凍てつく王城を追われたアンナリーズ
アンナリーズは、冷たい石畳の廊下に一人佇んでいた。
先ほどまで婚約者だった第一王子から、一方的に婚約破棄を告げられたばかり。
長年連れ添った侍女すら、王家の決定には逆らえず。
彼女の元を去っていった。
「役立たずの娘など、王家には不要だ。どこへでも行け。止めはせんからな」
実の父である国王の冷酷な声が、アンナリーズの耳に突き刺さる。
王妃である母はすでに他界しており、頼れる者はどこにもいない。
彼女が王城で暮らしていたのは、王子の婚約者としてだけではなかった。
病弱な国王に代わり、国政のほとんどを彼女が一人で担ってきたのだ。それなのに、この仕打ち。
(あの王子、きっとすぐに後悔する。私が抜けた穴の大きさに、きっと気づくはず)
そう心の中で呟いても、今のアンナリーズには行く当てもなかった。
冷え切った空気が彼女の身を包む。
とぼとぼと王城の門を出たアンナリーズは、人気のない街道を歩いていた。
どこへ行けばいいのか。
明日どうすればいいのか、何もかもが分からなかった。
その時、背後から優しい声が聞こえた。
「お嬢さん、こんな夜更けに一人でどこへ?」
振り返ると、そこに立っていたのは見慣れない美しい青年。
深みのある青い瞳が、心配そうにアンナリーズを見つめている。
「わたくしは……行く当てもなく」
掠れた声でそう答えるのが精一杯だった。
青年は驚いたように目を丸くし、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。
「もしよろしければ、わたしの馬車でしばらくお休みになりませんか?わたくしはフレンデリックスと申します。たまたま近くの国へ立ち寄った帰りなのです」
フレンデリックス?
どこかで聞いたことがある名前だった。
確か、この国から二つ隣の強国の第四王子だったはず。
公務で何度か顔を合わせたことはあったが、深く話したことはなかった。
警戒しながらも。
他に頼る宛のないアンナリーズは、フレンデリックスの申し出を受け入れた。
馬車の中で、フレンデリックスはアンナリーズに温かい飲み物と毛布を用意してくれた。
「ありがとうございます」
疲労困憊していたアンナリーズは、彼の優しさに安堵し、眠りに落ちる。
疲れ切り、警戒もなく。
目が覚めると、馬車はすでに隣国との国境を越えていた。
フレンデリックスは、アンナリーズが事情を話すのを急かすことなく、穏やかに。
彼女の話に耳を傾けてくれた。
全てを聞き終えたフレンデリックスは、真剣な眼差しでアンナリーズに向き直った。
「アンナリーズ様。もしよろしければ、わたくしの国にいらっしゃいませんか?あなたの政務の手腕は、以前から素晴らしいと思っておりました。わたくしの国で、その力を貸していただきたいのです」
それは、アンナリーズにとって思いもよらない提案だった。
見知らぬ国で、再び政務に携わるなど考えたこともない。
しかし、フレンデリックスの言葉は続いた。
「それに……初めてお会いした時から、あなたの聡明さと美しさに心惹かれておりました」
彼の瞳は熱く、アンナリーズの心を揺さぶった。
婚約者に裏切られ、家族にも見捨てられたばかりの彼女にとって、フレンデリックスの優しさと、真摯な言葉は。
砂漠で水を見つけたように、心に染み渡った。
現代の記憶を持つアンナリーズは、フレンデリックスの飾らない人柄に惹かれていた。
言葉遣いが貴族なのは、流石に二十年も生きていれば、わたくしという言葉にもなる。
地位や権力ではなく、彼女自身を見てくれていると感じた。
「フレンデリックス殿下……」
アンナリーズの頬が、ほんのり赤らむ。
顔がいいと、得である。
「どうか、わたくしの傍にいてください。あなたの力が必要です。そして……あなたという人に、惹かれているのです」
フレンデリックスは優しく微笑み、アンナリーズの手をそっと握った。
新しい生活は、驚くほど穏やかに始まった。
フレンデリックスの国は、豊かな自然に囲まれた美しい国。
人々は穏やかで親切で、アンナリーズはすぐに打ち解けることができた。
フレンデリックスは、アンナリーズを宰相という要職に、迎え入れた。
彼女の持つ卓越した政治手腕は、この国でもすぐに発揮された。
現代知識からすると、簡単。
停滞していたいくつかの問題が、彼女の的確な指示と大胆な改革によって。
次々と解決されていった。
国政に忙しい日々を送る中で、アンナリーズとフレンデリックスの距離は縮まっていく。
公務を終えた後、二人で庭園を散策したり。
書斎で、書物を読み耽ったりする時間が、アンナリーズにとって何よりも安らぎのひととき。
フレンデリックスは、アンナリーズの過去の傷に触れることなく、常に優しく。
情熱的に彼女を包み込んだ。
彼の言葉は甘く、彼の眼差しは熱く、アンナリーズの心は次第に彼へと傾いていった。
ある夜、星が瞬く美しい夜。
フレンデリックスは、アンナリーズを城のテラスへと誘った。
夜風が優しく二人の髪を撫でる。
呼び出されて、実は胸がドキドキしていた。
「アンナリーズ様」
フレンデリックスは、少し緊張した面持ちでアンナリーズに向き直った。
「初めてあなたにお会いした時から、あなたの凛とした美しさと、内に秘めた強さに心を奪われていました。あなたの過去を知り、ますますあなたのことを深く理解したいと思うようになりました」
彼はそっとアンナリーズの手を取り、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「わたしの傍にいてください。あなたの知恵と優しさは、この国にとって、そしてわたしにとって、かけがえのないものです。あなたを愛しています」
アンナリーズの胸は、熱い感情でいっぱいになった。
こんな告白は、あるのかと。
かつての婚約者からは、地位と家柄ばかりを求められていただけ。
愛など一度も、感じたことはなかった。
フレンデリックスの言葉には、偽りや打算が一切感じられない。
ただひたすら、彼女自身を大切に思ってくれていることが伝わってきた。
大切というのは、かけがえのないもの。
「フレンデリックス殿下……わたくしも、あなたを……」
言葉は途切れ途切れになったが、アンナリーズの気持ちは十分に伝わっただろう。
フレンデリックスは優しく微笑み、彼女をそっと抱きしめた。
体温はホッとする。
その温もりは、アンナリーズの凍てついていた心をゆっくりと溶かしていった。
過去の辛い出来事は、遠い記憶のように感じられる。
暖かい。
今はただ、フレンデリックスの腕の中で、幸せを感じていたい。
数ヶ月後。
フレンデリックスはアンナリーズに、改めてプロポーズをした。
今度は奪われたものではなく、二人の心が通じ合った状態での婚約。
「は?」
知らせは、アンナリーズを追い出した王城にも届いた。
「なんだと!?」
第一王子は、アンナリーズが隣国の王子と婚約したという知らせに、激しく動揺した。
「婚約?」
彼女が抜けた後の国政は混乱を極め、民からの不満が高まっていたからだ。
「まさか、アンナリーズが……」
彼は、自分の愚かさを今更ながらに悟ったが、もう遅すぎた。
アンナリーズの心は、すでに彼の元にはない。
アンナリーズとフレンデリックスの結婚式は、盛大に行われた。
温かい祝福に包まれ。
アンナリーズは心から幸せを感じていた。
かつて絶望の淵に立たされていた彼女が。
今、愛する人と共に、新しい人生を歩み始める。
それでいい。
(追い出されてよかった)
しみじみ思う。
本当に、あの時素直に出て行ってよかったと。
「縁も切れたし、万々歳だわ」
二人の未来は、希望に満ち溢れていた。
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