思い通りにならない心
ルルーディ・キュアノスは書類を書いていた手をふと止めた。廊下からガヤガヤとした賑やかな話声が聞こえる。室内にいた他の職員も顔を上げ、皆が一斉にルルーディの方を見た。全員の顔に安堵が浮かんでいる。ルルーディも笑顔を浮かべ、両手を叩いて喜びを表して見せた。
「良かった、無事に帰って来てくれて。あの機嫌の良さそうな声、どうやら上手くいったみたいですね」
ルルーディの言葉にうんうんと頷いていた職員が、急に首を傾げた。人狐の血を引く、耳の良い男だ。
「あれ? 聞き慣れない声がしますね。彼、また人形を増やしたんですね。という事は、今回は少々苦労したんでしょうか」
「さぁ、どうでしょう」
そう応じながら、ルルーディは内心の複雑な思いに微かに眉をひそめた。何て事だろう。わざわざ危険な任務に就かせたのに生きて帰って来るなんて。そして、その事に対してホッとしている自分にひどく腹が立っていた。
「ただいまーっす」
そんなルルーディの葛藤など知らず、軽薄さ全開の声と態度で部屋に入って来たのは、長身の若い男だった。灰色の縦縞が入った黒の背広に光の加減で煌めいて見える緑のシャツ。そして濃紫のネクタイ。瞳と同じ闇色の髪は黒の単眼鏡をつけた右目を覆うように伸ばされ、耳には小粒ながらも高価な事が一目でわかるダイヤのピアスが付けられている。
そのあからさまにチャラチャラとした外見の男の襟元には、首都警察である事を示す『大蛇と八重桜』の紋章が付けられていた。
「お帰りなさい。柊一等巡査。お疲れ様でした」
「ホント疲れましたよ。あ、コイツの件は上に上手く言っといて貰えます? 使い道があるんで使用許可をお願いしますって」
”柊”と呼ばれた男は肩を竦めながら親指で後方を指した。
「えぇ分かっています。では、その新しいお仲間を紹介して下さる?」
「別に仲間じゃないっすけどね。って言うか、先に報告しなくて良いんっすか?」
「報告書は明日提出して下さい。後ろの方についての聞き取りが終わったら、今日はもう帰って良いですよ。お疲れでしょう?」
「……そっすか」
柊は何事か考えるような顔をした後、背後に向けて片手を振った。
「は、初めまして……。あ、あの、僕は”六號”です……。元の名前は忘れちゃったのかな、どうしても思い出せないんですごめんなさい……」
柊の背後からおずおずと顔を出したのは、小柄な少年だった。艶のある蜂蜜色の巻き毛に同色の瞳を持ち、頬は桃色でまるで天使のように愛らしい。だが、その飴玉のような瞳の奥には、ドロリと濁った澱みが見えた。
(この可愛らしい顔の下には、驚くべき残虐性が隠れているのよね)
ルルーディは目を細めて『六號』を観察する。六號は子犬のように上目遣いで見つめ返しながら、ぷるぷると震えていた。そんな六號にルルーディは優しく微笑んでみせた。
「お名前の件はお気になさらず。調べればわかる事ですから。私はルルーディ・キュアノス。ここ第六課の課長です。どうぞよろしくお願いします」
ルルーディの挨拶を聞いた六號の愛くるしい顔がみるみる内に驚愕に彩られていく。それを見てもルルーディは全く気にする事なく澄ました顔をしていた。この様な反応にはもう慣れている。
「マジで!? そんな若いのに課長!? 警察の上層部っておっさんばっかなんじゃねーの? アンタ今何歳? 名前の響きだと……え、どこの出身? っていうか何で外国人なのに日向の首都警察にいんだよ!?」
六號は驚愕の眼差しのまま、矢継ぎ早に質問を浴びせて来る。ルルーディは思わずクスッと笑った。こんなに早くボロを出すようでは、狡猾な彼、柊の相手ではなかったのではないだろうか。
「いえ、女性幹部も結構いらっしゃいますよ。そもそも首都中央署の署長は女性ですから。年齢は二十二歳です。出身はソリクトです。日向にいる理由は、私が国際警察資格を持っているからです。この資格を持っていると世界中が赴任地になりますから。一応、任期は三年の予定です」
ルルーディは流れる様に全ての質問に答えた。『三年』と言った途端、柊の左眉がピクリと動いたのは見なかった事にした。
「……へぇ。エリートじゃん。まぁその目を見ればアンタがべらぼうに魔力が高いってのは分かるけど」
「ありがとうございます」
ルルーディの目は鮮やかな青色をしている。初めてこの六課に赴任して来た時には、『露草みたいに鮮やかな青色』と言われた。
──魔力の高い人間の目の色は、発光しているかのような鮮やかさと特有の煌めきを持つ。
この六課で『特殊な目』を持っているのはルルーディと、柊 新月の二人だけだ。
ただ、柊の場合は右目だけ。だが彼は普段それを闇色の髪で覆っている。そしてご丁寧に黒色の単眼鏡までつけて徹底的に隠しているのだ。
以前、どうしてなのか聞いた事があった。その時彼は事も無げにこう言った。
『色々持ち過ぎると何かとやりにくいんだよ、この国は』
その言葉の意味はすぐにわかった。若い女性で異国人。そして二十代前半で課長を務め『権少警視』という階級にあるルルーディは他の職員から微妙に距離を置かれている。実力者になればなるほど周囲に人が集まってくる、本国とは全く異なる雰囲気に最初は大いに戸惑った。
この国の人間である柊はそれを良くわかっている。だから同僚達にも隠しているのだろう。仲間を信用していない、と言えなくもないがルルーディには何となくその気持ちが理解出来た。
何しろ、希少な『死霊術師』という資格だけで彼の”売り”は十分過ぎるほどあるのに、いかにも女性受けしそうな整った容姿も持っているのだ。
ルルーディは軽く首を振り、それ以上思考の海に沈むのを止めた。そして引き出しの中から小さな銀色のバッジを取り出し、六號に渡した。
「これを常に見える所に付けておいて下さい。貴方が部外者ではない証です。でも一度付けたら、絶対に外さないで下さいね?」
「外したらどーなんの?」
「一瞬にして消し炭になります。貴方はもう、人間ではありませんから」
──ここに来て初めて、六號の瞳が恐怖に震えた。やはり忘れてしまっていたのだろう。己の命はもはや無く、死霊術師である柊の魔法『屍人形』によってのみ存在出来る、動く死体である事を。
◇
「……課長」
柊の新しい人形である六號の『生前』についての聞き取りを終え、情報室に向かうため六課を出た所で、後ろから声をかけられた。
「柊巡査? どうかしました?」
「ちょっと良いっすか」
「? はい」
今日はもう帰宅して良いと言ったはずなのに。ルルーディは訝し気な顔のまま、右手を派手な背広のポケットに突っ込み左手でちょいちょいと手招きをする柊の元に近寄って行く。
「何です……っ!?」
素早く伸ばされた手に手首を掴まれ、そのまま廊下の壁に押し付けられた。声をあげる暇も無いまま、長身を屈めた柊に噛み付くような口づけをされる。ルルーディは抵抗をしながら、くぐもった悲鳴をあげた。
「んっ……! ちょ、ちょっと……!」
角度を変えては繰り返される、深く長い口づけ。いい加減頭がボーっとして来た所で、漸く唇が離された。
「しょ、署内ではこういう事は駄目だと何度も……!」
「俺、二ヶ月も潜入捜査してたんだぜ? ご褒美くらいくれても良いだろ?」
「今じゃなくたって良いじゃない……! こんな所で誰かに見られたらどうするのよ!」
ルルーディは迫る柊を懸命に押し返しながら、慌てて周囲を見回した。情報室は奥まった所にあるため、そこへ向かう廊下は人通りが少ない。幸い誰の姿も見えないが、情報室から誰かが出て来たらこっちは丸見えになる。
「ねぇ、もう離して柊巡査」
「……」
「聞いているの? ヒイラ……シヅキ」
「……ルル」
いきなり耳元で甘く囁かれ、ルルーディは身体をビクリと震わせた。
「な、何よ」
「今日、部屋行って良い?」
「あ、ううん、今日はちょっと……」
「は? 何でだよ。俺、今回すげー頑張ったのに。六號のヤツが割と手こずらせてくれたから、二號を犠牲にして何とか倒したんだぜ? もうちょっと恋人を労わってくれよ」
「え……二號、さんを?」
そう言えば、さっきは二號の姿が見えなかった。てっきり化粧でも直しているのかと思っていたが、まさか”消滅”していたなんて。
──二號。その名の通り、二番目に柊の手駒になった美しい女。ルルーディが赴任して来た時には既に柊の側に居た。”生前”は腕の良い暗殺者で、柊はよく二號を使っていた。それなのに、どうして。
「ルル、二號の事嫌ってただろ?」
「え!? い、いえ、私はそんな……!」
「嘘つくなよ。まぁ、使えるからって俺がちょっと甘やかし過ぎたのもあるんだけど。アイツお前に色々言ってただろ? 俺のいない所で。馬鹿だよな、俺の人形について俺が知らない事がある訳ねーのに」
ルルーディは俯いた。二號に向けていた感情は、そんな簡単なものではない。
(……嫌い、とは違う。確かに、貴方と共に行動出来るあの死者は目障りだった。でもそれは、私の知らない貴方を彼女は知っているから。そして知りたくなかった貴方の本心を、私に伝えて来たから)
「そういうのじゃないわ。そういうのじゃ……」
柊は子供の様に首を振るルルーディの身体をそっと抱き寄せ、両手で頬を挟んで見下ろした。単眼鏡の向こう側、磨き抜かれた鏡のように煌めく銀の瞳が、真っすぐにルルーディを捉えている。
「それはもうどうでも良いよ。これから上に報告とかあんだろ? 俺、先に部屋行ってて良い?」
「……良いわ」
「何か作っといてやるよ。何食いたい?」
「……オニギリ、かな」
「ハハ、何だソレ。まぁイイけど」
苦笑しながら元来た廊下を引き返して行く、背広の後ろ姿をルルーディはただ無言で見つめていた。
──どうして、どうしてこんな事になったのだろう。日向に赴任し、上司として柊に接触していく内に、彼から思いを告げられそのまま男女の関係になってしまった。それは別に良い。その方法も考えていたからだ。狂ったのはそこから。まさか、本気になってしまうなんて。
柊がルルーディに、ではない。ルルーディが柊にのめり込んでしまったのだ。
「もう、何してるのよ私……」
本当に何とかしなくては。日向に来てから既に一年半が経っている。任期は残り半分。成さねばならない事を考えると、ギリギリの期間と言える。確実に使命を果たすには、これ以上無駄な時間を取る訳にはいかない。この一年半、周囲から距離は置かれつつも信頼は勝ち取っている自信はあった。もう、何があってもルルーディを疑う者はいないだろう。ならば、一刻も早く使命を果たすべきだ。
ルルーディの、使命。
それは大罪人『屍姫セリニ』の血縁を根絶やしにする事。
魔女の直系の子孫である柊 新月。彼を殺す為に、ルルーディは遠いソリクトからやって来たのだ。