7.和菓子
「やっと戻って来てくれたねぇ」
探し続けた好きな人が開けてくれた部室ドアの先にいたのは、何の夢もない引きつった表情の眼鏡部長であった。
「やっとというか、ドイ(ツ)語だったんで」
「じゃあそう説明してから行ってくれ!入部すると宣言しつつ奇声をあげて逃げた一年を連れて来た身にもなってくれよ」
「すみませんが先輩がどう思われようとこっちには関係ないんで、って気になってたんですけど、どうしてさっき和菓子の袋を持ち歩いて……、ってわぁ、弁当?!弁当袋に使ってるんですか?なんか内側にケチャップついてるしぃぃぃ」
私の思い出の一品がぁぁぁぁ、28歳現実世界の私がいい歳して捨てられずにいつまでも取っておいてしまっていた崇高な紙袋さまがぁぁぁぁ。
「いちいちうるさいなー紙袋どう使おうがいいだろうが」
「あのう」
不毛なやり取りに割り込んできたのは、少しふくよかな男子部員であった。
ついいつものように眼鏡先輩に対して無駄にヒートアップしてしまっていたが、その呼びかけにふと我に返った私は好きな人を盗み見た。案の定、不思議そうな顔をしている……。
「は、はい」
「兄さんとは以前からのお知り合いで?」
「いや、まぁ、新歓の時期からたまに道で会うぐらいで、ん、兄さん?」
「あ、僕が部長を勝手にそう呼んでるだけですよ」
「あ、先輩って部長なんだ……」
「兄さんはとにかく自然と融合したい人間にとって尊敬すべき思考の持ち主なんです!本当は師匠とお呼びしたいんですけど、それは断られてしまったので」
「はぁ、そう、芸人さんが先輩をそう呼ぶのと同じ感覚なのかな……」
またチラリと盗み見る。好きな人は事の成り行きを見守っているようだ……。
「なんだか兄さんと対等なご関係のようですね。入部されるとのことですが、姐さんとお呼びしてもいいですか?僕、文学部1年で、みなさんからは勝平と呼ばれてます」
「ね、姐さん?!」
「かっぺい~、この子はかえやんって呼ばれてるんだよ」
莉子が面白そうに、ぴょんと顔を出す。
「いや、決めました、今日からあなたは姐さんです」
「ってか、なんで同じ1年なのに敬語なの?!」
「かっぺい~、ちなみに私は社会学部の柏木莉子ね」
「なんかさっきから1年で盛り上がってるとこ悪いけど、かえやんとやらと柏木とやら、このノートに名前を書いてしまいなさい」
まるで「気が変わらない内に」というニュアンスを含んでいるかのように、『新入部員名簿』と表紙に書かれたぼろぼろのノートを眼鏡部長から受け渡された。
「はーい、莉子書きまーす」
「莉子、本当に一緒に入部してくれるの?!」
「もちろん!ツッコミのしがいがありそうな変人ばっかりで楽しそうだしさ、かえやんも含めてね」
「ははは……」
「って、新入部員3人しか入ってないじゃん!全員男だし!」
莉子が眼鏡部長と勝平とわーきゃー言っている間に、私はまた好きな人を盗み見した。
君は部室の窓前でダークブラウンの細長い会議テーブルに頬杖をつきながら、莉子が記入するノートの中身を穏やかに眺めていた。窓からは、部室の斜め前に根を張る木々の若葉を通した夕陽の光が柔らかく降り注いでいる。
君は、ここにいるんだ。
ふと部屋の中を見渡してみた。壁には、『追Q』内で実施されるのであろう様々なイベントの手書きポスターが無造作に張り巡らされていた。自然体験に特化された『比良登山』『三輪湖キャンプ』『北海道合宿』、その中に紛れるように『五月病吹き飛ばせ飲み会』や『夜間学内おにごっこ』なんてのもある。
「はい、かえやん」
気が付けば、記入し終わった莉子からノートを受け取っていた。
「あ、うん」
ちらりと見たら、好きな人はなんとなく私に注目している。
あー、どうしよう!無意味に、テンパる!
がたがたと言わせて簡易なパイプ椅子に腰かけ、ボールペンで名前から書き始めた。
それにしても、なかなか喋らないな、あの人……。
「小4男子みたいな字書くんだな」
え?????
顔を上げたら、頬杖をついたままの好きな人がにやりと意地悪そうな表情を浮かべていた。
「なっ、何よー!」
「ははは、俺もやっと喋れたよ、みんな最初から飛ばすから」
あうあうあう、か、かっこいい……。
「かえやん、ほらほら、頬を緩めながら時を止めてないで書いて書いて」
莉子ぉぉぉ、お願いだから余計なこと言わないで……。
そうこうしている内に私のバイトの開始時刻が迫っていたので、今日は莉子と共に部室を後にすることにした。とても名残惜しい。しかし、私は私の自己実現を果たすためにもお金が必要なんだ。例え仮想空間だとしても、いや、仮想空間だからこそ。何かしら、自分にプラスアルファ出来るような資金を……。そう思いながら、足元の復刻版スニーカーを見遣った。
「姐さんは何のバイトをしてるんですか?」
「居酒屋だよ」
「それはそれは、また我が『追Q』で突撃しなければいけないね」
「しなければいけないってことはないです」
「ほら、かえやん行くよ~」
薄暗い廊下に向けてドアを放つ莉子に続きながら、最後にもう一度振り返ってみる。
ほんのちょっとだけ気になることがあった。
君は、この仮想空間で私のことをなんて呼ぶようになるのだろう。
もしあとほんの少しわがままが許されるのなら、現実世界にいる28歳の私を呼んでくれていたように、どうか、あの呼び方で。
「楓さん」
その呼び方。他には誰もそう呼ばない、君からの特別。
「和菓子好きなら、また持って来てあげる」
拙い字でノートに記された『好きな食べ物』の欄を、笑顔で指差す君。
「ありがとう、江藤さん」
永遠に呼ばれていたい。
永遠に、呼んでいたい。