アスラウエの日々―崩壊―
スクモは毒に侵された病人のようにのたうつ自らの心を注視していた。手に取ること容易な筈のものが掴めない、そんな状態に適した処方をしようと、分析を必死にする。何故こうも苦しいのか、何故アサツキは私と居てくれないのか、どうすれば邪魔者を排除できるのか……。どんな考えも結局は一点に辿り着いてしまう。
――アサツキさえ居てくれれば。
全て解決するのに、と。手段を選ぶ気も失せてくる。そして、夜が明ける。スクモはベッドを降りた。
アサツキは目を覚ます。ベッドを降りようとして、マンナの体が自身に掛かっているのに気付く。退けて、自分の服を探す。
「おはよう」マンナが起きた。
「ああ、おはよう」言い乍らアサツキは服を着込む。
「僕は自分の部屋に戻るよ。念の為マンナも、早めに身支度をした方が良い」
「わかった」
「じゃあ」
ベッドを降りようとしたアサツキはしかし、腕を引かれて、マンナに口付けられた。それも、昨夜の絶頂時に劣らぬ、愛おしくそして糸を引くものだった。
「行くからな」そう言って離れようとするアサツキを、マンナは離さない。
「行っちゃ、やだ」
「スクモがうるさいんだ。ちゃんとまた、二人きりで会うから」
「今が、いい」
聞き分けないマンナに戸惑いを見せるも、アサツキはベッドから降りた。部屋を出て自室へ急ぐ。思わず足を踏み止めた。ばったりと出くわしたのは、スクモだ。
どんな文句が飛んでくるかと思うと、アサツキはスクモを直視できない。数秒の間を置き、スクモが口を開いた。
「おはようアサツキ、昨夜は帰ってこなかったのか?」
「うん、待ってたか?」
「当たり前だ。私はずっと君を待ってる」
「それはすまなかった」
「それで? それだけか」
「え、ああ。分かった、ちょっと待ってて」
アサツキは例の置物を取りに戻ろうと、引き返そうとした。
「待て」呼び止められる。
「ん」スクモは両腕を開いてみせた。アサツキは求められるがまま、スクモを抱擁する。弛緩して身を委ねたスクモの様子に、アサツキは安心する。だが、その直後、スクモはアサツキを突き離した。
「どうしたの」
「なんで、あいつの臭いがするんだ」
「臭い?」
それがマンナの残り香であると察するのは易く、スクモが駆け出すのと同時だった。
「おい!」
スクモの向かう先はマンナの部屋だ。
スクモが部屋の扉を開けると、そこには着替え途中のマンナが居た。スクモは遠慮なく部屋へ押し入ると、ベッドの掛け布を剥いだ。そこにあった血の染みを見て取り、アサツキの汗を嗅ぎ取る。スクモがマンナへ顔を向ける。マンナは体の後ろに何かを隠していた。
「何を隠した」
「これは、だめ」
「何を隠した!」
スクモはマンナから強引に隠した物を奪い取った。そしてそれは、番いの鳥を模した小さな陶器。フェクィメの使いの鳥の置物。恋人が恋人に送るという謂れのあるもの。そして……。
「なんで、お前がこれを持っている」スクモの声は震えていた。
「アサツキくん、から……」マンナはそこで声を止めた。
アサツキはスクモを追ってマンナの部屋の前に居た。扉を開ける直前、耳に飛び込んできたのは、陶器の激しく割れる音。扉を開ける直後、目に飛び込んだのは、マンナの咽喉を扼するスクモの姿だった。
「死ね! 死ね!」
「おい止せ!」
アサツキは駆け寄ってスクモを引き剥がす。スクモは暴れた。
「離せ、離してくれ! やだ! そいつは殺す!」
アサツキはマンナに目を送る。
「お前は部屋を出ろ、早くしろ!」
マンナはスクモを尻目に見ながら、部屋の外へと歩いていった。
暴れ疲れて大人しくなるスクモ。力が抜けて、頽れる。アサツキは支えず、羽交い絞めのまま腰を下ろした。アサツキが手をスクモの腹部へ回すと、スクモはその手を掴んだ。スクモの啜り泣きが、アサツキに聞こえる。
「なにがあった」
「あ、あいつが、私からアサツキを盗るんだ。私が、やっと手に入れた大事なものなのに、あいつが……」
言葉を続けられず、スクモは嗚咽する。嗚咽は張り裂けて号泣となる。アサツキは黙って、同じ体勢を続けていた。途中、ナオミが扉から顔を覗かせたが、アサツキは目配せして下がらせた。
スクモの声が消え、体の痙攣も治まり、スクモが愛おしむようにアサツキの手指を弄り始めてから、アサツキは話し始めた。
「ねえ、スクモ」
「なんだ」
「もういいだろ」
「良くない」
「離れろ」
「いやだ!」
激した感情を宥めるため、アサツキはスクモを抱く力を強め、それから努めて優しく言った。
「兄離れしろ」
「違う」
「なにが?」
「君が私の兄だから、私は君を好きな訳じゃない。君がアサツキだったから、私は君を好きになれたんだ」
「ん?」
スクモは体を反した。アサツキの拘束を解いて、向き合う格好になる。潤み赤らんだ目は、真っ直ぐにアサツキを見ている。顔がアサツキに接近する。アサツキは仰け反ろうとしたが、後ろは壁だった。ふと湧いて出たアサツキの思考。――目の前に居るのは、女だ。――それは現実をありのまま捉えて湧き出た感情。平生ならば検閲に掛け歪曲して思考する内容。それが生々しく心へぶつかったのは、情報を処理する時間が無かったからだ。事物を適切に受け止める間も無く、更に重大な事態がアサツキの思考へ衝突する。スクモの桜色の唇は、誤魔化しようも無くアサツキと接触していた。アサツキが真っ先に考えたのは、スクモを突き飛ばす事。その為にアサツキの手は、前傾姿勢を支えるスクモの腕に触れている。しかし、先程からのスクモの精神状態を考えれば、強い拒絶は出来なかった。故に、押し返す力は、意味の無い程度になる。あらゆる拒否が同じ理由で不可能にされた。
スクモが顔を離した。唇が触れ合っただけというに、スクモの表情は明らかに恍惚としていた。アサツキは青褪める。次に何を言えば、今の出来事を無かった事に出来るのか。アサツキにはまるで分からなかった。対するスクモも、次に何をするか考えあぐねたようで、再びアサツキに顔を近付ける。アサツキでも二度目は許さなかった。手で防ぐと、スクモを押し返した。尻餅の格好になるスクモ。
「何を考えてるんだ?」
取り敢えずアサツキは訊くしかなかった。
「何を考えてる? 君の事を考えているとしか言えないな」
「ふざけてるのか? それとも何か勘違いしてるのか? 兄妹だぞ?」
自分で言って、アサツキは具合が悪くなった。
「君が私を、一番大事にしないのは、私が兄妹だからなのか?」
スクモに問われても、アサツキは答えられない。物を言う気力が消沈し、今すぐにでも死にたい気分だった。
「なあ、落ち着けアサツキ。君が一番好きなのは私なんだ。本当に好きなのは私だけなんだ。けれど、体が若いだろう。だから、相手を自由に出来るというだけで、性欲に引き摺られて、心が勘違いをするんだ。君があいつを好きになったのは、というより、好きと錯覚したのはその所為だ。私が兄妹だから、私とはそういう事が出来ないから……」
「暫く、黙ってくれ」
「まあ最後まで聞け。今度からは、私が相手をしてやる。それで君も満足だろう。浮気もしなくなる」
「はァ?」
「問題なのは、君が私と兄妹だと思ってる事だ。だから、そういうのは出来ないと信じ込んでしまっている。けど安心するんだ。いいか、良く聞け。私と君は兄妹ではない」
「黙れって言ってるだろ」
「いいから、聞け。私は元々気霊師で、個人的な事情で体を作り替えて、それから君と一緒に産まれたんだ。だから、元々君と私は他人なんだよ。双子なのに、似てない容姿を気にした事が何度もあるだろう? 私が家族の誰にも似てないと思った事があるだろう? それは、それが理由だ」
「黙れ! 沢山だ! もう沢山だ!」
アサツキは立ち上がって、部屋の扉へ歩を進める。スクモが掴み止めようとしたが、振り払う。扉に手を掛けた所で、振り向いた。
「お前は狂ってるんだ。まともじゃないよ」
はっきりと軽蔑を籠めて、アサツキは言い放った。スクモは一瞬だけ悲しそうな顔をしたが、何かが振り切れてしまったのか、不敵に笑った。
「狂ってないよ」
「だったら――」ふと、アサツキの脳裏に思い起こされる、三年前のあの日の光景。あの日、スクモは血塗れになっていた。つまり、何らかの悲惨な事態に巻き込まれていたのだ。あの時は、自分の事に手一杯で、まるで気にしていなかった。けれども、今にして思えば、あの日以降、スクモと共に居ることが多くなってはいなかったか。父と弟が居なくなり、自然と共に居る機会が増えただけ、或いは自分を慰めてくれているのだと思っていた。実際、そうだったかも知れない。だが、スクモの悲劇は、今に限って、これまでと異なる意味を持つ。スクモを糾弾する格好の材料となる。
「だったら、お前は壊れてるんだよ。あの日、お前に何かあったんだろう。それで、その不安で、好意と恋慕がぐちゃぐちゃになってるんだ。不安を解消するためなら、お前は何だってやるだろうさ」
「アサツキ、人の心は壊れるほど繊細に出来てはいない。どんな悪辣な環境に晒されようとも歪むのが精々。私は正気だ。よしたとい、狂っていても、それに何の問題がある? 狂おうが、狂わなかろうが、私は私で、君は君だ」
思いの外冷静なスクモの返事に、却ってたじろぐアサツキ。スクモは立ち上がると、じぃっとアサツキを見詰めた。
「さあ、それはさて置き、私とあいつは同条件だぞ。はっきりしろ、君が好きなのは私だ。あいつとは縁を切れ。さもなくば、私を殺してくれ。もう私は君無しでは生きていけない。ほら、選べ。あいつか、私か。私を選んで幸福に生きるか、あいつを、そうだな、昨日の詫びとして、サブラフに差し出せば良い。そうすれば万事解決じゃないか、なあ」
「知るか」
アサツキは逃げるようにして部屋を出た。
アサツキは扉の隣にマンナが佇んでいたのに驚いたが、話しかける余裕も無く、申し訳なさそうな一瞥を送るので精一杯だった。マンナは虚空を眺めていた。
それから、スクモがアサツキを追い、扉を開ける。
「待てアサツキ――」
スクモは、出されたマンナの脚に引っ掛かって、転んだ。隣を見上げ、怫然とする。
「殺されたいなら――」
飛び起きようとしたスクモは、急な制動を強いられた。スクモの舌に、錆びた短剣が重なっていた。
「静かに、して」
状況を理解できず、スクモは硬直する。マンナが短剣を突き出している、スクモに対して。何処から調達した短剣だ? 何故こんなことをしている? 考えても、解答は得られそうにない。マンナはスクモの耳に唇が触れる程に近付いて、囁いた。
「あなた、邪魔。私と、アサツキくんの、邪魔、しないで」
言い返そうとしたスクモの口の中で、短剣が歯に当たる。短剣は奥へ進み、咽喉を突き刺さんばかりだ。吐き気を感じたスクモの眼に涙が滲む。
「あなたに、アサツキくんを、愛する資格なんて、ないから。あの置物が、誰の物かも知らないで」
そう言い残して、マンナはスクモに背を向けた。短剣を抜かれ、咽るスクモだったが、怒りを露わに眼差しを向ける。その表情は、直ぐに疑念のものへとなった。
「なんで、どうして?」
それから、スクモは部屋の中を見た。先程のマンナの言葉が気になった。部屋に入り、砕けた置物の破片を、一つ一つ、一箇所に集めていく。そして、置物の下部にあたる場所、そこにある彫刻の線を辿って、驚愕する。
「嘘だ、やだ」
驚愕は絶望になる。
「やだ、やだぁ。ごめん、ごめんなさい、アサツキ。やだ、行っちゃやだ。待って、待って」
スクモは部屋を出るが、そこにアサツキが居る筈も無く。
「やだぁ、やだぁ、アサツキぃ」
その場には、へたり込むスクモだけが残り、童女のような泣き声は自らを掻き毟るように響き、様子を見に来たナオミが宥めても、もはや取り返しが付かない事を嘆くだけだった。




