アスラウエの日々―葛藤―
此の日の暑気は闌けて、アサツキの頭を霍乱に陥らせる。最早、日陰で落ち着き休むという考量さえし得ない程、サブラフの提案は蠱惑的に脳内で蠢いている。アサツキの頭脳は「マンナを売る」という考えに蚕食され始めていた。道徳と良識に右顧左眄する迷いの態度すら、自らを正当化しようとする浅ましさ、そう思えて、自分を殺したくなってくる。
そもそも、マンナは奴隷ではない。――本当にそうか?――アルカギリの、アサツキの所有物でない以上、法律的に売ることは不可能なのだ。――本当にそうなのか?――迷うことも悩むこともない。
若しも、真実マンナが奴隷でないと、アサツキが確信していたのなら、これ程までに悩む由などありはしない。だが、やはりそうではなかったのだ。マンナが「それ」であるという証文が無いだけなのだ。三年前にマンナと暮らす意を述べた時、アサツキは、行き処を失くしたマンナを救ったつもりでいた。実際、マンナは救われたかも知れない。けれどアサツキのしたことは、詰まるところ、衣食住と引き換えにマンナを買ったということなのだ。それは、マンナにとって幸福であったか?
マンナが、理想的な幸福に与っていなかったとしても、最悪の境遇を避け得なかったと、誰が言えようか。結果的にマンナは独りにならずに済んで、部屋を与えられ、日々の仕事をこなし、日々の糧を得、最高級の教育を聞き齧っている。それを不幸と言えようか?
しかしアサツキはそれを認めるわけにはいかなかった。何故なら、三年前の行動の意味は、マンナの完全な救済だったからだ。それは代償を求めない行為だったからだ。「マンナが奴隷になることで救われた」のであれば、マンナはアサツキの所有物になってしまう。そうなれば、アサツキに、サブラフの提案を断る理由は無かった。それ程までに、スクモを自らの手で、より正確に言えば、アザミの手を借りずに、気霊院へ行かせたかった。けれどもマンナを売ってしまえば、マンナを奴隷にしてしまえば、マンナを救ったつもりのアサツキの行為は、本当に嘘となってしまう。それはマンナへの裏切りであると同時に、自身への裏切りでもあった。今この瞬間の為に過去を穢すこと、未来の為に過去を無視することは、今のアサツキにとって、最も憎いことだった。母親と同じになりたくなかった。
何をも決定し兼ねた儘に、塾へと到着したアサツキは、チグサの奴隷の案内で、中庭へ直行した。中庭ではこれから体育の授業が始まろうとしている。列柱廊に囲まれたこの砂場は、体育の為だけにこの場がある事を如実に示しており、チグサが建物の格式や体面を気にしない性質であることも無意識に表していた。
体育は男女分かれており、女子は球技の一種、男子は拳格闘である。教師はチグサの雇った専門の奴隷が務め、この時、アサツキの教師となったのは、闘いに長けると世間一般に評されるトキツ人の元軍人であった。
監督として授業を眺めていたチグサが、中庭に入ってきたアサツキに気付いて、近寄る。多少の心配を表情に滲ませていた。
「アサツキ君、今まで何処にいたのですか」
「サカマクネル様のお茶に与っていました。奴隷を借り受けたのですが、サワルに返しておいても良いでしょうか」
「まったく、もう。仕方ありませんね。……顔色が悪いようですが、平気でしょうか?」
「問題ありません」
「そうですか」チグサは整列する一団へ顔を向けた。「サブラフネル! 此方へ」
集団から青年が歩み出る。背の高く、生意気そうな顔付きにはしかし、あどけなさが抜けない。サワルはサブラフの息子であった。
「なんでしょうか」
「アサツキ君から貴方に用があるそうです」
「お前の父君の世話になった。此処に来る時、奴隷を付けてもらったんだが、返したい。父君にも改めて礼を言っておいて欲しい」
サワルはアサツキを睥睨しつつ、返された奴隷に向いて、授業が終わるまでの待機を命じた。そうして集団の中へと戻る。その素っ気無さは、アサツキに対するものであり、塾生は誰もが、アサツキと関わり合いになりたくなかった。入塾当初、護衛も兼ねるはずの、荷物持ちの奴隷が同年代の女の子であるという不思議から、マンナへちょっかいを掛けた生徒がいたのだが、アサツキは彼らを、過剰なまでに懲らしめた。タミエトの事件から間もない事で、アサツキの心が荒れていたということもあるが、それ以来、アサツキとマンナ、アサツキにべったりのスクモは塾の内部で忌避されていた。スクモの優秀さやチグサによる特別扱い、家が所謂、成り上がりである点も、孤立を深めて永らえさせる要因であった。
それについて、アサツキは思う。若しも、サブラフの奴隷にマンナがなれば、少しはその孤立から、マンナは脱け出せるのではなかろうか、と。サワルの父が権力者である所為か、或いはサワル自身の人徳が、何れにせよ両方にせよ、サワルは塾の生徒たちに人気がある。だから……、とアサツキは、煩雑になりそうな思考を破却した。何もかも意味のない空想であるし、自分の行いを正当化しようとする詭弁に過ぎない。
「さあさ、アサツキ君、服を脱いで下さい、預かりますから。授業には参加するのでしょう?」
拳格闘の際、動きを妨げたり、相手に掴まれることで不利を招く衣服は、脱いでおくのが常識である。女子も近くにいるのもあり、そもそも風紀的に好ましくないので、全裸にはならず腰巻等は着用するが、それも時所に依った。兎も角もアサツキは服を脱ぎ始めるが、アサツキは肌を曝すのが嫌いであった。狼の咬み痕、剣を振り回した際に出来た傷、三年前の消え残る傷痕、それらを人前に曝すのを、恥ずかしく感じた。実際、まだ従軍経験もないうちに多量の傷痕を持つアサツキの身体は、誰の目に見ても異様であった。成長した筋肉は、鋭利な印象さえ見る者に与えた。塾生たちは流石に少しは見慣れていたが、アサツキの胸に塗られたような恥辱感は払拭されない。
アサツキをじっと眺めながら、チグサが口を開く。
「ところで、今日はスクモさんもついさっき来たのですが、何かあったのですか?」
「え? スクモも?」
「はい、今はあそこに居ますが」
チグサは女子の集団へ目を向けた。今は球技の練習を二人一組でしているところで、スクモはアサツキに背を向けている。マンナの姿が見当たらないのは、奴隷用の待機室か廊下に居るためだろう。
「あの、馬鹿……」
ついさっき来たということは、午前の授業を受け損ねたということだ。おまけにマンナも。気霊院へ入れさせようという自分の苦労を、泡のように吹き散らそうとする態度に、苛立ちを覚える。
「すみません、後できつく言っておきます」
「まあいいのですよ、さあ、早く授業に参加してください」
アサツキは男子の一団に加わった。
拳格闘の授業では、徒手での格闘技術、即ち組み技、打撃技、型稽古などを行い、実践的な組手もあった。普段から家で体術の稽古をナオミに付けてもらっていたこともあり、アサツキの得意科目である。怪我が無いよう注意が払われているとはいえ、元々試合の決まりが、目潰し噛み付き禁止の二つしかない野蛮な競技、怪我が絶えない。そしてアサツキは、いつも怪我をさせる側だったから、組手の相手としても嫌われていた。そして今日に於いて不運なのはサワルであった。
アサツキと組まされたサワルは、嫌な顔で構えている。気持ちとしては今すぐにでもアサツキを殴って、ぼこぼこにしてやりたいのだが、構えたまま、じりじりとアサツキの周りを回るだけで、手を出せない。アサツキの反撃を警戒している。アサツキの方でも、手を出し兼ねていた。サワルの父、サブラフの事がちらついて離れない。今サワルを打ちのめして、サブラフに悪印象を与えたら、マンナの話はどうなる? 有り得ない、マンナを売る事は出来ない。だが……。
焦れたサワルが素早い打突を繰り出した。アサツキは僅かに動いただけだったが、精確に狙いを外させる。アサツキの頬を掠めた拳と、伸びきった腕の脆さ。平生なら一撃を加える刹那であったが、アサツキは未だ迷っていた。そんな状態で、好機を捉えられる訳も無く、気付いた時には頭を掴まれ、顔面に向け膝が迫っている。避けようとはせず、むしろ頭突きを膝にかました。痛みから、サワルは膝を庇って距離を取る。アサツキは眩暈がした。間は悪くなかった。それにしては、頭に響く。ぼんやりとそんな事を考える。アサツキは、悩みに当てられ過ぎて、暑気当たりに意識が回っていなかった。回り始めた視界の中で、衝撃が頬を過ぎ抜けた。サワルの拳が入ったのだが、それすら理解しないまま、アサツキは倒れてしまう。けれどもその時アサツキは、それすら理解はしなかった。
放課後、アサツキは講義室に居残っていた。傍らには、名前の知らない、例のチグサの少年奴隷が、気霊同調研究用の気霊具で実験している。アサツキが研究用として、使用許可を貰っているが、厚意で少年に使わせていた。この少年は、気霊学への並々ならぬ関心を持っていた。その向学心にアサツキは好感を抱いた。だから少年が気霊学の理論を理解しようと悪戦苦闘する様は、微笑ましかったのだが、今日に限ってそんな余裕はありはしない。理由は無論、マンナのことだ。
拳格闘で気絶して目を覚ました後、普通に授業を受け、放課後に入って直ぐにアサツキはスクモを叱った。そしてマンナと帰らせた。そのこと自体に他意は無かった。その結果、一人こうして思考する時を得たことは、無意識だったと言い難かったが。
「アサツキさん」
奴隷の少年が手を止め、声を掛けた。
「なんだ」
「大丈夫です?」
「なにが」
「お腹でも痛いんでしょうか」
「腹は痛くない」
「では胸が」
「痛くない」
「悩みがあるなら仰って」
「言いたくないし、言っても仕方が無いよ。気にせず続けて」
少年は、わだかまった感情を飲み下しながら、アサツキの恩恵に浴する事へ戻った。しかしまた手を止める。
「アサツキさん」
「なに」
「お客様です」
アサツキは講義室の入口に目を遣った。マンナが其処に立っていた。立ち上がり、マンナに近付く。手を入口の縁に掛け、何処となくマンナを隠すような位置取り。
「どうかした?」
少年に聞こえない程度の声量だったのは、其処に在るのが、悩みの種そのものだったからだろう。それにしても如何せん、距離が近過ぎた。照れたマンナは目を伏せながらも、そっとアサツキの懐へ身を任せるように、半歩進んだ。仕草に、アサツキの心が甘く浮き立つ。同時に、悩みの錘が気分を下へ引っ張って、胸焼けのような不快感をもたらした。
「スクモちゃんに、付いて、来るなって、言われたから、アサツキくんと、一緒に、って、思って、来た」
自信の無い声量で、マンナはか細い声を出す。アサツキの入口の縁に掛からない方の手は、いつの間にやらマンナの腰を、力無く抱き込んで、マンナの身体の輪郭を、その柔らかな凹凸を、アサツキの身体に擽らせている。マンナの芳香が、アサツキの心から苦しい緊張を取り去り、代わりに痺れるような心地良い緊張を吹き込んでいた。アサツキの思念は頭の片隅へと追いやられ、本能による彩りの影となって蠢いている。
「ねえマンナ」
マンナが顔を上げた。嫋やかな顔は、庇護を求めるようにアサツキに向いている。固唾を呑んだ。上手く声を出せる気がしない。
「も、若しも僕が、マンナに家を出て行って欲しいと言ったら、どうする?」
マンナは驚いたように表情を強張らせ、そして悲しんで顔を伏せ、アサツキに擦り寄った。
「アサツキ、くんが、そうしろって、言うなら、そうする」
アサツキはただ、「そう」と返事をする以外に出来なかった。暫しの間。耐えられなくなったように、マンナは言葉に継ぎ足した。
「……でも、いやだ」
アサツキはやはり「そう」としか言えない。マンナを抱き込む形になっていた腕は、徐々に力が入って、何時しかマンナを抱いている。マンナの身体の柔らかさは、意味ある柔らかさだった。己の身体の硬さが弥増すように意識され、更に力もうとする自分の身体の制御を、必死にせねばならなくなった。熱い自分の身体に対し、マンナの白磁の肌は冷たく気持ち良い。アサツキの口元には、癖の強い艶やかな黒髪の、旋毛がある。アサツキにはマンナの存在そのものが、麻薬のように思われ始めた。
背後の方で、少年が気霊具の動作に関して感嘆の声を出す。アサツキ達を気にしていないと思われた。アサツキは両腕の中に彼女を収めて、大きく息を吸った。マンナの腕も、体を明け渡すかのように無防備に、アサツキの背へ吐き出されている。
「帰ろうか」
「うん」
アサツキはゆっくりと、マンナを離れた。そして気霊具に夢中な少年へ声を掛ける。
「僕らはもう帰るから、気霊具はいつも通り、先生に返しておいてくれ」
「あ、はいィ、承知しました」
「行こうか」
「うん」
アサツキはマンナの手を取った。真っ直ぐ家に帰るつもりなど、毛頭無かった。




