アスラウエの日々―終了―
カラゲルはハヤクから剣を奪い取ると、邪魔な椅子を蹴り飛ばしながらアサツキに近付く。迫力に、制止に入る者も無い。アサツキは立ち上がり、先程のように構える。剣の鋩に触れようかという所まで歩みを進めたカラゲル。そこから動かない、カラゲルは、アサツキも。
「どうした? 怖じ気づいたか」
アサツキの背に冷や汗が走る。素早く剣を引いた所へ、カラゲルの剣が閃く。弾けるような金属音と共に床へ剣が突き刺さり、アサツキの手が痺れる。直後、アサツキの頬へ裏拳が直撃した。アサツキを襲う一瞬間の浮遊感、気付けば膝を屈している。間断無く腹に鈍い衝撃。内臓に歪んだ痛みが居座るような感覚は、アサツキをのたうち回らせた。
「向かってくる相手には剣を突き立てられねえのか、卑怯者」
カラゲルの足が落ちた剣を蹴る。床を滑って、アサツキの手許へ。剣を掴んだ。立ち上がり様に斬り上げようと振った刃は、再度叩き落されて、アサツキの胸に蹴りの衝撃がのしかかる。背後のカウンターにぶつかった。
二合で、カラゲルの意図は誰の目にも明らかであった。カラゲルは、アサツキに無力感を植え付けようとしている。そのために攻撃の手段や機会を与えておいて、即座に奪う。弄んでいた。
「……ッ、っ」
その光景を目の当たりにして、マンナは不愉快な緊張を体の筋肉に感じていた。助けに入りたいのに、アサツキの拒絶が恐ろしかった。店の他の者は、カラゲルの怒気に恐れを為して、野次を飛ばす事さえしない。この場にて争いを止められるのは、カラゲルか、アサツキの敗北だけである。
幾度かアサツキが反撃を試み、何れもが砕かれる。焦燥と絶望の波が、アサツキの胸奥を濡らしていく。感情の冷水に浸りながら、アサツキは衣服が水を吸ったような動き辛さを感触する。圧倒的な実力差が意味するのは、一秒後の明暗。だが、それは初めての事では無かった。
「まけ」アサツキが呟く。
「あ?」
「負けだよ」
カラゲルの顔が下らない物を見る目に変わる。その一方で、マンナや店の者らは安堵していた。カラゲルがハヤクへ剣を返そうと、それを提げた腕を伸ばす。次の瞬間、誰もが目を疑った。
「貴様ッ、性懲りもなく……」
カラゲルの腕に、刃が食い込んでいる。敢えて刃に腕を押し付けているのは、単に反応が遅れたという事情もあったが、アサツキの意識がまだ押し切ることにあって、刃を引くに至っていないから、つまり、血の激しい噴出と肉が抉れる事態は抑えられていたからだ。しかしこのままでは骨がやられる。なにより痛みによる生理が刃からの脱出を求めている。
ハヤクがアサツキの顔面に拳を見舞った。アサツキは後方へ後退りしたが、剣は離さない。カラゲルの解放された傷口から、激しく出血する。
店内の空気が一気に冷えたようだった。荒事を見慣れている男たちが、これは流石に歓迎出来なかった。完全な騙し打ち、生々しい負傷。異端者、犯罪者を見る目が、アサツキに集中していた。マンナすらも、アサツキの行為を捉えきれずに茫然としている。
「負けだよ、貴方の負けだ。認めるか?」
アサツキは、当然のように言い放った。
「ぶち殺すぞ、糞餓鬼が!」
「剣の使用も、勝敗の条件も、貴方の提案だ」
「減らず口を――」怪我にも構わず再び剣を取るカラゲルは「叩くなッ!!」怒気を殺気に変じていた。
「カラゲル止せ!」
愈々制止に入らざるを得ない状況に至り、イヌクが叫ぶ。店は俄かに騒然となり、店から逃げ出す者、物陰に隠れる者、最早阿鼻叫喚と言って差し支えなかった。
容赦の無い攻撃がアサツキに加えられていく。防げたり、防げなかったり、ほぼ嬲り殺しのような有り様。体の痛みを、流れる血を、脈打つ熱を感じながら、アサツキは何故か安らかな気持ちだった。否、感情は沸騰し、脳髄が冷えるような恐怖も、筋肉が焼けるような闘志もあった。しかし、その裏側、表出する感情や志向の源泉にあるのは、懐かしさにも似た、爽やかな心地だった。
――これだ、この感覚だ。
この数年来の暗鬱とした悩みの一切が、下らない物として破却されていくような、少なくとも、賢く保留出来たような感覚がする。
――何で、こんなに懐かしいんだろう。何で、この光景を知っているんだろう。
眼前にある暴力、背景の混沌、内側にある恐怖、身を焦がす怒り、そして、握った剣。
――嗚呼、それはそうか。
アサツキは理解し、思い出す。自身が、大切な人の死を過去にしないと決意した事と、その為の方法を。
「剣は楔」
呟いたアサツキは、真っ直ぐ迫って来る刃を掴んだ。カラゲルは刹那の間は動揺したが、即座に剣を引いた。アサツキの掌が斬られ、血が手を染める。血のぬめる感触と目の覚めるような色に、アサツキは暗色の随喜を舌で転がしていた。
アサツキの脳裏に、三年前の光景が広がっていく。アサツキは、自分の居場所を漸く其処に見出した。正確には、自分が居場所を其処に置いていた事を自覚した。幸福だった過去と、狂った現在の境界線を守る童。それがアサツキの姿だった。今現在アサツキを取り巻いている狂気の全てはきっと、過去と今の齟齬が生み出したズレなのだと、アサツキはそう認識した。だから、もうアサツキは迷わない。やるべき事はただ一つと分かったのだ。あの場景、あの惨劇の中で、迫り寄る未来を相手に、永遠にもがき続ける。その命、有る限り。
最早どんな運命も、アサツキに手が届く事は無い。人を転がす運命の手は、決して過去へ伸ばせないのだからだ。
カラゲルの剣がアサツキに振り下ろされる。避けようとも追撃にやられるのだから、と、アサツキはカラゲルの剣を抱き込んだ。肩口が切り裂かれる。鎖骨が痛む。が、アサツキはカラゲルの腕の関節を捕らえている。軽く捻ると、カラゲルは膝を折って床に手を付いた。如何な達人と雖も、人体の構造には抗えない。
極められた屈辱に目を見開くカラゲル。力が徐々に強まっているのに戦慄した。圧し折る気なのは間違いなかった。
「ま、待てッ」
利き腕を奪われる恐怖に、思わず発した声。アサツキからの力が弱まる。カラゲルは更なる屈辱を味わっていた。若造を相手に、慈悲を乞うたのだ。自尊心の強いカラゲルにとって、それは何より堪え難く、二の句を継げる事も出来なかった。
アサツキがカラゲルを離し、倒れた椅子を立て、力なく座り込んだ。
「貴方を殺さない理性くらいは残っている。どうするんですか、この有り様は」
店内はひっちゃかめっちゃかになり、残っている者は、アサツキとカラゲルの他に、イヌクと、ハヤクと、マンナのみ。その他大勢は店の外に出ていた。カラゲルはアサツキの様子を見て、腕の関節を折る力がもう残っていなかったのではないかと思った。服は切り裂かれてその下から血が滲み、顔にも、きっと体にも痣が出来ている。対して自分は……。そこでやっと、自身の腕が斬られていた事を思い出す。
「いてェな、クソ。おい、ハヤク、布だ。傷口を縛る布を持ってこい」
ハヤクがあたふたするイヌクから布を受け取り、カラゲルの腕を止血する。アサツキが尋ねる。
「それで、どうするんです。結局、僕は合格なんですか、不合格なんですか」
「不合格に決まってんだろ、馬鹿か」
「おいカラゲル、店の修理費はツケとくからな」
「あァん!? んで俺だよ!」
「お前が原因だろうが!」
姦しく言い争いを始めるカラゲルとイヌク。アサツキは疲労困憊して、それを何処か遠くの事のように聴いていた。
「っくそ、おい、ゲッコーは何処に行きやがった」
聞き慣れない名前、それはどうやら、二人いたカラゲルの従者の片割れらしかった。ハヤクが店の外へ探しに行く。店内には気まずい沈黙が流れる。そして、暫くもしないうちに、ハヤクが戻って来た。カラゲルの傍に立ち、声を抑えて言う。
「その、外が騒ぎになっていまして……」
「それがどうした」
「ゲッコーは、死んでいます」
「なに? なんで」
「どうやら、ここであいつと――」ハヤクはアサツキを睨む。「――争っていた間に、馬車の車輪へ首を突っ込んだらしく」
「即死か?」
「はい。多分、訓練に付いていけなくなったんでしょう」
「役立たず共が、今月で二人目だぞ」
漏れ聞こえた話に、マンナはぞっとすると同時に、胸を撫で下していた。しかし、カラゲルの目線はアサツキに向く。アサツキはアサツキで、今の話を聴いていたのかいないのか、物思いに耽るみたいに黙りこくって、険しい目をしながら宙を眺めている。
「おい、アルカギリの。お前、名前は何だったか」カラゲルが言った。
「……アサツキ。アルカギリ・シュウネル・アサツキ」
「そうか、アサツキ。どうやらお前は運が良い。それも悪運がな。そういう奴は歓迎してる。しぶといからな」
「言いたい事ははっきり言え」
「でかい口を叩くな。これからは、俺が、お前の、御主人様なんだからよ」
アサツキの目が、カラゲルに向いた。マンナはただ立ち尽くし、青褪めているしか出来なかった。




