表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無軌道な単色  作者: こんたくみ
7/22

アスラウエの日々―錯綜―



 アサツキは脚を動かすのに疑問を持った。自分が何処へ向かって、何処に到達しようとしているのか、見失ったのだ。それでも尚、歩くのを止めようとはしない。体が勝手に動いているのではなく、アサツキが自らの意志でそうしていた。それが正しいと思ったわけではないし、そうするのが自然だったわけでもない。ただ、アサツキは自らの行いを選ばねばならなかった。


 朝日は既に十分な光を大地に提供している。アスラウエの街並はアラガナムと比べ島宅が少なく、街の中心部近くではそれなりの由緒を佩いたような邸宅も少なくない。塀で囲まれたそれらの家々で線を引かれた道路は、さながら迷路であった。主な通りに面した所では、店頭の板戸を外して商売を始めようとしている所も多い。朝特有の忙しなさげな活気が、アサツキにはなんとなく不穏に感じられた。まるでこれから、悪夢でも始まるような気がしてならないのだ。アサツキはスクモとマンナを置いていかなければ良かったと、そう思った。


 アサツキは急に、体の片側に重みを感じた。なんのことはない、最初から携えていた剣の存在が、意識されただけだった。勉強道具の方はと言うと、マンナに預けたままだった。どうして必要も無い剣を塾へ行くのに持ってきてしまったのかと、頭では考えながら、心の奥深くで油断していない自分に首肯する。これでいい、これでいいのだ。


 店を開ける男達が、折々にアサツキの目に映る。さらにその息子と思しき子供も視界に入ると、どうしようもなくアサツキは、シュウとシュラを想い起した。今の自分の有り様を、父さんが見たら殴るだろう。不良染みた徘徊をして、今朝には母を傷付けた。父さんは母さんを贔屓なくらいに愛していたから、まず間違いなく僕相手でも容赦はしない。だけれども、今の母さんを父さんが見たら何を思うか? いいや、父さんなら母さんをあんな卑怯者にはしなかった。母さんをあんな風に貶めたのは、僕なのだ。僕の無力なのだ。


 三年前、アサツキは身に起こった何もかもを受け容れようとした。しかし、当時のアサツキは、13歳で、まだ頑是ない歳と言ってよい。受け容れるに難いのは、アサツキよりも周囲の者にとって明らかだった。だから、アザミは、家を捨てた。愛する夫と息子の思い出を放棄して、今生きている二人の子の為に家を売った。傷に触れなければ、後は時が悲しみを癒してくれると、そう考えた。それはアザミ自身の為でもあったろう。アザミにとって家族は、人生の全てと言っても良かったのだから。アサツキは、そんなアザミの心情を、幼心に理解していた。子を愛し守ろうとする気持ちも、最愛の人を二人失うという悲痛も、魂から噴き出る血を抑えようとする逃避も。感情に対する洞察の鋭さは、アサツキの才覚だ。けれどもアサツキは、その解釈に容赦が無かった。アザミの胸裏を全て悟って尚アサツキは、互いの想いの隔絶が故にアザミを恨んだ。アザミは守る為に、現実から逃げたかった。アサツキは守れなかったが為に、現実を受け容れたかった。アサツキにとってアザミの行為は、シュウとシュラへの裏切りに他ならなかった。最早、アザミがシュウとシュラの名を口にするのさえ、穢らわしく思えた。

――あの日をやり直せたなら。

アサツキは、益体も無い考えに取り憑かれることがある。しかし時にそれを考えないではいられないのは、あの日がもう一度来た時の、備えなのだろう。備えなければ、確定しない未来に今の自分の全存在を粉砕されると、そういう思いが、少しだけ不安を煽るのだ。


 風が吹いた。「ああ、そうだ」なんの前触れもなくアサツキは思い出す。アサツキとスクモの誕生日が近い。


 スクモはアサツキを見送った後、世界が、視覚的な世界は言うに及ばず、嗅覚、触覚、その他あらゆる知覚感覚総じて、灰色か暗褐色の、無味なものへと変化していく様を体感していた。まるで古ぼけた絵画の中にいるようで、空気さえも固着し吸うに能わず、スクモは溺れる者が必死で試みる息継ぎのように、アサツキのことを考えた。

――そうだ、そろそろ誕生日じゃないか。なにをねだろうかな。アサツキが困るものが好い。でも、用意できるものだ。苦労の末にアサツキが用意したそれを受け取って、私はうんとアサツキを褒めるのだ。それから、アサツキが照れて顔を背ける。うん、いいじゃないか。


 胸の奥か、それとも脳髄か、自身でさえも居場所を知らぬ心と呼べそうな何か、それだけが、僅かに色彩を取り戻す。鮮明さを欠いていた周囲の音が、輪郭のぼやけた周囲の景色が、スクモの感覚器官に常識的な姿を現し始める。

「うふ、うふふ」

滾々と噴き上げてくる、色彩を伴った感情の水が、スクモの口元をふやけさせる。楽しい、生きていることは、アサツキと生きることは、こんなにも喜びなのだ。スクモは自身が櫂を欠いた筏に乗った漂流者であることを後ろめたくも予感しながら、現象する感情の真実性を信じた。


 ふらふらとスクモは、騒がしくなり始める街へ足を移ろわせる。今から塾へ向かわなければ、先ず間違いなく、マンナが授業を立ち聞きできる位置を逸する。もう少し遅れれば、授業そのものも逸するだろう。それを分かっていたから、マンナは、スクモを引き止めようとして、スクモの手首を捕えた。


「待って、スクモちゃん――」

 感触するのは、自身の手首がマンナの手に噛まれたということ。スクモは氷の針を突き刺されたように感じ、発火したような嫌悪感を是として怒った。


 己を見た、否、見たというよりも視界に映したスクモの顔が、咬み付いた蜘蛛を踏み潰そうとする形貌を思わせて、マンナは一気に畏怖したが、遅かった。


 スクモの足が、マンナの腹を蹴り飛ばす。スクモの足には、深く肉へ入り込んだ柔らかな感触と相応の重さが、マンナの腹には、内臓を押し上げる苦痛と背後への衝撃が、それぞれに感じられた。アサツキとスクモの勉強道具、蝋板や尖筆が地面に落ちて、不揃いな音楽を一瞬間だけ奏する。倒れたマンナは、深く鈍く居座るような痛みに腹を抱えつつも、摩擦によって生じた皮膚の赤い痛みが、内臓への痛覚以上に意識されていた。痛みを吐き出そうとするかのように、マンナの身体が咳き込む。咳で、或いはもがきで身体が動くと、マンナは地面に擦り寄るようだ。口元の砂利が唾液に染まる。その光景がスクモには、甚く安心させられるものとしてそこに在った。


 二人の周りにいた人々は、突然の出来事に何事かと瞠目するのだが、マンナが奴隷らしいと、実際にはどうであっても、そう察すると、忽ち興味を失った。


 スクモはマンナに触れられた手首を気にしながら、

「気色悪い手で触れるな、まったく気分が悪い」

と言った。

「ご、ごめ、ん、ごめん、なさ……」

苦悶が表情を歪めて、呼吸はまだ困難ながら、マンナはなんとか謝罪を口にしようとする。スクモは一瞥もくれず、マンナを放って歩き始めた。暫くして、痛みの引いたマンナが立ち上がり、落ちた荷物を回収して、その後を追った。


 軈てスクモが足を止めたのは、小物店の前であった。店先に飾られた商品棚にある、番いの鳥を模した小さな陶器に目がいった。滑らかな曲線で造形されている置物には、仄かな桃色の彩色が、なるほど可愛らしい。特別にこういう置物を欲する訳でもないが、こういう物をアサツキから贈られたなら、悪い気はしない。自分の性別に事実以上の認識を持ったことはないが、仮にアサツキが何らかの意味あるものとして、自分の性別を扱うのなら、今までは単なる体の構造でしかなかったものも、誇らしいものになるかも知れない。そういう考えに至ると、スクモにはアサツキから女性扱いされてみたいという情が芽吹いた。自らの性に価値を規定したいのか、アサツキの情か、どちらが目的であるのかは、既にスクモ自身にすら知り得ない彼岸へと渡ってしまっている。


 隣で、置物に見入るスクモを、マンナは感情を感じさせない面立ちで眺めている。恐る恐る、ゆっくりと口を開いた。

「この置物は、恋人が恋人に送るのが流行、って、前に、聞いた」

「恋人? 恋人、か、そうか。変人の仲間だと思っているが、そうか。一度くらいは、変人の気持ちを知る努力をしても良いかもな」


 スクモは、この番いの鳥の置物を、鋲で打つように心に留めた。それからスクモが塾へと着いたのは、午前の授業が終わるところであった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ