11.喧騒の中を逃げよう
「モーニング350円だったのぉ?」
莉子の大袈裟なリアクションが響くのは、いつの間にかホームのような居心地の良さを感じるようになった『追Q』の部室。お昼休み、私は先日江藤さんと一緒に行った純喫茶のことを話題に出していた。
「ふごいやふいよね、ふんいきもまつぐんで、ふごいよかったよ」
「抜群、な」
メロンパンを口に含みながらもごもご喋る私の言葉を、少し離れた席で今まさに長身を屈めて焼きそばを食べようとしていた江藤さんが言い直してくれた。
両手でつかんだ甘いかたまりで顔の下半分を隠しながら、じっと江藤さんを見遣る。
江藤さんは、今ここにいる。
私の発言を何気なく正そうとしてくれるほどの距離感。
思えば28歳の私は、江藤さんと日常的に会えるような状況にはいなかった。
勤務する支店も違うし、付き合う友達も違う。
何かの行事か、何かのきっかけがあって二人で飲みに行く、ぐらいだ。
数ヶ月に1回会えるとか、そういう間柄だったではないか。
それが今、日常的に同じ空間に存在することを許されている。
これのどこが幸せでないと言えるのだろう。
たとえ、この仮想空間の先の未来に、色白のお姫様が現れたとしても。
それが何だっていうんだ。
「私、今幸せです!」
「美味しさのハードル低っ」
ボリュームがあってお手頃価格なだけが取り柄のメロンパンに感動していると誤解された私は、いちいちうるさい眼鏡部長にもツッコまれてしまうのでした……。
「そういえばおにごっこ今週ですよね!」
言いたいことを言いたいタイミングで言い合う部室内に次に響いたのは、少しふくよかな姿でおにぎりを握りしめている、同じ一年生の勝平の声だった。
「ああ、そうだよ。君たち、これは真剣勝負だからね。最後までつかまらなかった者には、ちゃんと部費から賞品を用意するからね」
なぜかドヤ顔の部長が説明している『おにごっこ』とは、『追Q恒例!夜間学内おにごっこ』のことだ。いくつになっても夜の学校でかくれんぼなんて、なんだかどきどきしてしまう。心は28歳の私でも。
「はーい!鬼は誰がやるんですかー?」
莉子がオレンジブラウンのウェービーヘアを肩上で揺らしながら、勢い良く手を上げる。
「鬼はね、1年生だとかわいそうだから、まぁ毎年3年生がやることになっていて、もうあみだくじに名前が書いてあるんだよ」
そう言い、ぴらっと紙を見せる部長。
「今そのあみだやっちゃってくださいよー!」
「いいですね!鬼がどの先輩になるかによって、こちら側の対策も変わってきますし!」
ノリでテキトーなことを言っている莉子と真剣勝負に向けて純粋に目を輝かせている勝平。
わいわいがやがやしている部員をよそに、私はまた視線を江藤さんに戻す。
すると、バチッと、目が合った。
「今かー!まぁでも鬼にも心構えが必要だろうしなぁ」
「そうですよー!やっちゃってくださいよー!部長―っ」
「おにぎり半分あげますから!」
江藤さんの視線につかまってしまった私は、あまりに突然のことだったので身動きが取れなくなってしまった。
「勝平、君、僕のこと兄さんとか呼んでるわりに、たまにバカにしてるよね?」
「えー!勝平は敬ってる部長に泣く泣くおにぎりを献上しようとしただけだよねー?」
「そ、そうです!食べかけですけど!」
ん?何か言ってる……?
涼しい顔をした江藤さんが、口だけをぱくぱくして私に何か伝えようとしている。
「君たちもう、うるさい!今やるよ!」
「わーい!やっちゃってー!いっちゃってー!」
「莉子さん、なんかノリが飲みサークルみたいになってますけど……!」
ん……?
いっしょ、に……?
私はどうにか江藤さんの口の動きを読み取ろうとした。
「よーし!じゃあ、あみだの私の名前のとこから線を引いていくぞー!」
「やっちゃってー!いっちゃってー!」
「え……?!莉子さんもう飲んでます?!」
いっしょに、にげ、る……?
え?
「ぐわぁぁぁぁぁぁ、鬼は私じゃないかぁぁぁぁ」
「きゃはははは、部長ウケるー!」
「ま、まさか、莉子さん、部室内に隠し酒でもあるんですか?!」
伝わったことが分かると江藤さんはにやりとし、でも次には満足そうに微笑みを湛えて、伏せ目がちに姿勢を変えた。
『一緒に逃げる?』
夜間学内おにごっこ。
私と江藤さんは、この仮想空間の中、二人で一緒に逃げてゆく。
一体、どこまで一緒にいてくれるの?
私たちの『恋愛ごっこ』の行き止まりは、どこなの?




