十分にふかふかになった猫は食パンと区別が付かない
自転車の前かごに、ふかふかの猫が入っている。
いつもの朝のことだから、何も慌てることはない。
上に物を載せると怒られる。だからカバンは背負ったままで。ハンドルを握って、ストッパーを外す。ちかっ、と銀色が朝日にきらめく。がこん、と前かごは揺れるけれど、七時四十五分。私と同じように猫も慌てたりはしなくて、「もしかして自分が呼ばれてるのかな」と気付いたおばあちゃんのようなゆっくりさで、首を持ち上げる。
目が合う。
おはよう。
「にゃー」
サドルに跨って、ペダルを漕ぎ出した。
=^・ω・^=
ねこまみれ町、という町がある。
ひらがなで『ねこまみれ』。通称とかではなく、正式な名前として。
遥か昔、古代。
私が生まれるよりもずっと前に、町村合併と呼ばれるものがあったらしい。
たぶん廃藩置県の仲間か何かだと思うのだけど、そのとき楽しいイベントがあった。いくつかの村を集めて町にする。出来上がる町の名前を、はがきで募集してみよう。集まった候補の中から、人気投票で決めてみよう。
おわかりだろう。そのころのねこまみれ町はまだ私が生を受けておらず、徳が低かった。悪ノリをしたときに「いやあこれほど素晴らしい方のおられる土地にふざけた名前は付けられん」と襟を正せるだけの良識もなかった。
そういうわけで、この名前になってしまった。
実際、猫にまみれた町でもある。
至るところに猫がいる。これはたぶん疫病が流行ったときに鼠取りのために来ていただいたとかそんな感じの理由だと私は思っているけれど、町の郷土資料研究家は「元々ここは猫星人が開拓した土地だから」とたわけた説を唱えている。そんなわけはないのだけれど、実際、人の町に猫がいるというより、猫の町に人が借りぐらしをさせてもらっているようなところだ。
たとえば、私の家から中学校に続く通学路もそう。
丁字路のカーブミラー。
覗き込むと必ず一匹は猫が映って、目が合うと「毎朝ご苦労だね」という顔をする。
近所にある、コーヒーショップの前。
何かの仲間意識を感じているのか、それとも自分は絶対に飲めないそれの危険な香りに惹かれて来たのか、カフェオレ色の猫がよく植木鉢の前に立っている。常連からは「店主さん」と呼ばれていて、本当の店主をやっているごま塩ひげのおじさんは「マスター」と呼ばれている。それはそれで嬉しいらしくて、お洒落なエプロンを買い込んでいる。
うんざりするような、なっがい坂。
近頃の中学生の多くは私を含めて根性がないので、必ずここでは自転車を降りて、押して歩く。その姿を五メートルごとに点々と配置された猫が「何やってんだこいつら」という目で見ている。野球部だけが座り漕ぎで上り切る。外野を猫にやってもらっているような過疎チームだけれど、その根性にだけは感服の念を禁じ得ない。ちなみにこれは私の主観であって、猫たちはこっちも普通に「何やってんだこいつら」という目で見ている。
学校のすぐ近くのパン屋さん。
自転車を停めると、もう猫が足元に寄ってきている。よっ、ほっ。華麗なステップを決めて、中に入る。
いらっしゃいませ、と迎え入れてくれるのは、フランスで修行までしたのに何を血迷ったのかねこにまみれて暮らすことを選んだ、地毛が茶色っぽいお兄さん。私は常々ふかふかの猫と食パンは似ていると思っていて、そのため必然的に朝食はそこで食パンを買う羽目になる。
いつものね、と言った後、お兄さんは品物と一緒にこんな言葉を渡してきた。
「最近、猫が食パンに見えてきたよ。君のせいで……」
知らん。
私のせいじゃない。
店を出る。にゃーにゃー鳴いて猫が集ってくる。この町の猫たちは人間というものを食べ物をくれる機械か何かだと思っている節があるし、実際そんな感じなので全体的にふくよかになっている。「猫用のじゃないからだめだよー」と言うと、さーっと潮が引くように散っていく。この町の猫たちは妙に賢く、本当に猫星人の末裔の可能性もある。
自転車に乗り直せば、後は二分を漕ぎ切るだけ。
学校。
少なくとも、一匹はいる。
私が毎朝、自転車に乗せて連れてきてしまうから。
=^・ω・^=
「お、今日も猫連れ。猫番長」
教室のドアをくぐった瞬間に、友達からそんな言葉をかけられる。
一旦私は周囲を見渡してみる。誰もいない。というわけで足元を見る。私と一緒に家を出て、一緒に昇降口から入ってきた三毛柄の猫がいて、こっちを見上げている。
「呼ばれてますよ、番長」
「にゃ」
番長、というのがこの猫の名前だ。
白状をしてしまうと、これは元は私のあだ名だった。
小学校の頃から、だいたいこんな感じで過ごしている。つまり、家から猫を連れてきて、教室に連れ込んでいる。そういう形になる。
一応弁明しておくと、わざと連れ込んでいるわけじゃない。ある日突然ついてきて、なんとなく仲良くなって、なんとなく一緒にいるだけ。私はおおらかな性格をしているから、別に学校の中に猫がいても気にならなくて、「ダメだよー」なんて言って校外に追い出す必要性を感じないだけ。今更すぎる。こんな猫まみれの町で。
だけど学校側は、残念ながら私ほどおおらかではないらしい。
明確な校則違反ではないけれど、ちらちらと気にされていた。
中学に上がって、数学の先生が授業中に弾みで、「望星さんは特に素行に気を付けないといけませんね」と言った。
その授業が終わった後の休み時間、友達が「不良じゃん」と茶化してきたので、私はおおらかに笑ってこう答えた。
「猫を連れたヤンキー。略してニャンキーってね。あはは」
後ろに先生がいた。
とうとう親が学校に呼ばれた。
というわけで私のあだ名はまず『ニャンキー』になった。しかし中学生が毎日ニャンニャン言うのも恥ずかしかったのだろう。やがて『番長』になった。そのたび私は隣にいる猫に「呼ばれてるよ」と振って他人事のフリをしてきたのだけど、段々と本当に、それがこの猫の名前のようになってしまった。
というわけで、この猫の名は『番長』。
罪悪感があるかないかで言うと、全然ない。元はと言えばこの子が原因だから。
一番後ろの、窓側二番目の席にカバンを置く。番長が机の上に飛び乗る。窓側の隣の席の大塩くんが「おはよー、番長」と言う。番長がにゃーと鳴く。「あ、望星さんも」大塩くんは人間を猫のおまけだと思っている節がある。ねこまみれ町の模範町民と言ってもよく、こういう人間がこういう町の名前を提案したんだろうといつも思う。もしかするとタイムスリップをしてこれからその提案を成し遂げるのかもしれない。
何としても阻止しなくては、と本来ならここで私の人生がSF超大作になってしまうところだけれど。
今日は……というかここ最近は、それよりも大事なことがある。
大塩くんにおはようを返す。椅子を引いて席に座る。カバンを縦にして盾にする。そーっ、と。その後ろから顔を上げる。頭の上にさらに番長が乗っかってくる。あはは何それ、と大塩くんが笑う。笑うな。こっちは真剣なんだ。
視線の先には窓際の、前から三番目の席の女の子がいる。
離花アズサさん。
カーテンが春の風にふわっと浮かんで、長い髪がなびいて、校庭を見つめて驚いたように目を丸くする。そんなクラスメイト。
私たちは、彼女と友達になりたいと思っている。
つまり私と、番長が。
=^・ω・^=
離花さんは、この春にねこまみれ町立ねこまみれ中学校にやって来た転校生だ。
それほど珍しいことじゃない。ねこまみれ町は驚くべきことに転出者よりも転入者の方が多い。ドラマやニュースで見る限りこの町はかなり特殊だと思うのだけど、ねこまみれ町役場に住民票の手続きに行ったり、ねこまみれ中学校に転校の手続きをすることに抵抗のない人というのは結構いるらしい。恐ろしい。
だから最初のころは、特に気にしていなかった。
黒板の前で「離花です。東京から来ました」と言った彼女を見て、「クールっぽいな」と思ったくらい。別に東京から来たことを取り上げて「シティガールじゃん!」とはならない。東京が一番人口が多いから、この町の転入者も東京出身が一番多い。普通だ。
二週間が過ぎてから、「あんまり楽しそうじゃないかも」と心配になり始めた。
こういう子も、実は結構いる。親が大の猫好きでねこまみれ町に引っ越してきたはいいものの、本人はそこまで猫が好きじゃないとか。どこに行ってもにゃーにゃーにゃーにゃーで寝ても覚めてもにゃーにゃーにゃー。私を渋谷の川に帰してください!とか。
離花さんもそういう子なのかな、と思っていた。
元番長として、この町のあんまり頼りにならないふわふわした大人たちに代わってフォローした方がいいのかな、とも思っていた。
だから、その光景を見たときはなおさら驚いた。
昨日の昼休みのことだった。
私は給食を食べすぎていた。というわけで寝ていた。友達から「動物?」とひどい言葉を投げかけられても懸命に寝ていた。しかし寝ていても状況が悪化するばかりだと気付き、立ち上がった。「徘徊?」「散歩と言いなさい……」教室の後ろの方でプロレスを繰り広げる男子の横を、「技が甘いぞ」と適当なことを言いながらすり抜けた。この言葉をきっかけに誰かが本当のプロレスラーになったら面白いと思った。リングネームは猫マスク。
そこまで想像して、「そういえば番長がいないな」と気が付いた。
いつも私がどこかに行くときは何となくついてくるのに。珍しいな、と思いながら自然、私は番長を探すような足取りで校舎を優雅に散歩し始めた。
中庭にいた。
木から降りられなくなっていた。
あれは上向きに行くときは爪が引っかかるけれど、下向きに行くときは上手く引っかからないために起こる現象らしい。この町の猫は比較的賢いはずなのに、よくやる。私たちがお巡りさんから自転車の乗り方の講習を受けるみたいに、どこかでちゃんと教え込んだ方がいいと私は思っている。集合をかけて、みんなを座らせて、DVDを見せよう。
しょうがない、受け止めてやるか。そう思って私は動き出す。
するとその木の上に、番長だけじゃなく、もうひとつ影があるのを見つけた。
離花さんだった。
気合いの入ったジャージ姿で、木に登っている。これまでの人生で一回も木登りなんてしたことがなさそうなのに、趣味は美術館巡りで好きなのは静かなところですとか言いそうなのに、頑張っている。木の幹を握りしめながら、手を伸ばしている。
かすかに聞こえた。
「大丈夫。こっちだよ」
そのときの番長の表情と言ったら、『猫がきゅんとしたときの顔』として学会に発表できるくらいのものだったと思う。
何のためらいもなく番長は飛び込んだ。勢いが良すぎて「どすっ」と音がして、流石に離花さんも「うっ」と呻いた。
それでも嫌な顔ひとつすることなく、離花さんは番長を地上に無事に降ろし切った。頭に葉っぱをつけたまま、一瞬だけほっとしたように素敵な笑顔を見せて、だけどハッと我に返ったようにその笑顔を消して、「じゃあね」とクールに去っていった。
番長が私を見つけた。
駆け寄ってくる。ねえ今の見た、という調子で上履きをぽふぽふ叩いてくる。もちろん見ていた。感動した。
こんな絵に描いたような人がいるんだ、と思っていた。
=^・ω・^=
私は全体的に大人びているのか、なんでも一周回って捉えてしまう性質だ。
友達も、真剣に恋愛映画を観に行きたいときは私を誘わない。「あのシーンあるあるだよね~」「定番すぎてウケちゃった」「うちらもやってやりましょうや」みたいなアフタートークが相当気に食わないらしい。逆に、すごい馬鹿な映画を観るときはめちゃくちゃ誘われる。「行けない」と言うとその場で日程調整が始まるし、朝になって「風邪引いた」と連絡したら予定が丸ごと流れたこともある。
そのため私は今、こう思っている。
あまりにも漫画っぽすぎる人だから、面白い。
なりたい。友達に。
また昼休みが来た。
「番長、先に行きなよ」
「にゃ」
「番長と望星さんって、普通に喋ってるよね」
部外者はすっこんでな、と大塩くんに言った。私じゃない。番長が。
今がチャンスだ、ということになっていた。昼休みの時間、離花さんは自分の席に座って本を読んでいる。チャンスオブザ話す。時は今なり。
どっちが行くかで揉めていた。
「だって番長はちょっと面識あるじゃん。先行ってって」
「ななんなーにゃー、んにゃんななー」
「会話してるよね?」
「んにゃ」「んにゃ」
仕方ない、と潔く私は立ち上がった。
頼りにならない相棒を頼るより、まずは自分で行ってみよう。
「離花さん」
本を読んでいる彼女に、まずは声をかけるところから始めた。
「…………」
「…………」
そのまま、十秒待った。
「……離花さん?」
「え。あ、ごめんなさい。何?」
よかった、と笑顔の裏で私は泣きたいくらいに安堵していた。てっきり無視されたのかと思った。すでに何か気に食わないことをやらかしていたのかと思った。聞こえていないだけだった。
「今日、一緒に帰らない?」
「なんで?」
本当に聞こえていなかっただけなのだろうか。
あまりにも淀みのない離花さんの「なんで?」の返しは、「なんで私があなたごときと?」とか「そんな必要ある?」の意味を含んでいる可能性がなくもなかった。
私は全体的に大人びていておおらかな人間だけれど、同時に思春期特有の繊細さも備えている、いわば良いとこ取りの人間だ。だからこう思った。ダメだ。勝てない。
「んな」
そうしたら、腰のあたりをポンと叩かれた。
「番長」
「んにゃにゃ」
振り向くと、番長がいた。佐藤さんの机の上に乗っていた。佐藤さんがそろそろと伸ばした指をぺしっと尻尾ではたいていた。可哀想。
代われ、と言うように番長が顎をしゃくる。
じゃあさっき渋ってたのは何だったんだ。思いながらも私は番長を持ち上げて、離花さんの前にずい、と出す。
「んな。にゃーなーなーん。んあななーん」
「なんて?」
当たり前の話だけど、猫と人間の間で会話が成立するはずもない。
離花さんは首を傾げて戸惑っている。番長が「全然予想してませんでした」という顔でこっちを見上げてくる。賢くなさすぎる。仕方ない、ここは私が。
「友達になりたいんだって。番長が」
ものすごい勢いで番長が暴れ出した。
まさに番長、という暴れぶりだった。私の繊細かつか弱い握力ではとても対抗できない。まな板の上の黒マグロのように番長は暴れ、私の手から抜け出し、腕を上り、首を上り、頭に乗って、それからぽむぽむと額にスタンプを始める。佐藤さんが「朱肉貸そうか?」と余計な口を出してくる。中学生が朱肉を持ち歩くな。
朱肉を借りようとする番長の手をぎゅっと握って止める。さりげなく佐藤さんが番長の背中を揉み始める。番長と佐藤さんのバトルが始まり、その隙に私は話を進める。
「このあいだ番長のこと、木から降ろしてくれたでしょ。それで――」
「なんで知ってるの?」
あ、やべ。
思ったときにはもう遅く、離花さんはいかにも驚いた顔でこっちを見ていた。
そうだ、と思い出した。あのとき私は、物陰から一部始終を見ているだけだった。顔を見せていない。よって離花さんから見た私は、「誰もいないところでしていたことをなぜか把握していて、いきなりそれを元に接触を仕掛けてくる人」になる。こんなことをして許されるのは「日頃の行いが良いあなたには、私から直々に幸運を授けて差し上げましょう」と降臨する天使様くらいだ。じゃあいいか。似たようなものだ。
流石に、そこまで開き直ることはできないから。
「あ、ちがくて。別に私、怪しい者じゃ――」
キンコンカン、と非常にタイミング悪く昼休みの終わりを告げるチャイムが響いた。
待ってくれ、と私は思う。怪しい者じゃないなんていかにも怪しい者の言うことじゃないか。こんなはずじゃなかった。もう一度弁解のチャンスをくれ。しかし五時間目の国語を担当する佐上先生は老いたる者にもかかわらず毎年町民マラソンに出場する異様な素早さの持ち主で、すでに教室に到着していた。しかも視力が3.0もあるから、授業が始まるというのにまだ席に着いていない生徒を決して見逃さなかった。
「番長、席に着けー。もう番長は席に着いてるぞー」
ほとんど天狗みたいな特徴をお持ちの佐上先生は、国語教師にあるまじき壊れた言葉を口にした。
この学校の先生たちはあの一件以来、驚くべきことに私のことを番長と呼ぶようになった。そして猫のことも番長と呼ぶ。呼び名の一意性が取れてないから様々な不便を巻き起こしそうだけど、意外とそうでもなくて、そのまま続いてしまってる。
席を見る。
猫の方の番長はすっかり澄ました顔で、私の机に座っている。
視線を戻した。
優等生っぽい離花さんは当然、すでに教科書を机の上に出している。授業の準備を終えている。ここから佐上先生の追及を避けつつ会話を続けるのは、無理だ。
「はーい……」
「はいは二回」
「はいはーい……」
「素直だな……」
すごすごと、私は席に戻ることにした。
授業が始まる。二十七ページから。私は机の上にどでん、と鎮座する番長の背中を見つめている。両手で揉む。それで、耳元で囁いてやる。
「失敗した~……」
本当にそうですね、と言うように、番長の尻尾が私の額を叩いた。しかしこれはね、私だけが悪いわけではなくもちろん君にも責任が……。
「番長、ずいぶん可愛い教科書を使ってるな」
佐上先生がこっちを見た。
番長の腹を揉むと、「はい、可愛いです」と言うように「にゃー」と鳴いた。
じゃあ三行目から読んでみろ、と先生は言う。慌てて机の中から教科書を出すべきなのだけど、今はその気力がない。
というわけで私は番長の背中に隠れるように突っ伏して、腹話術みたいにこう言った。
「吾輩は猫である……」
ひとウケ取れたけど、取れたからなんだって言うんだ。
=^・ω・^=
「自転車?」
そういうわけだったから、帰りの会が終わって離花さんがそう声をかけてきたとき、私はそれがどういう意味なのかよくわからなかった。
ぽかん、としていると、あれ、と離花さんが焦り出す。それから恐る恐る、
「あ、ごめんなさい。さっきのって、その、社交辞令とか……」
「あ、ううん!」
驚くべきことに。
さっきのめちゃくちゃ怪しいやり取りで、約束は成立してくれたらしかった。
大丈夫なのか離花さん、さっきのあの感じで約束を成立させてしまって。心配になる。だけど今だけ好都合。私は嬉々としてカバンを持った。教科書は全部机に入れっぱなしだった。いいさ。これは明日もここに勉強しに来るっていう意思表示だ。
スカスカのカバンを背負う。ぴょん、と番長が背中に乗ってくる。カバンを足場にして、頭にべたー、と乗ってくる。ご機嫌らしい。
「もちろん! 一緒に帰ろうよ、離花さん!」
私もだ。
離花さんは徒歩通学らしい。家が近いからというわけじゃなく、単に自転車に乗れないから。それでも私が駐輪場まで自転車を取りに行くのには付き添ってくれた。番長が前かごにすっぽり収まる。顔だけ上げる。私はストッパーをガァンと外して、チリリと自転車を押して歩く。
そうして、私たちの記念すべき最初の帰り道が始まった。
「…………」
「…………」
最初で最後になりそうだった。
えっ、と私は思っていた。びっくりするほど会話がない。自分で振ればいい。振れない。なぜと言って、さっきから離花さんは思い詰めた顔をしている。何かを言おうとして、言わずにいる。張り詰めた空気が場に流れている。天気の話を四回した。無意味だった。
そのまま帰り道は進んでしまった。
パン屋さん。猫用の食べ物を備えたお兄さんが「お、」と手を振ろうとして、「うわ、気まずそう……」とその手を下ろした。
坂道。トーテムポールみたいに等間隔に並ぶ猫たちが、「何やってんだこいつら」という目で私たちを見ていた。
コーヒーショップ。テラスで優雅に猫用のミルクを舐める猫店主と、その横でコーヒーを嗜む人店主が、「そういう時期だよね」みたいな生暖かい目で見ていた。
カーブミラー。
私は左に曲がる。離花さんは、真っ直ぐ進む。そのくらいのことは聞き出せてしまったから。
「じゃ、じゃあここで。また明日ね……」
猫たちに見守られながら、私はその言葉を口にした。うん、と離花さんは言った。
上手くいかなかった、と意気消沈。頭の上で番長も同じくで、自然、私の首は下を向く。自転車を押しながら、左に曲がる。後は家に帰るだけ。
「あ、あのっ!」
だったんだけど。
心配になるくらい弱い力で、カバンをつかまれた。後ろを見た。離花さんがいた。彼女もうつむいていて、だけど肩にすごく力が入っていて、気合十分で。
こんなことを、言った。
「番長さんって、猫星人なのっ?」
=^・ω・^=
そんなわけがない。
だけどそう信じるに足るだけのふるまいをしているのが、私という人間らしい。
「いつも猫と一緒にいるし、猫と話せるみたいだから。もしかしたらって……」
引き返して、コーヒーショップに来た。
テラス。離花さんはカフェラテを頼んで、私はコーヒーが飲めないからバニラミルク。小さなテーブルに椅子は四脚あって、私と離花さんと、番長で三つを埋めている。
ずっと、それが訊きたかったらしい。
「いや、話せないけど……」
「えっ、でもずっと、そっちの番長さんと……」
「話してないよねー」「にゃー」
話してる……と怪訝な目をして離花さんは私たちを見た。
彼女も実は、私たちに興味があったらしい。
離花さんも猫が好きなんだそうだ。だからねこまみれのこの町に来た。だけどあんまり人付き合いも猫付き合いも得意じゃない。
だから今日は話しかけてもらってうれしかった、と言ってくれた。
こっちもうれしくなって、私と番長はにゃんタッチをした。ねこまみれ町に古くから伝わる、民俗的な研究価値のあるハイタッチだ。
そして。
ところで猫星人なんだよね、と会話が続いた。
「番長さんが猫星人じゃないなら、こっちの番長さんが猫星人……?」
じーっ、と離花さんが番長を見つめる。番長はいや違う違う、と言うように尻尾を横に振っている。私から照準は外れたので、ははは大変だねえキミィ、とバニラミルクを飲む。思ったより熱い。「猫舌……?」と離花さんが照準を合わせ直してくる。この程度のことで猫星人にされてはたまらない。
「離花さん。よく考えてみて。猫星人なんてこの世にいないよ」
「う、うん。常識で考えればそうなんだけど……」
「そして猫と会話できる人もこの世にいないよ」
「にゃなー」
「猫も太鼓判を押してます」
ぽんぽん、と番長がテーブルに肉球でハンコを押した。佐藤さんから朱肉を借りてきていたら、さぞかし綺麗にスタンプされたに違いない。
全然納得いかない、という顔を離花さんはしていた。
私は頑固で思い込みの激しい人がかなり好きなので、この短い時間でみるみるうちに離花さんのことが好きになってきていた。
「ていうか、ややこしいから私は番長じゃなくて名前で呼んでくれていいよ」
「…………」
「覚えてないかー」
「……番長って呼ばれてる印象が強くて」
ごめんなさい、の前に私は言う。
「望星ユカ。苗字の望星は、もちもちの星って書いてもちほしね」
「もちもちの星……?」
全然普通に嘘だったけれど、そっちの方が可愛いので完全な嘘とは言いがたい。そういう微妙なラインを突いた。離花さんが「もちもちの星……?」と悩んでいるうちにとバニラミルクをふーふー冷ましていると、
「んな」
番長が、ちょいちょい、と猫招きをしてきた。
何、と私は身体を傾けて耳を寄せた。んにゃんにゃにゃ、と番長が言った。なるほど。
話せることにしておいた方が接点を作りやすいんじゃないか、ということらしい。
なかなか賢い相棒だった。
「もちもちの星ではなく、望月の望に星で、そして私たちは猫星人でもないんですが……」
が、の部分に反応して離花さんがこっちを見る。クイズプレイヤーみたいだった。
「実は、私は猫と話せます」
「やっぱり!」
「というか、この猫が人と話せます」
ぐにゃー、と持ち上げて番長を離花さんに差し出す。押し付けるなよ、という顔で番長が私を見る。いいや押し付けるね。言い出しっぺが責任を取りなさい。
そうなんだ、と離花さんは驚いた顔で言った。
この子は果たしてこんなに純粋なまま世に出して大丈夫なんだろうか。ねこまみれ中学の教育の価値が今、試されている。
「私、すごく猫が好きなんだけど」
離花さんは、しっとりした目で言う。
「おばあちゃんの家で飼ってた猫に構いすぎて、嫌がられちゃって。だから、ずっと思ってたんだ。猫と話ができたらなあって。そうすれば、どうやって接したらいいのかわかるのにって」
ね、と番長を覗き込むように。
「撫でてもいい?」
「にゃー」
番長が答えた。
離花さんは、私の方を見た。
「……わからなかった。何かコツとか、そういうのがあるの?」
当たり前のことだけど、人と猫とは話せない。
どう答えたものかな、と私が悩んでいると、相棒が「んなーなな」と言う。だからそのまま、受け売りで伝えることにする。
「固い信頼関係」
「シビアなんだ、意外と……」
そっか、とちょっと寂しそうに離花さんは言う。
これからチャレンジだね、と。その寂しそうなのが気にかかりつつ、うん、と私は満足した。流石は番長。目論見どおり。これから私たちは、この漫画に出てくる可愛いキャラクターみたいに面白い女の子と毎日楽しく学校生活を過ごして、仲を深めていくことだろう。
「なー」
「あっ」
と思ったら、裏切りが発生した。
ごろん、と番長が机の上に寝転がったのだ。
恥も外聞もない恰好だった。お腹を見せている。離花さんの方をちらちら見ながらんにゃんにゃにゃと言っている。媚びている。離花さんは手を水平に掲げている。あわわ、なんて言い出しそうな感じに口をむにゃむにゃさせて、こっちを見る。
「も、望星さん!」
「うん」
「これ、『撫でていいよ』って言ってるよね!」
いいえ、と答えようかと思ったけれど、やっぱりさっき寂しそうだったのが気にかかって、私は素直に答えてしまった。はい、そうです。
「やった……!」
離花さんは、番長を腕の中に抱え上げた。
ふわふわと、離花さんの手が番長を撫でる。離花さんは幸せそうな顔をしている。よかったね。一方番長はふふん、と勝ち誇った顔でこっちを見ている。撫でられることに集中しろ。いや違う、なんだその抜け駆けは。
ぐぬぬ、と私は思った。いや別に、順番順番に仲良くなればいいだけの話なのだけど、というか番長が離花さんと仲良くなったところで私にとっては好都合なばかりなのだけど、あのふてぶてしい顔が気に入らない。私のアシストだぞ。相棒を差し置いてどういうつもりなんだ。
なんとかして、逆転したくなってきた。
「ふふ。茶色くて、白くて、ふかふかで……」
すると、彼女が続けて。
「食パンみたい。かわいい」
そんな風に、言うものだから。
私は席を立った。えっ、と離花さんがびっくりしていた。びっくりしているのは私の方だった。格好のタイミングだった。自分以外でそれを言った人を初めて見た。そんな人と会ったら言おうと思っていた言葉があった。
離花さんの隣に座り直す。テーブルに肘を突いて、流し目で。ちょっとカッコイイ感じの声にして。
私は、こう言う。
「君の方が、食パンみたいだよ……」
とっておきのギャグだった。
きょとんとされた。
いたたまれなくなってから、武士の情け。番長が離花さんの手から抜け出した。肘を突いたままの私のおでこにスタンプを押した。その後に武士の厳しさ。普通に猫びんた。何もされないよりはマシ。相棒の優しい心に私が感謝の涙を流そうとした、その瞬間。
ふふ、と離花さんが笑った。
漫画の中に出てくる、素敵な女の子みたいな笑い方。口元を押さえて、控えめに。だけど目は弓のように細くなって、春そのものみたいな、幸せそうな表情で。
私たちが見つめ返せば。
ううん、とやっぱり笑って、こう言った。
「今から明日が楽しみだなって、それだけ」
(了)