3章 第55話L 温もり
後方から飛んできたダガーを弾いて振り返ると、悪趣味で派手な青い鎧を身に着けたシーウェルトが、下卑た笑いをこちらに向けて立っていた。
何故だ、気配を全く感じなかった。今こうして目の前にいるのに、シーウェルトの気配すら僅かしか感じられない。
「ハハッ! あんたさ、俺の部下斬っただろ? くっせえ毒でハラワタが染まった俺の部下をよお!」
「毒だと?」
しまった、確かにニセ侍従を斬り捨ててから匂いの感覚が無い。それより毒であれば、ステーシア様に危険が及んでしまう!
「ハハッ! そうビビんなよ。毒っつっても匂い嗅ぐくらいなら、感覚をちょーっと狂わせる程度しか効果ねえよ。でもお陰で俺達の存在に気付かなかっただろう? ハハッ!」
「俺達、だと? ……しまった!!」
意識を集中すると、僅かな人の気配が森のあちこちに感じられる。やられた! シーウェルトに気を取られている隙に、包囲されかけている!!
「ステーシア様! しっかりお掴まり下さい!!」
もはや森を抜けた平原方向にしか、包囲網の隙間はない。そこへ目掛けて馬を走らせる。
私一人ならともかく、ステーシア様をお守りしながらではシーウェルト達と戦えない、戦う訳にはいかない。
しかしあと少しで森を抜けるという所で、突然前方に体が宙に投げ出された。
視界に迫る地面から守るためにステーシア様を抱きかかえ、辛うじて体をよじりステーシア様と地面の間に体を滑り込ませる。
「ぐあっ!?」
右肩から地面に叩きつけられた痛みで声が漏れた。何故馬から投げ出されたのかわからないが右肩の痛みを堪えて顔を上げると、目の前には前のめりに転んで首の骨を折ったらしい馬が、ぴくぴくと体を痙攣させていた。
「ハハッ! こんな単純な罠に引っかかるなんてさ、元英雄も大したことねえな!! ハハッ!」
シーウェルトが笑いながら剣を抜き、森の出口に張られた一本の太いロープを断ち切って森から出てきた。同時に平原には、何人もの覆面をした者達が姿を現した。
「待ち伏せ、だと? そんな馬鹿な! そんな時間があるはずがない!!」
「ハハッ! あったから、ここにいるんじゃないか。あんたは馬鹿か? そういやこの先に隠れ家があるんだってなあ? 純潔を散らした乙女達が、泣いて喜びながら話してくれたぜえ?」
今、何て言った。純潔を散らした、だと? こいつは『風の乙女』の者達を――
「きっさまああああ! 殺す! 殺してやる!!」
「くはっ、い、痛い……」
ステーシア様を抱く左腕に、無意識に力が入ってしまい、苦しそうなうめき声を聞いて我に返る。しかも剣を抜こうにも、さっき地面に打ち付けた右腕の感覚が無い。
「も、申し訳ありません! ステーシア様!!」
「はあ、はあ……良いのです、レーネハイト。わたくしを置いて、お逃げなさい。あなた一人なら助かるわ。お願いだから……」
森からも何人、いや何十人もの、覆面の男達が姿を現した。
悔しいが逃げるしか無い。平原の方がまだ敵の数が少ない、そこを突破すればまだ可能性がある。
だが、一人で逃げても何の意味もない。愛する人を守ってこその騎士だ!
「うおおおおお! どけ!!」
ステーシア様を抱いたまま立ち上がり、地面を蹴って一気に加速する。
右肩の激痛をこらえ、感覚のない右腕を無理矢理動かしてステーシア様の体を支えて、覆面の一人を蹴り飛ばして駆け抜ける。
本気で走れば馬並みの速度が出る私の足ならば、余裕で逃げ切れるはず。
そう思っていた。
全方位から飛来するダガーを見て、私の考えが甘すぎた事を悟った。
足止め部隊と戦っていたはずのシーウェルトが、なぜ簡単に追い付いたのか。
それどころかシーウェルトの部下らしき覆面が、なぜ先回りして罠まで仕掛けられたのか。
相手には追い越せるだけの足があるということに、私の考えが至らなかった。
そしてステーシア様は、なぜ足の腱を切られて鍵付きの馬車に閉じ込められ、まるで道具のように扱われていたのか。
こいつらはステーシア様の護衛などではなく、生死を問わずにただ運んでいただけなのだ。
私に出来るのはステーシア様に覆いかぶさり、追い越していった覆面達の投げた十数本のダガーから、身を挺してお守りすることだけしか無かった。
「ぐうううっ!」
「だめ、レーネ! レーネ!!」
足に、肩に、背中に、そして首に、激痛と熱を感じる。よかった、ステーシア様には傷一つついていない。全て庇いきれた。
「ステーシア様……やっと、昔のように呼んでくださったのですね……」
「いやあああああ! 死んではだめよ、レーネ! レーネ!!」
大粒の涙をこぼすステーシア様には、本当に申し訳のないことをしてしまった。首に刺さったダガーは血管の太いものを切断したようだ、体が急激に冷えていく感覚がある。
「愛する人も守れず、先に逝く不義理を……お許し下さい……」
「レーネ……!」
頬にステーシア様の両手が添えられ、直後唇に柔らかく温かいものが触れた。ああ、最後に私はとても素晴らしいご褒美を頂けたのだ。
これで思い残すことはない。
ゆっくりと離れていくステーシア様の唇が名残惜しいが、まだ自分にはできる事がある。
「ありがとうございます、ステーシア様……。それと最後のお願いでございます。できれば……私の姿を、その目に……焼き付けていて下さい」
「レーネ、動いてはだめ! レーネ!!」
立ち上がることすらできないステーシア様を置いて逝くのは不本意だが、こいつらを全滅させることができれば、ステーシア様が生き残る可能性はゼロではない。
抱きつくステーシア様を振りほどいて立ち上がり空を見上げると、晴れた空に一羽の鳥が羽ばたいていた。
無い物ねだりとわかってはいるが、戦う力ではなくあの空を舞う鳥のような翼でもあれば、ステーシア様をお連れしてどこまでも行けただろうか。
気を取り直してふらつく足に力を込め、体全体に力を通す。魔力とは別の、私だけの『力』。
血液を失い冷えていた体が、急激に熱を持つ。
皮膚がざわざわと波打つ感覚が伝わる。
体に刺さるダガーが抜け落ち、盛り上がった筋肉が止血してくれているのがわかる。
右腕の感触も戻ってきた。視線を落とし右手を見ると、皮膚は緑色に染まり爪は鋭く伸び、手の甲には硬そうな鱗が見える。
「これが数多くの英雄を排出した……我がグリニール家の、力の正体です」
驚きからか目を見開いているステーシア様に、一度にっこりと微笑んで見せる。この姿ではどのように見えるかはわからないが、それでも最後に見せる顔は笑顔でありたい。
次の瞬間一番近くにいた覆面男へと間合いを詰め、軽く右腕を振るう。その一撃で男の首の骨を砕き、頭部があらぬ方向を向いた。痛めた右腕に剣を握れるほどの握力は戻らなかったが、振り回す程度なら耐えられないほどではない。
「はあああああああっ!!」
次の男に迫り、左手の爪で喉を切り裂く。そのままほんの数秒で、包囲する男達を五人、十人と葬っていく。もってあと数分だろうが、これなら覆面とシーウェルトを皆殺しに出来る。
「ハハッ! なんだ、あんたも化物じゃないか! おい! お前らも本気でやれ!!」
あんたも、とはどういうことだ。だが考えている時間の余裕はない。包囲していた男達の始末は済んだ、あとは森から出てきた連中だけだ。五十人以上いるが、やれない数ではない!
『ガシッ!』
「何!?」
次の覆面に迫ったその時、その男の腕が大きく膨れ上がり、鈍い音とともに私の攻撃を受け止めた。次の瞬間、私の体は宙を舞っていた。
殴られたのだと気付いたのは、地面に叩きつけられた後だった。
「ぐ、がはっ!」
「ハハッ! どうだい? オーガの腕で殴られた気分は! おいお前らまとめてかかれ! レーネハイトを押さえつけろ!!」
腹からこみ上げ来る熱を抑え、腕や脚が太く変貌した覆面達と戦うが、倒すことができたのはたったの五人だけだった。
それにもう、私の『力』が……無い。
「ハハッ! 何だ、もう元に戻ったのか? 竜人の締まり具合を確かめたかったのにな、残念!」
太い腕をした覆面達にうつ伏せに押さえつけられ、力が切れて変身が解けた。同時に筋肉による止血も解かれ、首から大量の血液が流れ出す感触が伝わってきた。
シーウェルトは私の髪を掴んで無理矢理に顔を上げさせ、汚い顔を近付けてきた。
「ハハッ! まだそんな反抗的な目ができるとはねえ? この目か? んん?」
シーウェルトの手が顔へと近づき、左目に触れた。抵抗しようにも、もう体が動かない。
目の奥からぶちぶちっという不快な音と同時に、焼けるような激痛が走る。
「ぐあああああああああ!!」
「ハハッ! 目玉も竜みたいになってたのに、引っこ抜いたら普通のに戻ってやがんの! 何だおい、もう抵抗しねえのか? つまんねえな……。おいお前ら、そのままレーネハイトの顔を上げてろ。ハハッ! 愛する皇女殿下が、どんなふうに汚されるのか特等席で見せてやろうじゃねえか! なあ!?」
「やめろ! 貴様、殺す! 絶対殺す!!」
私の体ならどうなってもいい! もう少し、もう少しだけでいい、私に力を!!
「やめろおおおおお!!」
体が動かない? 駄目だ、動かせ!! こんな汚い男に汚させてたまるか!!
「嫌! レーネ! レーネ!!」
「ハハッ! 何だ、自分から近付いてくるとはいい心がけじゃねえか。ついでにそのまま自分で服を脱――っ!?」
『ズドン!!』
慌てたように飛びのいたシーウェルトが立っていた場所に、腹まで響く鈍い音を響かせて巨大な斧が突き刺さった。
「は、はあ? どっから飛んで『バキッ!』ぐぼあっ!?」
次の瞬間シーウェルトが吹き飛び、代わりにその場に白い誰かが降り立った。同時に私を押さえつけていた覆面達の力が抜け、どさ、どさ、と音を立てて地面に転がった。どれも頭部を切り落とされている。
「あらあらぁ、レーネ酷い怪我ねぇ。間一髪、間に合って良かったわぁ」
背後から聞こえてきたオネエ口調が、とても懐かしい。でもまさか、そんなはずはない。こんなところに、いるはずは、ない。
「間に合ったにゃ!」
シーウェルトがいた場所に現れた白い人影が胸を張って笑顔を向けてきた。まさかあれは、ミーシャなのか。
「どーん!!」
元気な声とともに、真っ白な鎧と巨大な盾を持った小さな重戦士が、真っ白な狼に乗り盾を振り回し覆面男達を吹き飛ばしていた。まさかあの巨大な斧を投げたのは、ペトラなのか。
「ああ、ジル……来てくれたんだな……ミーシャに、ペトラも……」
本当に、間一髪だった。気を抜くと流れ出そうな涙をこらえて振り返ると、そこには知らない女性が立っていた。
「……誰だ!?」
「いやぁねえ、ジルよぉ? 今は『ジルフィール』という名前に変わってるけどねぇ」
「……は?」
白い外套を着込んだジルを名乗る女性は、確かにジルと同じ口調で声も似ていて、ジルと同じ紫色の髪をしていて……私は幻覚でも見ているのだろうか。身長も縮んで――
「説明は後よぉ? ミーシャ、ペトラ、そっちは任せたわよぉ? ワタシはレーネの傷を塞ぐわねぇ」
傷と聞いて私自身の出血を思い出し、急激に意識が遠くなる。しかしここで気を失うわけにはいかない。
「駄目、だ……あいつらは魔物の体に変異し……て?」
何がおこっている。ペトラが腕の太い覆面の拳を、盾で軽々と受け止めている。ありえない。しかも押し返して盾で殴り飛ばしただと。いや待てその前に、さっきペトラが乗っていた大きな白狼は何だ。どこに行った。
ミーシャは脚の太い覆面よりも素早く動き、次々と首を切り落としているようだ。ミーシャの動きがよく見えないのは、今私が片目しか無いからだろうか。
それにジルが傷を塞ぐって何だ、ジルは治療系の魔術を使えなかったはず。しかし現に首の傷は完全にふさがり、出血は止まっている。しかもあの細腕に持つ白い長杖で覆面達を軽々と薙ぎ払っている姿は、一体何の冗談なのか。
ペトラが乗っていた巨大な白狼を見つけたが、おかしいな私には三頭いるように見えるのだが。逃げようとした覆面を追いかけ、噛み殺したり前足で首をもいで……いや違うな。あれは白虎だ、白狼は二頭で全部あわせると三頭だな。魔物を使役しているのか?
百数えられるかどうかという短い時間で、五十人はいたはずの変異した覆面達は骸と化して地面に転がった。
やはりこれは夢か幻覚の類だな。どうやら私はもう死んでいるらしい。
「レーネ! ああレーネ、生きているわね?」
そうなるとジルと名乗る女性に抱きかかえられたステーシア様の声も、幻聴だろうか。
しかし飛びついてきたステーシア様の軽さも、唇に押し付けられた柔らかい感触も、とても夢や幻とは思えない現実感があった。
『ゴンッ』
ステーシア様、後頭部がとても痛いです。抱きついてこられるのはとても嬉しいのですが、今の私には恥ずかしながらその勢いを支えきれるほどの力が残っておりません。
しかしこの痛みは、幻覚ではないことの証明だろうか。
「良かった、レーネ……生きてる……」
「ステーシア様……不甲斐ない私をお許し下さい。このような危険に晒してしまい、なんと詫びれば良いかむぐっ」
唇から感じる幸福感も、やはり幻覚とは思えない。このままステーシア様を感じていたい気持ちを抑え、ゆっくりとステーシア様から唇を離して抱きしめる。
これは現実だ。確かに私は生きている。生きている!
「あらあらぁ、素敵ねぇ。でもレーネ、ステーシア様、とりあえず移動しますわよぉ?」
「ああ、そうだな。ありがとう、助かったぞ。だが……」
どうしても私には納得できない。
「君は誰だ!?」
それにジルを自称する女とミーシャが着ている外套を、以前どこかで見た記憶がある。たしかあれは、仮面を着けた少女……真の魔王が身につけていたものと同じものではないか。
それにジルの隣でゴロゴロと喉を鳴らしている白虎も、真の魔王と一緒にいたのを間違いなく見ている。自称ジル達と魔王との間に何があった? ジル達が本物であろうと無かろうと、なぜ魔王が皇国の問題に介入してきた?
「いやねぇ、レーネ。本物のジルよぉ? それもここから移動してから話すわねぇ。こんな臭いところじゃ、落ち着いて話もできないわよぉ。ミーシャ、ペトラ、行くわよぉ?」
「こいつら臭いにゃー……。ぎにゃ! 青い奴がいにゃい!」
「青い奴さっき転移して逃げたよ! 間に合わなかったよー、残念!」
見ると確かに砕けた青い鎧の破片が転がっているだけで、シーウェルトの姿はどこにもなかった。ちょうどいい、奴は必ず私が追い詰めて殺す。
自称ジルは「仕方ないわねぇ」と言いながら、屈んで何かを拾い上げた。あれは、私の目玉か?
大きな白狼に乗ってこちらに向かってきたミーシャとペトラは、間違いなく本人に見えた。それに挨拶をする間もなく感じた全身の浮遊感は、よくジルが使っていた転移魔術と同じ感覚だ。
そこからの事はよく覚えていない。転移先にいた白騎士の持つ盾のような物が『転移門』だと言われたり、それを潜った先がティニオン王国内にある屋敷だったり、屋敷の中をスライムと小さな虎がうごめいていたり、ジルが解毒の魔術を使えたり、恐ろしく美味い料理を食べたら体力が戻ったりと、理解の範疇を遥かに超えていた。
いや、途中から理解しようとするのを諦めていたかもしれない。
一つだけ理解できたのは、あてがわれた部屋のベッドで私の腕の中にある、ステーシア様の温もりだけだった。




