アスラウエの日々―剣闘―
多種多様の音声が入り乱れる店はしかし、平生の騒がしさとは異なっている。それは直前の賭け試合にて興を削がれた由もあったが、加えて、入店者の纏う雰囲気に因はあった。普段のカラゲルの無精と打って変わった正装に、こちらも身形を整えられた従者が二人。どこぞの権力者のようで、とても店の空気に似つかわしくない。
二人の従者は、護衛である事が、もっと言えば、カラゲルが剣闘士養成所の主である点からして、剣奴である事が予想された。
カラゲルは注文を済ませて、どっかと椅子に腰を落ち着ける。二人の従者も、カラゲルと机を同じくした。イヌクが酒瓶と杯を持ってくる。
「なんだいその格好は。誰に会って来たんだ?」
「サブラフだよ。ったく、格式張った遣り取りは嫌いなんだがな」
「だろうな」
サブラフの名が出たことで、アサツキが気後れしたのは間違いない。事件を起こしたのは昨日の事なのだ。サブラフが誰かとまともに会える訳は無い。だがその気後れ、不安、怖れが、現実に与える影響は、店に舞う埃程にもありはしなかった。
杯を口へ運ぼうと、持ち上がったカラゲルの手を、アサツキが押さえた。「待ってくれ」カラゲルと従者らがアサツキを睨む。「貴方が酔う前に話をしたい」
「不躾だな。手を退けろ」
アサツキが手を退かし、カラゲルは酒杯を呷った。
「で? くだらねぇ話だったらお前を俺の対戦相手にしてやるからな」
「貴方は剣闘士養成所の主だと聞いた」
「それで?」
「僕を買って欲しい」
それを聞いたマンナが喫驚して立ち上がる。周囲の視線が向いた。
「昨日見たな。手前の連れだったか。金が要るんなら、その娘と一晩寝かせてくれ――」
表情を怒りに変えたアサツキが、カラゲルの胸倉を掴み上げる。従者二人が素早く動いて、アサツキの首を掴む者と、腰元の剣を抜き放てるよう構える者。アサツキの、カラゲルを掴んだ手は、その掴まれた者が遮るようにして置いた手首に、持ち上げる事能わない。岩を吊り下げられているかのように。
「……そういう話は、もうたくさんなんだ。冗談でも止して下さい」
「チッ、分かったから、手を離せ」
アサツキが手を離すと、殺気立った従者達も、矛を収めた。
「で、お前を買えって? お前に何の取り柄が?」
「高級な教育は一通り受けている。剣の扱いは我流だが、野生の狼を相手に鍛えたものだ。使い物にならない事はない筈。それに、この店での戦績も良い」
「そんな腕自慢、何の取り柄にもならねえ。いっその事、家事手伝いの奴隷として買ってやろうか?」
話を聞いていた数人が失笑する。が、慌てて笑いを飲み込む。そんな男達の仕草を見て、マンナはこの店の人々がアサツキを少なからず恐れている事を悟った。一方でアサツキは、周囲の反応よりも、カラゲルの反応が気に掛かる。侮られている、というのは疑いがないのだが、アサツキはそれ以上に、購買意欲の無さを感じ取っていた。
――せめて少しでも、先立つ物を残しておきたい。
そう思うアサツキにとっては、出来るだけ高い値段で自身を売らなければならない。それ故に、自らの長所を最も高く買ってくれると見込んでカラゲルに話しを持ち掛けたのであった。
「信用無いな」
「当然だ」
「なら僕を試せばいい。そこの護衛と僕を闘わせれば、買う価値くらいは証立て出来るだろう」
カラゲルの従者らがカラゲルを見遣る。カラゲルは誰とも目を合わせないまま、自らの懐をまさぐって、金貨を一枚、取り出した。指の上で弄び、弾く。金の煌めきをイヌクが受け取った。
「酒の追加だ。それと肉も適当に持って来い」
「ああ」
その遣り取りが終わるや否や、カラゲルの手が、アサツキの腰に帯びていた剣を抜き取る。咄嗟にカラゲルの手首を掴むアサツキを、カラゲルが睨み上げる。
「壊しやしねえよ」アサツキは手を離した。カラゲルはアサツキの剣を検める。そして眉根を寄せた。
「なんだこりゃ。剣の紛いモンか?」
「どういう意味だ」
「どうもこうもねえ、研ぎが甘ェし、だのに刀身が擦り減り過ぎだし、刀身が短けェし、それを差し引いても見た目の割りに重さがねえ。まるでお飾りだ。こんなもんでまともに闘えるかよ」
「三年か、或いはもっと長く使ってきた剣だ。それに元は警邏の官給品、特別上等だった訳でもない」
「剣の由来なんぞ知った事かよ」カラゲルは剣を見直している。「剣の扱いがなってねえって……」手が止まった。
「この剣は何処で拾った?」
「三年前の、アラガナムで」
拾った、というのは言葉の綾か、それとも文字通りか。言い知れぬそして知り得ぬ不穏をアサツキは感触する。カラゲルは黙し、遠くを眺めるように目を眇めている。軈て目を閉じ、そして笑った。
「お前あそこにいたのか」
「何で、わ……そう思った?」
「説明する義理はねえな……。よし、一つ賭けをしようぜ」
「どんな賭けを」
「お前を俺の従者の一人と闘わせてやる。もし使い物になるようなら、望み通りお前を買ってやる、訓練生としてな。だがそうでなければ、この剣を貰う、どうだ?」
賭けの条件を提示され、その内容が剣の没収だった事に、アサツキは驚き、微妙な焦りを覚え、そして、それら感情そのものを驚いた。この瞬間、アサツキは剣に依存していた事をはっきりと自覚し、その性格故に、それとの断絶を義務付けられた。牙を失う恐怖の渦中で、アサツキはそれを是とし、むしろ牙を剥いた。
「受けよう」
「決まりだな」
沸騰するように高まる闘志への差し水をするように、マンナが後ろからアサツキに抱き着いた。
「どうしたの」
「…………っ」
マンナは咽喉を扼されているかのように、声を出す事が出来ない。ただ明らかに怖れて震え、アサツキを自分の世界へ引き止めようとしていた。
「邪魔だよ」
アサツキのその言葉に、色を失ったマンナはゆっくりと引き下がった。アサツキはマンナへの興味一切を引き払って、カラゲルを見遣る。
「早い所始めよう。どちらの男と闘えばいい」
「ああ、そうだな。じゃあこっちの奴だ」
カラゲルが従者の一人に目配せし、彼の者が立ち上がる。日焼けした肌に、黒い短髪、顔には醜い向こう傷が、鼻梁に重なっている。人に威圧感を与える顔貌だった。身長はアサツキよりも二回り程高い。
「名はハヤク、同期と比べて優秀だが、剣闘士としての格は高くねえ。試金石には丁度良いだろう」
アサツキに剣を返して、カラゲルは従者ハヤクに合図する。「おい」ハヤクは二歩下がってから腰に帯びていた自らの剣を掴み、刀身を曝した。俄かに店内がざわつく。イヌクが慌てて「おい、やめねえか」と声を掛けたが、カラゲルは「下がってろ、人死には出さねえよ」と言って聞かない。
アサツキは呼応するように剣を抜き、ハヤクとの直線上にある机等の障害物を除くため、横に数歩、歩んでから構えた。
「勝敗は?」
「負けを認めた方の負け、戦闘を続けられなくなった方の負け……おいイヌク、酒持ってこい!」
勝敗を決定付ける条件を指定され、アサツキは戦慄した。
「死人が出るぞ」
「あ? 何か言ったか?」
「死人が出る」
「出ねえよ、ほら、とっとと始めろ」
カラゲルの言葉を切欠に、漠然と構えていたハヤクが臨戦態勢に入る。小刻みに体を揺らし、踏み込む間と間合いを計る。対するアサツキは剣先をゆっくりと下げていく。両者の構えは対照的で、ハヤクは普段、盾を所持している為の癖だろう、腕で日光を遮るように、腕の影に頭を潜り、握った剣は敵意を持って飛遊する蜂の毒針に似る。アサツキは片足をもう片方の足の後ろに下げて、体を半分隠している。盾を使う事が無かった為に身に付いた構えは、急所への攻撃を防御するのではなく、攻撃から急所を隠す為のもの。但し、今は剣に殺意無く、清流に靡く葦のような印象を見る者に与えていた。
電撃のような踏み込み、ハヤクの刺突。剣がアサツキの首筋を浅く突いて、赤い血の玉が肌を這い降りる。観衆には声援を上げる暇も無い。
カラゲルが嘲笑する。
「見ろよ、所詮は――」
――この程度だ。そう続けようとしたカラゲルは、出掛かった言葉を噛み千切り、アサツキの身体を蹴っていた、全力で。アサツキは横に吹っ飛び、机を一脚、ひっくり返す。
「手前!!」
怒気を纏って、カラゲルが吠える。アサツキは冷笑した。
「だから言っただろ、死人が出る」
周囲の者には、何が何やら分からない。対決していたハヤクにも良く分かっていない。しかし、話しはそう難しい事ではなかった。勝負ありの形になって、ハヤクは戦意を収めた。そして、アサツキはその瞬間を狙おうとした。剣を構えておきながら、心理的に完全な無防備の相手へ、本気の一撃を叩き込むつもりだった。きっとそれは、重傷を免れない。カラゲルはアサツキの微妙な体の動きから、纏う空気から、何より、剣を突き付けられて尚、相手を見据えて静謐とした瞳から、察したのだった。
「いいだろう、勝敗条件を変えてやる。俺に一撃でも加えてみろ。そうすればお前の勝ちだ。だが俺はその間に、手前の腐った性根を叩っ切ってやる」
「腐った性根か――」アサツキがはにかむ。「悪くない」




