デイドリーム・ヒーロー 第1章
「ん–––––––––」
深い海の底から時間をかけて浮上してきたような、そんな感覚だった。頭がぼーっとして、全身も重たく、だるい。もう少し休んでいたいけれど、なんだか今すぐに起きなければいけないような気がして、人形のようにぎこちない動きで上体を起こし、重たい瞼をゆっくりと開く。
「…ようやく、目が覚めたのね」
靄のかかる視界にはじめに飛び込んできたのは、月明かりに照らされた、見慣れない少女の顔だった。ちいさな色白の顔を引き立てるような暗めの茶色の髪と、燃えたぎる焔のような橙色の瞳。
「…どう、したの?」
綺麗な声をしている––––––
彼女はいったい、誰なのだろう?
ようやく、ということは少なくともこちらが目覚める前からここにいるということになる。知り合いか何かだろうか?少し考えてみるが、思い当たる節はない。
「………」
「………?」
首を傾げるこちらを見て、不思議そうな表情をしながら同じように首を傾げてみせる彼女。
少しの間その状態で見つめ合っていたが、やがて彼女が何かを思い出したかのように喋り出した。
「ああ–––––そういえばまだ、名乗ってなかったわね。私はリエラ」
リエラ・リヴァリアよ。
ふっと微笑みながら、彼女はそう名乗った。リエラ・リヴァリア––––なんとなく、その名前をどこかで聞いたことがあるような気がするが––––どこだっだろうか。リエラ、リエラ…いくら反芻してみてもそれらしい記憶に引っかかることはなかった。
「あ…あぁ、えっと…」
とりあえず、向こうが名乗ったのだからこちらも名乗るべきだろう。それが礼儀というものだ。それにこちらが向こうを知らなくとも、向こうがこちらを知っている、ということもある。なんだかすっきりしないというか、なにかがひっかかっているような感覚があるが、名前を告げればそれも解決するかもしれない。
「あ、れ–––––?」
名前?
名前は、なんだっただろうか?
口の動きが止まる。
名前、自分の名前…大事なものであるはずのそれが、なぜか音にならない。声は出せている。なのになぜ名前が出てこないのだろう?先ほど目覚めたばかりだから、頭の動きが鈍いのだろうか?それとも混乱でもしているのだろうか?しかしいくら混乱していたとて、普通は自分の名前を言えないなんてことはありえない、あるはずがない、のだが–––––––
「自分、は––––––」
とにかく何か続けよう–––––と言葉を発してみるが、それは結果として、状況をさらにややこしくするだけだった。
「……自分、は」
––––––––「自分」?
そもそも、「自分」って––––––––何なんだ?
頭が、痛い。
「ねえ、どうしたの…?」
その様子を見たリエラが、心配そうな顔をこちらに向ける。
「わからないんだ…」
「なにが?」
「どうしてここにいるのか…自分が、誰なのか–––––全部、わからない」
わからない。ここがどこなのかも。なぜここにいるのかも。目の前にいるリエラのことも。自分がいったい誰なのかも。もはやわからないということさえも。なにもかもわからない、わからない、わからない、わからない–––––––
「わからない…?」
「ああ…わからないというか、思い出せないというか–––––」
「…それって、記憶喪失ってこと?」
「記憶、喪、失–––––––?」
喪失、と言う表現にはなぜか少し引っかかるものがあるが、記憶が無いということは事実だ。他にそれらしい言葉を知らないし、いまのところ、自分のこの状況を表すには記憶喪失、という言葉が一番適しているのだろう。
「そう、かもな」
「……そう。」
リエラはなぜか一瞬、目をそらしてどこか悲しそうな顔をした。
「……?どうかしたのか?」
「別になんでもないわ。それは大変だなと思っただけよ–––––––ところで、あなた。名前すらわからないんでしょう?とりあえず、仮でもいいから名前がないとなにかと不便なんじゃない?」
なるほど。それは確かにそうだ。
これから先、なにをするにも名前がないと不便だろう。
「たしかに、なにか名前があったほうがいいな…」
名前がわからないということは、身元がわからないということだ。そして身元がわからなければ信用されない。会う人会う人にいちいち記憶喪失で名前すら思い出せないんですと事情を説明するのも面倒だし、そう話したとしても簡単には信じてもらえないだろう。それどころかますます疑われてしまう可能性もある。
「でしょ?」
「名前…」
長すぎず、短すぎず、かつ呼びやすい名前がいい。
シンプルすぎず、飾りすぎず、呼ばれても恥ずかしくなく––––––––
「うーん……」
再び首を傾げる。
仮の名前…なにがいいだろう?
いくつかそれらしい単語は浮かんでくるのだが、その中にこれだと思えるようなものはない。
「…………」
仮とはいえ、他の誰でもなく自分がこれから先名乗っていく名前なのだ。そう簡単には決められないし、自分の納得のいくものでなくてはならない。
「んんんん………」
首を傾げ過ぎて、もはや一回転してしまいそうだ。このままではフクロウになってしまう。
「…わたしが名前をつけてあげようか?」
そんな様子を見かねてか、リエラが口を開いた。
「…クロウ。クロウっていうのはどうかしら」
フクロウ––––––じゃなかった。
クロウ…リエラと同じ三文字だ。長さ的にはちょうどいい。
「クロウ、か……」
クロウ、クロウ––––––リエラに提案されたその名前を何度か繰り返してみると、どこかから何かが湧き上がってくるような、不思議な感覚があった。すっと馴染むというか、この響きはなんとなく自分に合っているような気がする。
「だ、ダメ…かな…?」
人は生まれたとき、まずはじめに名前を与えられるという。
大切なひとから贈られる、たくさんの思いがつまった一番最初のプレゼント。
「悪くない、な」
記憶がないのでよくわからないが、自分が生まれたときも、同じように名前をつけられたのだろうか。
「これからは、その名前で呼んでくれ。本当の名前を、思い出すまで」
大切な誰か。本当の名前。そこにこめられた願い。それをいつか、自分は思い出せるのだろうか。