あじさい
糸のように降り続けた雨が止むと、うっすら寒さが残る。深緑の葉が生い茂る、あじさいの低木。
一人の女性が、黒い華奢な傘を刺して歩いている。あじさいがふと目に止まると、
「あの人は……。」
唇を震わせて立ち止まった。
もう戻れない過去——。
女性には、恋した人がいた。後悔のような記憶が、あじさいの咲く季節の中に残っていた。
今日のように雨が降っていた。「傘を忘れた。」と困りながら笑っている彼に、自分の傘を差し出そうとした。けれど、からかわれるのが億劫で、黙りこくってしまった、あの日。一人、帰り道を歩いて「言えばよかった」「言わなくてよかった」と心が混ざり合いながら、道端のあじさいを数えて気恥ずかしさを紛らわせていた、あの日。
無理にでも渡していれば、二人の未来は違ったのかもしれない。せめて、自分を許せる気持ちにはなれたのかもしれない。
彼は遠い過去の人になってしまった。
淡い水色のあじさいが、一輪だけ咲いている。女性はそのそばに黒い傘を置いて、ふたつを眺めた。
こんなことをしても、何になるのだろう——。
「そうよね。」
女性は黒い傘の柄を手に取る。名残惜しそうにあじさいを見つめた後、今日の帰路につく。
秋雨が、狂い咲いたあじさいを、冷たく濡らしている。