10.最果て
「あ、ちょっとごめん」
そう言って、自然に立ち上がり席を外す江藤さん。
「日経?」
席に着くその手には、日本経済新聞が。
「あ……、講義でさ、読んでくるように言われたんだよ」
「へー、経済学部もけっこう面倒くさいんだね」
「ネット版でも良かったんだけど、たまたまここにあったからさ」
なんだかぎこちない笑みを湛えたまま、両手でパリッと張りを持たせた紙面の一面に丁寧に目を通していく。
茶髪のツイストパーマに学生らしいチェックシャツの装いには相応しくない動作ではあるものの、すごく様になっている。
はー、やっぱりかっこいいなぁ。別に顔がタイプというわけではないんだけど。
「……面白い?」
「ん?面白くないよ」
まるで日課のような仕草でふぁさっと一枚めくった。
ねぇ、大学生の江藤さん。君は28歳になってもその新聞に目を通しているんだよ。そんな仕事に就いてるんだよ。同期の私も、現実世界でそうしてるように。
「ん、ごめんごめん」
新聞を元のようにたたみ、ラックに戻しに行って、また私の前に腰かけた。
「お待たせ致しました」
ちょうどいいタイミングで、注文したモーニングを運んでくれた店主。
木製のトレーにはレタスときゅうりのサラダにハムエッグ、薄くバターが塗られているトーストと熱々のコーヒーがのっていた。
「美味しそう……」
思わずそう溢す私に、笑みながら頷く江藤さん。
私がコーヒーにミルクやら砂糖やらを入れている間に、君はブラックのままカップに口をつけていた。
さて。
江藤さんはどうして私を誘ってくれたんだろう。
「美味しいね」
お互いにトーストを頬張ったところで声をかけてみた。
「うん、いい」
表情がとても柔らかい。
あー。きっと、本当に、心の底から、こういう場所が好きなんだ。
一緒に訪れる相方を、純粋に求めていたってことなのかな。
「江藤さんは、どうして追Qに入ったの?」
「あー、なんかね、新歓の時に言われたんだよ。『アウトドア用品好きなの?!うちは巨大サークルじゃないから、備品係になったら自分の興味あるメーカーとか選びたい放題だよ!予算もね、たまたまOBにお金持ちが多くて、OBコンでいっぱいカンパしてもらえるから!』って」
抑揚のつけ方で、すぐに小寺さんの喋り方を真似ていると分かって、ふふふとなる。
「そーなんだー」
「そっちは?」
「え?!」
「楓さんは?」
名前で言い直してくれた優しさ、その響き、何も隔てるもののない二人の時間。
「私は……」
君がそこにいたからだよ。
「部長がしつこかったからかな……」
「キャラ濃いしな~部長」
はははと笑いながら背もたれに身体を預け、こちらに表紙が向けられた状態で壁際に飾られている、お洒落なカルチャー雑誌を見遣る君。
「そういえば、なんで追Qって名前なんだろ。私、最初クイズ研究会みたいなサークルだと思ったの」
「はは、なるほどね。なんか元々『自然追求部』みたいな名前だったらしいけど、ダサいとかで何代目かの部長が変えたって言ってたな」
「へー、意味分かんなくなってるけどね」
「まあね」
えと、少し前から思ってたけど、この人、私と一緒に居て、楽しいのだろうか……。
現実世界で二人で話してる時は酒が入ってたんだ……、酒が……、酒が入ってるからもう何でも良くて気にならなかったんだけど……。
別にさっきから嫌な顔なんてひとつもされてないけど、どうしてこの人今私と一緒にいるの、どうしてこの人今私と一緒に、どうしてこの人今私と……。
「最果て焙煎所か……」
残りのコーヒーに口をつけようとカップを持ち上げながら、伏せ目がちで穏やかにそう呟いた江藤さん。
私はもう一度、先程の目線の先を思い出して辿った。
飾られた雑誌の今月号は珈琲特集らしく、そう記されている。
「日本の最果てにある、焙煎所か……行ってみたいなぁ」
何気ない言葉だった。
でも私は、どうしてだか狂おしい程に胸が締めつけられてしまった。
それについて行けるのは、おそらく私ではないから。
江藤さんに最果てまでついて行けるのは、私ではない。
きっと、この物語に、この仮想空間に、この時点での江藤さんの人生にまだ登場していない人。
ウェディングドレスを纏った、色白のお姫様だ。




