決意
食卓の上には野菜のスープと焼き魚、それからルルーディお気に入りのジャガイモの重ね焼きが乗せられていた。日向で暮らしていた時に食べて、鳥肉と共に大好きになったこの料理。
帰国した時に”似た料理”に出会った時には歓喜したものだが、コレを初めて食べた場所を思えばあの時からこの運命は決まっていたのかもしれない。
「……私、これ大好きなの」
「知ってる」
ルルーディはフォークに突き刺したジャガイモを見つめた。わからない事はまだある。だがここで新月に全てを話すべきだろうか。自分が赴任されて来た目的も、今現在自分が考えている推測も、何もかも全てを。
「どうした?」
「……ううん、何でもない」
「ならさっさと食って続きしよーぜ」
「もう……言い方……」
結局、今話すのは止める事にした。隠し通したかった訳ではない。最後に父と電話した時、『連絡方法はこちらで考える』と言っていた。それが弟のフィトである可能性は高い。父からの連絡をまず確認すべきだと、思ったからだった。
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新月の歯が太腿に食い込んだ時、ルルーディは微かな悲鳴をあげた。このまま好きにさせていては痣ではなく傷になってしまう。ただ、こんな場所を見る事が出来るのは新月一人だけだ。だから傷が残った所で構わないのだが、こういった事をしなくてもルルーディは新月から離れたりしないと、きちんと伝えておきたかった。
「シヅキ、噛まないで。痛いわ」
「……目印だって言ったろ」
「そんな事しなくたって、私がシヅキのものだって私が一番よくわかってる。だから信じて。ね?」
新月は不満げな顔をしながらも、とりあえず太腿から歯を離した。ルルーディはホッと身体の力を抜く。
この噛み癖は最初からあったものではない。交際日数が経過するにつれ、徐々にこの履き違えた強引さが出始めたのだ。
今なら何となく理由がわかる。新月は不安なのだろう。ルルーディの赴任期間は三年。このまま日向に留任する可能性もあるが、基本的には任期を満了したら異動する事が多い。新月はその事について一切触れて来ないが、それを気にしているのはひしひしと伝わって来る。
「あのね、シヅキ。一つ話しておきたい事があるんだけど」
背後に密着し、ルルーディの髪をさらさらと弄っていた新月の手がピタリと止まった。それを察したルルーディは内心で密かに苦笑する。
「……今じゃなきゃダメか?」
「今、聞いておいた方が良いと思うわ」
「……俺は別れないからな」
「えぇ、私も別れたくない」
「じゃあ何だよ」
──髪を触る手の緊張が抜けた。そう判断し、ルルーディはクルリと向きを変え、横になったまま新月と向かい合った。闇と銀には、まだ微かな不安が残っている。
「あのね、近い内にミーナ市警察からそこの副署長が視察に来るの」
「ミーナ市? コラッツァータの?」
「そう。でね、その副署長っていうのがソリクトで同僚だったんだけど──」
「待て、もういい。それ以上言わないでくれ」
新月は不機嫌な声で話を遮る。けれど、この反応はルルーディには想定内だった。
「昔付き合ってた、とかじゃないわよ?」
「……何だよ、ビビらすなよ」
「仮に付き合ってたとしても問題ないでしょ? 私の初めてはシヅキだったんだから」
「……まぁ、そうですけど」
ルルーディは新月の胸に頬を擦り寄せながら、ディリティリオの事を話した。緑川に話したのとほぼ同じ内容を説明をした上で、新月にきっぱりと言い切った。
「もう離れてから二年近く経つの。その間、特に向こうから連絡があった訳じゃないしそもそも彼にだって恋人がいるかもしれない。でも私、シヅキに少しでも誤解されたくないの」
新月は何も応えない。その”反応が無い”という反応に、ルルーディは少し不安になる。けれど強く抱き寄せられ、髪に口づけを落とされてようやく、新月が己の選択に理解を示してくれた事を悟った。
「でも、通訳は断ったの。それだけじゃなくて、ちょっと気になる事があるから」
「気になる事ってなんだよ」
「それは弟が来てから話すわ。安心して? 隠し事はしないから。ただ、正確な情報を得てからにしたいの」
「……わかった。でも、弟クンが来たら絶対にちゃんと説明しろよ?」
「えぇ。約束する」
新月はルルーディが頷くのを確認した後、もう話は終わったとばかりに覆い被さって来た。
「噛んじゃダメだからね?」
「わかってる。でもちょっとくらいなら良いだろ?」
ルルーディは抗議しようと口を開きかけ、結局何も言わなかった。何となく、『新月のモノ』という気分に浸りたかったからだ。ルルーディが黙っているのを良い事に、新月は実に楽しそうな顔であちこちにかぷかぷと噛み付いている。やっている行為自体はどこまでも大人の男の所業だが、ルルーディはまるで少年にまとわりつかれている様な錯覚に囚われていた。
「シヅキ、それまだ続くの?」
「もう少しだけな」
「楽しい?」
「もうすっげぇ楽しい」
そう揶揄うように言いつつも、新月の声は過度の興奮によって掠れている。この欲に染まった声が本当に好きだ、と心から思う。ルルーディはそんな自分に苦笑しながら、年上の子犬の髪を優しく撫でてやった
◇
翌朝。ルルーディは長椅子にぐったりと横たわったまま、吸いさしで林檎ジュースを飲ませて貰っていた。ゆるゆると目線だけを動かし、壁の時計を確認する。現在時刻は朝の九時半を差していた。
本来ならば、とっくに中央署に到着している。むしろ、もう課長席で書類にサインしたり捺印をしたりしている時間帯だ。
「あー……、熱あるなこれ。それに魔力回路にも炎症が起きてるから今日は出勤停止だな」
新月はルルーディの目の前で細長い石を振った。透明感のある乳白色のそれは『星命石』と呼ばれ、健康な時に握ると先端に火が点る。魔力測定の基盤になる石で、こうして小さく加工されたものは体温を測る『陽命石』と共に普通に一般に売り出されている。
そして今、体内に存在する微弱な魔力を測る星命石には火は点いていない。
「馬鹿……シヅキの馬鹿……もう嫌い……」
「嫌いとか言うな。次に同じ事言ったら、署内でお前の名前叫びながら泣き喚いてやるからな」
「なにその脅し方……」
新月は甲斐甲斐しくルルーディの世話を焼いている。昨夜、ベッドの上でじゃれついて来る新月が妙に可愛らしくて好きにさせたのが良くなかった。新月が楽しく”遊んで”いる間中、ルルーディは衣服を身にまとっていなかったのだ。
くすぐったさに多少身を捩る程度でほとんど動かず、中途半端に体温を下げられたせいでルルーディは風邪をひいてしまったらしい。
「こんな事で仕事に支障をきたすなんて、最低だわ私……」
──手掛ける事件の多い首都中央署では、感染を防ぐ為に少しでも体調の悪い者は欠勤が義務付けられている。おまけに翌日熱が下がったとしても、魔力回路の回復が確認出来なければ欠勤しないといけない。
発熱と魔力回路の炎症を起こしていたせいで、ルルーディは欠勤の連絡を鹿野に入れる羽目になった。事情を知るはずもない鹿野は大層心配をしてくれ、ルルーディは申し訳なさでいっぱいになっていた。
「悪かったって。お詫びに明日、飛空艇の空港まで俺が弟クンを迎えに行ってやるよ」
新月はルルーディの髪を優しく撫でている。そこでルルーディは弟の事を思い出した。明日、日向に到着する弟は恐らく父からの伝言を持っている。自分が出勤出来ない可能性がある以上、弟には一刻も早く自宅に来て貰う必要がある。
「……ありがとう。でも本当はこういうの良くないのよね、部下に身内の迎えを頼むなんて」
「その辺りの事は気にすんな。元々俺、明日明後日は人形共と訓練室にこもる予定だったから」
「ありがとう。弟と合流したら、そのまま自宅に連れて来て貰っても良い?」
「良いよ、わかった。あぁ、昼飯はテーブルの上に置いてあるから。それと俺、今夜は自分の家に帰る。俺んちからの方が空港に近いし、ルルもゆっくり寝たいだろ? 夕食用にはシチュー作っといたから」
まるで母親のような物言いに思わず笑みを浮かべながら、ルルーディは小さく頷いた。そしてテーブルの上を見る。卓上が淡く光っているという事は、作った食事をわざわざ結界網で覆ってくれているらしい。
「じゃあ、行って来る」
「えぇ、いってらっしゃい」
新月はルルーディの唇に軽いキスを落とし、慌ただしく出勤して行った。ルルーディは長椅子に寝そべったまま、ゆっくりと頭の中を整理していく。
──フィトは電話をかけてきた時に『フィト・キュアノス』と名乗っていた。それは、ルルーディの任務内容を父から聞いている事を表している。であれば、気づくだろう。己を迎えに来た男が何者なのか。
ソリクトでは幼少時から、母国語の他に国際言語であるディストロイア語も学ぶ。だが貴族家の当主及び次期当主にあたる者は、母国語以外を使用する事はほとんどない。
だから弟は、電話の際にもソリクト語で話をしていた可能性が高い。それに対して、新月は何の問題も無く弟と会話を終えていた。ひょっとしたら、初めは違う人物が電話に出たのかもしれない。そしてソリクト語が理解出来ず、そこで新月に代わった可能性もある。
弟が何らかの伝言ないし情報を持っている事はほぼ確定していると言っても良い。けれど、問題はその内容だ。先日の電話で、ルルーディにはもはや新月を殺す事は出来ないと説明した。それにこの度の新月殺害計画について歴史レベルで不可解な事がある以上、父の伝言が新月の抹殺についての助言だとは到底思えない。むしろ、逆なのではないだろうか。
「……何があっても、必ずシヅキを守らなくちゃ」
弟を連れて来てくれたら、そこで新月に全てを話そう。そして今後の事について話合えば良い。
「明日、出勤する事が出来たら、柿守課長と緑川課長にも話しておいた方が良いかもしれない。魔力回路が回復してなかったら、電話をかければ良いわ」
──今までの自分ならば、恐らく全てを一人で背負い、そしてどうにかしようとしていただろう。赤の他人に話すという判断は絶対に取らなかったと思う。
けれど確実に新月を、愛する男を守る為には、常に冷静に考え最善の選択をしていかなくてはいけない。
ルルーディはそう覚悟を決めていた。