タミエトの悲劇 前編
暴力を連想したのは、夕焼けが血汐と同じ色をしていたからだ。場所が目抜き通りなのは、見知った場所で、見知った人が、徒に危害を加えてくるなど、あって欲しくないと思ったからだ。だけれども、アサツキは自分が暴力を振るう側になるなど、微塵も考えてはいなかった。
目線は大人たちとそう変わらない。武器にしているのは見たこともない剣だ。相手を叩き切るための剣だと識っていた。そして視界にはないが、腰には剣闘士の剣を携えていることも分かっていた。
槍を構えて、怒りの表情で襲い来るのは、屈強な男らだ。彼らの装備は兵士のものだ。そこから、アサツキは悪人が誰か理解した。
どうやったのかは良く分からないが、槍を突き出した一人を斬り伏せて、続け様、周囲の人の、眼とか腹とか、体の柔らかい部分を斬り付けた。血が飛沫、返り血を浴びるアサツキだったが、それより前に血に塗れていた。気付いた時には、この往来でこうしていたから、その理由が分からなかった。既に何人も手に掛けた後だったのだろうかと、アサツキは思い、振り返る。そこには、血のように熱く、血のような色をした夕陽に染められて、アサツキが通り抜けてきた往来が横たわっていた。屍山血河、死屍累々の往来だ。
惨劇を巻き起こしたのが自分だと、思うだけでも反吐が出た。しかも、一から十まで、自分の意志だ。どうしてこんなことになったのだろうと、思い返すと、場所の感覚が曖昧になり、そうしてアサツキは目を覚ました。
変哲のない朝である。出入り口の、長方形に切り出された壁の穴からは、曙光が直線的な影を曳きながら部屋を訪う。朝の冷え込みを感じ、アサツキは掛け布を手で引いた。隣のベッドにはスクモの背がある。深い呼吸が胸の辺りを上下動させている。
暫くして頭の働きが冴えてくると、先程の夢について、アサツキは思わざるを得なかった。曙光、昨日に初めて見た剣闘試合、それらが要因となって、あのような夢を見させたのだろう、アサツキはそう納得する。生命の黎明を思わせるような曙光が、落命の表象のようになったのは、不吉だったし不愉快だったが。
アサツキがベッドから降りると、隣のスクモが反応した。体をアサツキに向け、薄く開いた目でアサツキを見るようで見るでもない。
「おはよう」
そう言ってみたアサツキに、スクモはむにゃむにゃと聞き取れない言葉を反した。アサツキは踏ん付けていたサンダルを履き直し、踏み台を上ってスクモの顔に近付いた。そうしてスクモの烏羽玉の髪を撫でた。するとスクモは幸せそうな笑みを浮かべて、またむにゃむにゃと何かを言い、寝入ってしまった。憎らしいので、アサツキはスクモの頬を撮んだ。そのままスクモを眺めていても良かったが、朝の気温は少々冷たく、歩き回りたくなったので、アサツキは部屋を出た。
廊下へ出た時、最初にアサツキが出くわしたのはナオミであった。ナオミはアサツキを目にした瞬間、立ち止まり「おはようございます」と恭しく会釈した。
「おはよう」
「平生よりもお早い起床ですね。なにかございましたか?」
「いや、ただ起きただけだよ」
「左様ですか」
「父さんを起こすの?」
「はい。ですが旦那様のことですから、もう起きていられるかも知れません」
「そうかもね。ところでさ、またあの方式の稽古をやりたいんだけど……」
ナオミは表情を険しくし、アサツキに目線を合わせた。
「あれは私の仕事に支障が出るからもうやらないって言ったでしょう。怒られるのは私なのよ」
声を抑えて、けれども凄んでナオミが言った。
「父さんは怒らないよ」
「奥様が怒るのよ」
言い返す言葉がなくて、黙る。
「わかった? それじゃ――」
立ち上がろうとしたナオミの目は、ぎらついたアサツキの瞳を捉える。体当たりをかましてきたアサツキの、首元を押すように払い除け、アサツキは自分の出した勢いで壁にぶつかる。
「やらないって言ってるでしょ!? 怪我してからじゃ遅いのよ」
「痛た。それじゃあ、稽古の量を増やしてください」
「なんでよ」
「いざって時に役立つからです」
ナオミは困って溜め息を吐き、アサツキの体を起こす。それから壁にぶつけた所を確認し、無事が分かると立ち上がる。
「奥様にご相談下さい。私はお勤めがございますので、これにて」
ナオミはそう告げ疾く立ち去った。残念そうに見送るアサツキだが、機会はこれに限ったことではない。気分を切り換え、廊下を歩く。しかし特別、何も無く、アサツキは朝食の時間を迎えた。
食卓に種々の食べ物が並ぶ。シュウが食べ始めると、他の者も食べ始めた。アザミは好き嫌いをするシュラを諭す。ナオミは奴隷だったが、同じ食卓に並ぶことを許されていた。その点について言えば、紛れもなく奇特な家族であった。
シュウは薬商を営んでいる。その気になれば、奴隷を雇って、奴隷だけで店を回すことも容易だ。けれどもシュウは、自身で働く意思を堅持した。しかも、奴隷はナオミだけである。妻であるアザミは文句の一つも言わない。それも当然で、奴隷を使わない暮らしを望んだのは最初、アザミであった。その辺りの事情について、アサツキは詳しく知らないし、興味も無い。一応、ナオミがこの家に居るのは、子育ての関係でどうしても人手が欲しかったからだと、アサツキは知っている。だがそれだけだ。ナオミが薬学に詳しい理由も、体術に長ける理由も知りはしない。そんな事を知らずとも、アサツキは今のままで充分に幸福で、満足であった。
朝食が済んだ後、アサツキはスクモとシュラとで、中庭に遊んでいた。普段であれば私塾に往くのだが、今日は催事のために休校となっていた。催事とは新しく選定されたフェクィメの巫女のお披露目である。アラガナムの目抜き通りをフェクィメの神官たちが行進するのだ。皇帝や特級気霊師も見物するという、一大行事である。シュウ達も今日の仕事は早めに切り上げ、行進を見物するつもりでいた。だから、アサツキらはそれまでの時間潰しだ。
シュラが「やあっ」と声を上げ、アサツキに組み付く。アサツキはがっちりと受け止め、体勢を崩されないように踏ん張った。年齢故の体格差がある、シュラがアサツキを転ばせるのは容易でない。アサツキはそれを承知していて、自分から仕掛けるつもりはない。軈て疲労したシュラはアサツキから離れた。
「敵わないや」
そう言ってはにかむシュラは、母親そっくりの金髪を掻き乱した。
「今だけだよ。体格が近くなれば、勝敗も分からなくなってくる」
爽やかに笑んで、アサツキが言う。傍に眺めるスクモは退屈そうに欠伸をした。
「退屈だぞ」
スクモはふてぶてしく、しかしどこか寂しそうに言った。柱廊の柱に寄り掛かり、視線はじいっと、アサツキに定まっている。
「水遊びでもする?」
草の陰に隠れていた蛇口をアサツキが捻ると、水の精霊を象った彫像の口から水が噴き出した。汗を掻いたシュラは積極的に飛沫を浴びようとする。スクモはやはりアサツキだけを見て、憮然としている。
シュウが中庭に入ってきた。アサツキはすぐさま噴水の蛇口を締めて、シュウの前で居住まいを正す。シュラが真似して、スクモは柱に寄り掛かったまま、興味なさげにシュウへ目を向けた。
「遣いを頼みたいんだが、良いか」
「もちろんです」
「大した用じゃない、この薬をトラカスさんの所へ持って行ってくれ。寄り道はするなよ」
「はい、任せてください!」
シュウは薬の包みをアサツキに手渡すと、微笑してアサツキの頬を抓った。嬉しそうに照れ笑うアサツキを見てから、シュウはシュラとスクモに「お前たちはもう少し待っていてくれ、もうすぐ店は閉めるから」と言い中庭を後にした。
「そういう訳で、行ってくるよ」
アサツキはスクモとシュラに告げる。
「気を付けてね」
シュラはそう返事をしたが、スクモは黙してアサツキを見るばかり。だが、スクモが拗ねるはいつもの事だと、アサツキはさっさと家を出た。
目的地は四隣の家だ。往来の人通りはいつもより減った感じも増えた感じも受けないが、歩く方向は偏っている気がする。やはり祭りの影響だろうと思うと、アサツキは幾らか陽気になった。早くなった足取りで目的の家に着く。周りを道路に囲まれた、島宅と呼ばれる階層住宅で、その三階の一室だ。入口の傍らで椅子に腰掛ける門番へ要件を告げ、アサツキは煉瓦と漆喰の建物に入る。階段を駆け上がり、目的の部屋の前まで着いた。
アサツキが扉を叩くと、直ぐに扉は開いた。扉を開けたのはマンナだ。
「やあ。薬を届けに来たんだけど、トラカスさんに、これ」
アサツキは薬を突き出した。それをマンナは黙って受け取る。そして、そのままアサツキの前に立ち尽くして、アサツキを見詰めている。何か言いたげだったが、喉を絞められたように声が出ていない。ふと気が付いて、アサツキはマンナの目元にまで掛かる尨毛の黒い髪を掻き揚げた。マンナは吃驚して、耳を赤くさせた。
「大丈夫? 怪我してるよ」
初見では驚きそうな白い肌に、小さくない痣が出来ていた。
「何かにぶつけたの?」
青褪めたマンナは円らかな瞳を泳がせた後、恐る恐るといった感じで頷いた。
「そっか、じゃあこれ」
アサツキは手荷物から、軟膏を取り出した。それを指先に付け、マンナの患部に塗布する。
「父さんじゃなくて僕が調合したものだから、効きが良くないかも知れないけど、塗らないよりは良いと思う」
塗られ、マンナの目が潤む。嫌がっている訳ではなく、その逆で、感涙の類であった。
「あ、あり、がとう。アサツキ、くん」
たどたどしく、マンナが言う。大袈裟だなと、アサツキは呆れ半分の笑みを浮かべた。
「ところで」とアサツキが言う。
「トラカスさんは?」
「留守」
「マンナの母さんは?」
「留守」
「マンナは?」
「ここ」
「留守番?」
アサツキの質問に、マンナは答えあぐねて、終には首を振って否定した。アサツキは呆れると同時に怒りを覚える。娘を放って家を空けるなど、何を考えているのか、マンナは子供なのに、と。マンナとアサツキは同年代ではあったが、自身やスクモに比して明らかにマンナは鈍臭いとアサツキは考えていた。だから、自分とマンナを同列には扱わず、マンナを庇護の対象のように見ていた。しかしそれについてはアサツキもまだ父母の庇護の下にあり、自立できるものではなかったのだが、アサツキ自身はそれなりにやっていけると自負していた。自信の根拠はシュウ達の教育と薫陶である。努力、責任、知慮、研鑽……確かにアサツキは徳目を父や母や師から受け継いでいた。とある天稟も有する。そういった自信がこの場合、マンナを見下し、マンナの親に怒りを覚えさせる要因になっていた。
「寂しくない?」
「だいじょう、ぶ」
マンナはそう答えたが、アサツキには寂しそうに見えた。なんとかマンナを励ましたいと思った。
「一緒に今日の行進でも見に行く?」
アサツキがそう尋ねると、マンナは迷いなく、けれど躊躇いがちに頷いて、「行きたい」と言った。
「わかった、じゃあ後で迎えに来るから」
別れの挨拶を済まし、アサツキはこの場所を後にした。背後には名残惜しそうにアサツキを見送るマンナが、胸裏に喜びを抱いていた。
島宅を出でると、左程、遠くない所から祭り囃子が聞こえてきた。行進が始まったらしかった。アサツキは急いで家に戻ろうとして、路の端にスクモが立っていたのに気付き駆けた足を踏み止めた。
「どうかしたの? なんでここに」
「一足先に、うんたらの巫女を眺めてくると言ってきた。君と一緒にな」
「フェクィメの巫女な。……どうして?」
スクモはぷい、とそっぽを向いて、アサツキに手を差し出した。手を繋げ、という意思表示である。その意を確認したりすれば、間違いなくスクモは「君がはぐれないようにな」と言うだろう。現に今そう言った。アサツキは手を繋ごうとして思い止まり「待って、それじゃあマンナも連れて来るから――」
「私は、君と、巫女を眺めてくると! 父上に告げてきたのだ!」
「う、うん」
スクモの剣幕に負け、アサツキは手を繋いだ。暫くすれば、シュウ達と合流するだろう。マンナを迎えに行くのはその後で、ということにアサツキはした。




