ケース:『ロールプレイング』
縁起がいい、と言っても俺がさっきまで飲んでいたのはペットボトルの緑茶であり、白い蛇を夢に見たわけでもなく、ましてや富士山鷹茄子を年始に見た覚えもなかった。
ただ、理由もなくツイている。
ある時は鳥のフンが俺の横スレスレに落ちたのを見た。
またある時はトラブルで電車が遅れたのを遅刻の言いわけにできた。
この前はSランクまであるのを知らずにA評価でぬか喜んだ。
さらに先刻の自販にて、お腹がぐるぐる急に鳴り始めた状態でボタンを押したのは冷たい、だったのだけど出てきたのは温かいお茶だった。
……うーん、思い返すと本当にラッキーだったのか? ちょっと疑問がわいてきたかもしれない。
何であろうが、運がいいものはいい。のだろう。
まさに渡りに船。
とわりと考えているのにも、ひとつの理由がある。
近頃『クピードーさま』というものが学校で流行っているようなのだ。
特に女子の間では噂は持ち切りで、なんでも恋の願いを叶えてくれるらしい。
それだけ聞くと学校のなんたら不思議にありがちな事象だが、生徒達の話のタネになることもやはりありがちで、伝説が広まるのも当然なのだった。
兎に角俺は……いやこの高校全体が、そんなまだ見ぬ超常的な幸運を求め、意識し、探している。
「よっ高見!」
「あー。挨拶はしねぇとなー」
ミカ太が現れた。俺はいつものように独り言に聞こえるニュアンスで即座に反応する。
「おいすっ! 今日も元気か? って、知ってるけどな」
「あーどうしたことだか、妙に壁殴りてぇ……」
ここは俺のいる学年の廊下、広告掲示板群の前なわけだが。
そこには目を引く記事が書いてあるのだ。
廊下の共用スペース、『クピードーさまによる恋の縁結び掲示板』。
これが発生したのにはいきさつがある。
始めは大したことはなかった。
最初は何の変哲もない落書きだったのだ。ボールペンで描かれた相合傘。
きっと悪戯で本人ではなかったのだろうな。
ただ、そこに書かれた名前は以前より噂になっていたふたりだった。ただし女が一方的に男側を好きだという噂だ。
……それが、いきなり実ってしまった。相合傘が発見されたすぐ次あたりの日に。
女が告白したんだろうと言われたのだが、当人が「そんな覚えはないよ」と言ったのが大きな分岐点だった。
伝説は作られていく。
しばらくして相合傘の彼女にあやかってかただのおふざけか、別の女性も試しに描いてみた、らしい。
相手は顔が整っていることで一部に有名な、いわゆる「憧れの先輩」という男だった。
その次の日である。
恋が叶ってしまった。
女の片道的なものでもない。男の方が告白してきた、という話を聞いた。
その後は……噂が広まるのには十分だった。
そして作られたのがこの掲示板というわけだ。
ただし、伝説にも条件がある。
ひとつ、男が書いたものには効果はない。つまり男の方が好きな女を書いても恋は成就しない。
ひとつ、別に相合傘じゃなくてもよい。ただし冗談で書いたら結果はどうなるかは保証されない。
ひとつ、女性本人が願いを書かないと効果はないらしいという点。
これら全てが人柱的な体験談によりだんだんと発覚してきたものだが、やがて学校の七不思議の八個目として君臨することになった。……言葉の意味はおかしいけど。
現在は信じる派と信じない派、ガールズトークに華を添えられるならそれでいい派、に分かれているらしい。
三番目が圧倒的で、実は心から信じている奴はそんなにいないんじゃないかと。これは聞いた話だけど。
「なんか思い当たるフシがあるんだよな……な」
一応ミカ太に聞こえるように独りごつ。
「おれは知らねーよ」
「クピードーさまの正体わかんねぇかなぁ」
言いながら右目の脇を掻いていると、ミカ太も左目の脇という違いでほぼ一緒の動作をしていた。
俺とミカ太の背面側を生徒達が通りすぎていく。
今回のクピードーさまの新しい願いは一組。主役は隣のクラスの地味子さんだった。
考えたこともなかったが、例え美人じゃなくてもくっ付くのか。
そんな俺の真横にいつのまにか少女が立っていた。
赤みがかった栗毛ポニーテールの女がこの学校の女生徒姿に身を包んで、だけど目を凝らすと所々制服は改造されている。
ミカ太がよく履いていた、俺にとっての王道スタイル黒オーバーニーではないものの、不思議と足に目が行くのはスカートによるものだろう。
ちょっとだけふんわりと広がって……こういうのはなんて言うんだ。スカートのバッスルスタイルアレンジ風か。知ったかぶりはしてみたが、詳しくは理解らないけども。
少女は決して太っているわけではないが要所要所ちゃんと出ている体型で、大人びた雰囲気にはその制服はぴっちりと窮屈に見えた。
「命短し恋せよ乙女ってね! 邪魔、邪魔、邪神だよ」
「ちょ」
俺が邪険にされるのはいつものことだが、何かトンデモないものが混じっていたぞ。
「ほう、今回は久留間さんか。相手はサッカー部のキャプテンだねぇ」
親指を顎に付け縁結び掲示板を舐めるように見回す少女。
……よく見ると美人だな。年上お姉さん系のにおいがするぞ。
「何?」
ミカ太がわずかに怪訝な顔で隣を眺めている。
しばらく沈黙があって。
「ジャミング! 撹乱! どけどけ!」
少女は駆け足で走っていく。
「誰だったんだあれ。うちの学校にあんな人いたかな?」
ミカ太はもう視界の向こうに去ってしまった少女を追った目をそのまま泳がせていた。
「それにしても怪しいな」
ミカ太は実に不信な感覚を認めているようだった。
「クピードーさま、か」
俺の印象に少女は強く残った。……美人だったというのもある。
そこで生徒達がほとんど廊下にいないことに気付く。
……いけね、遅れてしまう。
*
次の日から、俺は軽い張り込みをするようになった。
俺はわりとどうでもいいと言ったのだが、ミカ太が目をギラつかせてどうしても気になると主張したのである。
どうせアニマが噛んでいることは間違いないのだろうが。
そして久留間さんなのだけど、恋は実った。……らしい。噂によるとな。
「風説の流布だな」
ミカ太、違うだろそれは。
でもまあ恋の掲示板に男女のカップリングが書かれた、ってことは生徒の大体みんなに恋愛感情がバレてるってことだよな。
まったく愉快な仕組みだ。
そしてそれに首を突っ込もうとする俺達も愉快であるのは言うまでもないのかもしれない。
そんな物好きども、はまず縁結び掲示板に告白が設置されるタイミングを調べた。
で、張り紙の更新をするのが月曜だと知った。
タイミング的には月曜日。
なわけで、決戦はまさに今週の始めである。
決戦、というより野次馬道中だけどな。どうせミカ太はヤジ飛ばしに来たんだろうし。
「お前ほんとにこういうの好きだな」
「……あんたもね」
「俺は特に好きじゃねーよ」
「あんたもね!」
うっ、なぜ言い返せない、俺。畜生、週末の映画観せてやらないぞ。
……俺も見えないんだけどな。はぁ。
まだ誰もいない学校、通路、縁結び掲示板。
「なぁミカ太。俺達早すぎたんじゃ?」
開毛放たれたガラス戸、涼しすぎる風、春霜、……窓閉めるか。
「待って」
何だよミカ太、急に。
「隠れて」
「え?」
俺達は男子トイレの物陰に隠れた。ミカ太はそれでいいのかよ。俺しか気にしないわけだが。
「誰か来る」
確かに俺の中途半端に悪い視力でも、人のシルエットのようなものがうごめき近づいてくるのが確認できた。
「あれか」
顔をギリギリ目だけ出した俺達はそろって息を飲む。
またあれが来たとして、ミカ太はどうするつもりなのだろう。
「来る……な」
「何が?」
いきなり背後で声がした。ミカ太は真ん前だ。じゃあ一体……。
「キミ達ここで何してんのさ」
あまりのタイミングに俺達はたじろいだ。
「な、な、な、な、な」
「な、何だよ!」
絶句した俺の脇でミカ太が言い放った、が驚きを隠せていない。
「あら?」
首だけ振り向いた俺の後ろの少女は意外げな顔をしている。
「?もしかして……」
「どうかしたの?」
「キミ、男の方、私達が見えるのかい?」
そんな反応を見るかぎりこいつはアニマのことを知っている何か、だ。
「あぁ、俺……俺達は見える仲なんだ」
「ほほう」
まじまじと俺を見世物のように観察する少女。
美形に眺められて悪い気はしない……って男子トイレだぞここは。羞恥心が刺激されてしまう。
「というわけなんだ」
「ほうほう、珍しい人もいたもんさな。不便じゃないかい?」
首を傾げる少女の後頭部にそびえるポニーがしゃん、と鳴った気がした。
「おっ俺は」
「まあな」
ミカ太はしょうがない、といった面持ちでいる。
「高見さんは実にレアなんだね」
「そんなわけあって今はミカ太って名前だけどな。紹介しよう高見。彼女は……彼女も岸直、というんだ」
岸直? 聞き覚えあるぞ。
「それってああのナオ君? 岸直君か?」
「なのさ」
ってことはだ。つまりナオさんか。年上好みの直君ってわけか。
「おおっと、そこで用事があるんだった。じゃあね、おふたりさん。ごゆっくり……ここトイレだけどね」
言ってナオさんはひょいとステップを踏むと、掲示板群の前で足を止めた。
ややしばらくしてミカ太が「ふーん」と何かに納得したような声を上げた。
「怪しい……黒だな。これって黒だよな?」
「いや悪いことはしてねぇだろ」
と、ナオさんが思いついたように踵を返し、そして駆けだした。
「あっちって何かあったっけ?」
「……追うよっ」
俺達はナオさんの足取りが消えないうちにそれに追従した。
しかし好奇心だけは旺盛だなミカ太は。……俺らしいが。
硬い廊下の材質が弾むような軽快な音を立てつつ俺達は追跡を始めた。
一定の距離を保って付いていくと、ふと遠目のナオさんが足を止める。
……視聴覚室。そこに彼女は左右を見渡して警戒しながらそろりと入室する。
鍵は何故だか解除されているようだ。
わずかに考慮してみたが、流石にそのまま乗り込むわけにはいかないという結論に至る。
そこで少し調べた結果、小窓を開けて俺は上、ミカ太は下で覗き込むことにした。
そっと。そーっとな。
ミカ太の頭が顎にがしがし当たるポジショニングを避けようとしていると、室内から張りのある声が聞こえてきた。
「遅い」
「ごめんアオイ、……待った?」
「待ったも待った。こちらの準備は完了しているぞ」
「ちゃんと確認してきたのだよ。ひとり。久しぶりのターゲットだ」
中にふたりの女の声。ナオさんと……葵と言っている。
アオイ、ってもしかして久松葵君か? 確かに直君と葵君は仲がいいことで有名ではあるけど。
俺によぎった彼女が葵君にとってのアニマだという予想は、恐らく当たっているのだろう。
「単刀直入に。今回は誰だった?」
ナオさんと異なる声が早口にまくしたてる。
「久留間さんさね」
「ほう」
「それ相手は……何だっけ。来る時にメモってきたけど」
ナオさんはポケットをまさぐるとコンパクトな手帳らしきものを取り出した。
当のアオイさんの方は角度が合わなくて姿がよく確認できない。
「遅い」
「ごめんごめん」
「早く」
「それで相手は……サッカー部の実本先輩さな。彼女はいないようだよ」
突如アオイさんのシルエットがこちらを振り向いた。
「誰だ!」
驚いた拍子に立ちあがったミカ太の頭突きが俺の顎を打ちぬき、脳を揺らす。
「痛ってぇ!!」
こちらにアオイさんの影が見えているってことは、あちらも目視できるということか。
迂闊だった。
「てへへ」
ミカ太は鬼に見つかった隠れんぼ遊びのように、頭を掻きながらドアを開けた。
「バレたか」
「おい、早く閉めろ!」
俺も急いでき教室に飛び入る。
「な!?」
口をあんぐりとさせたアオイさんがそこにはいた。
髪は短めでショートボブ。彼女はここのジャージに身を包んでいる。俺は体育会系の心象を受けた。
やがてその特徴的なつり目が俺達を睨む。が、動揺は隠せていない。
「どういうわけ?」
「高見さん……」
ナオさんが仕方ないね、そんな顔で溜息を付くのが見えた。
「どうしてそこに男がいる」
アオイさんの冷ややかなトーンの声が朝の特別ルームに響きわたる。
「俺? 俺か……」
俺、どう説明しよう。
「あの、実はおれ達」
「実は……高見さん達は言ってみればレアモンなのだよ」
ナオさんがこれこれしかじかと俺達の境遇を説明する。
その間、珍しいものであるかのように俺達を交互にアオイさんは見つめてくる。
「もうちょっと簡潔に言って欲しかったが。概ねわかったぞ」
顎がズキズキと痛む。こっそり覗いていたんだ、バレてしまったら決していい心地はしない。
「なるほど。キミらも興味が有るんだな」
アオイさんは何か満足したような反応で妙な合図を送ると、ナオさんがローラーが付いたイメージボードをがらがらがら、と引いてくる。
白いボードはアオイさんの腕に掴まれ……勢いがつきすぎて一回転と半分ほど回って止まった。
「ようこそ、我らの『クピードー計画』へ!! 私がアオイだ」
「ナオでいいよ。ちなみに好きな数字は99と255」
ボードをナオが真っ直ぐに修正している。
そこには男みたいな雑な字にでっかい丸に囲まれて同様の単語が書いてあった。
「何だそりゃ……」
「高見。ナオ達がクピードーさま事件と関係あると考えるのが普通だけど」
「その通り」
ナオは続ける。
「最初はただのイベントのつもりだったんだ。だけど話題になっちゃってるみたいね、クピードーさま。まあ当然さね。これもひとえに私達の……痛たっ」
「遅い。短くまとめて」
アオイがナオの側頭部をはたいた。
「アオイ、私の頭をブレイクするな!」
痛がるままに拳をナオはアオイに繰り出したが簡単にひょい、と最小限の動きで避けられたようだ。
「それは残像だぞ」
そんな光景にミカ太は何やらうんうん頷いている。感化されなけりゃいいけどな。
「……とまぁ、察しの通り私達が一枚噛んでいるんだ。つまり恋愛フラグだね」
フラグ。と言うとゲームの引数とか印付けがまず浮かんでくるんだけど。
「ナオさんはゲーオタみたいだな」
ミカ太が冷静に分析するところ、そんな感じらしい。直君はゲームマニアだったのか。
「ちゃっちゃと言うぞ。要するに、高見君も私達の陣門に下らないか? ってことだよ」
「陣門?」
俺がいまいち反応に困っていると。
「この際上下関係は置いといて、一緒にクピードーやらないか? ってことさね」
「よしきた! ね、高見っ」
ミカ太が俺の腕を取って目をキラつかせてはしゃいでいる。
仲間に? ……まあ、嫌だと言ってもそこではい終わりだもんな。
「あぁ」
一旦決断したら、こんな俺達にまたひとつ新しい『秘密』ができた。
*
計画は単純だった。いわゆる……待ち伏せだ。
「手っ取り早く私達がお節介やいてあげればいいわけ」とはアオイの弁。
人通りが少なく、確実に御本先輩と接触できる場所を吟味した結果、校舎の離れにあるサッカー部の部室の前を交代で監視する手筈だ。
今は皆が絶賛部活中。時は夕方日は向こう。
『先輩、は、いる、の、かな』
俺の耳にミカ太の細く小さい声が到着した。それもそのはず、俺はクピードー計画一行とは少しどころじゃなく離れた場所にいるのだ。
『さあ、どう、だろう』
『待ち、くた、びれ、たぞ』
それに増してアイツら、雰囲気出るとかそんな理由でヒソヒソ声にしようとしてるし。
俺がいると見つかってしまうから、らしい。
別にバレてもなんの問題もない気がするが。
『ったく、遅い』
『高見、君、は、聞こえ、てる?』
アオイとナオの喋りが聞こえる距離感もまさにギリギリだ。
通じていないわけではないが、置いていかれたような気分だったので、俺は両腕でバッテンを作って前方の三人に見せる。
『ご、めん、ご、めん』
するとミカ太がこっちにやって来た。手には変なものを携えている。
「高見これ使いなっ」
「何だ?」
それは紙の容器二個を糸で接続した、つまり糸電話のようなものだ。
少し疑問に思ったが。素材とかな。
片方をミカ太、片方が俺。ピンと張らないといけないので俺はさらに後退りすることになった。
「あーあー、てすてす。どうぞ」
お約束として、相手と俺で交互に耳と口を入れ替えて話さなければならない。
「ミカ太、電話は通じている。……ところでそっちは先輩の顔は知っているのか? どうぞ」
しばらくの静寂。
「任せておけ、どうぞ」
ミカ太それは宇宙飛行士じゃないのか。
「お前らのことだ。俺は信用する。どうぞ」
「またまたお世辞言っちゃって。ユー媚―?」
「媚びてねぇよ」
はしゃいでるのかよ。ミカ太はこういうの好きなのかもな。
……そろそろ練習が終わるタイミングだ。順調に行けばもうすぐ先輩は出てくる。
「来た!」
部室の扉が開け放たれ、そして長身の男が現れた。きっとあれが先輩だ。
少し緊迫した空気が流れる。
よし。
俺は意を決してジリジリにじり寄った。
長身の男(多分御本先輩)が背中を見せると、俺は糸電話を放り急いで後を追う……。
と、右腕をぐい、と掴まれた。同時に激痛が走る。
「痛ってぇ!」
右足の甲に上履きがめり込んでいた。犯人はミカ太。
「俺の足を踏むな!!」
「高見が追いかけたら駄目だろ!」
ミカ太は激昂した。悪いことでもしたか。
「アニマならまだよかったんだけどね」
「急ぎすぎも考えものだぞ」
ナオとアオイが怒る女に遅れてやって来る。
「何でだ? ほっておくと標的が逃げてしまうよな?」
「いいんだ」
「結構だぞ」
「はい、を選ぶね」
三人揃って意外な答えが帰ってきた。
「へ?」
「おれ達の相手は、御本先輩……なんだけど先輩とは違う」
あぁ、それって……。
「アニマか。先輩の。」
「うむ」
アオイさんが頷いた。ドンピシャか。でもこのメンツだと当然な気もするけどな。
「でもちょっと待った。俺が後方に隠れていた意味ってあるのか……?」
「これだけでエンドだね」
ナオが肩を叩いてくるが俺は不条理を感じていた。
ややあって、開けっ放しの扉を何者かが触れた……気がする。
「来た! 今度こそ」
足音が聞こえた……感触がする。
「?」
そこには、相変わらず開け放たれた部室の扉があるだけだ。
「おいアオイ?」
彼女達の方に向き直ると、もはや臨戦態勢といった具合になっている。
「ここの準備はとっくに済ませたよね。即効で行くぞ」
「ラジャ」
「あいさー」
おい。どうしたことだよ。
「高見、どうしたの?」
ミカ太は不思議に思ったのだろうか、素っ頓狂な発音で俺の名前を呼ぶ。
その間にもナオ、アオイの両名は扉の前で何らかのトークを開始していた。
「えーっとミカ太。誰かいるのか? そこに」
「いるだろ? 十番のユニフォームを着た女の子が」
話が噛み合わないな。というか、何故だか俺には見えていないのか。
「いや……」
考えてもみれば俺には、全部のアニマが見えているというわけではないのだろう。
もしも全員が見えるのなら、この学校の人口が二倍に見えていたのかも知れない。
否、さらにその半分か。男女共学だしな。
当然、御本先輩のアニマの喋りも聞こえていないので、彼女達が何を言っているのか、推測でしか読めない。
が、何か様子が変だ。
ミカ太達は会話始めにはガールズトークのように好奇な目だったのが、次第に説得のような口調に変わり、とうとう今は罵倒やなじりに近くなっていた。
トラブルでもあったか。
俺がそんなことを考えているうちに、三人は各々の格好でうなだれていた。
「ったく、あ、い、つ、は、っ!!」
ミカ太が爆発していた。俺だけ蚊帳の外で不審に思っていると。
「あーあ。ゲームオーバー。任務失敗さね」
ナオは肩をすくめる。
「だな。あんな奴ならとっとと切り上げてしまえば良かったね」
アオイは爪を噛んでいた。俺も昔はよくやっていた行為だ。
しかし、どういう結果なんだ。
俺だけが、理解らない。
「詳しくは……」
「視聴覚室に戻ったらね」
計画の首謀者二人に言われたので俺は疑念の思いでそこへと向かうのだった。
室内は誰も立ち入った形跡はない。計画開始時のままである。
「何気に初かな? クピードーさまと呼ばれ始めた後にミスしたのは」
「だ。即座に失敗した」
うーむ、とナオとアオイの含んだ吐息が聞こえる。
「ミカ太、説明してくれ」
「なる」
……な、なるほど。
「ナルシストだったんだよ。御本先輩」
すかさずナオのフォローが入った。
へ。
「好きなんだって。御本先輩のアニマは……御本先輩、つまり自分自身が」
「え……ええ!?」
えっと。それってどういう。本人以外眼中にない、のか。
確かに先輩はカッコいい、美形と言っていいんだけど。まさかなぁ。
時に人は見かけにもよるもんだ。
「しかしどうするよアオイ……ハズしちゃうとはね……」
がっくり、と肩を落とすナオのポニーが萎びてている。
「ちょっとだけ走ってくるぞ」
アオイは袖をまくし上げると、運動ができる人特有な華麗なフットワークで外の方に出て行く。
しばし経って、ブラインドを開くナオがいた。
窓の外部にのぞむグラウンドにアオイの姿が見えた拍子に、ナオは何かを語りだした。
「アオイの言動のこと、気付いてると思うけど、彼女は速くなければ駄目なんだ」
ナオは両手を後ろに組んで、運動場の方を眺めている。
「アオイ……平松葵は間に合わなかったんだ。タイムオーバーさね」
「ふーん」と口をつきかけたが、ミカ太の足が俺の上履きを潰していた。
「あっ足を踏むな!」
「黙って聞いてて」
ミカ太の口の前に立てた人差し指一本で俺は静止する。
「……」
ナオはやや時間を置いて。
「ある日、急に連絡が入ったんだ。……葵の母は既に危篤だった」
アオイは見る限り全速力でグラウンドを駆けている。
「葵は普段はノロマで有名でね。実際、遅かった。その時もね」
「アオイって……」
……重い、重いな。
直君と葵君、二人はずっと仲のよいことが知られている。
そんな過去があったのか。それでああいう性格なのか。
「まあネガな話はここまでだね」
ばん、と勢いを付けたかと思うと、がん、とホワイトボードをナオは叩く。
そして鳥のような鳴き声を立てて、イレイサーが光沢の付いた白板を走る。
「尚、私にはひとつのシークレットがあるんだ! ……何だと思う?」
「何って?」
俺がやや混乱しているとミカ太がしゃしゃり出てきた。
「さっさと話すべきだな」
「実は私……」
きゅぽん。水性の先端を露出させ、きこきこナオはペンを走らせだした。
次第に人物の全体像が再現されていく。
鎧甲冑を纏った人型の決めポーズ。
形付いてきたそれが完成すると、興奮したのかナオが激しく勢い付いてきた。
「剣士なんだよね! 岸なのに剣士! どうだ!!」
「どうって……」
「ま、まぁ……」
俺達があっけにとられていると、ナオは隠しポケットをまさぐり棒状の物を取り出す。
「今回は付き合ってくれた感謝に私の伝説の剣をあげよう! 『EXカリバーン』!!」
……ただの赤マジックだった。
「私にとってペンは剣なんだよね!」
「えっと、折角なので貰っておくよ」
手をナオの方に差し出す。
突如、機敏な閃光が俺のサイドでブレた。
「面ンンンンンンンン!!」
完璧に、まさに完璧に隙ができていた。
まだ俺の頭に軽い衝撃の名残りが残っている。ナオは俺の後ろに。
見事に一本だ。
「上段だよ上段……怒った?」
ナオは俺の頭に打ち付けたカリバーンを「はいこれ」と言ってプレゼントしてくれた。
そんな時。
汗だくになったアオイが激しく室内に突入してきた。
「高見! 大変だぞ!!」
迫力に押されて俺達は窓の外、彼女の指し示す先に顔を向ける。
あれ。御本先輩……と久留間さんが一緒に笑ってる。
「あれは?」
ミカ太が疑問視するのも当たり前だ。なんせ、俺達は失敗したんだ。
失敗したんだよな。
俺達は、楽しげに歩く和気藹々のカップルが通り過ぎるまで見送った。
*
「クピードー計画、レベル99!」
特大手書きフォントの描かれたホワイトボードをバックに、ナオが鼻息荒く叫んだ。
それはいいけどレベルって何だ。
あれから一週間が経った。俺達はまた集まる約束を取り付けていたのだ。
「ナオ、単刀直入に」
「よし来た。えー、皆さんに集まって貰ったのは他でもない。この前の摩訶不思議な現象について簡単な報告さね」
ミカ太は俺の横にて両手を頭の後ろで組みながら、椅子をギコギコ漕いでうんうん頷いている。
俺も知りたい。勿論それがここにいる理由だ。
「まず、私達は失敗したわけだ」
「それは即答できる」
「だなっ」
アオイ、ミカ太も同意しナオは拳を握った。
「クピードーとして初の失態に、私達はショックを受けた……とまあここまでは過ぎ去りし過去編だね」
「ナオ、長々と前置くな」
ぼそっ、とアオイが一喝した。
「とすると私としてはネットワークで情報収集するわけだ。とまぁ気になるよね」
「ナオ、簡潔に」
「……もうずっと両思いだった、という話だったんだよね」
「え?」
「なるほどな」
俺は裏返った変な声をあげてしまったが、アオイは飲み込めたらしい。
ミカ太はうんうん言っている。
「元々恋人同士だったのさね。それが喧嘩別れしてただけ。これがあらまし」
「つまり?」
ってみんな把握してるのかよ。俺だけか鈍感なのは。
「つまり、クピードーさまはダシに使われたわけ」
「あ……」
俺の中途半端に柔らか過ぎて豆腐みたいに劣化したような頭でもようやく理解できた。
縁結び掲示板に書くこと。学校公認の仲になること。
それが寄りを戻す最短の道だったわけか。
骨折り損というやつだな。
一応、めでたいことはめでたいんじゃないかな。どうであれ。
「報告終わり。ちなみにこの情報は自分大好き御本アニマに問い詰めて吐いた情報だけどね」
と、言うわけか。
こうして俺達のクピードーさま、は終わりを告げた。
とりあえず、楽しかったんでいいか。
等と考えていると、アオイが立ち上がり俺に手と手のシェイクを求めてきた。
「……高見、次週は早めにここに来るんだぞ」
「もらったっ」
それをミカ太が横取りする。
張り上げた声で、ナオは叫んだ。
「これにてクピードー計画、解散!」