アスラウエの日々―決意―
外に出たアサツキは、それが欠乏していたかのように、深く息を吸った。必然、吐く量も増える。深呼吸で稼いだ時間は、思考を脇へ退けるのに使用した。
「帰りに寄りたい所があるんだろ? 遅くならない内に行こう」
「いいのか?」
「いいもなにも、むしろ何か悪いの?」
「だって、君が……」
「気にするな」
「じゃあ、こっちに行こう」
心配そうな顔を崩せないまま、スクモはアサツキと手を繋いだ。すると手を握り返され、そんな事は久しくなかったので、俄かに照れた。
「アサツキ、君本当に大丈夫なのか」
「大丈夫じゃなかったとして、それが何か問題なのか?」
「え? それは当然そうだろう。君が苦しんでいる横で、私がのほほんと笑っていられるか」
アサツキは無表情にスクモを眺めた。何か思考しようとしたのだが、思考は先程、追いやったばかりだ。黒い空白がアサツキを一時停止させる。
「アサツキ?」
「何も無い。早く行こう」
「そうか、じゃあ、行こうか」
スクモは例の置物のある店まで真っ直ぐに向かった。店に着くと、わざとらしく商品棚を物色し始める。アサツキはそれを見て、マンナの謂に間違いは無かったらしい事を認めた。
「そういえば、私の部屋は殺風景じゃないか?」
「見た事ないな」
「え、そうだったか?」
「うん、僕の部屋が半分スクモの私物で埋まってるから、使ってないのかと思ってた」
「ああー……」
大抵はアサツキの部屋で過ごすスクモは、自分の物を殆どアサツキの部屋に置いていた。今や当たり前の事で、スクモは失念していた。
「んぅ、まぁ、流石に着替えなんかは、君に怒られてから自分の部屋でやっているだろう? そういう時にふと思うのだ、小洒落た置物の一つでもあったらなぁと」
「ふーん」
「その、あれだぞ、人体模型は嫌だからな。そんなもの今更、見るまでもない。私が欲しいのは、こう、女の子っぽいやつだ」
「ふーん」
「そうだな、なにか、浮ついた謂れでもあれば尚良いな」
「そう」
「君は何か、欲しい物とかないのか」
言われ、アサツキは考えようとした。だが、思考が黒く塗り潰されて断続し、上手くいかない。睨むように目を眇めるのは、心象風景が現実の視界を腐蝕させたからだ。
「無い」
辛うじて絞り出せたのは、その一言だ。
「そうか? では、もう行こうか」
スクモはアサツキの手を取って歩き出す。取り敢えずの目標が達成できたので満足だった。
帰り途、劇場の近くを通り掛かったスクモが、ふと歩みを止めた。往来の目に付く掲示板を眺めている。期待を混濁させた瞳で、アサツキに語り掛けた。
「なあアサツキ、あれを観に行こう。『アーヴァレオンの陥火』だぞ、君が好きな劇だろう」
確かに耳に心地良い題名だった。普段なら何か考えてから声を出すアサツキだったが、この時は、不思議と惹かれて間断無く頷いた。
「よし、では行こう」
ぐい、と強く腕を引っ張られる感触に、「観終える頃には日暮れだよ」と忠告が漏れたのは、思考を抜きにした習慣であった。そんな日常茶飯事に止められるスクモではない。
末席を獲得したスクモは、必要以上にアサツキへ身を寄せつつ、鑑賞の姿勢に入っている。アサツキは腰を落ち着かせると、論理を構築できない心中を静視した。黒一色の油染みた淀みに、白くて細い虫のような何かが幾本、蠢き這いずっている。アサツキはそこへ腕を突っ込んだ。黒い淀みの中心に渦が巻く。掴んで引っ張り上げるのは、言語の断片。口にするのも憚られる呪詛と共に、常識的な言葉が指に絡まっていた。
「スクモ」
「なんだ?」
「お前、この劇が嫌いじゃなかった?」
「この際だ気にしまい」
「どの際だ」
「この際」
んふふ、と至福の笑顔を浮かべながら、スクモはアサツキにぴとりと寄り掛かった。その様を心の隅で狂気と感じたのは、ほんの少し前にあの少年が死んだ事を知っているからだ。
舞台の上で一人、役者が台詞を高吟する。
「時が癒してくれる悲しみなど無い。浅い眠りに月が冴え渡る夜、夢と現の往来は幾重にもなり、次第に地に足の着いた感覚は消え、自分の正気が信じられなくなってくる。そして気付くのだ、己は立ちながら寝てはいないということに。――人々は悲しみを押し殺して生きる。しかし過去に手が届かぬうえは、悲しみの根源を確かめることはできない。ならば悲しみとは今のものであるはずだ。だが、今とは、何だ。今ここにあるのは俺ただ一人と月光だ。何処に悲しみをもたらす悪しきものがあるというのだ。やはりこれは夢でのことか? それとも、嗚呼、現か? どちらでもよい、もう、どちらでも同じことだ」
狂気なのは、己か、スクモか。答えをこの物語に託せない事をアサツキは知っている。だから、自分で考えねばならない。打ち倒すべき敵と、守るべき味方と、はっきり二分し、敵と闘わねばならない。そう、敵とは、世界であったはずだ。愛する者を理不尽に奪うのは、特定の誰かではなく、自身を取り巻く世界なのだ。だが、世界とは何だ?
「ねえスクモ」
「なんだ?」
「幸せか?」
不意な質問に幾何かの間を置いて、スクモは幸せそうな顔で「ああ」と言った。
世界は、愛する者を幸せにしつつ、救う筈だった者を殺した。それがアサツキの前に厳然として降り来たった事実だった。世界が「正しい」ものであるならば、この時、スクモは不幸でなくてはならない。そうでなければ辻褄が合わない。だが、そんな考えは狂っている。愛する者の不幸を願うなど有り得ない。けれど、どうだ。実際、救うべき少年は死に、それとは無関係にスクモは幸福だ。それを良しとするなら、世界は「間違った」ものなのだ。一方は幸福で、もう一方は不幸で、それを是とする世界など、正しい訳がないのだ。地獄と天国は同じ場所に存在しない。永遠の責め苦の隣で、無限の快楽を味わうなど正気の沙汰ではない。
ならばこの世界とは何なのだ。天国でもなく地獄でもなく、けれど幸も不幸もこの世界の内にある。愛する者に相応しい報いを与える世界と、守るべき者へ理不尽な仕打ちを加える、世界の線引きはいったい何だ。
三年前を思い起こす。あの時は地獄だった。だからこそ、善良さや徳の有る無しに関わらず人が死んだ。それは分かる。だけど今は違う。それなのに、何か良くないものは、どんな些細な隙間からでも、水より細く柔く滑らかになって侵蝕してくる。それが報いなら構わない。理不尽、不条理、抗し難い悪夢だ。
観劇が終わる頃、家路は血のように赤く染まっていた。太陽は直ぐにも落ちて夜が来るだろう。
「今日は楽しかったな」
スクモが言った。アサツキは耳を疑った。
「お前は、何も思わなかったのか?」
「なにをだ?」
「あの子の事だよ」
「ああ、まあな。私は君程あの童に関わりないし、それに何より、気霊師の周りじゃよくあることだよ。いちいち気にしていてはきりが無い」
これまで気にしていなかった事、敢えて考えていなかった事が、アサツキの眼前で浮き彫りになる。夕陽の赤さに縁取られた影が濃く見えるように、それまで自然に存在していた影が急に特別なものに見えるように、スクモの居る世界とアサツキの居る世界が、そんな風に異なっていた。
「こんな日がずっと続いたらいいのにな」
そうスクモは言う。アサツキにしたら堪ったものではない。だが、居る世界が違う以上、その相違は当然なのだ。十数年ずっとそうだったのだ。気付かなかった訳ではない、意識しなかっただけだ。
ならば、世界とは、己の認識以上のものではない。
ならば、敵とは、己の認識以外のものではない。
ならば、闘いなど、始めから無意味だ。
ならば、己のこれまでは、全て無駄だ。
そして、彼らが死んだのも、死んだという事実以上の事は無い。彼らは無意味に死んだ。
「何故」
アサツキは問うた、彼らの死の理由を。誰かに殺された訳ではない。何かに殺された訳でもない。強いて言えば、この世界の運行を司る「何か」に偶然、衝突したに過ぎない。けれどその偶然も、むしろ偶然こそ「何か」の手中にあるはずだ。だから、アサツキは誰かにではなく、世界に問うように呟いたのだ。けれど、それが人生のどんな瞬間であろうと、返される答えは、答えにならぬ、漠然として捉えきれぬ現実だけ。
「何か言ったか?」
「何でもない」
アサツキは静かに決意した。この世界を支配する「何か」、時に運命と呼ばれ、時に神と呼ばれ、時に偶然と呼ばれ、きっと幾百通りもの定まらぬ名を持つ何か、それをきっと捨て置かぬと。復讐を、制裁を、狂ったそれを、間違ったそれを、必ず正す、と。




