僕は悪い子だから悪辣神父さまとサンタの家に泥棒に入る
サンタクロース。
赤鼻のトナカイが引く空飛ぶそりに乗り、良い子にだけプレゼントを配り歩く。ふさふさの白ひげと赤服がトレードマークの陽気なおじいさんだ。
この世界でその存在を信じるものは世間知らずな幼子だけであり、大人にとってサンタクロースなどというものは、期間限定のマスコットキャラに過ぎない。
しかし、これから話す世界は違う。
神々への信仰心が厚く、科学は魔法と呼ばれ、そしてなにより、確かにサンタクロースが存在して、良い子にプレセントを与える。
そんな世界に暮らしていた、二人の罪人のお話だ。
■◇■◇■◇■
その小さな北国は、クリスマスが近づくと活気に満ち溢れた。
商人達はレンガ造りのアーケードの下に露天を設けて、異国の商品を売りさばく。
玩具や衣服、香水、かんざし、珍味に香辛料と多種多様。
通行の際、少々邪魔っけであるが、街行く人々は嫌な顔一つせず、楽しげにそれらの商品を眺めていく。
どこからともなく大道芸人の歌声や、観客の笑い声が木霊し、中央の車道ではひづめの音高らかに馬車が掛けていった。
街中が妖精の粉をまとったように浮かれ、輝く。
そんな明るい街中に肩をすぼめて歩く小柄な少年の姿があった。
名をディックという。
赤茶色のボサボサの髪で、目の周りは、誰かに殴られたのか鬱血して青くなっていた。
身にまとっている服は汚れていて、所々糸が解れている。サイズも合っていないようだ。彼には大きすぎる。
「……うわっ!」
何かから逃げるように背中を丸めて早足で進んでいたディックだが、ふいに脳天に衝撃を食って立ち止まった。
慌てて振り向けば、彼の近所に住む悪ガキが3人、雪玉をこさえてニヤニヤと笑っていた。
彼らとディックは同い年で、同じ教会に通っているが、彼らは執拗にディックに絡んでは嫌がらせをする。
人並み以上の生活を送る彼らにとって、ディックは体のいい玩具に過ぎないのだ。
「ディック、今日も小金を稼いできたのか?」
「クリスマスが近いぜ! 靴下は用意できそうか?」
「お前ら知らないのか? こいつの家にサンタは来ないんだぜ! 親父が犯罪者だ!」
『ディックの家にサンタが来たぜ!
靴下ボロボロ穴だらけ!
おまけに親父は犯罪者!
サンタは唾吐き、帰っていくぞ!』
即興の歌と共に、次々と飛んでくる雪玉。
ディックは何も言わずに駆け出した。
雪玉と嘲笑が追い風に乗ってディックにぶつかり、砕けた。
――いらないよ。わかってる。僕にはその資格が無いことくらい。
角を曲がって狭い路地裏を駆け抜ける。
走っているうちに鼻の奥が切なく疼いた。
街の明るさが、頭に浮かぶ聖夜の美しさが、痛い。
この国でサンタクロースと呼ばれる者は何十人もいる。
普段は森の奥の工房に住んでいて、聖夜に光り輝くそりに乗って、この街へ飛んでくる。
彼らのことは詳しく分かってはいない。
何故玩具を配り歩くのか。
その資金はどこから来るのか。
何故彼らのそりは宙を舞うのか。
政府とも関係のない、完全に独立した不思議な団体。
町の人間からは神の使者なのではないかと噂されている。
そんな彼らはそりに乗って、クリスマスの夜空を駆け回る。
子ども達は家の前でクリスマスプレゼント用の大きな靴下を片方広げて、賛美歌を歌うのだ。
するとサンタがそりからプレゼントを落とす。それらは暖かな光の線を描いて、子ども達の靴下の中に吸い込まれていった。
成績の良い子や日頃の行いがよろしい子には、より大きく上質なプレゼントが届く。
あの三人組のような聞かん坊へのプレゼントは、優等生のそれよりは見劣りする。
プレゼントに優劣はあれど、子ども達は皆嬉しそうにはしゃぐ。
サンタクロースは彼らのヒーロー、正義の象徴。それはディックにとっても変わらない。
彼の父親は前科者だ。その子どものディックに、良い子の証を受け取る資格など無いのだろう。プレゼントが彼のもとへ来たことはない。
それでも、いや、だからこそ、ディックはサンタクロースに憧れた。
クリスマス間近の浮ついた街は嫌いでも、聖夜の美しさを厭う事は出来ない。
空を飛び交うサンタをを見上げて、どんなに貧しくても真人間でい続けることを誓った。彼らに届く事はなくとも。
それなのに。
それなのに。
昨晩、勤めていた工場から暇をだされた。隠していた父親の悪事がばれたのが原因だった。
彼の父は罵倒し、彼をしたたか殴りつけた後、嘲るように笑って言い放った。
「盗んででも、殺してでもいいから金を稼いでこい!
森の工房あたりなんてどうだ? 赤服じいさんの巣窟だよ。
玩具を配り歩くくらいだ、大金を溜め込んでるんだろうさ!
とにかく金を持ってこい!」
それまでは家に入れるものかと宣告され、家を追い出された。
何てことだろう、とうとう自分まで犯罪者にならなければいけないのだろうか。そこまでして稼いだお金だって、どうせ父がありったけ使い切ってしまうのに。
それでも、なんとかしなければ。家に入れてもらえなければ凍え死んでしまう。
父には、逆らえない。逃げられないのだ。
ディックは突如、誰かにぶつかり、思いっきり後ろにひっくり返ってしりもちをついた。
前を見ずに全力疾走していたのが原因であるのは間違いない。
「ごめんなさい……」
「いえ、こちらこそ、申し訳ございません。
……おや、ディックでは御座いませんか」
顔をあげる。ディックの通う教会の神父――ユアンだ。
こちらに手を差し出し、驚いたようにその青い瞳を瞬かせていた。
「あ、神父様! 本当にすみません!」
慌てて立ち上がり、再度謝る。
「いえ、私も不注意でしたから」とユアン神父は鷹揚に笑った。
「顔の怪我は、どうしたのですか? 痛いでしょう? 消毒はしましたか?」
「あ、えっと、これは昨日転んで……。消毒もしましたし、痛みもないから大丈夫です」
ディックは胸の奥が少しだけ暖かくなったのを感じた。顔の怪我を心配してくれたのはユアンが初めてだ。
ディックはユアン神父に憧れ、慕っていた。
ユアンはディックが犯罪者の子どもだからといって差別はしない。それどころか、他の子ども以上に気に掛けてくれる。虐めっ子から助けてもらった事も一度や二度ではない。
聡明で明るく、穏やかな笑みを絶やさない。彼はこの街の人気者で、特に女性に囲まれている事が多かった。この容姿なら無理もないだろう。華奢で痩せているが、背は高く、黒い法衣が誰よりも様になる。切れ長の青い瞳に、すっと通った鼻筋、形の良い唇。うなじの上で一つにくくった長髪は、風にさざめくライ麦のように艶やかだ。
自分もこれくらい素晴らしい容姿だったら、皆から父親の事も大目に見てもらえたかもしれない。ディックはよくそんな事を考えたものだ。
ふとユアンは、その整った顔を曇らせて首をかしげた。
「ずいぶん急いでいましたね。何かあったのですか?」
「あ……いえ。本当に大丈夫なんです。僕、しょっちゅう走り回って転んでるし……」
彼は軽蔑するだろうか? 父親に言われてきた事を話したら。
「そうですか。元気なのは結構ですが、怪我をしないよう気をつけてくださいね」
ユアンはようやく安心したような笑みを浮かべると、道路においてあった旅行鞄を持った。
「旅行ですか?」
「はい、外国で研修をすることになりましたので。しばらくは帰ってこれそうにありませんね」
確かに、結構な大きさの鞄がパンパンに膨れている。よほど長期の研修なのだろう。
ディックにとってユアンは頼れる唯一の大人なのに、その彼もいなくなってしまう。
「それでは、お元気で」
ユアンは背を向けて歩き出す。
何か言わなければ。
何を言えばいい?
引き止められるわけもない。
研修を命じられたのなら、ユアンだってそれに従わなければならない。教会の命令は絶対だ。ディックに「行かないで」なんて言われたって迷惑だ。
引き止められる訳がない。
でも、本当に、ユアンだけなのだ。自分を普通の人と変わらず接してくれるのは。
こんな自分に手を差し伸べてくれるのは、彼だけだ。
葛藤の末、ディックは叫んだ。
「盗んででも殺してでもお金を持って来いって!」
「え?」
ユアンは驚いたように振り返る。
「……助けてください!」
一回話し始めたら、その後は次から次へと言葉があふれ出す。
ディックは泣きじゃくりながら、全てを吐き出していく。
工場を首になったこと。
父から言われた言葉。
『盗んででも、殺してでもいいから金を稼いでこい!
森の工房あたりなんてどうだ?』
ユアンは驚いたように目を丸くしていた。
ディックは思いのたけを全て吐き出すと、そっと俯いた。
ユアンの顔は見れない。呆れた顔をされるかもしれない。嫌悪に満ちた眼差しでこちらを見ているかもしれない。
高い建物に挟まれた薄暗い路地裏に、彼のしゃくりあげる声だけが響く。
不意に短く連続して、空気のもれるような音がした。
泣き声のようにも聞こえる。
ディックは恐る恐る顔をあげて、絶句した。
――ユアン神父は、笑っていらっしゃった。
口を手のひらで押さえ、さも堪えきれないといった様子で肩を震わせている。
ディックはだらだらと流れていた涙が引っ込んでいくように感じた。
おかしい。自分は今、深刻な話をしていたのではなかったか。いつのまにか、自分でも知らないうちにジョークでも飛ばしていたのだろうか?
ユアンは笑ったまま、視線をこちらに向けた。
「貴方のお父様は、非常に愉快な事を仰いましたね」
「えっ、はぁ。……え?」
今の会話のどこに愉快な要素があっただろうか。
「サンタクロース、ねぇ。この私でも考え付きませんでしたよ」
「し……しん、」
「いいでしょう。ディック」
ユアンは目を細め、ディックに微笑みかけた。
しかし、その笑顔はこれまでのような優しく慈愛に満ちたものではなく、悪人が何かを企んでいるような、作り物めいた軽薄な笑みだ。
「ついてきなさい」
ユアンは再び背を向け歩き出す。
「え……? あの、どこに……?」
「サンタクロースの工房へ」
「な……。何しに?」
大体、彼は研修に行くのではなかっただろうか?
「やれやれ、自分が言ったことも覚えていないとは。その赤毛頭の中身は空っぽなのですか?」
あぁ、そうかもしれないとディックは考えた。
現状に頭が追いついていない。何がどうなってこうなっているのか、さっぱりだ。
「まぁ、あんな工房、引っ掻き回したところでたいしたものは無いでしょうけどね。
……しかし、考えて御覧なさい。赤服メタボリックがこそ泥に入られたなんて、素敵なおとぎ話じゃあ御座いませんか」
なにがなんだか分からない。
ディックは呆然としながら、とりあえず足だけ動かしユアンについていく。
あぁ、神父様は悪魔に取り付かれてしまったのだ。
混乱した頭でそんな事を考えた。
■◇■◇■◇■
とりあえず、街を歩くユアンはいつも通りだった。
行き交う人々の挨拶にもにこやかに対応するし、もちろん先ほどのような暴言も吐かない。
しかし、先ほどのユアンの豹変振りが恐ろしく、話しかけるのは躊躇われる。
ディックは黙ってユアンの二、三歩後ろを歩いた。
目指している工房のある森は街外れにある。
モミなどの針葉樹林が生い茂り、冬でも緑に色づいている大きな森。工房はその森に入ってすぐの所にある。
街の人間は、どこかあそこを聖域として見ている節があり、決して近づいたりはしないが、街からそう遠く離れているわけではない。
それでも今から普通に歩いて行けば、夜になってしまうだろう。
――泥棒をするのだから、到着が夜になるのは正しいのかもしれないけれど。
ディックの見立て通り、到着は夜になった。
太陽が沈むと、寒さは厳しさを増す。空気は肌を切り裂きそうなほど、冷たく鋭く、手足の先はかじかんだ。
今、ディックとユアンは並んで木の陰から工房を窺っている。
サンタクロースの工房は、テーマパークのように明るい雰囲気をまとっていた。
ショートケーキのように真っ白な外壁は均等にならんだランタンに照らされてオレンジ色に染まっている。
ガシャンガシャンと機械が楽しげに音をたて、何かの合図なのか規則的に鈴の音が聞こえてきた。
防犯に気を使っている様子はなく、赤い大きな扉は開きっぱなしだ。
オーバーロールに三角帽子をかぶった男達が葉巻を吸いながら扉の周りでたむろしている。
「あの」
ディックはユアンに声を掛けた。
「はい?」
「そろそろ、何でここに来たのか本当のことを教えてくださいませんか?」
本当に盗みを働く訳が無いだろう。もしかしたら、教会とサンタクロースには繋がりがあって、神父様は僕に仕事を紹介してくれるのかもしれない。神父様が辛辣だったのは……気のせいだ。
ここまで歩いてくる間、ディックは今までの出来事に無理やりポジティブな解釈を加えていた。
そんなディックに対し、ユアンはさも落胆したかのようにわざとらしい溜息をつき、頭を抱えてみせた。
「貴方はここまで来て、何を言ってらっしゃるのですか? やはり、その頭は空洞……いや、糞でもつまってらっしゃるようですね」
悪魔になった。ディックは怯えて首をすくめた。
「あの、でも、神父様……」
「あぁ、『神父様』なんて呼ばなくて結構ですよ。もう神父じゃありませんので」
「へっ!? それってどういう……?」
「部屋に『探さないで下さい』と書置きして出てきました」
「えぇ! いや、あの、研修って……」
「嘘ですよ」
「嘘!?」
「教会から逃げてきた人間が、暢気に貧乏人の小僧の相手をしているわけにはいきませんから」
遠慮ないユアンの物言いが怖いやら傷つくやらで涙目になってきたディックだが、ありったけの気力を振り絞って話を続ける。
「えっと、じゃあ、何で僕なんかに付き合ってこんな事をしているんですか!?」
「いろいろ理由はありますが、『貴方が可哀想だったから』という事にしておいてあげましょう」
「ど……どうも……。じゃなくて! だって、犯罪じゃないですか! 警察に捕まってしまいますよ!」
叫んだディックの口を慌てて塞いだユアンは、再度溜息をついた。彼の口から吐き出された白い息は、亡霊のごとく揺らいで消える。
どうやら、この嫌味ったらしい溜息は彼の癖だったらしい。
「とことん馬鹿野郎ですね、あなたも。警察に見つからないように上手くやるのです」
「う……上手くって、そんなの神様だってお許しになりませんよ! そうでしょう!?」
「世の中には必要悪という物が御座います。神様だって、大昔に大洪水を引き起こして、人間を虐殺したじゃあ御座いませんか。それに比べたら、泥棒なんて可愛いものです」
「そうですが……」
困ったように目を伏せたディックに、ユアンはイラついたように眉をしかめた。
「大体、貴方だって金が無ければ困るのでしょう?
まぁ、私は貴方がどこで雪だるまになっていようが知ったこっちゃありませんが」
「それは困りますけど……でも……」
ディックは工房に目をやる。
「だって、相手はサンタクロースですよ……!」
ユアンは驚いたように目を瞬いた。
「ディック、貴方はサンタからプレゼントを貰った事がないと言っていませんでしたか?」
「は、はい」
「それなら、何も問題は無いじゃないですか」
「無い訳ないじゃないですか! プレゼントの問題じゃないんです! 彼らは僕らにとって、正義の証だったはずだ!」
皆に夢と希望を与える、サンタクロース。
彼らの事を、簡単に汚していいはずが無いのだ。
「あぁ」と呟き、ユアンは目を細めて笑った。
嘲るようでありながらも、どこか憐憫を含んだ不思議な笑みだ。
アクアマリンの瞳が、遠くのランタンの光を反射して怪しく光った。
「貴方はそこから間違っています」
「えっと、どこから?」
「サンタクロースは決して、正義のヒーローでも、平和の使者でも御座いません」
「え、でも……」
大人も教会も、ずっとサンタクロースは正しいとディックたち子どもに教えてきたのに。
事実、サンタクロースはいい子の味方のはずだ。彼らが正義じゃないなんて事、あるわけない。
「一つ質問をします。いい子の定義とはなんですか?」
ディックは教会の子どもたちの顔を思い浮かべた。
「えっと、頭が良かったり、優しい子とか……?」
「はずれ。正解は『大人の手を煩わせない子ども』です」
「大人の言う事聞く子って事ですか?」
「そう。仮に大人よりも優れていて、仁徳の溢れている子どもがいたとして、自分よりも愚かな大人に指図をしたら、その子どもは糞ガキの烙印を押されます」
「じゃあ、プレゼントは……」
「貰えない。所詮、サンタクロースに気に入られなきゃプレゼントは貰えない。貰えない子どもはその一年、迫害をうけます。そうだったでしょう? 彼らがやっている事は、ただの差別ですよ。彼らの目的は知りませんがね。サンタはただのエゴイズムの塊です」
淡々と語るユアンの横顔を、ディックはぽかんと見つめた。
そんな事、考えた事も無かった。自分の中の大きな常識が一気に覆された。
確かに、プレゼントを貰えなかった子どもはその一年、蔑まれてきた。
『悪い子』を見下し、奴隷のように扱う『いい子』たち。
「プレゼントを貰えませんよ」とシスターに叱られた仲間たちの恐怖に氷ついた表情。
そこに正義はあったか? 夢は? 希望は?
「私も、プレゼントを貰えない子どもでした」
ディックは弾かれたようにユアンを見た。
ユアンは白い息を吐き出し、どこか得意げに笑った。
「私が子どもの時に住んでいた国のクリスマスは、一月七日に行われて、サンタクロースの事はジェット・マロースと呼ばれていました。
この国とは少し違いますが、やっている事は一緒です。私は移民の子でしたから、あの国では差別されていて、当然ジェット・マロースがプレゼントを持ってくる事もありませんでした。貴方のように街の人間から蔑まれながら、マッチ売りをして働いていましたよ。糞親父に殴られたりもしましたね」
あぁ、だから、自分をかばってくれていたのか。
ディックは久しぶりにユアンを尊敬の眼差しで見つめた。
「あの、失礼ですが、お父様は……?」
仲直りしたのだろうか? 気になって尋ねてみた。
「あぁ。家を出る際、火をつけてきました。よく燃えていましたよ」
「……え」
ブラックジョークだろうか?
聞きなおそうと思ったが、ユアンが顔を引き締め、唇に人差し指を当て、静かにするようジェスチャーしたので黙った。
――雪を踏みしめる音が聞こえる。
ディックとユアンの背後、森の奥から。
二人はそっと身をかがめた。
いっその事、工場に入ってしまえればいいのだが、扉の周りの男達は未だ談笑中だ。
「仕事をしなさい、奴隷ども」とユアンが隣で小さく悪態をつく。
足跡は遠のかない。むしろ近づいてくる気がする。
かといって、不用意に動けば、自分達の場所を知らせてしまう。
ディックは、ふいに誰かに強く服を引っ張られてバランスを崩した。
見つかった!
背筋が凍り、一瞬呼吸が止まった気がする。
慌てて振り向くと、冷たくぬるぬるした物が顔を撫ぜた。
体が凍り付いていなかったら、盛大に悲鳴をあげていただろう。
隣でユアンが「動物でしたか」と脱力した。
その通り。
ディックの顔を嘗め回しているのは、若いトナカイだった。体は大人のそれに比べて一回り小さく、角も小さい。
つぶらな瞳でディックに近づき、無邪気にすりよってくる。
「しっ、駄目だよ! 向こう行ってて!」
ディックは追い返そうとトナカイの体を叩いたが、どういうわけか懐かれてしまったらしく、一向に離れる気配が無い。
そうこうしているうちに、ユアンが立ち上がった。
どうやら扉の前にいた男達が、工房の中に入っていったらしい。
ユアンは颯爽と門の方へ歩いていく。
ディックは暫く迷った末、慌てて後を追った。
別に盗みをはたらく決意を固めた訳ではなかったが、こんな所に置いていかれるのも困る。
扉の前で工房内を見渡したディックは、思わず息を呑んだ。
玩具箱の中みたい。
大勢で運動できそうなくらい広い部屋。
その部屋の壁に備え付けの棚や、作業台、床は玩具で埋め尽くされている。
工房の中の壁も白いが、積み上げられた玩具の所為でカラフルに見えた。
中は騒々しいが、祭りの最中のように楽しげだ。
玩具の点検をする部屋らしく、大人がいろんな玩具を動かしては、羊皮紙にメモを取っていた。
大小さまざまな大きさのボールが跳ね回り、ラジコンの飛行機が宙を旋回する。
思わず見とれて突っ立ったままのディックの頭をユアンが小突いた。
ディックは慌ててユアンの後ろを歩く。
ユアンは特に身を隠す素振りも見せず、堂々と歩いていった。ディックは怖さと好奇心からあちこち見回し、挙動不審だ。
「あの、隠れなくていいんですか?」
「こういう所に潜入する場合は堂々としていた方が怪しまれないのです」
どこか手馴れているような発言である。
ユアンの言うとおり、周りの人間は特に気にしている様子は無かった。
ユアンは時たま、目が合ってしまった人間にだけにこやかに挨拶をしたが、相手は特に不審に思う様子も無く、笑顔で挨拶を返す。
勝手に何か勘違いをし、侵入者をお客だと思っているらしい。
法衣を着た神父らしき男と子ども。疑えというのも無理な話だ。
こうして彼らは部屋を抜け、廊下へでた。
細かな彫刻の施された柱が並び、何処かの宮殿のようだ。
その廊下を通って、いろんな部屋をみた。
玩具を作る工房、玩具を梱包する部屋。
お風呂やランドリー、団欒室や、厨房も見つけた。
その部屋の一つ一つが壮大だったり、豪奢だったり、ディックはすっかり目的を忘れて楽しんでいた。
言い出しっぺのユアンも関心を抱いているようで、今回の目的に全く関係のない部屋を覗いたりしている。
ふと背中に何かが当たったような気がして、ディックは振り返った。
「着いてきちゃったの!?」
あのトナカイだった。楽しげにその場で飛び跳ねている。
ずっと後ろにいたらしい。舞い上がっていて全然気が付かなかったし、誰もそのことに触れなかった。
「鬱陶しいですね。森に返すか、この場で殺してしまいなさい」
「いえ、殺したくはないです! ……でも、着いてきちゃうんです」
困ったようにユアンを見上げると、彼はやれやれと言いたげに溜息をついた。例のわざとらしい奴だ。
「まぁ、今まで何も言われなかったのならいいでしょう」
そのトナカイは嬉しそうにディックの頬に鼻を押し付ける。無邪気な姿は愛おしいが、よだれが顔についてしまい、少々迷惑だった。
ユアンはそんなトナカイの背中に例の旅行鞄を置き、ベルトでくくりつける。
「どこかに置いておけば良かったのに」
トナカイは嫌がるように首を振ったのをみて、ディックは呟く。
ユアンは、「この鞄は、貴方の命よりも価値があるものですよ」と一蹴した。
二人と一匹で、工房の奥へと進んでいく。
ここまで、サンタの姿は見かけなった。
ディックも、今この状況で会いたいとは思わないが。
進むうちに、曲がり角がなくなり、廊下の突き当りの黒く重厚な鉄の扉の前まで来た。
その扉だけ周りの部屋のものと雰囲気が違う。
酷く物々しく、人の侵入を拒んでいるようだ。
ディックは怯えたように一歩下がり、トナカイは彼にそっと寄り添った。
ユアンは不敵に微笑んで、扉に手をかけ、何の躊躇もなく扉を引いた。
重い扉がゆっくりと開いていく。
眩い光にディックは目を覆う。
「なるほど、これが彼らの財源ですか」
隣でユアンが感慨深げに呟いた。
そこは、金貨の泉だった。文字通り、泉である。
部屋の中央に、金色に輝く等身大の神像があり、その像の差し出した手のひらから、金貨が生まれ、零れ落ちていく。
キーン、キーンと硬質の音を立て、神像の足元に金貨の山を形成していた。
ディックは圧倒され、ひたすらそれを眺めていた。
暫くすると、歯車の音が響き金貨の山は床に吸い込まれるように無くなり、床の上に人の拳ほどの穴が見えた。
どうやら、金貨はこの穴の中に取り込まれていったらしい。
また歯車の回る音が響き、床の穴に蓋がされ、その上に金貨がたまっていく。
「良かったですね」
「わっ!」
ユアンに話しかけられ、ディックは飛び上がるように驚いた。
「金貨がとり放題ですよ。これで暫く食いつなぐ事が出来るじゃないですか」
ユアンは楽しそうに金貨の部屋に足を踏み入れる。
「し……神父様!」
「だから神父じゃありませんって。このすっとこどっこい」
ユアンは楽しそうに毒づくと、金貨を一枚拾って眺め、「本物ですね……」と独りごちた。
「本当に、盗んじゃうんですか!?」
「貴方、ここまで来てそれを言いますか」
「だって……」
「いいじゃないですか。少し盗ってもアホみたいに噴出すみたいですし」
それでも、やはり駄目だ。
サンタは正義じゃないとユアンは言ったが、それが彼らからお金を盗んでいい理由にはならない。
いくら貧乏でお金に困っていても、その罪は正当化されない。
ユアンの口から再度溜息が漏れる。
「貴方のような子どもは、綺麗事を言っていて生きていけません。どぶ鼠はどぶの中で小賢しく生きていくしかないのです」
金色の光の中、ユアンはじろりとこちらを見た。
ふと彼の表情が変わる。
目を見開き、「あっ」と小さく呟いた。
今日はじめてみた、ユアンの動揺。
ディックは弾かれたように後ろを見た。
白亜の宮殿のような廊下の向こう、じっとこちらを睨みつける赤。
「……サンタクロース」
そう、紛れも無く、彼はサンタクロースだった。
白いひげに覆われた顔。恰幅の良い体系で、赤い服を着ている。
彼はじっとこちらを凝視している。
責めるような、否、裁くような鋭い視線。
ディックはただ呆然と彼を見つめ返し、ユアンは挑むようにサンタを睨みつけた。
さぁ、どうする。
サンタクロースが何かを呟いた。
ここからでは何を言っているのか聞こえない。
サンタクロースはゆっくりとディックたちに人差し指を向けた。
「悪い子だ」
今度は聞こえた。しゃがれているが、深みのある声で、サンタは叫ぶ。誰かを呼んでいると言うよりは、ディックたちに宣告するかのような声音だった。
「悪い子だ」
「走りなさい!」
ユアンがディックの横を走り抜けながら、叱咤するように声をかけた。
ディックも慌てて駆け出す。
トナカイが颯爽とディックとユアンを追い越し、サンタクロースに体当たりをくらわした。
彼は声を上げてひっくり返る。
その隣をディックとユアンは走りぬける。
「悪い子だ! 悪い子だ!」
サンタの悲鳴が木霊する。
どうしよう、どうしよう! ディックは泣き出しそうになりながらひたすら走る。
途中、廊下の角から赤服の集団が追いかけてくるのが目についた。
皆一様に憑かれたように「悪い子だ」と叫びながら追いかけてくる。
その呪うような声が、追いかける足音が増えていくのが逃げるのに必死なディック頭でも理解できた。
逃げ切れる訳がない! 捕まったらどうなるんだろう!?
「悪い子だ」と迫り来る彼らは、こちらの話など聞いてくれないだろう。
進行方向にまた赤い塊が見える。
角を曲がろうと右を向いたその先にも。
あぁ、もう駄目だ!
思わず目をつぶってしまったディックだが、ユアンに思いっきり腕を引っ張られた。
ユアンは手近にある扉を開け、その中に飛び込む。
もちろん、トナカイもそれに続く。
扉を閉め、鍵を掛けて、はぁと息を吐く。
飛び込んだ場所は、そりの並べられた倉庫だった。
広い部屋にトナカイの繋がったそりが所狭しと並んでいる。
扉の向こうではサンタが誰かに鍵を持ってくるように支持を飛ばしている。
うかうかしている暇は無い。
「そりで逃げられれば良いんですけどね」
ユアンが忌々しげに呟く。
そりに繋がれたトナカイたちは、明らかにユアンたちを敵視していた。
ぶるぶると鼻を鳴らしたり、蹄で地面を掻いたりと威嚇してくる。
そりが固定されていなかったら襲ってきただろう。
とてもユアンたちを乗せて走ってくれるとは思えない。
ディックは考え込んでしまったユアンの横顔を縋るように見つめていたが、堪えきれずに涙をこぼした。
こんなに怖い思いをするなら、ついてくるんじゃなかった。
扉の向こうからはディックたちをなじる声や足を踏み鳴らす音が響く。ここの工房の者たちはサンタも含め、酷く殺気立っている。
思わず耳を塞いで俯いたディックの背中を突いたのは、トナカイだ。
反応しないディックを急かすように、何度も鼻を押し付ける。
「何か、知っているのですか?」
ユアンはトナカイの様子を見て、思わず呟いた。
他の動物ならいざ知らず、彼はトナカイだ。
野生でも、サンタについて何か知っていたり、感じる事があるのではないか。
ユアンの言葉にディックが顔をあげる。
トナカイはディックとユアンの顔を交互に見て、走り出した。
ユアンがそれに続き、ディックも慌てて後を追う。
他のトナカイの唸るような声の中を進んでいく。
ディックは倉庫の奥に静かなトナカイたちがいることに気が付いた。
紺色に白い星の散りばめられた模様のそりに繋がれたトナカイたちだ。
若いトナカイは、そのグループに近づくと彼らに甘えるように擦り寄っていく。
「知り合い?」
呟いたディックに、一際大きな一匹が優しい眼差しを向けた。
家族なのかもしれない。
ユアンは目を細めてほくそ笑んだ。
「こんな所で役に立ってくれるとはね。ディック、早く乗りなさい」
「あ、はい!」
若いトナカイと共にそりの前に乗り込む。
ディックはそのトナカイの背中からユアンの鞄を降ろしてやり、「ありがと」と微笑んだ。
ユアンが手際よくそりを固定していた金具を外していく。
ディックもユアンもすっかり油断しきって、扉に注意を向けていなかった。
扉が跳ね返る音と蝶番のきしむ音が響く。
ディックが顔を向けると、サンタクロースが倉庫の中になだれ込んで来るのが見えた。
「ユアンさん! 早く!」
「分かっています!」
いたぞ! あそこだ! 逃がすな!
怒号が飛び交う。
そりの金具が外れたらしい。ユアンがディックの隣に入り込もうとする。
しかし、すんでのところで、サンタクロースが彼の足をガシッと掴んだ。
「悪い子だ」
サンタクロースがじろりとユアンを見上げた。
ユアンは舌打をし、潔くそりから降りようと手を離そうとした。
それを見て、ディックが動く。
何故臆病な自分にそんなことが出来たのか分からない。多分一生の謎だ。
ディックはユアンの鞄を持ったままだった。立ち上がり、身を乗り出すようにして思いっきりそれを振り回す。
かなりの重量を持つ鞄はボスッと鈍い音を立ててサンタの横っ面に食い込んだ。
サンタは雄たけびを上げて床に転がる。
「うわっ! やっちゃった……」
ディックにも自分のやった事が信じられなかった。
「よくも人の鞄で汚物を叩きましたね」
ユアンがディックの隣に乗り込む。
なじるような言葉とは裏腹に、声の調子は酷く楽しそうだ。
そりを引くトナカイたちが走り出す。
赤服の群れに突っ込むように駆け抜ける。雪の上ではないため、そりは激しく揺れた。ディックは歯を食いしばって必死にそりにしがみつく。
怒号が悲鳴に代わって、サンタクロースたちはてんやわんやで道をあけた。
倉庫を過ぎて廊下に出てもその様子は変わらない。
裏切り者のトナカイたちに、サンタは何も出来ないようだ。後ろを振り返れば、彼らは通路の隅に頭を抱えて転がっている。ディックは思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
トナカイは、廊下のステンドグラスを蹴破って外に飛び出す。
硝子の破片が弾け飛び、そりがガタンと大きく揺れた。
体が大きく後ろに傾き、思わず目を閉じる。
乗り物酔いしたように平衡感覚がなくなって、頭がふらふらした。
そりが揺れなくなった後もディックはじっと目を塞いでいた。
風が体を舐めるように吹き抜けるけれど、不思議と寒さは感じない。
ユアンがディックの背中をとんとんとつつく。
ディックは恐る恐る目を開ける。
自分の眼下に広がる光景に、はっと息を呑んだ。
小さな眩い光の粒が粉をまぶしたように輝いていた。まさに妖精の粉のよう。
淡いオレンジ色の光の群れは真夏の銀河よりも鮮明に、暖かく光り輝いていた。
それが街の夜景だと気づいて、ディックはそりが空を駆けていることにも気が付いた。
すごい! サンタクロースみたい。
彼らは聖夜に、こんなにも美しい景色を見ていたのか。
トナカイは大人しくディックの隣で小さく足をたたんで座っていた。
ユアンはニヤリと悪者っぽく口元を歪め、ふんぞり返って夜景を眺めている。「ざまぁないですね」と呟いたのはサンタに対してだろうか。
「何も解決してないけど、でも、何か嬉しいです」
ディックは小さく呟いた。
ユアンには聞こえていなくても構わなかったが、しっかりと届いたようだ。
彼は呆れたようにこちらを見た。
「良かったって、あの金貨を一枚も持ち帰れなかったじゃ御座いませんか。アホですか。勿体無い」
「いいんです。もともと盗むつもりなんてなかったし。ユアンさんこそ、何もしなかったじゃないですか」
「私はいいのですよ。初めからそりが欲しかっただけなので」
「そり?」
ユアンは大きく頷いた。
「こそ泥がサンタクロースのそりで夜空を駆け抜けるなんて、素敵なおとぎ話じゃあ御座いませんか。旅費の節約にもなりますし……。ディック、私の鞄を開けて中身を見て御覧なさい」
「開けていいんですか?」
「結構です。もうすでにその鞄は貴方の汚い手で触られているのですから」
何か一つ憎まれ口を添えなければ気がすまないらしい。
ディックはユアンの鞄をそっと開けた。
暗くて中身がよく見えない。
顔を近づけて凝視して、それが何か頭で理解した後も、ディックは気が抜けたようにそれを眺めていた。
開いた口が塞がらない。
中身は紙幣の束だった。紙幣の束が、鞄の中にぎゅうぎゅうと押し込まれている。
「こ……これ……なんで」
「教会のお布施で御座います」
ユアンは取って付けたように慎ましく微笑んだ。
「と……盗ってきちゃったんですか?」
「盗ってきちゃったので御座います。郵便で隠れ家に送った物も含めれば、これの倍以上になります」
だから教会から逃げてきたのか。いや、そもそも彼が神父になったのはお布施を狙っての事なのだろうか?
ユアンはいつからユアンだったのだろう?
そんな事を考えると、頭が痛くなった。
「それで、ディック、貴方はこれからどうするのですか?」
「え?」
「このまま家に送ってあげてもよろしいのですが、本当にそれで良いのですか?」
ディックはユアンの発言の真意が分からず、首をかしげた。
「あの、それってどうゆう……?」
ユアンは偉そうに腕を組み足を組み、ニヤリと笑った。
「私は今、とてつもなく機嫌が良いので貧乏人の一人や二人、手下にしてやるのも悪くないと思っているのですよ」
ディックは目を丸くした。え、あ、え……と口から意味の無い音が漏れる。
「嘘……」
「本当です。今のところ。手下ですから、当然、今日みのようにちょっとした悪事のお手伝いをして頂きますが」
ユアンの後半の言葉を聞き、ディックは言葉を詰まらせる。
このままユアンについていくのは魅力的な選択肢ではあるが、どうしても犯罪には手を染めたくない。
迷ったように視線を泳がせたディックを見て、ユアンは姿勢を正した。
「ディック」
「は、はい!」
ユアンの声は、神父が説教をするような深く厳かな響きをしていて、ディックも思わず姿勢を正した。
「ディック、教会で『神の前に全ての人間は平等である』と教わりましたね?」
「はい……」
ユアンは胸に手を当て、神父だった頃のように優しく真摯な笑みを零した。
「それが神の神たる所以です。神様は人を差別する事は御座いません。褒美を与える事もなければ、裁く事も御座いません。善人も悪人も優しく見守ってくださるのです」
「見守る……?」
「そう。人を裁いたり、区別したがるのはいつだって人間です。神は人間に救いの手を差し伸べない代わりに、罰を与える事もこともない。全ての人間を平等に愛して下さり、故に見守ってくださる」
「それじゃあ……」
ディックは言いかけて、口を噤んだ。これは言っていい事なのだろうか?
ユアンが先を促したので、恐る恐る呟いた。
「いないのと、同じじゃ……」
「ご名答」
ディックの笑いが聖人の笑みから犯罪者のものへと切り替わった。
足をそりの縁に乗せ、偉そうにふんぞり返る。
「神のご加護なんて期待しても無駄なのですよ。私が見てきた限り、貴方は運の良いガキじゃあありませんしね。
貴方の行く末など、何もせずにどこかで野たれ死にするか、犯罪者になってしぶとく生き続けるかの二択しかないでしょう」
「それは……」
ユアンはずいっとこちらに顔を近づけた。
「賢くなりなさい。ディック。
このまま家に帰ってうすのろ親父の奴隷として生きていくのですか?」
ディックは暫く答えに窮して俯いたが、決意したように顔をあげた。
「貴方は僕の事、殴ったりしますか?」
ユアンは虚を衝かれたように、目を丸くした後、子どものように無邪気にけたたましく声を上げて笑った。
「僕にとっては重要な事なんですよ」
ディックは拗ねたように目の周りの痣をなぞりながら呟き、その姿にユアンの笑いは大きくなる。
ディックの隣のトナカイがきょとんとした表情でユアンを見ていた。
「殴りませんよ、私の手が痛んだら困りますから」
まだ少し引きつったように笑いながらユアンが答えた。
ディックはこくんと頷く。
「分かりました。……連れていって下さい」
「仰せのままに」
「ついでに、意地悪言うのも止めて頂けたら、もっと嬉しいです」
「意地悪? 私は貴方に意地悪を言った事は御座いませんよ。真実を告げた事なら多々ありますが」
「えぇ!」
不満そうな顔をしたディックを見て、ユアンはまたひとしきり笑う。
ディックはむくれてそっぽを向く。街の夜景を眺める事にした。
夜景を眺めながら、ユアンのように悪人っぽく笑ってみようと思ったけど、上手に出来なかった。
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試しに今、空を見上げてみてほしい。
空飛ぶそりが見えないだろうか?
見つけた場合、サンタだと早まらないでほしい。
空飛ぶそりに乗った犯罪者かもしれないのだから。