1章 第10話N 駄目になっちゃいそう
花を見に行ってから一ヵ月半、いつもなら朝食を負えたノーラの勉強を見ている時間なのだが、今日はノーラの姿が無い。まだかなまだかなーとソファーの上をずーりずーりと動き回るナナ。少しすると部屋の扉が開き、ヒルダが顔を見せる。最近はよりいっそう地下に篭ることが増え、表情にも疲れが見えている。
「ノーラ……は、ここにもおらぬか。のうナナ、ノーラを見んかったか? と、聞いても答えぬよな、ナナは。……今朝のこと何じゃが、ノーラにまた花を見に行きたいと言われてのう。今はたいして花も咲いておらぬから、また花が咲く時期になったら行こうと言ったら珍しく拗ねおってのう。朝食もとらず部屋に篭っておるのかと思ったのじゃが、姿が見えんのじゃ」
嫌な予感がしたナナは、以前行った黄色い花畑に設置した転移マーカーから周辺の様子を見ると、そこには見張りゴーレムを伴って歩くノーラの姿があり安堵する。さてどうやってヒルダに伝えようと考えながら、周辺の状況を確認していたナナの背筋に冷たいものが走る。
「ヒルダ! ノーラは花畑じゃ! 狼に囲まれておるぞ!!」
ノーラの周囲には十数頭の狼らしき生き物が、息を潜め静かに包囲網を縮めていた。ナナはその瞬間ためらうこと無くなくヒルダに声をかけ、一足先に転移で向かう。一瞬ヒルダの目が大きく見開かれたのが見えたが、今はそれどころではない。しかもナナが転移先に出現したちょうどその時、ノーラの後ろから一頭の狼が飛びかかろうとする瞬間だった。
「させぬよ!」
ナナはその狼の後方から蜘蛛の糸を伸ばして捕らえ、追い抜きざまに再構築した蟷螂の鎌で首を切り落とし空間庫へ放り込む。
「ノーラ、気をつけるのじゃ、狼に囲まれておるぞ!」
ノーラの元へたどり着くと同時に他の狼も姿を見せ、低く唸りながらじりじりと包囲網を縮める。ナナは球状に巨大化して状況の変化について行けないノーラを包み込み、内部に作った空洞に保護する。
「え、ナナ? 今しゃべったのは、ナナなのか?」
「そうじゃよ。もうすぐヒルダも来るじゃろうから、それまで中でおとなしく待っておれ。きつーい説教が待っておるぞ? かっかっか」
「ナナ可愛らしい声なのじゃ! わかったのじゃ、母さまが来るまでおとなしく待つのじゃ!」
笑い声を上げることでノーラを安心させようとするナナだったが、その効果は絶大だった様子である。隣に居た護衛ゴーレムは既に戦闘を始めており、二体の狼を相手に槍を振るっていた。そしてノーラの後方にあたる位置にいた狼が勢いよく飛び掛ってくるが、ナナのスライム体に弾かれぽよーんと宙を舞い、そのまま空中でナナの糸に捕まり鎌で首を落とされ空間庫へ放りこまれる。
ノーラを守るスライム体の外壁は十分な厚みが厚みがあり、少々爪や牙で切り裂かれようとも衝撃を弾き返し、すぐに再生する。更に三方から狼が飛びかかるが、一頭はナナに届く前に鎌で喉を斬られ、二頭はナナに跳ね返されて空中で糸に捕まり鎌と風魔法で喉を切り裂かれ絶命する。
護衛ゴーレムも一頭を仕留めていたが、再度二体を相手に苦戦している様子だ。援護のため何度か風魔術を放ち、ゴーレムが致命的なダメージを受けるのを防いでおく。
左右からは狼がじりじりと距離を詰めてきたので火魔術で怯ませ隙を作り、糸で引き寄せ鎌で二頭の首を落とす。最近はサボり気味ではあったが、ここが異世界で魔物の類が存在すると知ってから、万が一に備えて深夜の鍛錬を行っていた成果である。
「やれやれ、これで半分といったところか、厄介じゃのう。ノーラ、怖くないかの?」
周囲を警戒しながら、内部のノーラに声をかける。完全密閉では窒息してしまうので、狼の様子を見ながら球体の上部に小さな穴を幾つか開け、新鮮な空気を送ることも忘れない。
「大丈夫なのじゃー! ナナ強いのじゃ!」
「元気そうでよかったわい。ところでノーラよ、なぜ森に一人で入ったのじゃ?」
「そ、それはじゃな……母さまが……最近元気無くて、疲れてるみたいじゃから、お花を見せたら元気になると思って摘みに来たのじゃ……でもお花がどこにも無くて、探して……」
元気そうであることに安心したナナだが、消え入るようなノーラの声を聞き優しく語りかける。
「ヒルダのためか、ノーラはやさしい娘じゃのう。それではこんな狼などちょちょいとやっつけて、早くヒルダのところへ帰らねばの」
ノーラの元気な返事を聞いたその時、視界に他の狼より二周りも大きな真っ白な毛並みの個体の姿を捉え警戒レベルを上げる。その白狼はナナをひと睨みすると、大きな遠吠えをあげた。
「しまった、余計なフラグを立ててしまったようじゃの」
最初はノーラを守るため無我夢中だった。しかし冷静になり自身が思っていた以上に戦える事と、狼に対して身の危険といった脅威を感じなかった事から、ノーラを守りながらでも勝てると踏んでいた。しかし白狼に対して感じた脅威と次々と集まってくる狼の気配から、撤退も視野に入れる必要があると考え直す。間もなくナナを挟むような位置取りで斜め後方にもう一体の白狼が姿を現した。こちらは正面の白狼より一回り小振りだった。
「挟まれてしまったのう……あの大きな白狼は群れのボス、といったところか。奴は強そうじゃのう、しかしあれを何とかせんと撤退もままならんじゃろうが……なんじゃ!?」
低い唸り声を上げていた二頭の白狼が吼えた瞬間、緑の魔素が高速でナナに迫る。その速度は空間魔術の防御壁が間に合うものではなく、ノーラへの直撃を避け最低限の回避は間に合ったものの、スライム体の三割近くが吹き飛ばされてしまう。
「くっ、狼が魔法を使うか! このでかい図体では良い的ではないか……ノーラ、しっかり捕まっておれ!」
ナナは球の内側にスライム体の柱を一本通すとノーラに掴まるよう促し、更に球体の外周部に大量の糸を生成し、ゴムボールのようにして補強を図る。
二頭の白狼には魔術を放つが素早い動きを捉えきれず、牽制にしかならなかった。そうしている間にも次々と集まる狼は、いつしか二十頭を越えており、護衛のゴーレムは足をもぎ取られ地面に転がっていた。
ナナが移動するたびに柱に必死にしがみつくノーラが気になり、全力での移動ができないまま、じりじりと狼による包囲網は狭められる。糸と魔術で牽制するが、狼も学習したようで一定の距離から近付いて来ず様子を窺っている。
再度白狼から放たれた風魔術を今度は完全に回避すると、包囲していた狼が一斉に飛びかかってきた。この際四頭の喉を鎌で切り裂き二頭を糸で絡めて転がすが、鎌が一本折られてしまう。
「しまった、ちゃんとした鎌は二本しか作れぬというのに……む?」
その時転がっていたゴーレムがわずかに身じろぎをし、その体から十本の赤い魔素の光が伸びて周囲の地面に着弾する。
「ノーラ、無事か! ナナよ、もうすぐ着くからそれまで耐えるんじゃ!」
「母さま!」
ゴーレムから聞こえたのはヒルダの声で、それを聞いたノーラの顔に笑みが戻る。直後赤い光が着弾した地面が盛り上がり、土でできた人形が起き上がり近くの狼へと殴り掛かった。
「今はこれしかできん、急いで向かうからそれまで……」
ヒルダの消え行く声を残し、最後の力を振り絞ったかのような護衛ゴーレムはそのまま動きを完全に止めてしまう。土のゴーレムはさほど強くなく、狼一頭と互角程度で形勢逆転とはならなかったが、これで狼の群れに大きな隙ができたのをナナは見逃さなかった。
「ノーラよ、わしはちょっと白い狼を倒してくるのじゃ。この球はわしがいなくてもちゃんと狼の攻撃を避けてくれるから安心して待っているんじゃぞ? では行ってくるのじゃ」
ナナはノーラの返事を待たずして魔石を含む一部を球体から分離させ、ボスらしき白狼の真上に転移し渾身の力を込めて鎌を振るう。
『パキィン』
「何じゃと!?」
しかし無情にもその刃は狼の体毛に阻まれ半ばから折れてしまい、折れた刃がくるくると宙を舞う。ナナの姿を確認した白狼は後ろ足で立ち上がり前足を振り下ろすが、ナナは空中で『態勢を立て直して』回避する。
その姿は身長1mほどの人型に近い形をしており、二本の足で華麗に着地する。そしてファイティングポーズを取ったナナは一瞬で間合いを詰め左ジャブを二発と右ストレートを繰り出し、やや高い位置にある白狼の鼻先に全弾直撃させる。その拳には硬質化させた亀の甲羅がグローブのように付けられていた。
怒りのまま噛み付こうとする白狼の牙を、身を屈めて回避しながら懐に入り込み、喉に強烈なアッパーを叩き込む。距離を取ろうとする狼が振り下ろした右前足は左手の甲で軌道を僅かに逸し、カウンターで右ストレートを叩き込む。
「むうっ」
白狼の顔面を捉えた右ストレートだったが、それに耐えた白狼はそのまま大きく口を開けナナが伸ばした右腕に食らいつき引きちぎってしまう。白狼は距離を取りナナの右腕を咀嚼しながら勝ち誇ったように背筋を伸ばして見下ろすが、すぐにその身をブルブルと震わせてゆく。
「どうじゃ、美味いか? 蜘蛛の麻痺毒がたっぷり詰まったわしの右腕は? それにわしの体は『わしの意志で切り離した場合』、意のままに動くのじゃぞ。それに体内は外側ほど固くはないじゃろう? ほれ、この通り」
ざくっと音を立てて白狼の腹から生える幾つもの刃、それは複製能力で作り出した鎌であった。複製であるがゆえ何本かは耐えきれず折れていたものの、内部からの攻撃は十分な結果を出していた。切り裂いた腹から出てきた元右腕を融合させたナナは、口を開けて白目を剥く白狼にとどめを刺すと、死骸を空間庫に放り込む。しかし同時に自身の失敗を悟る。
「しまったつがいか! 殺さずに転がしておくべきじゃったか!!」
ナナは分離した球体側にもう一つの視点を起動させ、別の白狼へ注意を向け続けており、ボス白狼との戦闘中も球体側の回避行動を続けていた。そしてボス白狼を倒して空間庫へ放り込んだその時、残された白狼が大量の緑の魔素を集め始めたのだ。
ボス白狼を殺され怒りに燃える白狼がノーラに向けて風魔術を放つのと、その射線上に転移したナナが可能な範囲で空間魔術による防御障壁を張るのはほぼ同時であった。
白狼が放った魔法は今までのものよりかなり広範囲に向けて放たれており、周囲のゴーレムや狼までも巻き込んで吹き飛ばし、地面すら抉り土煙がもうもうと立ち込めていた。その中心には上三分の一ほどが消し飛んだ球体スライムと、無傷のノーラが立っていた。
「ナナ……ナナ! 返事をするのじゃ! ナナ!!」
ノーラの叫びがこだまする中、木々の間から駆けてきた複数の人影が周囲に残る狼に次々と襲いかかる。
「ノーラ! 無事か!!」
ヒルダが複数のゴーレムを従えやってきたのだ。全身鎧姿のゴーレムは土煙をものともせず次々と狼を屠っていく。
「ああ、ノーラ! 良かった、怪我は無いようじゃの……」
ノーラの無事を確認し駆け寄るヒルダ。
「母さま……ごめんなさい……ああ!」
その時、ナナが作り出したノーラを守る球体がべちゃっ! と音を立てて一瞬にして崩れ去った。
「これは……ナナか? ナナ!」
ノーラを抱きしめながら、ナナの魔石を探すヒルダにノーラが土煙の向こうを指差す。
「母さま、ナナは向こうなのじゃ! 白い狼が魔術を撃とうとしたところに、ナナが飛び込んでいったのじゃ……呼びかけたのに、返事がないのじゃ……母さま、ナナを探して欲しいのじゃ!」
ノーラが指差す先に立ち込める土煙は薄くなりつつあり、ヒルダは警戒しながら土煙の向こうへと駆け寄る。
その先には一頭の白狼が口を大きく開けて昏倒しており、その眼前には大きく欠けた魔石が一つ水たまりの中に沈んでいるだけで、スライムの姿はどこにも存在していなかった。




