アスラウエの日々―夜―
その日の夜は暗雲に星が隠れていた。気霊灯の明かり揺らぐアルカギリ家の談話室で、アサツキが詰問されていた。
「いったいどうしてあんな暴力を振るったの、私はあんな事を教えてない!」
殆ど半狂乱になってアサツキを責め立てるのは、ナオミだ。
「アサツキに怪我がなくて良かったけど、暴力は良くないわね」
何処か他人事のような調子でそう言うのはアザミだ。しかし、今回の事で一番迷惑を被るのはアザミである。のほほんとしたアザミの態度にも、ナオミは苛ついていた。
「奥様、いい加減に目を覚まして下さい! 今回の事はアサツキ様を注意したくらいでは済みません!」
「あら? どうして?」
「どうしてって、奥様……。相手はあのサブラフですよ、このまま何事もなく引き下がる筈は御座いません。表向きは不問に処されているとはいえ、これからどんな事を要求されるか……」
その時、椅子に座っていたアサツキがすっくと立ちあがる。ナオミはきっと睨んだ。
「何処に行くんですか」
「話は十分でしょう。いくらここで喚いた所で、向こうの算段が分かるでもなし」
部屋を出ようとしたアサツキの裾を掴んで、スクモが引き止める。
「待てアサツキ、まだなんであんなことをしたのか聞いていない」
「そうです、何があったのか話して下さい」
アサツキはスクモの顔を見た。不安に根差した怒りと共に、貴方を信じている、といった風の甘えが入り混じった表情を、アサツキはいつか見た気がした。それは、大分昔の記憶だった。シュウの浮気が軽く疑われた際のアザミの表情。醸し出す雰囲気がそれに良く似ていた。シュウは一切が潔白で、何の事も無く一件は終わったのだが、アサツキの場合、そうはならないと直感された。しかし何故スクモにそんな顔をされねばならぬのか、理解できないアサツキはそれに納得できない。不満は沈黙となって表象された。
「おい何とか言え!」
「アサツキ様!」
「……名誉の為です」
言葉に、アサツキ以外の三人は、はたと考え込み、すぐさまスクモが低い声音で言う。
「言うに事欠いて名誉だと? 誰の名誉だ。君か、あいつか」
「僕のだ」
「サブラフが君を侮辱したと? どうやってそうしたというのだ」
「それは……」
答えあぐねたアサツキにスクモが掴み掛かる。
「あいつを庇うのか!?」
「違う」
「私に、嘘まで吐くのか」
「違う」
「違わない」
スクモはアサツキから手を離した。目には涙が浮かんでいる。呼吸は走りでもしたように荒く、痛むのか、胸をぎゅっと掴んだ。
「大丈夫?」
アサツキの言葉へは直接反応せずに、スクモは摘まむ形で、アサツキの服を掴んだ。
「おい――」
二の句を断ち切るように、スクモはアサツキに抱き付く。抱き止めたアサツキは、言葉に困って何も言えなくなった。
「今日は私と一緒に寝ろ」
「今日もだろ」
「何でもいい」
「ッ、と、兎にも角にも、何があったかはきちんと話してもらいますよ」
ナオミが詰め寄ると、つい、アサツキはナオミから遠ざけるようにスクモを抱き締めた。
「今日はもういいでしょう、明日にしませんか」
「そうね、そうしましょうか」
「奥様!」
「ほら、ナオミ、明日に備えて早く寝ないとね?」
「……はァ、分かりました」
不承不承承知したナオミも引き下がり、この場はお開きとなった。
アサツキが自室へ向かい、スクモはアサツキの腕を抱えている。そのまま部屋に入り、ベッドに入ろうとした所で、アサツキは立ち止まった。
「なんだ?」
「先に寝ててくれ」
「なんでだ」
「……寝る気にならない」
「それで? 君はどうする」
「散歩でもしてくる」
「なら私も付いて行こう」
「来なくていい、迷惑だ」
「な、にっ」
「一人になりたいんだよ」
じとりとアサツキを睨んだが、スクモは「さっさと帰ってこい」と言ってベッドに入った。「ああ」と返事をし、アサツキは部屋を出た。
廊下を歩く。考える事は何も無かった。全て過ぎ去り、全て終わった、そんな気分だった。前までは、スクモを気霊院に入れるという志があった。その為に生きていたと言っても、過言ではない。そして、そんな日常を守る為にも生きていた。しかし今では、そのどちらも失った。スクモを気霊師になどさせてはならない。社会的にどうであれ、アサツキには殺人でしかない事を、最愛の人にさせる訳にはいかなかった。そして守ってきたつもりだった日常も、結局は虚妄に過ぎなかった。運良く理不尽が目の前に現れていなかったというだけの話で、いざ事が起こった時に、自分はその場に居ない。唐突に起こる理不尽に備えてきたつもりだった。けれども、あの少年の死で痛感したのは、備えられないから理不尽は理不尽なのだと言う事だ。だからアサツキの苦心惨憺たる備えには根本的に意味が無い。理不尽を克服するには、理不尽を耐えるしかないのだ。理不尽を待ち受けねばならない。理不尽を心待ちにしなければならない。その為の準備など存在しない。理外の所にアサツキの狙う魔物は住んでいるのだ。
徒に命を費消させてきたのだという事実にアサツキが気付いた時、手許に残っていたのは、数少ない成果だけだった。つまり、過去に救った命。過去と言う運命の圏域から外れた世界にある確固たるもの。マンナと己の関連性。それが闇を直視して視界を囚われたアサツキにとっての、朧な寄る辺だった。
アサツキはマンナの部屋の扉を叩いた。部屋の中で歩く音がして、扉が開く。マンナが顔を覗かせた。
「ちょっとだけ、いいかな。用事があるわけじゃないんだけど」
「いいよ」
アサツキはマンナの部屋へ入った。
マンナの部屋に入った事はこれまで無かった。マンナの部屋がどうなっているのか、アサツキは知らなかった。そのため、些か驚いた。部屋の中に、私物と言える物が何も無かったからだ。机の中央に置かれた、スクモの為に用意した鳥の置物が、異様に目立っていた。
「椅子、出すから」
アサツキには備え付けの普通の椅子を差し出し、自らには陰に置いてあった簡易な椅子を出す。アサツキが止め、各々の身分が入れ違った状態で落ち着いた。
アサツキは机にある置物の周りに、粉が積もっているのを目に止めた。傍らには彫刻刀もある。
「それは?」
「た、誕生日の、贈り物、だから、特別な方が、良いって、思って。ごめんなさい」言い乍ら、置物をアサツキに渡す。置物の底には、見事な装飾文字で「スクモへ」と彫られてあった。
「器用だね。有り難う」
「そ、その、アサツキ、くんにも、驚いて、もらいたかった、から、黙って、したの。ごめん、なさい」
「これだけ上手に出来たんだ。気にしなくていいよ」
「ありが、とう」
アサツキは置物を弄びながら、溜め息を吐きそうになった。
「本当は今日、渡さなきゃ駄目だったんだけどな」
「今からじゃ、だめ?」
「そんな気分じゃない」
置物をマンナに返す。手指が触れ合った。アサツキは、自分の獣欲を自覚した。これまで何度か接吻を交わしたが、アサツキにとってみれば、それは一つの間仕切りであり、その先の行為へ進まないための標だった。そう、思っていたのだが、実態は抑えきれない獣欲が発露したに過ぎない。渇きに似た、思考と無関係な欲動をはっきりと認識した時、アサツキは如何に自制が困難か思い知った。少なくとも、欲望に銜して乗り熟すのは不可能と悟った。欲望を爆発させぬようにと、人が欲望に餌を与える時、実は欲望が人を操っているのだ。だからアサツキがこの場で欲動を抑えようとするのなら、直ちにマンナから離れる必要がある。それ以外は無い。けれど、アサツキはそうせずに居た。自分の獣欲を自覚しながら、それを抑え込む術を悟りながら、そうは出来なかった。マンナが擦り寄ってきて、アサツキの手に自身の手を重ねたからだ。今ここでマンナを避ければ、別の意思表示になってしまう。それはしたくなかった。そして、その程度の心持ちで、抑制される欲望ではない。多くの場合、人を支配する欲望だ。その真髄は、如何にも支配されている体を保つ事だ。欲望に支配される時、人は欲望を支配しているように錯覚する。アサツキもその例に漏れず、欲望を耐えているつもりになっていた。実際には靡いているのだが。
深い沈黙の中、血潮の流れが賑やかになる。暑さが、汗を滴らせる。汗ばんで張り付いた衣服の端を摘まんで、空気を取り入れるマンナのその柔肌から、アサツキは引き剥がすように目を逸らす。
唐突に、マンナが魔魅染みた口唇を開くには、「今日は、一緒に、寝て欲しい」と。アサツキは思考の癖で断る理由を探した。それは容易に見付かるのだが――スクモを待たせている――深く惟るより先に、口を言葉が突いて出た。
「いいよ」
汗ばむ夜、何故、大きくも無いベッドて同衾しているのか、アサツキは迷夢のような感情に囚われながら、迷夢に流されつつ、迷夢を従えるような気分を味わった。欲望に敗北した者ではなく、敗北を自覚する者だけが、欲望に打ち克てるのだと、後悔する。どうして、後悔しなければならないのか? 何となく分かっていたのだ。このままでは終われない事に。




