ケース:『転身』
あの後、すっかりミカ太を見なくなった。
いつも背後にいた彼女である。そのうちふらっと出てくるだろうな。
そんな感じには思っていた。
けれど、どうにも一向に現れやしない。
翌日、その翌日も同様で、ここ数日はアニマ自体にちらっとですら出会うことなく過ごした。
そしていつもどおりの風体を取り戻したのか、河合さんの席は空いたままだ。
後は……といってもこちらの方はあまり重要でないはずなのだが、ひとつ。
俺は、なんてことないと信じたいのだけれど、最近変なことが起こっている。
「よっ高見」
「ひゃっ」
何者かに背中を触られる、ただそれだけなんだが背筋が思わずぞくぞくした。
妙に感触が敏感になっているのだ。
「……んだよ、満か」
「おまえ近頃おかしいぞ」
ミカ太がいなくなって。
やがてとするか、じきにというか、俺は不安定でげっそり痩せたようだった。
痩せこけたんだけれど。
肝心の体脂肪率みたいなのは目測ではそんなに変わっているように見えないんだよな。
これは絶対変だろ。
まず気になるのはその痩せ方だ。腰回りがスリムになった。
あと、何故だか肌がつやつやになった。……気がする。きめ細かいと言った感じだ。
「満、俺の声何か変か?」
さらに妙なのは発声である。声量が細くなったような。
それでいてこれはどういう弊害か知らないが、単純な裏声までも出しにくくなった。
このことに関してはわりとどうでもいい。
『怪奇・裏声の出ない男!!』とかこんな話は抜群に人目を引かないだろう。
「いや別に? でも高見がそんな言い方するのは確かに変だね」
会話しつつも満はそんな俺の心中を察することなくすたすたとお先に消えた。
おかしいのは、そんな変化を誰しもがついぞ指摘しないという件だ。俺の周り、皆が。
「気にし過ぎかな」
心の中ではそれどころじゃない。頭がクラクラするほどの異常事態だ。
*
変化は徐々に深刻さを増した。
ウエストは最早くびれてしまっている、といっていいほどになった。
腕はよりすべすべになり、髪が急激に伸びてきた気がする。
「あーあー」
以前より声のトーンは更に高くなった。気のせいなんかじゃない。
これは確実だ。確実な……。
俺は一部の歌手と一緒のタイプでそこまではっきりとした声変わりの経験はないのだが、かつての、ちょうど小学生の時の声みたいなものに置き換わってしまった。
「これって……」
学校には毎日一応通っている。奇怪なできごとに関わらず。
自分のことなのに涼しいものである。
その理由は至ってちっぽけなもので、不思議なことにバレてない、そんな危うさがそのほとんど。
しかしまったくどういう理屈なんだか。
時間を伝える合図にあわせ、俺は漠然とした疲労のようなものを感じながらゆっくりと自分の席に就く。
すると。
ふくよかな弾力の反発を感じた。
これは。
クッションなど、敷いてはいない。
……尻まででっかくなってんのか。
俺は戦慄を覚えた。
俺の輪郭全体までもがぷにぷにと、そして……なんだか丸みを帯びてきている。 徐々に、俺のささやかな日常が身体の隅々で崩れていくようだ……。
*
どうやら俺は眠っていたらしい。
ふと気が付くと、クラスメートはビタのひとりも教室に残ってはいなかった。
もう外の景色はしんなりと薄暗く陰ってきている。
「ヤバい、鍵かけられる!」
覚めた勢いで俺は上半身をガバ起こす。
瞬間、机に突っ伏した両腕に何か柔らかいものが触れた。
ふにゅ。
「ふにゅ?」
ふにゅってなんだよ。
それはただただ俺の中で違和感の塊のような感覚が……ふたつ。
「む、む、む」
何かを触っているという手触りと、同時に触られているという肌触り。
「お……おお……」
勢いで制服をたくし上げる。
「俺の胸ぇ!?」
……膨らみかけている、のか。
シャツの下で主張するそれは、思春期にも差し掛かってない少女のようなあどけない胸。
いや実際そのなんだ、少女のものを直接見たことはないんだが。
それらはちょこん、と盛り上がっている。
「う……」
間違いないのか。
俺は次第に段階を踏んで『女に』なってきているのだろうか。
一体何故。
勘弁してくれ。
*
俺の嫌な予感はゆっくりと、しかし確実に的中していった。
否定する隙さえも与えず、俺の胸はそのままサイズだけを増していく。
ひとまず他人に気付かれない様子なのは幸いだったかも知れない。
はたから見ても男子高校生の服を着た少女のような男など、奇異の目でしか見られないだろう。
あれからなんとか取り繕おうとして気がついたのだが、俺の変わってしまった今の姿は姿見には映らないようだ。
そこに見えるのは相変わらずの……男の俺だった。
恐らく他者にはこっちの相変わらずの男のままの格好として俺が認識されているのだろう。
「思えば、あいつの胸ってこんな感じだったっけ」
ふとミカ太の姿がよぎる。今すぐあって現状を確かめたいが、あいにくいないわけだ。
こうなってしまって、どうにも困ったことがひとつある。
とても見られたものじゃないんだ。予想以上に俺はウブだったらしい。
例えば風呂に入る時はタオルで誤魔化すわけだ。
ただ制服に着替える、それだけなのに恥ずかしさのあまり目を閉じて済ませている。
どうもこの異変はあの時ミカ太が消され、いなくなった時に始動した、としか思えない。
アニムス。あいつのせいだと俺のカンが叫んでいる。
けれどもヒントが売っているわけでも、その辺に落ちているわけでもないので、俺はひたすら憶測をするしかできないけど。
さてはてどうしたものか。
なんにしたって学校だけは行かないといけない。ハイエナとの接点はそこだけだ。
こう思いつつ危なげながらも通っている。
仕方がない。あいつはやけにきな臭い匂いがしたけれども。
「また随分とかわいくなったもんだな? 高見」
覚えのある声がした、
もうロングと言える程度に伸びてしまった髪を振り払って、そちらへ振り向くと……ルツミがいた。
「やっと貴様にも直に私達が見える様になったか」
「え?」
「ずっと近くで問いかけていたんだぞ。高見に問うが、ミカ太が消えて以降私達他人のアニマに出会うようなことはあったか?」
……なかったかな。
ルツミはその間俺に何かメッセージでも送り続けていたのだろか。
「まあいい。高見に私が見える……と言うことはそろそろか」
「何が?」
ルツミが意味深に呟く。
と同時に俺の中に急激な焦りの感情のようなものが芽生えてきた。
言い換えれば、……催してきた。
「ちょっと、トイレっ!」
あまりにも突然だったので我慢などできようはずもなく、俺はトイレへと駆け込んだ。
一面薄い緑のタイル張りで誰が磨いたのかぴかぴかになっている。
俺は急いでファスナーを下ろすと、小さい方に向かう。
向かっているんだが……。
ところが肝心の感覚が。
……ない。
……ないっ。
いつものアレが、なし。
「な、な、な」
茫然自失。
言葉の比喩ではなく本当に『俺の』が消えた。
「とうとう俺は完全に……」
結局、俺は震える手で扉付きの方に入った。
「どうだった?」
「はぁー……」
にやにや、とルツミは俺の反応に興味津々だったみたいだが、俺は溜息を吐くしかまともなリアクションなど取れはしなかった。
「はぁ……」
「どうやら、ミカ太が掻き消された時に、貴様とちょっぴり混じってしまったみたいだな」
「はぁ……」
「どうした? この際、女として過ごして見るというのは」
「ご、ご免だ!」
こんな俺をおちょくっているのか、ルツミは。
「女も女でいいんだぞ」
「ルツミも一応、男みたいなものなんじゃ……」
「何か言ったか?」
言ったね。俺はこいつの正体みたいなのが男子だということをとっくに知っているんだしな。
「しかし完璧に高見とミカ太で“融合”してしまったようだな。……否、ちょうど“封印”されたと言うべきか。だが今の貴様の姿はミカ太寄りで非常に良く似ているのだ」
現在の俺ってそんな見た目になってんのか。
ふと、あいつの名前を出されて俺の頭に疑念が沸いてきた。
「それで、ミカ太は? ミカ太はどうしたら帰ってくるんだ?」
あいつがいなくなって途方に暮れていたところだ。
ルツミなら、アニマの彼女ならなんとか解決できるのかもしれない。
「封印した主を説き伏せるか、まあそのなんだ、撃破するかしかないね」
「アニムス、あいつをか……」
「私だって親友のアニマが消えてしまって寂しいのだ。あっちで方法でも考えててやるので高見、貴様はしばらく女状態でも堪能するんだな」
ちょっと座ってろ。と言いつつルツミはその小さい歩幅を懸命に駆使して向こうへと行ってしまった。
堪能っておい。俺がいくら念じようが、この体は特に何も答えやしないぞ。
……たぶんな。
少し経ったが、ルツミは戻って来ない。
と、俺は左手で筆入れをまさぐると、油性ペンを取り出し握りしめた。
「ん?」
ペンを持ったのはいいが……俺、何がやりたいんだ。
思いながら、ルーズリーフを卓上に展開する。左手で。
「?」
そもそも俺は右利きのハズだ。
左手でペンを執って、俺は一体何をしたいのだろう。
紙面には、こう書かれた。
(お)
(い)
(!)
一文字一文字、利き腕ではない方の筆跡とは思えない流暢な字で、二文字と感嘆符が展開された。
「おい?」
その、つまり。自分でもどうしたいんだと。
「意味がわからないな」
呟いた瞬間、左手が突然吠えたかと思うと、俺に噛み付いた。
「痛ってぇっ!」
鈍痛。
左の拳が、俺の頬にぶち込まれたのだ。
「? ? ?」
客観的に見ると、俺は鳩が豆鉄砲くらったような、いわゆる鳩豆状態だっただろう。
意味不明だ。自分で自分を殴るなんて。
俺、動揺してどうかしてしまったのか。
そんなおり、左手はさらにペンを走らせる。
(おれだ、ミカ太だ)
「……え」
奇妙な話もあったもんだ。
なんと俺の左手が「ミカ太である」と俺に合図を送っているのだ。
でも実際、事実だとするなら、それが現状の助け船であるかもしれないわけで。
俺はそそくさともうひとつのペンを掴むと、自称ミカ太だという左手とコンタクトを取ることにした。
右手の字……(ミカ太、お前どうしてたんだ?)俺の意見だ。
左手の字……(アニムスにしてやられたようだ)ミカ太の台詞だ。
右手……(よかった、平気……ではなさげだな)
左手……((アニムスの野郎にしてやられたっ!)
右手……(それはさっき見た。……で、何で俺はこんな姿になっている?)
左手……(結論を書くと、大体がアニムスのせいだ)
右手……(アニムス……ハイエナか、あいつをどうにかすればいいのか?)
左手……(だな。ところで)
右手……(?)
左手……(どうだ? 女になった実感は。良かったか? あと、おれ別に高見が喋ったらそれは普通に聞こえてるし)
「聞こえてるのかよ!」
左手……(うん)
そして考えられることは、左手の主導権はミカ太に握られてしまっているらしい。
あいつは俺の反対、左手が利き腕だったはずだ。
ある意味、仲良く同居ってやつか。実感などないけど。
と、俺しかいないと思われていた教室内に、何かの声がした。
「何だ?」
左手……(携帯電話を左手に持て)
なるほど、それで文字が打てるな。
その手があったか。
俺はバッグに入れていた自分用の携帯電話を握りしめるとミカ太に向けての『独り言』を続けることにする。
「誰かいるのか?」
左手の携帯電話……(あれは アニマだよ)
さっそく俺の左手のミカ太は会話をはじめた。
若干タイムラグがあるけどな。
こういうのは慣れだろう。
「アニマ?」
(あんたは おれと同一な情報が 備わることによって 視野が広がったんだ 恐らくね)
左の親指が器用に動き、高速でタイピングをこなす。
「別にアニマなら今までも十分見えてたのに?」
(いや違う 今の高見が 見えてるのは アニマ全体の 世界――)
「アニマの世界って?」
(現実世界と 異なった 言わば平行な または 仮の世界に 今おれ達は 存在して いる はずだ おれにとっても 意外だけれど)
「平行な世界……!? えーっと」
平行と言えば、パラレル。ある対象同士がどこまでも交わらない状態。つまり、俺とはまったく関係のなかった世界なのか。
(要するに あんたは そのとある隙間世界の 新しい 住人に なったという わけだな)
「俺が……」
(ちょっと 外に出て みろよ)
携帯電話の充電が切れてないことを確認する。
俺は歩き出る。
そして教室の外で……驚いた。
女、女、女。
もう蛍光灯の光の方が強くなっているこの場所で、思い出す限り見たこともない顔で制服に身を包んだ女生徒が、何食わぬ姿で普通に闊歩しているのだ。
俺は当然詳しくは知らないが、例えるなら女子校のような花に包まれた雰囲気に、この校舎が一変していた。
(ここの生徒の アニマ達が 集っているんだ そして あんた達が昼なら おれ達は夜に住まうといえる)
なんてこった。まだあまり飲み込めてはいないが。
……ということはだ。これが普段いつものミカ太のいる世界、なのか。
そしてよくよく見れば、現れた女アニマのそのほとんどが美人、もしくは顔立ちが整っている。
「アニマは男の願望、なんだったよな」
(うん)
「俺がたとえばブス専だったらミカ太もブサイクだったのか?」
(多分な)
へえ。それはそれは。
だが実際にはミカ太はかわいいと言って差し支えないので、俺はきっと面食いなのだろうな。
と、周りのアニマ達の視線が自分に集まっているのに気付いた。
好奇の目。あえて形容するならそんな感覚だ。
「何?」
(そりゃ あんたは 今男子の 格好 だもんな なかなか 不審なやつ だよ)
「そ、そんなもんか……」
だんだん周囲のアニマの目線が痛くなってきた。
俺だけが浮いているのか。
あと、辺りに耳を傾けて理解ったのだが、空気感のようなものが違う。
いや空間自体が違う。
異質。
まるで世界の裏の顔を垣間見たような気分になり、俺は好奇心が先に立つ。
言うなれば異世界。
未知の領域。
ロマンだな。
恐らく元々の意味とはかけ離れた用途だけど。
高鳴る胸中のまま教室へ戻ると、教壇にふらっと誰かが立つのが見えた。
「宮前先生?」
そこにはまさに俺達の女担任がいた。「年増」があだ名の熱血教師、涙もろくてすぐにでも泣く、が俺にとっての印象だった。
彼女は猫を撫でるような声で振り向きざまに問う。
「誰? あなた」
「俺は……」
「よっ高見、待たせたな」
しどろもどろな俺を遮って、ルツミがひょいと視界に入ってきた。戻ったのか。
何をしていたのだろう、「ふはは良く聞け、貴様に吉報だぞ」とルツミは続ける。
「彼女達がまだこの場所にいたのだよ」
彼女って……。
後ろに誰かがいる。
「高見、調子どうよ! ……奇特なイベントだったようだね」
ナオだった。
「と言うわけで私達で考慮した結果、ハイエナとは直接決着を付けることにした」
え、誰が。まさか俺が。
「アオイはもうとっくにハイエナを調べたんだ」
「ハイエナのいるような場所、知ってんのか?」
「ナオ様のデータ収集力を嘗めるなよ!」
この期に及んでふんぞり返っている奴がいる。でも、有難いかもしれないな。
「さっきから何してるんです、あなた?」
「えっ、いやっ、あのっ」
マズい。先生を忘れていた。これだと絶対変な奴だと思われる。
「あー、高見。そいつは……そいつもアニマだ」
「え? だって……」
俺にとって意外だったその返答に、思わず変な挙動をしてしまった。キョドった。要するに。
「一緒のクラスの中嶋君。それがそいつの依り代だな」
「彼は先生が憧れだったのさね」
ルツミが指摘したのに合わせ、ナオが補足した。
なるほどな。完全に年増好きなのかあの中嶋君は。
相変わらず俺だけ他人の知ってはいけないものを除いているような、そんな複雑な気持ちにはなるけども。
……決して俺が見たくて見てるわけじゃないぞ。
勘違いするなよと誰かに言いたい。言いまくりたい。
「明日にでも対決だ! まあ貴様も今日はゆっくり休め!」
ルツミは根拠もなく意気揚々としている。
「ひとつ言っておくが高見、アニムスに比べてアニマは虚弱であるみたいなんだよね。なんせ、あっちは攻撃的パワーの強い男の具現化なんだ。それにあいつは……何か、なんだか特別な感じがする」
ナオが注訳のように言葉を付け足していった。
「なので、正面でぶつかったりするのは非常に危険だ。その雰囲気だけでも……ミカ太と高見は既に察していると思うけど」
ん。俺のこと心配してくれてんのかナオは。なぜかアニムスを嫌悪したミカ太が先走った流れもあったが、つまりは自分でまいた種とは言え……。
ここで整理しよう。
アニムスである、ハイエナは存在の否定の否定をした。らしい。
俺には考えも及ばないが、かのアニムスには何か不思議なパワーがあったらしい。
言葉狩り。それにどんな理由があるのか知らないが、俺達が気付かない所で世界を改変していたのだ。
おそらく俺がおよそ信じることのできないほどの広範囲に及んで、である。
常識を超えている。
異質。
アニマに対するアニムスとは何だ。正直それを知ったところで、俺は俺で何をすべきか……気にはなるもののまったく見当もつかない。
だがとりあえずは、そんなことはわりとどうでもいい。
ただ、ミカ太はアニムスを嫌悪していた。
結果としてミカ太が巻き込まれ、俺の目線によく飛び込んでいた彼女の身体が消滅しまった。
そして俺の変質。
そちらのほうが重要なのである。
「なぁミカ太、おまえはなんでアニムスを目の敵みたいに扱っているんだ?」
と、左手の動きがピタ止まった。
ぐっぐっ、とそっちの手に気合を込めてみるが、やはりというか案の定微動だにせず。
「おい」
ってこれは俺の腕なのにこんな不自由だというのもおかしな話だ。なんだかな……。
(アニムスの 世界は 基本的に おれ達 アニマの 境界と交じる ことはない)
ん、反応が遅かったのはちょっと考え事でもしてたのか。
(後は 生理的に 嫌なだけ だな)
「結局は気分で決まってたのかよ!」
わかんねぇ。その程度でこんな事態になっちゃったのかよ。
ただ、ミカ太はまだ何か含んでいる匂いはするけどな。……でも根拠は特にない。
強情なんだろうか、こいつは。
なんにせよ。
……決着は明日……なのか。
ってどうすればいいんだよ。何か周りでは俺とアイツとで直接対決するような算段が出来上がりつつあるようだけど。
どうも総合するとアニマとアニムスは犬猿の仲の関係であるらしい。
どっちがどっちかはこの際置いておくとして。
*
軍神の名がつく本日の天候は実に淀んだ空と形容できる状態だった。そんな風景に鋭い光が瞬いては消え、瞬いては消える。
稲妻は可視光の瞬きで、雷は音を伴う放電だとか聞いたことがある。
要するに神様がヘソを取りにいっているわけで、俺としては正直うるさい。
ストレスが溜まってムカムカする。
それというのも。
なんだかんだ段取りがあったくせにハイエナが、いなかったせいだ。お陰でなんだか妙に落ち着きの悪い。
おまけに、この姿になってなんだか凄く肩がこるし、ロングな髪の毛は顔にかかって鬱陶しいし。
何より体力が落ちた。ガクッと。
それでも見た目は変わらないわけで、俺にかかった不幸など誰も知る由もないのだ。
つゆ知らず。
なのだけど。……これは冷ややかな雨でも降ってくる流れか。
周囲の目には俺は男のまま、のはずなのだが、どういうことか視線が集まってきている感覚がする。
一旦気にしはじめたら、もう気になってなってしょうがない。
あと、何だか……体臭が変わったかもしれない。
今までが臭かったんじゃないぞ。
元々気にならなかったものが、かすかな芳香でも感じられるようになった。
体臭と言うとなんだか変態的だな。今の俺は変じゃないとは言い切れないのが悲しい。
ミカ太曰く、これは男の考える女性像らしいが。
ミカ太と対話するために必要な左手の携帯電話は、マナー違反だと言われるけども今や必須アイテムと化している。
俺だけクラスで浮いている格好だが、これがもし注意されたらペンにでも置き換えるだけだと思って強引に通すことにする。
「まー、明日には来るといいな。アイツ」
ボソッと口に出す。ミカ太と話すために。
つまりは自分にさえ聞こえればいいので、アニマとの『独り言』は楽だ。かすれるほど小さい声で喋ればそれでいいのだ。
やりやすくなった。
(誰が?)
俺の左手に宿る実質ミカ太が軽快に親指で携帯電話をタッチしていく。
「誰って、そりゃハイエナ、しか」
一応、彼女には面識はある。と言ってもクラスメートとしての規模で、だけど。
「よっ、高見」
声がした。それは単純にあいつ、ロリコン的な趣味を持った俺の親友だ。
「満か……」
「おまえ最近なんかズレてるな。もう昼だというのに眠いのかおまえ」
聞き覚えのあるフレーズも出てきたことだし、こいつと駄弁っていようかな。
「ところで昨日のネットでの配信がさぁ! おもしれーの」
言いつつ満が肩に手を回してきた。おい。
……こいつってこんなに積極的なやつだっけなぁ。
仲の良い友とはいえど、妙にムズムズする。
そんな折。
「ありゃ、何だ?」
「俺も気になっていた」
廊下の方で空気が変わったのはついぞさっきのことである。先刻から何やら様子がおかしいのだ。
広がっていたのは、人だかりだった。黒山の、というほど取り立てて悪い印象でもないが、兎に角俺達はそのあたりで喧騒の原因を探ることにした。
と、いうわけなのだけど。
……ちょっとした騒ぎの原因はすぐに理解った。
普段いない異質な存在。
言い換えるなら俺達のクラスで、登校拒否そのものの象徴だった人がそこにいた。
おそらくは、だが。
そんなふうに考えたのも普段見ない顔なので、俺の中で『例の彼女』である、という確信が持てなかった部分があるためだ。
もし、もしも、そこにいるのが件の彼女ならば。俺はちょっと言いたいことが、ある。
届くか。
俺の声が。
かなりスカスカでまばらだけど、確かに連なっている雑踏の中心へ人や人やと掻き分け入る。
と突然、波が引いた。
「アンタ……『河合絵那』さん?」
思わず彼女のものだと思われる名前が、口をついて出ていた。
「そんなあなたは、大紙高見くん……ね?」
休みがちな女子高校生。御多分にもれず、儚げなイメージはそのままだった。
その少女が、渦中の彼女が、まっすぐこちらを見つめているのだ。
「あ、あぁ……俺は……高見だ、けど」
「……なるほどね。じゃあ、“たぶん”私は河合絵那なわけ」
「た、たぶんって?」
「不確定要素だよ。あやふやなんだ、私」
好奇の視線が俺にも集まる。
周りが発する、主に俺達に向けられたやや心地良くもやかましいノイズに阻まれ、会話は後に続かなかった。
そんな俺含む野次馬たちに見切りをつけたのか、彼女はついとつま先をあちらに向けすたすた歩いていった。
しばらく呆然と立ちすくむ。何より、甘い彼女の残り香が、ってコラ俺の鼻よ……やましいなオマエ……。
直接用事はないんだ。間接的に色々と積もりに積もった話があるんだよ。
……言いたいことはたくさんあったはずだけど。
彼女は、思っていた印象とは少し違っていた。それで。
呆気に取られてしまったのか、俺よ。