二號の待ち伏せ
翌朝、出勤したルルーディは署の入り口で思わぬ人物の待ち伏せを受けた。
「おはよー、課長さん」
「……二號さん。おはようございます。お一人ですか? 他の方は? ヒイラギ巡査はどうしました?」
「他の連中はもう六課で待機してるわよ。ヒイラギは仮眠室で寝てたけど、今はもう起きて書類書いてる。多分、五號のじゃない? アタシ、ちょっと課長さんと話したかったんだ。だからお化粧直すって嘘ついて抜け出して来ちゃった」
「……そうですか」
ルルーディは目の前に立ち塞がる美女をじっと見つめた。流れるような黒髪に濡れた様に見える黒目。言葉遣いは多少荒い部分もあるが、どこか気品を感じさせるような美しさに溢れていた。
生前はそこそこ名のある暗殺者だった彼女。彼女は新月が潜入していた組織に所属する暗殺者だったが、好みの男に滅法弱いという弱点が露呈しあっさりと新月に始末されたのだと言う。
その二號は、無邪気な笑顔を向けながらルルーディにいきなりとんでもない質問をぶつけて来た。
「ねぇ、課長さん。もうヒイラギと寝た?」
一瞬にして、ルルーディの全身に冷たい汗が噴き出して行く。だがそれを気付かせぬよう、素知らぬフリをしてみせた。
「何を言うかと思えば。そんな下らない事が聞きたくて朝から待ち伏せてたんですか?」
「先に聞いたのはアタシよ。質問に答えて」
「あのですね、私達はただの上司と部下ですよ?」
「またまたぁー。アタシはね、ヒイラギの人形になってからずーっとヒイラギを見てるの。だから分かるわ、ヒイラギが課長さんにご執心だって」
二號は高いヒールを鳴らしながら、ルルーディに近づいて来た。またその歩く姿すら美しい。新月は『死体と寝る趣味はない』と言っていたが、こんなにも美しい女を前にして、その意思を貫けるものなのだろうか。彼女を見ていると、そんな風に思えて来る。
「……考えすぎでは? どうやら貴女はヒイラギ巡査に好意を持っているようですね。幾ら今世では結ばれないとはいえ、彼の周辺にいる女性全てにこうやって噛み付くのはどうかと思いますよ? それと下品な勘繰りは止めて下さい。迷惑です」
正直ここまできつく言うつもりは無かった。実際、言った後で既に後悔の念が押し寄せて来ている。こんな事で優位に立とうだなんて、何て俗っぽい真似をしているんだろう、と自己嫌悪に陥っていた。
「言ってくれるじゃない。何よ、アンタ絶対に男経験無いでしょ。ムカつくわー、その生真面目な顔。”彼氏いない歴年齢”ってヤツね、絶対」
「……だったら何よ」
段々と、自分の中から冷静さが失われて行くのが分かる。だが込み上げた苛立ちは、もはやどうしようもない。
「うっそホントにー? 信じらんなーい! 男ナシで生きて行けるってすごーい! やっぱり課長さんともなると違うのねー。っていうか、調子に乗らないでよ? ヒイラギがアンタなんか本気で相手にする訳ないんだから。アンタはね、ただの身代わりなの。わかった?」
──ルルーディの口の中から、ゴギゴギという何とも言えない音が聞こえる。それが自身が歯を食いしばっている音だと気づくのに、少しだけ時間がかかった。先ほど覚えた自己嫌悪もどこへやら、いっその事『ヒイラギ巡査の方が頼み込んで来たから仕方なく付き合ってやる事にした』と言ってやろうかとすら思った。
(落ち着いてルルーディ。相手は死体。ただの死体……)
だが寸前で思い留まった。心の中で己に必死に言い聞かせながら、ルルーディは無言で足を進めて行く。
「……とは言えアタシが生きてた所で、身代わりにすらして貰えなかっただろうけどね」
「え?」
すれ違う直前に小さく呟かれた言葉。ルルーディは思わず足を止め、二號の表情を窺った。二號は溜め息を吐きながら肩を竦めている。
「ヒイラギにはね、大切に思う相手がいるの。多分だけど、あのヒイラギがあんな顔するくらいには大切に思ってる相手が」
「あんな顔?」
二號はチラリとルルーディを見た。その眼差しには、挑発的な光は含まれていなかった。代わりに、ほんの少しの寂しさが見て取れた。
「一度見た事あるんだ、屋上で。ヒイラギね、銀色のネックレス持ってんの。中にちょっとした物を入れられるようになってるやつ。つける訳じゃ無くて、ポケットに入れていつも持ち歩いてる。ヒイラギが屋上に行く時には壱號しかついて行っちゃいけないんだけど、ヒイラギはアタシ達に余計な制約魔法をかけたりはしない。だからアタシ、その日は冷蔵庫に戻るフリしてこっそり後をつけたの」
──銀色のネックレス。それは初日にルルーディも見た。二號と痴話喧嘩をしている最中に、ヒイラギが手にしていたもの。あれはネックレスだったのか。冷めた眼差しをしていたのに、手にした銀色に口づける姿は妙に色っぽく、思わず見惚れてしまった事を思い出す。
「……ヒイラギがネックレスの蓋を開いた瞬間、アタシの存在に気づかれたわ。気配を消すのは得意だったんだけど、やっぱり死霊術師には通じなかった。けど、ヒイラギも油断してたんでしょうね、急いで蓋を閉じてたけど、アタシの目にははっきりと見えた。中には髪の毛が入ってたの。金茶色の髪の毛」
「金茶色の、髪の毛……」
「そう。アタシ達の周辺であんな髪色の人間はいないし、巻いてあったからまぁまぁの長さ。女よ、きっと。ヒイラギのヤツ、見た事も無いような甘くて切ない顔してたもの。よっぽど好きだったんでしょうね、その女の事が。ヒイラギ、一体どんなフラれ方したんだろ。応援なんかしたくないけど、復縁したいならそうすれば良いのに、って時々思うのよね」
二號はおもむろに手を伸ばし、ルルーディのふわふわとした髪の毛を一房摘まんだ。咄嗟の事に身体が動かず、されるがままになる。それよりも、今の二號の発言には少し疑問を感じた。
「うーん、課長さんの髪の毛は薄茶色ね。光に透かしたら金茶に見えない事もないけど、あの髪色とは違うわ。まぁ身代わりにはちょうど良い髪色ってとこね」
ルルーディは胸を抉られるような衝撃に耐えていた。まさか、あの新月にそこまで強く思う相手がいたなんて。ならば、あの告白の本当の意味は。
(……何よ。やっぱりそういう事なのね。三年間は忘れられない相手の身代わりで我慢しようって事なんだ。そう。良いわよ別に。大体、私は貴方を殺しに来たんだから)
怒りと悔しさ、そして自らに抱く軽蔑。そんな様々な感情に翻弄されながらも、ルルーディは気を取り直して先ほど引っかかっていた事を聞いた。
「あの、”復縁したいなら”って言ってたけど、どうしてその髪の毛の主が生きている前提なの? だって、その感じじゃお相手は亡くなってるって考えた方が……」
二號は呆れた様な顔でルルーディを見る。
「だって、ヒイラギは死霊術師なのよ? 今だってこうやって死体を動かして好きに使ってるじゃない。そこまで惚れた女が死んだら当然”人形”にするでしょ」
「そうとも限らないんじゃない? その、普通に見送った方が相手を尊重しているとも思えるわ」
「は? 何、じゃあアタシは犯罪者だから魂を尊重されなくて当然だっていうわけ?」
「そうじゃないわ。そういう意味じゃなくて……」
──今、何となくだが何か大切な話を聞かされている気がする。ここで二號の機嫌を損ねる訳にはいかない。そう思ったルルーディは必死に二號の機嫌を取った。
「貴女はだって、有名な暗殺者だったんだもの。尊重しているからこそ、ヒイラギ巡査は貴女を”人形”にしたのではないですか? ね? 一関 瑠璃さん」
ルルーディは敢えて二號の”本名”を呼んだ。二號は一瞬ルルーディを睨み付けた後、フッと虚空を仰いだ。
「懐かしー……。アタシ、そう言えばそんな名前だったなぁ。暗殺者になってからはずっと、偽名使ってたから」
「”ヒタキ”でしたよね。なぜ、その名前にしようと思ったの?」
「別にー。子供の頃の通名よ。”ルリビタキ”って鳥がいるから通名をそこからつけたのね。それをそのまま使ったってだけよ」
「通名……?」
機嫌を取る為に無理やり捻り出した話題。たが思わぬ形で飛び出して来た耳慣れない言葉に、ルルーディは首を傾げた。
「そ。首都とか都会じゃ一般的じゃないけど、田舎の子供は十五歳になるまでは通名を使うの。山や川には神様が住んでいる、うかつに本名を口にしたら気に入られて連れて行かれてしまうから、ってね。アタシ、ド田舎出身だからさ。あ、他の連中には言わないでよ? アイツら絶対に馬鹿にして来る。そんなのアタシのプライドが耐えられない」
「わかったわ」
ルルーディは頷きながら、ヒウカで過ごした一年を再び思い出していた。木々に囲まれた、森の中の神殿建設。父と暮らした仮住まいの屋敷から、少し離れた所にあった村。
そこの子供達と遊ぶ時に、父に偽名を使う様に言われたのはそういう理由があったのか、と今更ながら納得をした。恐らく、ヒウカ人の神殿関係者から忠告でも受けたのだろう。
それよりも、この洗練された雰囲気の美しい二號の口から”ド田舎出身”という言葉を聞くと、何となく微笑ましいような気分になった。そして気づいた。複雑な思いはあるけれど、二號と話すのは案外楽しいという事に。
「絶対だからね? 嘘つかないでよ? ヒイラギは嘘つかないから安心だけど、アンタの事はまだ信用出来ない」
「約束は必ず守るわ。それよりあの、二號さん」
「……何やってんだ二號」
始業時間までまだ少し時間がある。二號とはまだ話をしてみたい。そう思い二號に声をかけようとした時、横から地を這う様な低い声がかかった。途端に、二號の肩がビクリと震えた。
「あ、ヒイラギ……」
「ったく、化粧直しに行くっつーから単独行動させてやったのに。何勝手な事してんだお前」
「ご、ごめん。でもアタシ別に何もしてないよ。ただ課長さんとお話してただけで……」
「……さっさと行け。早くしろ」
「う、うん、わかった」
二號はまるで、別人のようにしゅんとしながら項垂れて去って行く。ルルーディは新月を咎めるような目で見つめた。
「彼女とは少しお話していただけですよ? 何もそんなに怒らなくても」
「誰が主人か、ちゃんと分からせておかないといけないんすよ。俺が人形をどう躾しようが課長に関係無いでしょ」
「……関係無い、ですか」
新月の顔を見ると、先ほどの二號の言っていた言葉が思い起こされて行く。
『身代わりにはちょうど良いんじゃない?』
ルルーディは軽く頭を振り、胸に渦巻くドロドロとした何かから懸命に目を逸らした。身代わり。上等ではないか。こっちはお前を殺す為に来ているのだ。だったらそれまで好きに思っていれば良い。
そう心に何度も言い聞かせても、モヤモヤとした気持ちは治まらない。これでは業務に支障をきたしてしまうかもしれない。そう思い、手洗いで少し気持ちを落ち着かせてから行く事にした。
「ヒイラギ巡査も早く戻って下さい。私はちょっと事務方に用があるので」
さらりと嘘をついた後、ヒイラギの横を素早くすり抜け署内に入った。すれ違い際にふわりと香る整髪料の香りに、なぜだか泣きたくなって来る。
分かっていた。この気持ちが何なのか。自分は今、傷つき嫉妬し憎悪している。それは好意を持たれていると得意になっていた鼻っ柱が、へし折られたからではない。
──惹かれているからだ。この何を考えているか分からない、軽薄な服装や言動の飄々とした男から、どうしようもなく目が離せなくなって来ているからだ。
だから憎くて堪らない。新月に心から愛されている、その『金茶の髪の女』が。
「待てよ、ルル」
背後から小さな声で呼ばれ、ルルーディは思わず足を止めた。そして、一拍の後に激しい怒りが沸き上がって来る。本気で好きでもない女をわざわざ愛称で呼ぶなんて、と胸の内が煮えくり返っていた。
「……ヒイラギ巡査。署内では私的な距離感を出さないで頂けますか」
大きな声にならないよう注意しながら、何とかそれだけを言い切った。
「事務方に用って何だよ。俺もちょうど五號の使用許可書を提出に行く所だから一緒に行こうぜ。窓口には人がしょっちゅう出入りしてるから、誰も俺達の距離が近いとかなんとか思わないって」
「聞いてなかったんですか? その言葉遣いもどうにかして下さい。職場では私の方が立場が上なんですよ?」
「それは分かってるけど? で、一緒に行くの行かねーの?」
「もう、いい加減に──!」
怒りに手を震わせ、振り返ったルルーディの唇に、柔らかくそして温かいものが触れた。それが何なのか一瞬わからず、ルルーディはただ硬直していた。その横を、出勤して来た他の職員が訝し気な顔をしながら通り過ぎていく。
「ヒ、ヒイラギ巡査……!」
漸く我に返り狼狽えるルルーディの耳に、低く押し殺した笑い声が聞こえて来る。
「あっぶね。バレるかと思った」
ヒイラギは悪戯っ子のような顔をしながら、ペロリと舌なめずりをしている。そして、未だ呆然としたまま動かないルルーディに近寄り、長身を屈め耳元でそっと囁いて来た。
「課長が俺の上だって、ちゃーんとわかってますよ? けど、今夜は俺が上にならせて貰うからな?」
「なっ、なに言って……!」
「じゃ、コレ早く出さないといけないんで、俺もう先に行きますねー」
ヒイラギはヘラヘラと笑いながら後ろ手に手を振り去って行く。
ルルーディは耳を押さえてその場に立ち尽くしていた。怒りとは異なる感情により、顔を真っ赤に染めたままで。