アスラウエの日々―授業―
沛然たる雨は家屋の屋根を伝い、壁を伝い、地を這い、アサツキの周りを廻る。野外から雨の跳ね飛ぶ音が、家の中心近くからは貯水槽を叩く雨の音が、くぐもってアサツキの部屋に届いていた。蒼然たる夜は雲から滲んだ月光を避け、闇は淀んで物体の境界を蕩かす。夜の底で家人の眠りは深まっていた。
例外はアサツキの眠りで、これだけは、淵瀬を溺れるように浮沈している。現の闇が夢で見え、夢の灯りが現で見える。突如として落雷が、夜の帳を切り裂いて、轟音と白光を閃かせる。アサツキは夜襲でも受けたかのように飛び起き、剣を手探ってスクモの腕を掴んだ。掴んだのが剣でないのに驚き、アサツキはその場を素早く脱せるよう壁に踵を付けて構えた。が、無論、襲い来る者などあろう筈なく、アサツキは滑稽に踊っただけである。
腕を掴まれた拍子に眠りから覚めたスクモが「どうした?」と声を掛ける。耳の奥でざわめく脈拍が雨のさざめきとなるまで、アサツキは硬直していた。それから、暗闇で見えないスクモを見た。話そうとして口を開けたが声が出ない。話すべきことが幾つかあって、搗ち合ったのだ。「アサツキ?」スクモは暗闇を探って、アサツキの手を握る。「なんでまた居るんだ? 自分の部屋で寝ろって、言うのは何度目だよ」言うことが決まれば、予め考えておいたかのように、すらすらと発言できた。
「私は自分のベッドで寝ている」
「これは僕のベッドだ」
「君の寝る所が私の眠る床なのだ」
アサツキは嘆息する。言って聞かない事は知っている。
「僕の剣はどうした」
「剣でどうするつもりだ?」
「どうもしない、剣は何処にある」
「何故ベッドに剣なんぞ置く。寝る時に邪魔だぞ」
「剣は? スクモの下敷きか」
「まさか。邪魔だから退かした」
「何処に」
「下だ」
苛立ちは闇に隠れた。剣を取ろうとスクモの体を過ぎった所で、生えてきた白皙の腕に絡めとられる。
「おい離してよ」
「怖いのだろう?」
「なにが」
「敵が」
「敵なんて何処に居るんだ」
「何処にでもいるさ、敵なんて。だから武器を手放せない、そうだろう」
「違う」
乾燥した風が胸の中で吹き付けてくるような、不愉快な焦げ付きをアサツキは感じた。
「おいで」
スクモはアサツキを抱き寄せた。スクモのする事に激しい抵抗をしないアサツキだから、呆気なくスクモに抱き締められる。スクモの命令に従うと、まるでスクモの人形になったようで、それが安心して良い事なのかどうか、アサツキは分からなかった。けれども、その分からなさを齎す、反骨或いは反逆心が、自らの芯であると、何となくアサツキは知っていた。だから、大事なのは、スクモに服従するか否かではなく、スクモを傷付けてしまわないか否かなのだ。剣はそのためにある。スクモを傷付けない為にある。スクモを守る為にある。スクモを奪われない為にある。では敵は何処に居るのか。
「君の気持ちが、私にはとても分かるんだ。世界の全てが、こんなにも大きな世界なのに、私をたった一人にするんだ。私をたった一人にして、そうして私を苛めるんだ。苛められないためには、強く在らなきゃならない。武器を持たなきゃならない。何もかも壊せなくちゃならない。……でもな、アサツキ。そんな事は疲れるんだ。とっても、とても疲れるんだよ。どんなに強くなっても一人のままだ。一人のままなら、闘いは終わらない。永遠に闘い続けなくちゃならない。そんなのは疲れるんだ」
「いったい何と闘ってるんだよ」
「全てだよ、私以外の全てが敵なんだ。でも、アサツキ、君は例外だ。君さえ居れば、私は一人じゃない。二人だ。だから、もう、疲れなくて済む。代わりに君は私さえ求めていれば良い。君の敵は私が消そう。だから、君は私を一人にするな。そうすれば、この世界は完全なんだ。壊してはいけない、剣を持つ必要は無い」
スクモの考えは、アサツキと相容れるとか容れないとか、そんな次元には無かった。雲と蜘蛛と同じくらいの差である。同じ世界に存在しているというだけで、較べるに適う指標すら有り得ない全くの別物なのだ。スクモとは理解し合えない。しかし何よりも大切なのがスクモなのだ。だから、アサツキは剣を取る為にスクモの腕を引き離した。
「おいアサツキ」
恨めしくスクモが呼び止める。アサツキは構わない。ベッドを降りて、剣を手にした。
「こっちに来い、馬鹿者め」
スクモにとって、アサツキが自身を離れるのは裏切りなのだ。その自覚もなくそれを繰り返すから、スクモは怒る。だがアサツキにとってスクモへの裏切りとなるのは、スクモの後ろに居る事、スクモとの世界の内側に引き籠る事だ。何故なら敵は外側に居るのだから。内側に居ては、スクモを守る事が出来ない。スクモを守るには、スクモから離れねばならないのだ。分かり合えない二人はけれど、確かに愛し合っていた。その愛は、その一点で繋がっていたのだ。理不尽な何かを強いてくるのは、特定の誰かではない。敵とは、世界である。
翌朝、雨は綺麗に上がった。アサツキはいつものように塾へ行こうとしたのだが、付き添いにマンナではなくナオミが付いた。ナオミの強い意志によるものだった。その事でアサツキは面白くなかったが、スクモは満足気であった。
塾は半焼していた。落雷が直撃して焼け落ちたらしい。その日の授業は中止となったが、アサツキは青天井となった講義室で、気霊の同調実験を行っていた。奴隷の少年は例の如く同伴し、今日はスクモも一緒である。スクモはやけに機嫌良く、チグサの論文の誤りと修正案の講釈を垂れながら、アサツキに指導していた。
「――いいか、肝要なのは、気霊には固有の性質があるという事だ」
「固有の性質? 気霊具を使った時の気霊働とは別なの?」
「愚か者、気霊具とはそもそも、安定しない気霊を気霊機構によって安定させ、一定の気霊働を得る道具だぞ」
「ああ、確かに。つまりその安定していない気霊に干渉すれば、理論上同調は可能ってこと?」
「そうだ、理論上は、な。気霊働は安定しているから、安定しない気霊で横槍を入れたところで、水の流れに棹差すようなものだ。大して意味は無い。水の流れを、その性質を変えるには、地形を動かすか、水源に細工するしかない、という訳だ」
「前者は気霊具そのものへの干渉、後者が気霊への干渉、つまり気霊の同調って訳か。……思ったんだけど、無理じゃない、それ。だって安定しない気霊に安定しない気霊をぶつけようって事自体がさ、投げられた球に投げた球をぶつけようって話だろ。しかもそれを連続でしなくちゃいけないって、仮に出来たとしても労力に見合わないよ」
「だから言っているだろう。理論上は、可能なのだと」
やる気の削がれるアサツキだったが、横で二人の話を聞く少年は瞳を輝かせている。その姿に、アサツキは嬉しさを感じた。しかも、平生よりも、大きく広く深く、とても自然な嬉しさ、喜びだった。まるで失われていた在るべき物を取り戻したかのような感覚だった。アサツキはスクモを見た。視線に気付き、スクモは小首を傾げる。それからアサツキは提案した。
「この子にさ、気霊学を教えようよ。学びたがっているし、僕らの復習にもなるだろう」
「え、本当です!?」
「私は何でも構わないが」
少年は狂喜乱舞する。アサツキはナオミに向いた。
「師匠、チグサ先生の所に行って、気霊学の教本を一冊、借りてきてもらってもいいでしょうか?」
「はい、直ちに」
まるで昨日のいざこざなど忘れたかのように爽やかに言うものだから、多少身構えていたナオミは驚いた。この時アサツキは、自分でも訳が分からない程、気分が良かった。何故だろう、何を取り戻したのだろう?
それは詳しく考えねばならない事柄だったが、それ以上にも、今現在を全身全霊で生きたかった。
その日は一日、スクモと協力して、奴隷の少年に気霊学を教授した。
「今日はこんな所にしようか」
「はい、ありがとうございました! ……それにしても、やっぱりアサツキさん達は凄いのですね。まだお若いのに、これだけの知識をお持ちだなんて」
「そう思うのは今だけだよ。今後とも勉強していけば、少なくとも僕の事なんて、大した事ないって分かってくるよ」
「そ、そんなことありませんって!」
今後とも、その言葉に少年は、随喜した。今後とも気霊学を教えて貰える、その事は、少年にとって正しく希望だった。
「何なら、先生に相談してみても良いかもね。あの人は弟子を欲しがってるから、やる気のある人は大歓迎だろうし」
「そこまで言ってもらえると、何だか夢のようです」
「褒めすぎたかな」
「ちょっと!」
ぬるついた笑いが起こる。スクモは腕を組んで、つんとしている。
「おいアサツキ、退屈だぞ」
「分かったよ。じゃあ、僕らはもう帰るから」
「はい、本当にありがとうございました!」
アサツキ達は家路に就いた。
暮れた日の差す光が、今日はやけに明るくアサツキには思えた。横からそっとアサツキの腕に自分の腕を絡めて、スクモが歩く。
「なあアサツキよ」
「うん?」
「今日はやけに機嫌が良かったな?」
「スクモだってそうだったろう」
「私は寄生虫が君の傍に居なかっただけで、後はいつも通り」
「寄生虫? ……おい、スクモ」
「実は君も、あいつが傍に居ない方が――」
「違う、それは絶対に違う。今日機嫌が良かったのは、あの子の意欲が楽しかったからだよ」
「それだっていつもの話だったのではないか? 今日が普段と違う所なんて、あいつが居ないことぐらい――」
「アサツキ様は、昔を思い出されたのはないでしょうか?」
後ろからそう言ったのはナオミである。アサツキは歩みを止めなかったが、一瞬、表情が曇った。
「昔? どういうことです」
「私は後ろから見ていただけですが、何だか昔の姿を見ているようでした。アサツキ様とシュラ様と、スクモ様で遊んでいた頃の、あの姿を……」
それきり、その帰り途、アサツキは黙ってしまった。
「アサツキ?」
心配して覗き込んだスクモが見たのは、アサツキの冷たいまでの無表情であった。




