出立
木々のざわめきが心中に聞こえていた。それは風だった。窒息した世界に吹き込む風を、アサツキは感触していた。熟れて腐った果実は要らず、そんなものは、嵐にもぎ取られて潰れてしまえ。そんなものよりは、実を付けずとも、風に潔く散る徒花が良い。
アサツキを奴隷にするための契約書は即時に用意され、遺体となったカラゲルの従者が運び去られるよりも早く、アサツキはカラゲルの奴隷となった。アサツキの代金は、マンナへ渡された。イヌクは店仕舞いを始め、店内にはアサツキとマンナが、向かい合って椅子に座っている。カラゲル達は、帰りの馬車を取りに行っていた。
袋に詰まった金貨、その重さに指先を白くしながら、マンナは茫然としている。こんな鉱物の重さが、高が光受けて輝くだけの土くれが、多少の彫り細工を施されただけの、きっと手垢塗れの、糞便をして洗いもしないような手で触れられた物体が、アサツキの全存在に引き換えられるなど、想像だにしていなかった。命の恩人が、恋人が、家族が、人生の全てと言っても過言ではない男が、こんなつまらないものにすり替えられてしまった。その現実を、マンナは到底受け容れられそうにない。
「その金は、出来ればスクモに……いや、僕の母でもいい、渡してほしい」
アサツキはそう言った。マンナはアサツキの言葉を聞いたけれど、意味は理解しなかった。理解するだけの余裕が無かった。まるで自分以外が、鏡に映った偽物のような気がしてならなかった。
「ねえ、マンナ。君に譲った僕の個人的な財産は、好きに使っていい。だから、もし嫌になったら、あの家に居たくなかったら、出て行ってもいいんだよ?」
それは、自分が居なくなる事によって、ますます立場の危うくなるマンナへの気遣いであり、忠告でもあった。
「君は読み書きが出来る、計算も出来る、手先だって器用だ。例えば、アラガナムにでも行けば、多分仕事くらい見付けられる。それにあそこは、嫌な思い出があるにしたって、生まれ故郷なんだし……」
「一緒に、いこ? 一緒、なら、何処にでも、いくよ?」
マンナは自分でもおかしな事を言っていると、そう思った。徹底的に媚びて生きてきたマンナの習癖が言わせた、妄言だった。アサツキのマンナを見る目に、憐憫の色が滲む。
「お別れだよ。僕の事は気にするな。そう、万が一にでも、僕を買い戻そうとしたりしないよう、母や、ナオミや、スクモに言っておいてくれ。いいね?」
念を押すように言われると、マンナはまともに断る事が出来ない。小首を傾げて、目を潤ませた。
外から車輪の転がる音がする。蹄の音と、鞭の音が混じっている。カラゲルが店に入って来た。
「おい、行くぞ、乗れ」
「じゃあね、マンナ」
アサツキは席から立ち上がり、カラゲルの方へと歩いていく。マンナの伸ばした手を、アサツキは避けた。店の奥から、イヌクが顔を出す。
「おう、坊ちゃん、達者でな。死ぬんじゃねえぞ」
「うん、今まで世話になった」
「この嬢ちゃんは俺が送ってく」
「助かる、有り難う」
「おいカラゲル! あんまし虐めるんじゃねえぞ?」
「保証出来ねえな。……ほらさっさと行け」
そうしてアサツキは外に出た。空には星が輝いている。馬車に乗り込み、カラゲルが従者へ合図する。馬車は出発し、軈てアスラウエを離れた。
夜の寒風が馬車に滑り込む。傷に染み込むようだった。体が痛む度、アサツキは大切なぬいぐるみをうっかり切り裂いてしまった子のような感傷に襲われた。
「おい」カラゲルが声を掛ける。「泣いてんのか?」
「泣いてない」
自分が本当に望んでいたものはなんだろうか。もし、三年前の惨劇がなければ、今頃、どうなっていたのだろう。アサツキは、スクモの事を考えた。最後に、いつものように、スクモを撫でてやりたかった。そうしないと、どんどんと取り返しの付かない事になっていくような気がする。けれど、それが出来ないから、こうなったのだ。或いは既に、取り返しは付かないのだろう。段々とあらゆる感傷がくだらないものに思えてきて、アサツキは走り去っていく夜景を眺めた。
アサツキの中で、何かが切り換わる感覚がした。或いは、何かが落っこちた。自らの剣を握り締める。沸々と血が沸いてくる。
「そろそろだ」
「なに?」
「馬車を止めてくれないか」
「ふざけるな。今更帰さねえよ」
「そうじゃない。馬が喰われる前に、始末を付けたいんだ。走ってじゃ闘えない」
カラゲルは馬車の外へ顔を出した。冷風に打たれる。見える景色は、闇夜の中で月光を反射し、島のように浮かぶ草叢。ざわざわと、島が動く。
「獣……狼か?」
「任せてくれ。貴方と従者は、馬を守ってくれていればいい」
「お前に狼が狩れるのか?」
「得意だ」
馬車は止められ、そしてアサツキは馬車を降りた。獣の唸り声が、闇夜から出ずる。姿は見えない。アサツキは暗闇に向けて歩を進めていく。手には愛剣を提げている。闇に消えゆくアサツキの背中を見ながら、カラゲルは姿の見えない相手に恐怖していた。野生動物の厄介さは百も承知だ。それも群れで、この闇。歴戦の強者を相手にする方が、まだカラゲルにとっては気楽だった。
静寂が場を支配する。風が轟々と響き、草々が合奏する。月明りが雲に隠れる。肉の裂ける演奏、狼の絶唱、血塗れた奏者が再び月光の下に現れた時、夢でも見ているような気持ちにカラゲルはなった。
馬車の手前で、アサツキは剣を投げ捨てた。
「おい、どうした」
「あの剣は捨てていく」
「止せ、なんのために」
「僕をここで死んだ事にしてほしい」
「なんで、また。俺に何の得がある」
「訓練で僕を殺しても、誰にも文句を言われない。どんな汚れ仕事をさせた所で、貴方に追及が及ぶ事は無い」
カラゲルは迷った。
「しかし、その剣は……」カラゲルに決意させたのは、嗜虐心だった。「まあ、いい。そういう事にしておいてやる。さっさと乗れ」
馬車はまた動き出した。
自分を死んだ事にするのは、保険だ。スクモが、完全に自分を諦められるようにするための。これで、スクモは自由に生きられる。気霊院に行かせようとする僕もいない。スクモの本当にやりたい事を自由に出来るはずだ。自立して、しっかりと生きていける。アサツキはそう考えていた。そして己は、過去の場景に想いを馳せる。血、混沌、暴力、恐怖、怒り、そして救済と、絶望……。今向かう場所にはきっと、そういうものが揃っている筈だった。だから、アサツキは何も考えずに、過去を生きる事が出来る。その事に、意味など無くてもいい。意味とは意志の創り出すもので、もし人生に意味があるとすればそれは、人生に上位者を設定する事なのだ。人か、王か、国か、神か、なんでもいい、なんでも同じ事だが、人生に意味を求め、意味を全うする事は、誰かの意志に屈従する事なのだ。自分自身に屈従する自己など、有り得ない、滑稽な話だからだ。だから意味を享ける以上、それは自分のものではない。究極的には、神の、運命の与え給うた意味なのだ。そしてアサツキは、信徒ではなく、使徒でもない。一個の人間であり、一人の男だ。運命への復讐を誓った子鬼なのだ。だから、意味の無い人生上等、そうでなくてはならない。
深更、ついに馬車はその建物を視界に入れた。その建物は、脱出を拒む、無味乾燥な壁で四方を囲んでいた。外界と隔たれたような建築物の正面にある門。その門の上枠には、大雑把な飾り字で「カラゲル剣闘士養成所」とあった。




