邂逅
死神――彼を表現するのに、これほど相応しい言葉もない。
長身痩躯に黒い外套を纏った青年。何より特徴的なのは、その瞳。普通は白いはずの強膜部分は漆黒に染まっており、虹彩は燃えるような紅。それは禁忌に触れた者の証、魔眼に相違ない。
彼がいるのは、街道沿いの草原。風は優しく吹き抜け、晴れ渡った空からは燦然と太陽の日射しが降り注ぐ。胸のすくような緑広がるその場所は今、見るに堪えない惨状を呈していた。
どこを見ても、目に入ってくるのは死体。総勢五十に昇ろうかという数の死体が乱雑に転がっていた。胴から真っ二つにされたもの、首と胴を切り離されたものなど、五体満足である死体の方が少ない有り様。
そんな地獄に立っているのは彼ただ一人。
「……う、うぅ」
だが、生者はもう一人いた。
鮮やかな金髪をした彼女の名はクラリス。クロネア王国最北部に位置する街トルカにあるギルドに所属する傭兵だった。彼女の腹部には大きな穴が穿たれており、滲む血の量から見てもそう息は長くないことが一見して明らか。
草原に散らばる死体は全て彼女の仲間、つまりトルカの同じギルドに所属している人間のものだった。
――――どうしてこんなことに……。
絶望に駆られながら、クラリスはこれまでの経緯を思い起こしていた。
彼女たちがここに来たのは、ある依頼を受けてのこと。その依頼とは、魔物の大討伐。近頃、隣国の方角にて魔物による被害が急増しており、それを憂いた街の上層部がこの度の依頼に踏み切ったのだ。
相当数の魔物を討伐し終えて、討伐隊の面々は気づく。どうにも魔物たちは何かに脅えていることに。おそらく強大な何かから逃げてきたのだろうと推測し、確認のために隊を進め、その男と鉢合わせた。
目深にフードを被った男を不審に思いながらも、構わず先を急ごうとしたときのこと。道の先から現れたのは、グレイトファングという大型の狼。強力な魔物として人々に恐れられるソレが目を血走らせ駆けて来ていた。
大口を開けて狼が男に飛びかかる。鋭い牙が男の肩に食い込んだ。突然の事態に慌てふためく討伐隊を他所に、男は涼しげな顔をして優しく狼を撫でる。ただそれだけで、狼は地に落ち倒れ伏してしまう。男の肩に傷痕は残っておらず、それを見た討伐隊は彼を魔族――人の形をした化物――と見なして襲い掛かった。
傍から見ている者がいたならば、それを戦闘とは表現しないだろう。それはまさしく虐殺劇だった。
男の身体を、剣が切り裂き、槍が貫き、矢が突き刺さる。火、水、雷、土、風……魔術により具現化した理が彼を破壊せんと放たれる。普通の人間相手であれば数十回は殺せているに違いない攻撃はしかし、彼の命を奪うどころか顔色一つ変えることすら叶わなかった。
男が虚空から取り出した鎌を以って、すぐ近くにいた者の首を跳ね飛ばす。そこからはただただ一方的な展開が待っていた。あらゆる条理を嘲笑うがごとき圧倒的な力の前に、成す術もなく討伐隊は全滅させられることになり、今現在に至る。
「黒魔術、師……」
男の正体を看破し、クラリスが呟く。魔眼を宿しているのが何よりの証。それは黒魔術師にのみ発現するものだからだ。
世界に存在する魔術は八系統。火、水、雷、土、風の五属性に、希少性の高い光属性。そして、禁忌であり外法とされる闇属性。それを扱う黒魔術師であるというだけで忌み嫌われるということも珍しくはない。ちなみにもう一つの系統は無属性。他の七系統のどれにも分類されない魔術がそれに当たる。
男がクラリスの側までやって来て、目線を合わせるように腰を落とした。ゆっくりと彼女の頭に手を翳す。クラリスは死を覚悟して、ギュっと目を瞑った。しかし、なかなかその瞬間は訪れず、やがてブツブツと囁く声が耳に届いてくる。不思議に思った彼女が目を開くと、霞む視界に妖しい紫の光が映し出された。見れば、自身の下には魔導陣が展開されている。
瞬時にクラリスは闇の術式が行使されようとしていることを理解した。
「これも好都合。ちょうど案内役が欲しかったところだ……君は死なせない」
それは彼女にとって救いの言葉ではなかった。何か良くないことが我が身に降りかかろうとしているのを感じ、戦慄を覚える。
「や、やめ、て……おねが、い……!」
息も絶え絶えに懇願するも、男はそれを意に介さず詠唱を続けていた。
ただ憐れむような視線を彼女に向けながら。
「君にとってはとんだ災難だろう……同情はするよ。でも、容赦はしない」
感情を感じさせない平坦な声が宣告する。
虫も殺さないような優しい顔をしておいて、男に慈悲はなかった。
「どうか僕の役に立ってくれ」
間もなくクラリスは息を引き取った。それに気づいていながらなお、男は詠唱を中断しようとしない。間もなくクラリスを中心として草原は紫紺の光に包まれることになった。
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目を覚ましたクラリスは、生きている喜びを噛み締めることもなく、すぐに異変に気付いた。
腹部を襲う痛みが消えている。覚束なく立ち上がり、腹に手を当てると、穴の開いていたところは完全に塞がっていた。これまでのことが決して夢だったわけではない。周囲に散見する仲間たちの死体が現実をありありと示している。その惨状を冷静に観察してしまったことで、彼女はたまらず嘔吐した。
「気分はどうだい?」
背後から聞こえる声にクラリスは慌てて振り返った。
そこにいたのは、あの男。この地獄を作り上げた張本人に他ならない。
「最悪です」
一度死を覚悟したからか、男を前にしてもクラリスは不思議と取り乱していなかった。元来、彼女はそこまで気が強い方ではない。普段通りであれば、気が狂ったように騒ぎ出したり、一目散にこの場から逃げ出すことくらいはしていただろう。
しかし、さっき受けた傷は間違いなく致命傷。今生きている喜びよりも、何をして生かされたのか、自分の身に何が起きたのか、という不安は彼女の胸中で渦巻いている。
一方で、妙なことに男への怒りや敵意は湧いてこないでいた。討伐隊の仲間たちが男に襲い掛かる中、攻撃するのを躊躇っていたのも確かではある。それにしても、仲間を殺されようと致命傷を負わされようと、こうして冷静でいられる自分が不気味だった。
「率直で結構……意識ははっきりしてるみたいだね。少し心配だったけど、うまくいって安心したよ。これならしばらくは大丈夫かな」
男は満足そうに破顔した。
その意図するところが全く見えず、クラリスはさらに不安を掻き立てられる。
「死霊術師って知ってる?」
不意に男が尋ねかけた。
死霊術師とは、黒魔術師の中でもさらに異端とされる存在。死を冒涜する術を行使する者たちのことだ。
「僕はそういうものでね。ちょっと君の身体をいじらせてもらった」
「そんな……」
今度こそクラリスは驚きを隠せなかった。
話だけは聞いたことがある。死霊術師は死んだ者を蘇らせ、眷属として使役するという。その眷属はレヴァナントと呼ばれる。男が嘘を言っているとも思えず、自分がそういうものになってしまったという事実に眩暈がした。
男が淡々と説明を続ける。
「僕の術で蘇った以上、君は僕の眷属ということになる。僕の命令には逆らえないし、自殺もできないようになってると思うけど、できる限りは君の意思を尊重するつもりだ」
ご愛嬌と言わんばかりに男が微笑むも、クラリスはそれを素直に喜ぶ気には到底なれなかった。それも当然だ、自由意思は奪われているということになるのだから。男への怒りが湧いてこないのもそのあたりに起因するものなのだろう、と適当に当たりをつける。
試しに、とクラリスは男に向かって殴りかかった。
「止まってくれ」
拳が届く直前、男の言葉に従うようにクラリスの身体がピタリと静止した。
「ほらね?」
我が意を得たり、とばかりに男はしたり顔を見せる。
命令に逆らえないというのは本当のことであるようだ。
「どうして私を……私だけが生かされたんですか?」
自虐のつもりこそないが、クラリスは自分を取り立てて特別な存在とは思ってはいない。実力はある方だという自負はあっても、討伐隊の中には彼女より強い人間もいたのだ。それが理由になるとは到底思えない。他に思い当たることと言えば、周囲の人間からよく褒められるその容姿くらいか。まさかそんなことが関係しているとも思えず、彼女は困惑してしまう。
「死霊術というのもそう便利な術じゃないんだ、これが。ただ生き返らせても物言わぬ傀儡が出来上がるだけ。そうならないようにするには、人を……術の負荷に耐え得る魂を選ぶ必要がある。僕自身の容量の問題もあるけどね」
それと、と付け加える。
「君からは僕への敵意があまり感じられなかった……まあ、こっちは大した理由じゃあない」
男の言う通り、クラリスは話も聞かないうちに多勢で攻撃を行うことに乗り気になれなかったのは確かだった。それを見抜いてみせた男の観察眼にクラリスは唖然としてしまう。だが、男は構わず話を続けた。
「それじゃあ、さっそく質問。『祝福の闇』について何か知っていることはないかい?」
「『祝福の闇』……ですか?」
その存在はクラリスもよく知っていた。おそらくは世界で最も畏怖されているであろう闇組織の名前。その構成員の数は十にも満たないが、一人一人が正真正銘の怪物であり、特級の賞金首。目立った行動を取ることはほとんどないものの、総力を挙げれば国を滅ぼすだけの戦力は優にあると実しやかに噂されている。事実、とある国の騎士団が『祝福の闇』の構成員と交戦し、一晩で壊滅状態に追い込まれたという話もある。それほどの危険性を秘めておきながら、その消息をなかなか掴ませることがないので、彼らの情報にすら褒賞金を出す国があるほどだ。
クラリスが知っているのはその程度。少し詳しい人物なら知っていて当たり前の情報でしかない。故に彼女は首を横に振った。
「そうか……この国にあいつがいるって聞いて来てみたが」
何気ない男の呟きに、クラリスは目を見開く。
それが本当ならば大変なことだ。『祝福の闇』の一員がこの国に潜伏しているということなら、クロネアに未曽有の危機に曝される恐れがある。
「まあいいさ。すぐに尻尾を掴めるなんて期待はしちゃいない」
男は諦めの色を含んだため息を漏らす。
「あの、あなたはいったい……」
男の素性が気にかかったものの、何から聞いたらいいのか迷ったせいで言葉が続かない。
曖昧になってしまった問いかけを受け、男は左腕の袖を捲り上げた。
そこに刻まれていたのは『Emeth』の五文字。
「エメト……今はそう名乗っている。『死神』なんて呼ばれることもあるがね」
自嘲するようにエメトは口角を少しだけ吊り上げた。
「君の名前も聞かせてもらえるかな?」
少し逡巡はしたが、クラリスは素直に名乗ることにした。
「クラリスか、良い名前だ。君との出会いに祝福を……これからよろしく頼むよ」
握手を求め、エメトが手を差し出す。しかし、クラリスはそれに応えようとしない。決意を秘めた瞳がエメトを見据えていた。
「もう現状を受け入れるしかないのはわかりました。命令には逆らえないというなら甘んじて従いましょう。だけど、あなたを許しはしません……私も、きっと神様も」
例え怒りが湧いてこないとしても、仲間たちを手にかけたエメトを許すわけにはいかなかった。本当に人でなくなってしまうような気がしたから。
エメトはただただ困ったような笑みを浮かべ、
「そうかい」
静かに呟いた。
刹那、草原を強い風が吹き付ける。暖かい日射しの元で、その風は妙に冷たく感じられた。