15.チャージ
文学部の私にとって経済学部の校舎は新鮮で、まるで足取りが跳ねるよう。『追Q恒例!夜間学内おにごっこ』のルールとして建物の中に入ってはいけないということになってるから、江藤さんはこの澄んだ夜気のどこかにいるはずだ。
文句のひとつでも言ってやりたかったけど、会えたらそんなのどうでも良くなっちゃうんだろうな。
そんなのどうでも。
ふと脳内で、28歳の江藤さんが私を呼ぶ声が再生された。
『楓さん』
みんながみんな、私を名字やあだ名やちゃん付けで呼ぶ中、江藤さんだけはずっとその呼び方を変えなかった。
くすぐったかった。
とても嬉しかった。
「楓さん」
瞬間的に、薄い膜が張られたような記憶の声とは違った、鮮明な響きが真っ直ぐに心を貫いた。
「楓さん、こっち」
その途端に手首をつかまれて、茂みに身を隠すような形になった私と、江藤さん。
「やっと見つけたよ」
この人は何を言っているのだろう、探していたのはいつも、私の方だ。
「ほら」
江藤さんの手には、あの日江藤さんを見つけるきっかけになった和菓子の紙袋が提げられていた。
「楓さん、なんかよく分かんないけど前に部長と和菓子の袋で言い合ってたし、ノートに好きな食べ物和菓子って書いてただろ?よほど和菓子好きなんだろなぁと思って。また実家から送ってもらったからさ、楓さんに食べてもらいたくて」
事態を飲み込むことに全身の力を使いながら、江藤さんと一緒に茂みにしゃがみ込み、頬を染めて目を丸くしている私。
「俺、ここの和菓子、めちゃくちゃ好きなんだ」
うん、うん、知ってるよ。28歳の頃から知ってるよ。またその美味しさを、私に教えようとしてくれるの?
「わ、和菓子くれるために、一緒に逃げようって、言ったの……?」
思わずこぼれ落ちてしまった言葉に、江藤さんははたとして、そしてにやりとした。
「走るのにちょうどいいチャージかな?と思って」
「勝平じゃないんだからぁ」
お互い笑ってしまった。
「いや、なんとなく、普通の時間に呼び出してまで渡すのが、うーんって感じで」
「そうかな……、でも逃げようって言っといて、開始早々どっか行っちゃったじゃん」
「和菓子取りに行ってたんだよ、部室に」
「あー、建物の中入っちゃだめなんだぞー」
「大丈夫、3秒だから」
あー、どうしよう。何でもない自勝手ルールまでもかっこいいと思えてしまう。病気。
「それにしてもさ、楓さん油断しすぎだろ」
うぅ……と俯き加減で、江藤さんのかっこ良さにうなだれていた私は、また顔を上げた。
「何が?」
「俺の肩確認した?」
『増え鬼』ルールの適用で、鬼につかまった者も鬼になり、右肩に黄色のマスキングテープを貼られることになっている。
「見てなかった……、というか見る暇もなく手首」
言い終える間もなく、口に弾力性のあるさらさらとした舌触りの甘いかたまりをくわえさせられた。江藤さんの骨張った指の一部が、私の唇に触れている。
「今日は勝つぞ」
あぁ、私は。
江藤さんからしかチャージできない身体になってしまいました。




