエナが忽然と消えていた。
ぐらり。
俺の眼前に広がる情景が……そして……ミカ太が、『霞ん』だ。