アスラウエの日々―膠着―
世の中の全ては自分の知らない内に起こっている。自らが知り得るものなど、大海原に漂う砂粒の一つにも満たない。それでも尚、人は多くを知り得ると幻想を抱いている。それは小さき故に大海の広さを知らないからだ。なればこそ、世界を知る事など不可能だと知り得た者は、幸運な者と呼べるだろう。そこにどんな代償があったか、それは別として。
アサツキ達の前に姿を現したチグサは、アサツキ達の憶えているチグサと少し違っていた。背が縮み、服も丈が長く緩い。元々幼い容姿であったが、これでは少女とも呼べぬ幼女である。
背負う困難を新たにしたチグサは、まだ己の過誤に気付いていない。否、それは元来、過誤とすら呼べぬ、常識の範囲内での出来事だ。この場合、踏み抜いた腐った板というのは、管理し得ぬ領域の物だった。つまりズレた感性を持っているのはアサツキなのだから、それを避ける事は不可能だった。
「お待たせしましたね、二人とも。薬草の代金はこちらです」
「いったい、どうしたんですか、その姿は」
「ええ、まあ、今回はちょっと若返り過ぎましたね。それだけ体内の気霊機構に支障が出てきたということです。この調子ですと、あと数年もすれば赤子にまで若返ってしまうでしょう。それが更に進めば、生きていく事も適いません。まあ、本来の寿命と差はありませんから、そこはまあ、受け容れます。ですが時間が無いのは確かです。出来るだけ早いうち、あなた方に私の研究を引き継いでもらいたいものです」
「先生の研究を引き継ぐのなら、丁度良い人物がいますよ」
「ほう、それは?」
チグサとしては、当て付け染みた分かり易い懇願だった。アサツキは僥倖とばかりに、それを逆手に取った形だ。
「最近、僕らと同調の研究をしているあの少年です。まだまだ素人ですが意欲は十分ですし、今から育てれば必ず先生の意に沿いますよ」
「少年……? ああ、あれですか。すみません、あれは無理ですね」
「無理、って?」
「使ってしまったので」
「使った?」
「ええ。アサツキ君がそう薦めるのなら少しその器量を量ってみても良かったかもしれませんね。とは言え、先日の落雷と火災で幾つかの機器やら気霊晶に不都合が生じてしまっていたが為の使用でしたから、不可抗力というものでしょうか。それに、いくら何でも奴隷を正式な弟子にはしたくありませんし」
惜しい事をした、だが仕方のない事だ。そういう体面で、まるっきり嘘でも無い。そもそも、現在のチグサにはアサツキ乃至スクモ以外は眼中に無いのだから、奴隷に期待をしろと言うのがただでさえズレた話であるのに加えて無茶だ。
アサツキは思惑が外れた事を示す不吉な言葉に、血液の滞りを感じた。規則正しく全身を経巡る筈の血液が、心臓で保留されているような感覚。何か取り返しの付かない事をしてしまったのではないかという予感。言葉を発する為に開けるアサツキの口は、微かに震えていた。
「その、話しが見えないんです。使ったって、どういう事なんですか」
「使ったは、使ったという事ですが……。ああ、そうでした、アサツキ君達にはまだ教えていませんでした。まだ時期尚早かと考えていたのですが、そうも言っていられませんね。あと数年で私の研究を完璧に引き継いでもらいたい所ですから。時宜として悪くありません。では実験室へ案内しましょう。面白い物をお見せします」
家の奥へ足を運ぶチグサと、緊迫した面持ちで小さい背中を追うアサツキに、嫌な展開を察知したスクモが袖を引く。
「行くなアサツキ、君の為にならん」
「まだ何があるか分からないだろ」
「そうですよスクモさん。スクモさんもきっと気に入りますよ」
「私の言う事が一度でも間違った事があるか? 私が君に嘘を吐いたことが? 考え直せアサツキ、世の中には知った所でどうしようも無い事が山ほど、いや、それがほぼ全てを占めているんだ。そんな事は始めから知らなくていい、その方がきっといい、余計なものを溜め込まない分な。君が考えるべきなのは、どうやって私と幸福になるかだ。薬草は売った、用は済んだ、なら帰ろう。早く君と帰りたいんだ」
「先に帰っててくれ。僕には確かめる事がある」
「アサツキ!」
「あの、いいでしょうか? 早いとこ案内しますよ。スクモさんの望むように、時間は掛けません」
アサツキを拉せない歯痒さは何度も経験した所のものであるが、今回ばかりは、苛立ちさえしたスクモだ。何故わざわざ破滅する方向へ勇んで行くのか、私との幸福を無視してまでも。スクモには納得できないし、理解したくもない。その理由を把握することは、自身がアサツキからは愛されないと知る事であり、その運命を背負うという事だからだ。そんな運命は絶対に認められない。そんな運命に圧し潰されるくらいなら、この世界を崩壊させた方が何千何万倍もマシだ。アサツキが自分と共に居ないと言うなら、アサツキの何もかも否定し尽くして、屈従させて、強引にでも共に居させた方がずっと良い。そんな凶暴な感情が芽吹いたのは、この瞬間だった。しかし、それが仮令この先、樹齢千年の巨木にまで生育し得る芽であった所で、今は未だ芽なのだ。燃え盛る車を曳いていくようなアサツキの心を止めるには余りにか弱い。踏み潰されるのが関の山だ。だから、スクモは黙ってアサツキの傍を歩くしか出来なかった。
地下への階段は湿り気と冷気を併せた澱んだ空気に満ち満ち、息を吸うのさえ苦しく思える。この先に待ち受けるものを予想しながらアサツキは、濁流を防ぐ堰を築くのに間に合わない。それでも、此処を無視していくのは許されない。アサツキをアサツキたらしめる根幹がそう命じる限り。扉は開かれた。
アサツキの眼前に顕現した光景は、営々と蓄積された気霊学の一つの成果であった。開陳されたあの少年の内部は、管や機構を通じてある種、芸術的な模様を描きながら最終的に一つの装置へ集約している。漏斗のような装置の先から赤い滴が粒となって、受け皿に注がれている。受け皿の上で粒は赤い霰が集積したように小さな山となっている。それこそは、あの少年を原材料にした気霊晶であった。
その光景を、機械の仕組みや目的を、アサツキは意外にも平然と見受けていた。獣の内臓を或る程度は見慣れており、人間の臓器を見るのも初めてではなかったのが要因か、予め、こういう情景が広がっていると、朧気にも考えていたからか。自身の平静についてアサツキは一瞬だけそう思った。だがそれらの事など、あくまで要因でしかない。
そもそもアサツキは、正義感に溢れた熱い男だろうか? 否。弱者を放っておけない勇者だろうか? 否。自らと自らに関連する者共を守る、愛ある人だろうか? それすらも違う。アサツキが悪を憎むのは、それが弱者を虐げるからだ。アサツキが弱者を助けるのは、「そうしなければならない」からだ。アサツキが抱く愛情というのは、愛着ではなく、評定だ。「然り」という判断だ。アサツキの心にあるのは何時如何なる場合にも、ある基準と照応した判断なのだ。あれをしたい、こうあって欲しいという願望は無い。精々が願望の雰囲気しかない。だから、その恬淡な性根が情景を咀嚼し吐き出した時、現れ出でたのは憤怒でも困惑でもなく、多少の安心感だった。彼の存在が消えたという事は、この先の幸福が途絶えたという事だ。ならば花弁を手放してしまう心配も無い。その安心感だ。
そんなアサツキにとっての自然は、アサツキの自然によって攻撃される。恬淡の裏返しにも似た、恬淡によって齎される過剰な、と言うよりは異常な責任感は、数秒の間を置いて苛烈に心を呵責した。あの目の前の少年は、救うべき人物ではなかったか。この悪徳を捨て置くのか。お前はこれ、この光景、この有り様に、安堵したのか。それはつまり、お前が、その剣で貫かれるべきという事ではないのか。
アサツキは、腰元の剣の柄を握り締めていた。
「違う……」
スクモにも聞き取れない微かな声を、アサツキは漏らしていた。何が違うのか、自身は断罪されるべきではないと言うのか、安堵していないという言うのか――それは通らぬ主張だ――、チグサを悪徳ごと斬ろうと言うのか、少年は救うべき人物ではなかったとでも言うのか。
終に自家撞着が破滅的な矛盾にまで到達して、アサツキは微動だにさえ出来なくなった。その間にチグサは、揚々と装置の説明に入る。
「実は気霊晶という物質には、鉱物由来の物と生物由来の物があります。鉱物由来の気霊晶が、普段アサツキ君達も使っている気霊晶です。気霊院で流通が管理されているのは、この分類の気霊晶です。鉱物由来と言っても、実際には生物が大本なのですがね。生物の遺骸が特定の条件の下、長い時間を経れば鉱石のような気霊晶が生成されます。故に、主に自然界で採取されます。生成条件と主な採掘地については、また今度に詳しくお教えしましょう。鉱物由来の気霊晶はあまり強い気霊を持っていませんが、その代わり安定した気霊働を得る事が出来ます。これに対して生物由来の気霊晶は、かなり強い気霊が得られる代わりに、気霊働は不安定です。私の若返りの気霊機構に生物由来の気霊晶を採用したのは、強い気霊が魅力だったからなのですが、それが裏目に出て、今では制御が効かなくなってしまったのですね」
そして、生物由来の気霊晶は、気霊師による製造が許可されており、この部屋の装置こそが、気霊晶を生成するためにチグサが作った物だと言う。
「何故」
「はい?」
「何故、あの少年を、材料なんかに、したんです」
「それはですね、生物から気霊晶を生成すると、個体差によって気霊晶の性質が大きく変わるからです。お判りでしょうが、出来るだけ都合の良い気霊晶を生成しなくてはなりません。気霊の質を測定した結果、あれがまあまあ私の求める質に合ったという訳です」
奴隷をどう使おうが主人の勝手。奴隷は喋る道具なのだから。アラガナムでは別に、あげつらうような価値観ではない。極ありふれた考え方である。けれどアサツキは、奴隷であろうが誰であろうが、対等でないにしろ、同じ人間ではある、という環境で十数年を生きた。奴隷が奴隷として扱われる環境に身を置いたのは、この三年だ。心根は、馴致せず、過去の価値観を揺るがせにしない。例えば、奴隷と貶めて泣かせたナオミに対して、後日あっさりと軽蔑を控えたのは、奴隷と貶めた事に対する罪悪感があったからだ。アサツキにとっては、奴隷であろうが市民であろうが、騎士であろうが皇帝だろうが、気霊師であろうが、同じ倫理を拝する人間だ。人間でなくてはならない。立場や階級が異なろうが、人間という存在を規定する倫理に反することは許されない。許さない。だが、そう、これはただ、考え方が合致しないだけの話。前提となる価値観が、アサツキと社会で異なるだけの話。一般常識に当て嵌めて考えれば、今でもチグサは、生徒に期待を掛ける心優しい教師であり、優秀ではないまでも熱意ある気霊師である。
総て理解しているからアサツキは、掴んだ剣を引き抜けない。情動に任せて動く選択肢が無い。ならば自分を殺すか。己の倫理に反した己を殺すか。だが、それすらも不完全、アサツキは何一つしていないのだからだ。アサツキは、少年の栄達を願っただけ。その脇道に葛藤があっただけ。それが罪になる道理など無い。
しかし、この状況は? では、この状況は?
「アサツキ君、大丈夫でしょうか? 吐くのならそこに瓶がありますので、遠慮しないでよいですよ」
「大丈夫、です。大丈夫」
アサツキは柄から手を離した。
「一つ訊いておきたい事があります。気霊師は、こういう事をするのが一般的なんですか?」
「ええ、気霊晶の生成は必要に応じて行われるでしょう。気霊師に必須の知識でしょうね。アサツキ君達が本格的に気霊師になる勉強を始めるのでしたら、この知識もお教えします。どうです?」
「スクモ、帰るぞ」
「へ?」
「え?」
「先生、今日は有り難う御座いました。また塾で」
「へ、ええ、そうですね。また会いましょう」
部屋を去るアサツキの背中を、当惑気味でスクモが続く。アサツキの奴隷に対する価値観を理解していたスクモは、アサツキが憤慨するなり慟哭するなりあると思っていたから、アサツキが今なにを思うのか、まるで見当が付かなくなっていた。




