ケース:『第一印象でした』
「……見えるの?」
時間が、凍りついた。
それまで俺はその異変に気付いてはいなかった。意識の外であったのかも知れない。
ただ実際目の当たりにして、見えてないよと言い張れるほど偏屈でも天邪鬼でもない。
透き通るようにか細い感触の声。これを発したと思われるおぼろげな影に向けて、俺の眼の焦点はバッチリと定まっていた。
……既に凝視してしまっている。
「まさか、見えるの? 本当に?」
正直に言ってしまうと、その台詞に対する違和感は生半可なものではない。たまたま閉じていたので良かったものの、もし口を開けていたらそのままあんぐり呆けた顔になっていたはずだ。
……そして一時の硬直ややあって。
窓際に位置した、学生の本分というべき紙切れの散乱しているのが俺が今座っている席。そこから少しだけ教壇の方向へ瞳をこらすと、やがてハッキリとそれが人の輪郭だということがわかった。
思わず眼と眼があう。まじまじと見つめた結果、初めて一人の少女であるという状態に気付く。
瑠璃色がかったと言えばいいのか、神秘的な色の反射をした、腰まで届く黒髪ロングのストレート。少女が着ているのはうちの学校の女子制服か?
それで何より特徴として現れているのは、俺の高校二年男子の平均値……以下のそれだけど、言い替えれば俺の身長に近い程度の背丈はあるはずなのだが、妙に小動物的なその顔。
絶世の美人……とまではいかないだろうけど、俺のタイプ、うん、好みのタイプそのものだ。
……って何考えているんだ俺は。
「がうっ!」
突然の咆哮。これがまたシロップでも飲んだような甘い声で、例えるなら野獣を1000倍薄めたようなモノのように感じた。
それでも腰掛けた椅子をがたん、と鳴らすのには十分だった。
「んー?」
少女は俺のそんな様子を眺めていたかと思えば、いぶかしげに首を傾げる。
そもそも、そもそもだ。
この教室の俺の机まわり、ちょっと用事を片付けている間に、外部から人が入った感触はなかったはずだ。俺は周囲と比べて鈍い方なのかもしれないけれど、さすがに戸が開閉されたりしたらわかる。
それでどこから少女は現れたんだ。
「あ、あの」
「ふーん、おれの肉声まで聴こえてるんだ?」
何か相手にはこちらの様子が不思議に思われているのだろうか。だけど俺は俺で少女を不可思議に感じているのだった。
つまり言いたいのは「何者だよ。言動がいちいち不審すぎる」とこうだ。
この学園の中での俺のせまいせまい世界の、顔見知りの羅列を脳内確認していっても、ちょっとこういう特徴のある人物を見かけた記憶はまるでなかった。
「アンタは一体、誰なんだ?」
少女は仕方ないな、といった具合に肩を落とす。つかつかと俺の前の席まで歩み寄り、机の上へ彼女はそのやや大きめの骨盤を乗せ上げた。
「話せば長くなる」
「うん」
「話なさずにいれば短くて済む」
「おい」
にひひ、と少女は微笑んでみせたかと思えば、船を漕ぐように脚を振りだす。生徒達が勉学に使うためのそれは踏み台にされ乾いた悲鳴をあげはじめた。
「……というワケなんだ」
「まだ何も言ってねぇよ」
少女は額に手を当てしばらく「うー」と何やら唸っていた、のだがふと思い立ったように突然びっ、と人差し指を突き出した。
「これ何本に見える?」
唐突に何だ? 視力は低めだけど乱視そこまで酷くないぞ。考えるまでもないな。
「? 一本だろ」
「正解はにほんでしたっ」
ん。
……ややあって、言われた意味がようやく。なるほど確かに下方向だね。
「って、なぞなぞ好きの子供かアンタ。住んでる国を『これ』扱いかよ」
ため息ついて両手を広げる俺……の顔の真ん前で、少女は指をおっ立てた。
「物事には何事も二面性というものがあるんだよ。光と影、陰と陽、表と裏」
天井を仰ぐ少女につられて、つい俺も備わっている蛍光灯に目をやってしまう。ちょうど最前列の灯りが頼りなさげにちかちかと瞬いているのが見えた。
「キミが太陽だとしたら」
「お日様?」
「話したいよー? なんて」
「あ、あぁ」
「そしてここに月がいるんだね」
左胸に一対の手をあてがい、少女は含むように笑う。
「比喩なんだろうが、全っ然わからん……というか、オレオンナなのかアンタ」
意外と顔に似合わず、とは感じた。
「あー。言われてみればこれで俺女、やってるかもな。……んで」
「それで?」
「はじめまして。おれの名前は『オオガミ・タカミ』です」
「えっ」
「言いたいこともままあるでしょ。知ってるよ。『大紙高見』、くん」
……気の利かない冗談か? 少女は確かに俺の名を『二度』口にした。
「アンタとは初対面のはずだ。いや、どこかで会ったのか?」
「混乱するのも当然だろうね。キミとおれで一緒の名前だな。まあいいや、確かにちょっと紛らわしいね……じゃあ代案としておれのことは……どうだろ、ひっくり返して『ミカタ』でいいか。文字で書くと『ミカ』が片仮名で『タ』が図太いの太。さん付けはいいよ」
よく会話が掴めないが、それは同姓同名というやつなのだろうか。それにしては、俺が単に持てあそばれてるだけのようにも感じるけど。
その大体が女なのにそのふざけたような、おれ口調のせいだ。
「ミカ太……?」
「うむ」
「まったく状況がつかめん」
「うむ?」
「そもそもアンタは何なんだ? 突然現れた癖に人に見られたら駄目だったみたいな物言い……信じがたいことだけど、もしかして放課後に舞い降りたゴーストかなんかなのか?」
「いやいや」
そもそも俺にあるのが、こちらの考えがあらかた見透かされているような気持ち悪さ。片道だけ筒抜けになっている感覚。うーむ、ミカ太の底が見えない。
「いきなり現れたおれのことさ、『不自然だー』とか、『謎だー』とか、思うのも理解る。むしろ自然な反応だよな。それが正常な男子ってもんだ。んだんだ」
「一人で納得されても……その、困るぞ。俺が全力で困る」
まだ出会って間もないはずなのに、完全に相手のペースで事が進んでいる。俺は疑問が次々と浮かべども、なかなか切り出せずにいた。
やがてミカ太は机上から、ぎい、と軽く反動をつけて床に着地した。ミカ太はゆっくりと俺の所へにじり寄りながらふっふっふ、と含み笑う。
「単刀直入! 刀が欠けたら脇差で!! ズバッと答えちゃおう! これは出血大サービスっ」
ミカ太は俺の腕を掴んだかと思えばそのまま上に引っ張り上げた。少女の左手と俺の右手
俺は椅子を跳ね飛ばして立ち上がる形だ。俺の目線が少女の視線に重なる。
えーと、ミカ太……大体一緒なのだろうか。何が、と言えば、背の高さが。正確には測らなくても俺と少女はほぼ対等な感じだった。俺は誕生日が学年の中で遅いことも関係するのか、もともとそんなに上背がある方ではないけれど。
そんな風に思ったのは、今まさに、ミカ太がその頭上より俺の頭頂部に向かって手をあてがったことによる。
「身長とか。ほとんど一緒だねっ」
「あ、あぁ……みたいだな」
くるくる変わるミカ太の表情に俺は翻弄された。
「……でもそれも必然だよね。なんぜ、おれはキミなんだし」
え。
一種の禅問答のつもりなのだろうか。それにしては……。ミカ太のまとっている変な空気感と彼女の透き通った声は、妙な説得力をもって胸に刺さった。
悪い夢でも見てるのか俺は。
「おれは……『アニマ』という存在。魂を意味する」
窓に開いたわずかな隙間の風で純白のカーテンがはためいている。
「それは男の中にある女性像だ」
瞬間、ミカ太が鋭い眼光でこちらを刺したのを俺は見逃さなかった。
*
マンモス校ってのが世間ではあるらしいが、俺は野獣と戯れるような古代人趣味など持ち合わせてなかったので、比較的近所の高校に行くことにしたのだけど、それももう一年も前になる。要するに花の高校二年生ってやつだ。
成績はなかなか優秀だったけれども、そんな状態も中学生まで。予習でもしないと付いていけなくなってしまった授業は、俺にとって楽しいとはなかなか思えず、学業は右肩下がりに。
退屈だった。特に先の見えない今の状況が。
一ケタ年齢のころに抱いていた青春のイメージとは結局かけ離れて、中学時代、共に遊んだ友達とはわりと疎遠になり、俺には輝かしくも青い春など、まさに絵に描いた餅で終わってしまうのかもしれないと感じる。別の意味でブルーになったりするのはたまにあるけど。
「高見」
今だけは軽く肩を叩いてくるこいつも、楽しかったあのころと比べてすっかり関係が冷えてしまった仲だ。
「…………。満か」
大石満。以前は良くつるんだもんだった。境遇は俺と似ていて、近場の中学、高校とエスカレーター式に進学した形だ。
この高校にはそんな関係で顔馴染みのクラスメイトが結構いる。
「河合さんはまた休みか?」
「……みたいだな」
俺の丁度隣の席があいている。持ち主の名は河合絵那。もうすぐ授業だというのに、使用される予感はない。
……不登校というやつだ。
「それにしても惜しいよなー。彼女、馬鹿じゃねぇのに休み休み言わなきゃ駄目だとはね」
「……ん……あぁ。メンヘラ……だしな。絵那さんは……」
人それぞれ、という言葉は思考停止感があるのであまり使いたくないんだけども、実際のところ彼女自身、どうしても来られない理由か何かあるのだろう。……勝手な推測だ。
「河合さん、結構モテたのにな」
「……」
絵那さんは正直、かわいいといって差し支えない。ただし、薄幸の美人系のカテゴリであるのは否定できない。
「……じゃあな」
相変わらず、会話はそこそこにして続かず。決して仲が悪いわけではないんだけどな。冷え切ったもんだ。
……何もかもに消極的になってしまっている俺がいる。それもこれも目新しさのない高校生活の日々のせいだと決め付けたくもなる。あんまりいい傾向ではない……誰か責任取ってくれよ。
そんなこんなで、特に代わり映えのしない日を今日もまた過ごすことになるのだろうか。
やがて聞こえる一時限目開始の合図。この音、こいつも俺の退屈を引き起こす共犯者だ。
学業を行動に移すのがとてもかったるいが、俺は仕方なしに筆入れの中身を机上に展開した。
……勢い余って床に転げ落ちる消しゴム。俺は椅子の軸をずらして拾い上げ……。
ふと、何かが見えた。
授業中に出遭ったら違和感があるものが。
「? ……ミカ太……!?」
それは俺の右寄り背後に腕を組んでたたずむ少女の姿だった。