ケース:『男の性』
どうしてだろう。ここの所の俺は以前と比べて肌が敏感になったのか朝が妙に肌寒い。
これは冷え性にでもなったか。
疑問には思えど、現に鳥肌は立っているもので。
ミカ太は笑って流したのだが、ずっと訊いてみたかったことがあった。
俺にとってのミカ太みたいな存在は……女性にもいるのか、と。
そもそもアニマ的存在が男だけにある、というのが信じられない。
順当に考えたら、女にも同様のものがあってもいいはずなのだ。
そんな俺を尻目に「女性にはアニマはいるのか、か。おれは否定するね」とミカ太はきっぱり答えた。
とまあ、その話題はそこまでだと思っていたんだけれど。
俺にとっていつも通りの日常。近頃ミカ太もそれに組み込まれた。
当の彼女は俺の席の右脇、地べたに座り込んでへーぽん、と何考えてるのか理解らないような表情を浮かべている。
こんなミカ太の胸中を察することなどきっと俺にはできはしないのだ。
好きなウェブ動画は被ってるけどな。
あいつは横で見ているだけだけれど、そこは俺と似ている。
……ところで、さっきから気になることがある。
俺は落としたペンを拾うフリをしてミカ太の背中を叩いた。
(おいミカ太)
席に戻った俺は雑な筆跡が走ったルーズリーフでミカ太に提示する。
「ん?」
(いくつかお前に訪ねたい)
俺は書き続ける。
「うん」
(いっつも休んでいる女の子……河合さんの席にな)
「あー」
(何か変な男がいるんだが)
「はいはい」
ミカ太はあぐらをかいたまま俺の様子を見ていた。言いたいことは伝わったようだ。
「さっきからおれもちょっと意識しているんだ。あれ、誰だろ? 一応ここの制服だよな」
(ミカ太も気付いていたのか?)
「いつも休んでいる河合さんのとこにいるのに、みんな素通りしてるよな」
どうやら俺と意見が合うな。
……何だろう、あの人は。
*
長かったが、本日の授業はこれにて終了。
俺と言えば、気が散って集中どころではなかった。
恐らく疲れ切ったのであろうクラスメイト達は思い思いの開放感を求め、この時を待ってましたとばっかりに次々と教室を出て行くのだ。
……件の男はずっと教室の真ん中、先頭の河合さんのポジションに座っていた。
不動というやつである。
俺はと言えば不審に思われないように遠目に観察していたが、推理の類が苦手な俺のこと、得られた情報は少ない。
まず、男は絶世の美人、いや美形だった。
真正面で見たわけではないが、やつの顔はやたら整っている。
俺が嫉妬するレベルでだ。
女顔をそのままコンバートしたような、感覚としてはオヤマのそれに近いかな。
まるで優男のような極みだ。
そしてもうひとつは、対面してみないと結局は不明なまま、ってことだろう。
毎度のようにクラスの放課後は俺が最終的に残る。
……行くしかないな。
ミカ太が何やら「うー」と唸っているようだけども俺は意を決し、男の肩に触れた。
「なんです!?」
驚愕する顔がそこにあった。男は心底意外げな感情らしきものを浮かべている。
「なあ、アンタって……」
「ま、まさか僕が見えるのですか!?」
凄まじいトーンの声が俺の耳をつんざく。
「だな」
ミカ太が俺の代わりに答えた。男はその反応として目を白黒させている。
やがて、胸をなで下ろしたかと思うと。
「申し遅れました。私は河合絵那。正しくはその『しもべ』とされているものです」
男はすぐさま落ち着きを取り戻したようだった。
「しかし変わった事態もあるものですね。一介の男に僕が認識できるとは。いやはや、興味深い」
そして男は河合さんと同名にふたつ程度文字を足してハイエナ、と名乗った。このパターンは非常に覚えがある。
ミカ太の同類なのか。
俺が思いを巡らせていると、まだ唸り声をあげていたミカ太が俺の影に隠れる。
この動作がまた俺にはこそばゆい感触として残った。
「あんた……もしかして『アニムス』なの?」
ミカ太が絞るような口調で問いかける。
「おいミカ太?」
「やあ、よく知ってますね。アニマでしたか、あなた」
ハイエナの言。
アニムス……。何だそれは。
言葉の語感はアニマとよく似ている。
「ハイエナと言ったな! そのアニムスが何しにここにいるんだっ!!」
急なミカ太の声の変貌に、ハイエナはきょとん、としたかと思えば。
「なるほど、アニムスが苦手なタイプでしたか」
両の手を弾ませるハイエナは人を茶化すような態度をとっている。
なんて言うんだこれ。「いけすかないやつ」なのか。
そんな雑感を思っているうちにも。
「何でここにいると言っている!!」
ミカ太がハイエナの胸ぐらを鷲掴み、恐喝でもしているのかといった具合に高ぶった。
「それは。目的がありますしねぇ……僕の依り代、河合絵那の」
ハイエナは眉をハの字に歪め、肩をすくめた。
「あなたは高見君、でしたね」
「?」
「彼女はあなたのアニマなのですね」
「見れば理解るだろ!」
身長の差で吊られてはいないけど、ハイエナはミカ太によって首をめりめり、と締め上げられている。
「……」
ハイエナはたぶん俺に見えるように顔をこちらに向けて……口の端をわずかに上げた。
苦笑。
「いえいえ、ご謙遜を。こんなスレンダーな美人が高見君とは、とてもとても思えませんが」
「なっ!?」
「かわいい、と言ったんです。高見君とされるあなたをね」
ミカ太の顔がストーブになった。
「美しいとも思えます」
小刻みに震えるミカ太の頭では湯気でも立ち上りかねない様子だ。
……こんな状況なのに、俺の頭に「照り焼き」という単語が出現する。
「そろそろ、離して下さい」
「だ、騙されるもんか! 何を企んでいるんだ!」
「あなたが思っているより遙かにアニムスは複雑なのですが……仕方ありませんね」
ふう、と溜息のようなハイエナのリアクションが鼻につく。
その拍子にミカ太の手が緩んだようだ。
咳き込む男。
服の埃を振り払う仕草をしながら、ハイエナは俺達を余裕でも残っている風に見据えた。
「世界の破壊です。つまり、河合絵那によって現世を壊すのが僕の目的、とされている」
「な……!?」
俺も驚いたが、ミカ太もハイエナの言動にかなり退いている。
「何故、河合絵那というあなたの同級生がこの所不登校であるのか知っていますか?」
「何が言いたいんだ?」
ミカ太は腕を組んだまま、頭ひとつ分も大きいハイエナを睨んでいる。
例え相手が河合さんであろうが容赦ないなこいつ。
「未遂です。自殺の」
「え」
突然、二の腕に麻疹が出た。ように感じた。
「彼女は病弱な自分を消したいと思ったのですよ。と、同時に消えたくなかった」
「自殺行為……?」
この口が塞がらない。
「そして彼女の前に現れたのが、僕ですよ。女性にとっての男性像の願望とされるアニムスです」
こほん、とハイエナは小さく咳ばらう。
「河合絵那の願望。それはつまり自分の世界を・・・・・・壊す。さて、これはどうやるべきなのでしょう?」
「知るかよっ!」
「世界を消したいが、その実消えたくはない。そこで僕は『否定の否定』をすることにしました」
ん。
「否定の否定って?」
訪ねてみるが、ハイエナの独白に俺の頭はいまいち付いていけない。何が言いたいんだこいつは。
「気付いてませんでしたか? もう目標のひとつは達成されました。あなた達にも関係のあることです」
「?」
俺の思考がどうにも反応に困っている。
変わった現象でもあったか。覚えがない。
「おや本当に気付いてません? 僕は『ある言葉を消し』たのですよ。それは『な』と『い』のつく簡単な言葉です。これでもう理解、されましたよね」
……。
…………。
………………え。
「何だって!?」
……驚愕した。そんな雰囲気がミカ太を包んでいた。
だけどミカ太、俺も衝撃を受けた。受けてしまった。
ぞっとした、というやつだ。
そして一体いつ窓が開いていたのだろうか、寒気を濃縮したような冷たいものが俺の首をなぞる。
「思い返してみて下さい。あなた達の最近の出来事を」
ハイエナはこほん、と咳を。否、彼は笑っているのか。
「何を言ってるんだ! そんなこと!! そんなことっ!! 全然……全然……」
……ない。
と叫びたかった。ただそれだけなのに。
だのに、単語が口をついて出てこない。
「これが僕達の『NGワード』。要するに言葉を狩ったわけです。原理は簡単なものです。僕がアニムスなのでと言っておきましょう。・・・・・・これでこの世界の否定は全て消え去りました」
俺が事態を飲み込めないでいると。
「やはりハイエナ! どう考えてもあんたは危険っ!」
ミカ太が張りつめ吼えたかと思えば、どこに隠していたのかミカ太は両手にペンを五本、爪のように拳に握り込むんだのが見えた。
そのままハイエナに向けて、繰り出す。
引っ掻いた。
「ほう、あなた『獣性』ですか」
空気と髪を切り裂く音がする、がハイエナはそれを最小限の動きなのだろうか、あっさりかわしていた。
「へぇ、かなり危険な才覚を持ってますね」
「まだだ!」
ミカ太のシャープペンによる擬似的な爪がハイエナに到達する……寸前で止まった。
ハイエナがミカ太の額を腕のリーチで引っかけて抑止したのだ。
「強いアニマだ。肯定。認めましょう」
アニムスの男の服がもごもご、と動き始めた。
「ですが」
「!?」
俺はふたたび衝撃を受けたわけだが……ハイエナの背中に、翼が生えていた。
鳥のようなそれはやがて羽ばたいたかと思うと、ミカ太を左右からすっぽり包んだ。
「邪魔をするものには消えて貰います」
大気が震えた。
ミカ太の細い体躯が宙を舞い、俺の方向に吹き飛ぶ。
鈍い音、眼球の中の閃光、激突。
閉じられる意識の中でハイエナが高笑って立ち去るのが見えた。
そして、俺は気を失った。
気がつくと、フロアに倒れた俺ひとり。
……ミカ太が消えていた。
※この作品はセリフ中に『ない』という言葉を一切使わないという縛りを入れていました。